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いじめに苦しむ子供たち

これはみなさんとの出会いの場を、ボールを投げあう挑戦のスピーチとするために作成した問題です。熱球が投げ返されることを期待しています。

問題
「ゼームス坂物語」の第二巻「あの朝の光はどうだ」のなかに「ゲジ子」という章があります。そこに野村美香という少女が登場してきますが、クラス担任はこの少女に対応できず、学級崩壊をきたしたばかりか、その教師は二度と教壇に戻れなくなりました。この事例をテキストにして、もしあなたならばどのように対応するのか、この少女にどのように立ち向かうのか、クラスに発生するいじめにどのように取り組むのか、あるいは崩壊していくクラスをどのように立て直していくのかといったことを主題にして、あなたの教育観をお書き下さい。字数制限なしです。なおこの少女は第四巻「大いなる旅立ち」のなかの「声のない歌」の章にも登場してきますので、この章もまた読了して論考を深めて下さい。

             
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 佐伯先生からスピーチの依頼があり、そのとき佐伯先生は、ゼームス坂物語の第二巻「あの朝の光はどうだ」のなかの「ゲジ子」という章をテーマにしてもらえないだろうかという提案というか注文がありました。というのも、最近佐伯先生の学校でも、大きないじめ問題が発生して、その対応にひどく苦しんだ。さまざまないじめ対応の資料や指導書などを集めてみたが、どれもが机上の空論が展開されているばかりで、少しも参考にならなかった。いじめの問題はどこの学校でも深刻で、この対応に苦しんでいる教師もたくさんいる。そんなことからも「ゲジ子」という章をテーマにして、いじめ問題に対するスピーチをしてもらえないだろうかという提案でした。

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 いくつかの学校から、何人かの先生たちから、スピーチの依頼があったとき、そのスピーチの素材にしたいと思っていたのが、このいじめの問題でしたので、そこでまず佐伯先生がお持ちになっている、さまざまないじめ問題に関する資料をお借りしたのです。それはずいぶんな量でした。その量からもいじめ問題というものは、やはり先生たちにとってただならぬ問題だなと思い、それでそれらの資料を読了して作成したのが、みなさんのお手元に渡っているレジュメでした。しかしそれはみなさんに対する挑戦状といったもので、この出会いを互いに挑戦のボールを投げあう場にしようと思うからですが。
 
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 果たして、私の挑戦のボールに対して、みなさんは実に熱いボールを投げ返してこられました。これは素材として取り上げた物語が、あるいはいじめ対応に敗北した事例が、みなさんに強烈な印象を与えたということもありますが、しかしこれほどの熱いレポートが書かれた根底にあるのは、やはりこのいじめの問題に、どの先生も深く苦しんでいるということの現われだと思いました。みなさんのレポートを拝読しまして、このボールをみなさんに投げこんだことは正解であり、このボールはさらに多くの先生たちに投げこまなければならないと思ったものです。そこで私の今日のスピーチは、みなさんこの熱いボールを受けて、さらなる挑戦のボールをみなさんに投げこむということになります。

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 佐伯先生にお借りしました、いじめ問題にたいする先生のための指導書といったもの、あるいはいじめが学校に発生したときのマニュアル書といったものを読んで、私もまた佐伯先生とまったく同じ感想をもちました。その全ページが空々しく、なにやらいじめ症例の羅列であって、少しも心に響いてこない。先生ならばだれもがいじめ問題に直面したことがある、現にいまも心がつぶれるばかりにこの問題に苦しんでいる先生もおられる。そういった生々しい体験をなさっている現場の先生たちにとって、どうもそれらのテキストには違和感がある。違和感があるどころか、こんなテキストを突きつけられると、さらに混乱するばかりではないかと思いました。
 
