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ヘンリー・D・ソローの「森の生活」

ソローが生存中に世に投じた本は二冊で、最初の本「コンコード河とメリマック河の一週間」は一八四九年に出版された。出版されたといっても一千部ほど刷っての自費出版で、二一九冊がどうにか売れ、七五冊が寄贈され、残りの七○六冊は彼の部屋に積み上げた。ソローにとって売れなかったことは嘆きでなく誇りであった。彼は日記にこう書いている。「私はいまや九百冊近い本を所蔵しているが、そのうち七百冊以上が私の書いた本である」と。
そして一八五四年、「森の生活」(原題はWALDENであり副題にLIFE IN THE WOODS。酒井訳では「ウォールデン──森で生きる」と題されて投じられている)は、今度は二千部ほどが刊行された。この本はそこそこに売れたらしいが、しかしそれとて広大なアメリカ大陸に、コップ一杯ほどの水をまいた程度のことだった。

しかし彼の死後、この本は世界に渡っていく。トルストイがたびたびこの本を引用していることに驚いたことがあるが、トルストイに限らずいまなお世界に深刻な影響を及ぼし続けている本である。日本人にもこよなく愛されていて、現在数種類の翻訳本を手にすることができる。このような現象がみられるのは日本だけだろう。なぜ「森の生活」がこれほど日本人に愛されるか、そのことを誰よりも熟知しているのは翻訳者たちであって、彼らがいかなる思いでこの本に立ち向かっていったかを抜き書きしてみることにする。 

酒本雅之はこう記す。「ウォールデンは森の暮らしの物語ではない。手段の獲得をぜったい不可欠な必要事と決めこんで、本当の目標には見向きもしない人間社会のありように、自然の多様で充実した世界を対置させて、人間のめざめと誕生をなんとか成就させたいという願いが、作品全体を貫き流れる主旋律だ。「夜明けはまだまだこれからだ。太陽など所詮は明けの明星でしかない」という結びの一句は、未来にかけるソローのこの思いの深さを雄弁に語っている。

佐渡谷重信はこう記す。「名作とはその中に《生命エネルギー》を貯えていて、いつの時代にも、人々にそのエネルギーを放射してくれる著作をいう。人間は常に己の愚かさの故に災禍と苦悩にさいなまされていることに気がつかない。今日の時代において、ソローの《生命エネルギー》を感得しない者は人生の半分も生きなかったことになる。否、君は精神の堕落を救済することができず、最後は、人生を見失うであろう」

真崎義博はこう記す。「この作品がほぼ百三十年前に書かれたものだということは明らかなのだけれど、それ以上に、ソローはぼくの同時代人であるかのような気がしてならなかったのだ。たとえば、ソローがウォールデン湖に住んだのは二八歳のときだ。いまのぼくより若い。そういうこともあって一人称には《私》ではなく《ぼく》を使った。《ぼく》を使うことで。ソローという人間をできるかぎり身ぢかにひきつけたかったからだ」

飯田実はこう記す。「ソローはこの作品が、自然とともに生きた彼の忠実な生活記録であると同時に、人間の第一目的はなにか、人生をどう生きるべきか、といった根本問題に直面して悩んでいる若い読者のために書かれたことを、くりかえして強調している。実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている人間世界の現実を、容赦なくあばいていく」

今泉吉晴はこう記す。「この本は、ソローが二七歳で森に移り住み、その経験から学んだすべてを、見えてきた世界のすべてを書いた傑作です。若者の本です。なぜ、森に入って家を建て、畑を作り、自然を見て生きてきたのか、森でどんな経験をしたのか。ソローは住んだ森から散歩に出て、人間の社会も、鉄道も、工場も観察しました。それにしても、なぜソローは、わざわざ森から、人の社会を観察する必要があったのでしょうか」

