見出し画像

ある官僚が危険にさらされている

 国会の審議にしばしば学習指導要領改定が取り上げられ、洋治はその日も予算委員会の官僚がつめる席に座っていた。行政が繰り出すさまざまな政策について国会議員たちが応酬する場だが、すでに官僚たちによって想定問答集ができていて、質問する議員も答弁する閣僚もその問答集に沿って発言していく場でもあった。洋治は何度かその席で発言を求められたが、彼の答弁もその問答集通りだった。

 官僚が国会の様々な委員会に呼ばれて発言するのは、政府が繰り出していく政策の説明をするためであり、いわばその政策を組み立てるボルト一個に徹した答弁だけが求められている。それ以上のことは言ってはならなかった。ところがその日開かれた予算委員会では、民主自由党の末永義武という議員が、想定問答集から逸脱するどころか、洋治に質問を集中的に浴びせてきた。ボルト一個にすぎない官僚を何度も答弁席に立たせることは異例なことだった。
──毎朝新聞にあなたの記事が載っていますね、その記事をあなたはどう読まれたんですか。
 
 委員長、と挙手をしながら立ち上がることにもなれてきたが、しかし思いもよらぬ質問にそのタイミングもちょっと乱れた。彼の坐っている席から証言台まで二十歩ほどある。ボルト一個に徹しなければならぬ官僚として、簡潔にたった一行で答えなければらぬと心に刻みこんで歩を進め、答弁席に立った。
──私に関する記事が載ったということは承知しています。
 官僚的答弁を放って、二十歩の距離を戻りかけたら、
──承知しているではなく、私が質問しているのは、この記事を読んであなたはどんな感想をもったかということを聞いているんだ。質問にちゃんと答えなさい。
 
 寺田初等中等局長、と議事を進行させる委員長が洋治の名を呼んだので、彼はその二十歩を途中で引き返してきて、また官僚的答弁を放った。
──学習指導要領改定に関して、あまたの新聞報道がなされていますが、そのなかの一つだと考えています。
──この新聞記事は連載になっていて、本日載った記事によると今般の学習指導要領の大規模な改定はあなたの思想というか、あなたの教育理念が実現されたと書かれているが、そういうことですか。
──国の政策は一個人の力で築き上げていくものではありません。
──しかしあなたは文科省の大きな潮流となって、教育改革を推し進めてきたとこの連載記事では書かれている。ところで局長、最近、あなたの身辺になにか変ったことがありましたか。

 いったいこの議員はなにを問いただそうとしているのか。その質疑がどこに向かっているのかまったく見えない。答弁をさらに慎重しなければならないと思いながら答弁席に立った。
──日常生活はいつもの通りです。なにも変わったことはありません。
──そうじゃないでしょう、この連載記事が載ったその翌日から、あなたの身辺にSPが配置されるようになったんじゃありませんか。朝夕の送迎にあなたを警護する警察車両が前後に張りついていますね。
──議員おたずねの身辺の変化というのは、そのような意味ならばそれは事実です。
──そのような身辺警護がなされるようになった、その理由はもちろんご存知ですよね。
──警察当局からその説明は受けております。
──あなたのことが新聞に書かれて、その記事を読んだある中学生が、この中学生は英語の授業がある日になると喘息がひどくなって呼吸困難に陥ったりする、それほど英語が大嫌いだと書いてあるが、英語の授業が毎日ある今度の学習指導要領をつくりだしていったのが寺田局長だと知って、それで犯行予告声明なるものをネットに書き込んだ。その犯行予告声明なるものはすでに削除されていますが、しかし削除される前にネット社会では猛烈な勢いで拡散していて、一部の新聞では全文が掲載されている。それがどんな声明文だったかそこに要約したものをフリップしてきましたが、総理、この中学生が書き込んだ予告声明なるものは読まれましたか。
 
 そこから末永議員の質問はどうやら本題に入ったようで、そのネットに書き込まれている「テンチュウレンジャー」というコンピューターゲームにふれ、そして相次いで起こった三つのテロ事件を取り上げ、十七歳、十九歳、そして十八歳の未成年が相次いで起こしたテロ事件は、日本の教育がうみだした結果であり、日本の教育の欠陥が露呈された事件ではないのかと攻め寄って、何度も首相や文科省大臣を答弁席に立たせた。
 末永はそういう展開で一連の質疑は落着させていくのかと思ったら、再び寺田に矢を放ってきた。





 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?