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 どうしてそんなテキストになってしまうのか。教育委員会や文部科学省といった学校教育を主導する機関で作られるそれらのテキストは、たいていがいじめ問題を研究テーマにしている大学の先生たち、教育学や、心理学、あるいは精神科の教授たちが中心になって作られていきますが、そのときその作成チームには、前提となるコンセプトがあります。それはいじめとは、あってはならものである、そのあってはならぬものが学校に発生してしまった。もっというならば、いじめとは学校に発生した病気である。ガン細胞のようなものである。そういう前提の上にたって、いじめ対応の指導書が組み立てられていくわけです。

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 そこでまず取り組まれるのは、いじめの分析です。無数に起こる一つ一つのいじめを取り上げ、そのいじめがどのように発生したのか、どのようないじめが行われているのか、いじめる子、あるいはいじめられる子は、どのような性格の子なのか、その子の家庭はどうなっているのかといったことが分析されていく。そして次に展開されるのが分類です。それぞれのいじめを共通項でくくって、Aタイプのいじめ、Bのタイプいじめ、Cタイプのいじめと分類していく。とにかくいじめというのは、学校に発生した病気ですから、その病気の原因をつきとめるために、分析と分類作業が不可欠だというわけです。

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 それは本当にガンなのか、ガンならばどこに巣食っているか。肺なのか、胃なのか、肝臓なのか。さらに、その病状の進行状態はどうなのか、初期なのか、中期なのか、それとももはや学級崩壊の末期的ステージなのか。分析と分類作業という学問的医学的アプローチによって、その個々のいじめが診断されると、そのテキストづくりの最後の目的である、いじめ問題の解決への処方箋──現場の教師たちは、それぞれの事例にどのように対応すべきかの具体的な指示が記されていきます。いじめ対応のテキストといったものは、まあ、だいたいこんな構成で組み立てられています。

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 それで、これから私もまた、みなさんも取り組まれた「ゼームス坂物語」の「ゲジ子」という章に登場する野村美香の事例を、大学教授たちが作成していくようなスタイルで組み立てていこうと思うのです。野村美香を少女M とします。──少女Mは生後、心臓に疾患があり、医者から長期の生存はできないと診断されたこともあり、両親は幼時の段階から極度に甘やかして育ててきた。Mの望むことはなんでもかなえられ、ときには拒絶されるときもあるが、そんなときMは泣き叫んだり、テーブルをひっくりかえしたりしての暴力的挙動にでる。するとたいていその要求がかなえられた。幼児のときから、そんなわがままいっぱいの生活が、自己中心的性格を作りだした。

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 Mはよく成長し、身長も体重も標準以上で、また女の子でありながら腕力もあり、しばしば男の子たちを暴力的挙動で屈服させたりする。そんな肉体的な力もあって、クラスのなかでも自己中心の世界を作りだす。つねにMが中心であり、Mの欲望が優先され、その欲望を暴力的な手段を使ってでも押し通していく。もしMの要求を拒否したり、彼女に逆らうクラスメイトがいたりすると、Mは暴力でその相手を屈服させるという暴君的性格をもっている。またMは腕力だけではなく悪知恵にもたけていて、仲間グループを使っていじめを扇動したりする知能犯的性向ももっていている。

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 たとえばMをむかつかせる少女Aのいじめは、まったく関係のないクラスメイトのランドセルから現金の入った集金袋を抜き出して、少女Aのカバンにそっと入れておく。そしてお金がなくなったとたきつけ、担任教師に犯人探しをさせ、少女Aを犯人にでっちあげるという巧妙なシナリオを仕組んだりする。Mにとっていじめとは、欲望やストレスを発散させる行動であるばかりではなく、いじめによって仲間づくりをしたり、仲間の連帯を深めたり、脱落しようとする仲間を防止したりするという一種の創造活動になっている。Mは協調性破壊自己中心神経過敏症、あるいは環境不適応自律性未熟症、あるいはまた他者攻撃破壊性多発症と診断できる。