彼らはどのような日本語で「森の生活」に立ち向かったのだろうか。ソローが刻み込んだ英語をどのような日本語で編み上げていったのだろうか。

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ある日、彼は完璧な杖を作ろうと思いたった

Why should we be in such desperate haste to succeed, and in such desperate enterprise? If a man does not keep pace with his companions, perhaps it is because he hears a different drummer. Let him step to the music which he hears, however measured or far away. It is not important that he should mature as soon as apple-tree or an oak. Shall he turn his spring into summer? If the condition of things which we were make for is not yet, what were any reality which we can substitute? We will not be shipwrecked on a vain reality. Shall we with pains erect a heaven of blue grass over ourselves, though when it is done we shall be sure to gaze still at the true ethereal heaven far above, as if the former were not?

「なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死の企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別なドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんなに遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。リンゴの木やオークのようにすぐに成長しなければならないという主張など、とるに足らない。自分の春を夏に変えろとでもいうのだろうか? それに合わせてぼくらがつくられたその諸条件が整わないのに、代用できるリアリティにどんな意味があるというのだ? ぼくらは、虚しい現実のうえで難破などすまい。ぼくらは、苦労して自分のうえに青いガラスの空を作るべきだというのか? どうせできあがってしまえば、まるでそんなものはないかのようにそのずっとうえにある本物の霊妙な天を見つめるにきまっているのだ」(真崎義博訳)

「なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? 人が自分の同僚と一緒に歩調を合わせようとしないとすれば、それは、多分、違ったドラムの音を聴いているからであろう。そのドラムがどんな拍子だろうと、また、どんなに遠く聞こえてこようと、聴こえてくる調べに調子を合わせて、歩こうではないか、林檎や樫の木のように、早く成長することが重要なのではない。人は自分の春を夏に変えてしまおうとするのだろうか? 色々な物事が未だ役に立つような状態になければ、それに代る現実の問題として、どのようなことが考えられるのであろうか? われわれは空虚い現実の世界で難破などしたくはない。苦労して頭上の青硝子の天空(欺瞞の世界)を張りめぐらす必要があるのだろうか? 頭上に青硝子が張られても、そんなものは、いままで存在しなかったかのように、その上に広がる本物の天空の彼方を、われわれはじっと見つめるのである」(佐渡谷重信訳)

「なぜわれわれは、こうもむきになって成功をいそぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調とあわないとすれば、それは彼がほかの鼓主のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽にあわせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。リンゴやオークの木のように早く成熟することなど、人間にとって重要ではない。われわれが春を夏に変えろとでもいうのだろうか? 自己本来の目標を達成できる条件もともなわないうちに、現実をとりかえてみたところでなにになろう? 我々は空虚な現実に乗りあげて難破するのはごめんである。それとも、労苦をいとわずに、頭上高くそびえる青グラスの天井を建設すべきだろうか? たとえそれが完成したところで、われわれはそんなものものを無視して、やはり、はるかなかなたの霊気に満てるまことの天を仰ぎ見るものときまっているのに?」(飯田実訳)

「どうしてぼくらはこうまで成功をめざして死にものぐるいに先を急ぎ、おまけにこうまで意味のない企てばかりにあくせくするのか。もしも仲間と歩調の合わない者がいたら、たぶん彼には別の鼓手の打ち鳴らす太鼓の音が聞こえているのだ。どんな律動だろうと、どんなに遠く遥かな響きだろうと、自分の耳に聞こえる楽音に合わせて歩けばいい。リンゴの木やオークみたいな成熟の速さなど彼にはどうでもいいことだ。せっかくの春を夏に変えるにも及ぶまい。ぼくらのためにと用意された本来の境遇がまだ到来していないのなら、どんな現実にその代わりをつとめさせてみても何になろう。ぼくらは空しい現実に乗り上げて難破するなどまっぴらだ。苦労して青いガラスの天穹を頭の上に作ってみても、いざ完成となったとき、まるでそれが影も形もないかのように、遥か高みに澄みきったまことの天空を相変わらず見上げることになるに決まっている」(酒本雅之訳)

