私はその人間の内部を描きたい
南相馬市の少女が海に託した《メッセージ・ア・ボトル》が、広大な海を漂い私の足元に五年という月日をへて流れついたのは、私がその悲劇をキャンバスに描き込もうと苦闘しているからに違いない。その悲劇は巨大で、私の力量は乏しく、毎日が挫折の連続だった。しかし乏しい力をふりしぼって一点また一点と描き込んでいく。
私の主題は人々を描くことだった。悲劇の底にたたき落とされた人々を。その悲劇の底から立ち上がっていく人々を、廃墟になった町や村を復興させんと戦っている人々を、死の灰が降り積もった村や町に踏みとどまっている人々を。避難指示が出されて流浪の民となった人々を。仮設住宅で絶望の底に沈んでいく人々を。そして裏山に入り木立にロープをかける人々を。悲劇は癒えるどころさらに深く、さらに複雑にねじれて進行しているのだ。
人物画にはトローニーという手法がある。モデルを写し撮ったようにキャンバスに描くのではなく、フィクションという技法で描きあげていく人物画である。私の描くポートレイトがいつもトローニーになっていくのは、それなりの技量を持っているからではなく、そのモデルを描き込もうとすればするほど似ても似つかないポートレイトになっていく。そんな絵を私は気取ってトローニーなどといっているのだが、しかし私の側に立っていうならば、それが私の絵であり、私の思想であり、私のマチュエールだった。私はその人物の内部を描きたいという強い意思があるのだ。
例えば、津波で壊滅した小さな漁村の埠頭で、一人の中年の漁師がインタヴューされている映像があった。なんでもその日、大きな津波がくるという警報で、ともづなを解いて船を沖にむかって走らせた。かつて見たこともない巨大な津波の襲撃をやり過ごして、港に戻ってくると村のすべてなくなっていた。漁業組合の倉庫も、役場も、商店も、居酒屋も、郵便局も、学校も、敬老会館も、彼の家も。彼の家族も津波に飲み込まれてしまった。漁師はその悲劇をさびしい笑顔をつくってとつとつと話している。私はその漁師のさびしい笑顔と、その笑顔の底にある彼を襲いかかった悲劇を描き上げようと苦闘するのだ。
ダビンチの「モナリザ」もフェルメールの「首飾りの少女」もトローニーである。もし私がダビンチやフェルメールほどの技量をもっていたら、あるいは大きな悲劇に耐えて歩いているその漁師の像を、キャンバスのなかでとらえることができるかもしれない。しかし私の乏しい技量ではとらえることができない。そこで私はこれまでだれも試みたことがなかった手法の開拓に乗り出したのだ。
絵画はその絵画がすべてであって、その絵画につけられるタイトルは、いわば商店の看板あるいは家屋の表札といったものだった。《A氏の肖像》とか《М嬢》とか《旅愁》とか《冬の日》とか《旅にでる若者》とかいったタイトルで、ほとんどが十字を越えることはない。この定石を打ち破って長大なタイトルをつけることにしたのだ。例えば、この漁師のポートレイトには次のようなタイトルをつけた。
《その日、海の底が見えるばかりに潮が引いていった。漁師は船を守るため、機動をけたてて沖へ沖へと走らせた。津波がやってきた。漁師になって二十七年、それはかつて見たこともない巨大な津波だった。海が丘陵のようにうねり、船はくるくると木の葉のように舞う。しかし彼の船は転覆しなかった。第二波、第三波と襲いかかる津波の襲撃を乗り切って漁港に帰ってきた。村がなくなっていた。すべての家屋がきれいになくなっていた。妻と二人の子供と母親の五人家族だった。その四人も海に飲み込まれてしまった。彼は漁師仲間と明るく談笑しているが、その笑顔のなかにぽっかりとあいた空洞は隠しようもない。一人さびしく晩酌しているとき、涙がとどめなく流れ落ちるのだ》
ときには一千字、さらに二千字も越える長大なタイトルをつけるのは、そのポートレイトを言葉によって説明するとか、言葉によって私の技量不足を補うということではなく、言葉と絵を交響させたいと思ったのだ。私の絵がいつだってトローニーになっていくのは、フィクションこそより深い真実を描き出せるという思想を持っているからだった。
ところで、「共同通信」はけた外れの現代芸術家のクリストの死去を次のよう配信した。
《米メディアによると、米現代美術家のクリスト(本名クリスト・ヤバチェフ)さんが5月31日、ニューヨークの自宅で死去した。84歳。死因は明らかにされていない。