「わたしたちはなぜ、これほど捨て鉢に成功を急ぎ、事業に命を賭けるのでしようか? あなたの歩調が仲間の歩調と合わないなら、それはあなたが、他の人とは違う心のドラムのリズムを聞いているからです。私たちはそれぞれに、内なる音楽に耳を傾け、それがどんな音楽であろうと、どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。私たちは、リンゴの木やオークとも違います。それらの木ほど早く実をつけることは、私たちには大切ではありません。かけがえのない人生の春を早々に切り上げ、ひと思いに夏に入りたいと、誰が望むのでしょうか? 私たちを生き生きさせる季節は遠く、世界の何を見たらいいでしょう。無理に動いても、面白くもおかしくもない現実にぶつかって難破します。それとも、大いなる労苦を払い、頭上に青いガラスの天井を築くべきでしょうか? たとえ青いガラス天井を築いても、私たちは、そのはるか彼方に、しかしとらえがたい真の天空が、青いガラスの天井など存在しないかのように、青く輝くのを見るだけです」(今泉吉晴)

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There was an artist in the city of Kouroo who disposed to strive after perfection. One day it came into his mind to make a staff. Having considered that in an imperfect work time is ingredient, but into a perfect work time does not enter, he said to himself, it shall be perfect in all respects, thought I should do nothing else in my life. He proceeded instantly to the forest for wood, being resolved that is should not be made of unsuitable material; and as he searched for and rejected stick after stick, his friends gradually deserted him, for they grew old in their works and died, but he grew not older by a moment. His singleness of purpose and resolution, and his elevated piety, endowed him, without his knowledge, with perennial youth. As he made no compromise with Time, Time kept out of his way, and only sighed at a distance because he could not overcome him. Before he had found a stock in all respects suitable d the city Koruoo was a hoary ruin, and he sat on one of its mounds to peel the stick.

「クールーの町に、完璧をめざしたアーティストがいた。ある日彼は、杖を作ろうと思いたった。完璧でない仕事では、時間というものが仕事をするうえでのひとつの要素になるけれど、完璧な仕事には時間の問題など入り込む余地はないと考え、彼は、たとえ生涯他になにもしなくてもいい、あらゆる点で完璧なものを作ろう、と心に誓った。不適当な材料で作るわけにはゆかないというので、すぐに森へ木を探しに出かけた。一本一本吟味して捨ててゆくうちに、友人たちは仕事をしながら年を取って死んでしまい、彼を置き去りにしていったが、彼自身はちっとも老け込こまなかった。その目的と決意の固さと敬虔深さが、知らないうちに永遠の若さ賦与したのだ。彼が時間との妥協を排したので、時間は彼の進路に近づくこともできず、遠くでため息をつくばかりだった。時間は、彼を屈服させることができなかったのだ。あらゆる点で合格と思われる木を見つけるまえに、クールーの町は廃墟となっていた」(真崎義博訳)

「クールーの町に一人の工匠がいて、完璧な仕事を目指して努力していた。ある日のこと、杖を作ることを思い立った。不完全な仕事をするなら時間が気になるが、完璧な仕事をしようと思えば、時間など気にする事はない、と彼は考えていたので、自分の生涯で他に何も作ることがないとしても、この杖だけは、あらゆる点で完璧なものに仕上げよう、と自分に言い聞かせた。不適当な素材で作るべきでないと決心して、早速、材料の木を求めて森林に入り、一本ずつ木を吟味しては捨てていくと、一緒にいた友人たちは徐々に彼を見捨てていった。というのは、友人たちが森で仕事中に年を取って死んで行ったからである。ところが彼は瞬時たりとも年を取ることはなかったからだ。この工匠が一心不乱に仕事をし、そして彼の気高い敬虔さゆえに、知らず識しらず、永遠の青春が彼に与えられた。彼は《時間》と妥協しなかったので、《時間》の方が遠慮し、離れた所から溜息をもらした。《時間》は彼に打ち克つむことが出来なかったからである。いろいろ考慮したあげく、適当と思われる丸太が見つかる前に、クールーの町は灰色で覆われ、廃墟と化してしまった」(佐渡谷重信訳)

「むかし、クールーの町に、完璧を志して精進する人の芸術家がいた。ある日、彼は一本の杖をつくることを思いついた。不完全な作品は時間に左右されるが、完全な作品は時間とは無関係であると考えた彼は、「よし、おれの一生でほかになにひとつ達成できなくてもかまわないから、あらゆる点で非の打ちどころない杖をつくることにしょう」と、ひそかにつぶやいた。彼は、この目的にふさわしくない材料は断じて使うまいと心にきめて、さっそく木を探しに森へ出かけた。枝木を一本一本調べては捨てているうちに、友人たちはつぎつぎと彼のもとを去っていった。彼らは仕事をしているあいだに年を取り、死んでしまったのに、彼のほうはわずかなりとも老いることはなかったからである。その目的と決意の一徹さ、および信仰心の高揚が、本人も気づかぬあいだに、永遠の青春を彼に与えていたのである。「時間」と妥協しなかったおかげで、「時間」のほうが彼を避けたのだ。彼をうち負かすことができなかったので、「時間」は遠くからため息をついているほかはなかった。どこから見ても杖にふさわしい木の幹を、男がやっと探しあてたころには、クールーの町はすでに蒼然たる廃墟と化していた」(飯田実訳)

「クルの町に、完全であろうとつとめずにはいられない質の芸術家がいた。ある日のこと、彼は杖を一本作ってみようと思いたった。不完全な作品でよければ時間のことも考えにいれなければなるまいが、完全な作品には時間など無用と彼はひそかに思案し、たといほかに何一つ果たさぬままで生涯を終えても、この杖だけはあらゆる点で完全なものにしようと思いさだめた。そこで彼はふさわしくない材料は使うまいと決心して、すぐさま森へ木を探しに出かけた。枝木を探しては、一本、また一本と捨てていくうちに、他の友人たちは次第に彼から離れて行った。彼等は仕事をしながら年老いて死んで行ったが、彼だけは一瞬たりとも老いることはなかったのだ。彼の目的と決意のいちずさ、それに彼の気高い献身が、彼自身も気づかぬうちに、彼に永遠の若さを与えた。彼が「時間」との妥協をしなかったので、「時間」が彼に近づかず、とうていかなわぬ相手と見て、遠く離れてただ溜め息をつくばかりだった。あらゆる点でふさわしい木材を彼はまだ見つけていないうちに、すでにクルの町は古色蒼然たる廃墟と化した」(酒本雅之訳)

「昔、インドのクールーの町に、ひとりの芸術家が住んでいました。長く精進してきた彼は、ある日ひそかに、杖作りに全力を尽くそう、と心に決めました。満足できない作品が生まれるのは、時間に急かされるため。完璧を求めるなら、時間を超越すべし、と自らに言い聞かせた彼は、人生で一本の杖しか作れなくても、すべてに満足できる作品を目指しました。芸術家は森に入り、わずかの欠陥も見逃さない決然たる姿勢で、杖の原木を探しました。これは、と思う木を取っては捨て、捨てては取るうちに、友人が次々に彼のもとを去りました。友人らはみな仕事に忙しく、歳をとり、この世を去りました。ところが、当の芸術家は、ほんのかすかにさえ老いの兆しを見せません。彼の尊い目的と専心と高き思いが、期せずして永遠の若さをもたらしました。芸術家が断じて時間と妥協しないために、さしもの時間も手こずり、溜め息をついて道をあけ、見守るよりほかになかったのでしょう」(今泉吉晴)

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