35年、ブルガリア生まれ。フランスのパリを経て60年代に渡米。妻ジャンヌ・クロードさん(2009年死去)と共に活動し、さまざまな物体や景観を布などで覆う手法を得意とした。パリのセーヌ川に架かる橋ポンヌフを丸ごと包んだ作品などで知られ「梱包(こんぽう)芸術家」の異名を取った。95年に夫妻で高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞した。(ニューヨーク共同)
あるいは「美術手帳」は、
これまでパリのポンヌフ橋やベルリンのライヒスターク(国会議事堂)、あるいはニューヨークのセントラルパークなど、世界各地の建造物を巨大な布で梱包するプロジェクトを行ってきたクリストが、ニューヨークの自宅で5月31日逝去した。享年84。
クリストは1935年6月13日ブルガリア生まれ。同年同日生まれの妻ジャンヌ=クロードとともに、「クリストとジャンヌ=クロード」名義で創作を行い、布で景観や施設を一時的に包むアートプロジェクトに取り組んできた。日本では91年に茨城とカリフォルニアを同時に傘で覆う《アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91》を行っている。
妻のジャンヌ=クロードは09年に75歳で逝去しており、その後はクリストのみでプロジェクトを実施。2016年には、浮き橋を布で包み島と島を結んだ《フローティング・ピアーズ、イタリア、イゼオ湖、2014-16》を、18年にはロンドンのハイドパーク内にあるサーペンタイン・レイクに、7506個のドラム缶を積み上げた《The London Mastaba》を発表。大きな話題を集めた。
《フローティング・ピアーズ》(2014-16)でのクリスト(イタリア・イセオ湖) 写真=Wolfgang Volz
クリストは今年、パリの凱旋門を梱包する作品《l’Arc de Triomphe, Wrapped(Project for Paris, Place de l’Étoile-Charles de Gaulle)》を発表する予定だったが、新型コロナウイルスの影響で21年9月に延期。訃報を伝えたクリストとジャンヌ=クロードスタジオは、Twitterで「クリストとジャンヌ=クロードは、ふたりの死後も進行中の作品を継続することを常に明言してきました」としており、凱旋門のラッピングは予定通り行われることが明らかにされている。
クリストはかつて「美術手帖」のインタビューに対し、「2度と見られないことを知っているから、たくさんの人が見に来るのです。プロジェクトは所有できない、買えない、入場料も取らない、すばらしく非合理なものです。ありふれていない、役に立たない(ユースレス)ことこそが、クオリティーを支えているのです」と語っている。
あるいは「NEWS / HEADLINE」つぎのように長文を掲載している。
クリストとジャンヌ=クロード回顧展が7月にポンピドゥー・センターで開催。パリでの活動を振り返る
5月31日逝去したクリストとその妻のジャンヌ=クロード(1935〜2009)の回顧展「Christo et Jeanne Claude: Paris!」が、7月1日〜10月19日にパリのポンピドゥー・センターで開催される。2部構成の本展では、ふたりのパリでの活動や「The Pont-Neuf Wrapped, 1975-1985」プロジェクトが紹介される。
なお本展では、メイスルズ兄弟によるドキュメンタリー映画『Christo in Paris』(1990)も上映。本作は、クリストとジャンヌ=クロードの伝記映画であり、ふたりが「The Pont-Neuf Wrapped, 1975-1985」に捧げた10年間を記録している。
1961年、クリストは凱旋門の近くの部屋を借り、このプロジェクトについて調査をスタート。70年代~80年代にかけ研究を重ね、構想から60年の時を経て、ようやく実現を迎える。
クリストは2019年、このプロジェクトを発表したときに「ジャンヌ・クロードと私がポンヌフを包んでから35年後、凱旋門でプロジェクトを実現するためにまたパリで作品を制作することを熱望している」とコメント。先日、訃報を伝えたクリストとジャンヌ=クロードスタジオは、Twitterでふたりは「死後も進行中の作品を継続することを常に明言してきた」としており、同プロジェクトは予定通り行われることが明らかにされている。
なお、ポンピドゥー・センター会長のセルジュ・ラヴィーニュは、クリストの訃報を受け、次のようなコメントを発表している。「クリストは我々の日常に新たな奥行きを与えた偉大なアーティストだった。まさに魔術師だ。さらに大胆で決断力にあふれ、深い人間味のある素晴らしい人物でもあった」。