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 こうしていよいよ最終段階に入っていきます。このテキストは、いってみればいじめ対応のマニュアル書ですから、少女Mの事例の具体的な取り組みが明快に書かれていく。すなわちこうです。──Mのいじめで、すでに二人も不登校になり、さらには学級崩壊現象になりつつある。このまま放置しておくと最悪の事態になりかねず、緊急の対応が必要である。その具体的な対応策を列記していくと、一、Mの自己中心的性格を矯正していくには、Mの両親の力が必要である。Mの両親に深刻な事態をはっきりと認識してもらう。二、すでに学級崩壊現象が起こっているから、ここで思い切って現担任を更迭し、ベテラン教師にこのクラスを担当させる。三、Mをしばらくクラスから引き離して、校長室横の会議室などに登校をさせる。そこで校長や教頭が、独自の授業を行う。四、Mをしばらく学校から引き離す処置も検討すべきであろう。自宅学習させるという処置である。

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 一から四まではいわば内科的治療方法であったが、いまやその段階ではないと判断された場合には、次のような手順で断固外科手術に踏み切っていく。一、Mが過去に引き起こしたいじめを総点検して、ここであらためてMに厳しい処分をする。Mのいじめをここまで助長させたのは、その時々のいじめに厳しい対応がなされなかったからである。二、Mの暴力によって傷を負った子供がいたが、これは刑事罰に相当する傷害事件であり、警察の教育課と連絡を密にして断固たる対応にでる。いまMにもっとも必要なことは、なまぬるい教育ではなく、彼女の性格を矯正していく嵐の教育である。

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 三、学級崩壊が起こっているのであり、このままでは最悪の事態になりかねない。子供たちの危機であり、教師の危機であり、学校の危機であるから、Mを摘出する手術を断固決行する。悪貨は良貨を駆逐する、たった一個の腐った林檎がすべての林檎を腐らせる。こういう事態になっているのだから、学校は学校の総力をあげてMを追放する、すなわちMを不登校児童にさせてしまう。まあ、こんなことを言ったら先生たちに叱られますが、しかし本音のところで、いじめ問題に苦しんだ先生ならば、だれでもそんなことを思うはずです。この子供がクラスからいなくなればなあ、と。
 
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 今、私はかぎりなく、教育行政をつかさどる機関で作られるいじめ指導のテキストにそって、Mの事例を取り上げてきましたが、どうしてこの種のテキストが現場の先生たちにはまったく参考にならないのか、むしろ抵抗や反発さえ感じるテキストになってしまうのか、そのことを少し思考していきたいのですが、どうもこれらのテキストが作られる前提が間違っていると思うのです。いじめとは社会的病気であり、学校に発生したガン細胞のようなもので、これを切除して根治しなければならないという前提です。まずこの前提が間違っていると思うのです。

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 私たちがテレビドラマや映画をみるとき、あるいは小説を読むとき、そこにかならずいじめが出てきます。主人公に次々にいじめが襲いかかっていく。そのいじめに主人公は翻弄され、苦しみ、嘆き、絶望しながら、しかしそれを一つ一つ乗り切って生きていく。そんなドラマの展開に私たちは引き込まれていく。考えてみますといじめのないドラマなどありえない。いじめがあるからこそドラマは面白くなるのであって、いじめのないドラマなど面白くなくて、だれもみやしない。そもそもドラマというものは、いじめが土台になって作られていくものであり、歴史に残る名作というものは、いずれもいじめがものの見事に描かれています。

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 これはどういうことかいうと、人はいじめを通して人になっていくということです。いじめられることもある、いじめることもある。いずれにしてもいじめというものは、人が人となるための不可欠なものだということなる。ですから、いじめとは病気でもなければガン細胞でもない。ましてやこれを完全に切除するなどということができるわけがない。クラスにいじめが発生したということは、むしろ自然なことであり、人が人となるための時間がやってきた、あるいは人が人となるための試練が与えられたと考えるべきなのです。

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 大学教授たちを中心にして作られたその指導書は、当然のことながら、学問的に科学的にあるいは医学的に組み立てられていきます。分析するために解剖して、それを分類化して体系づけていくという手法です。いま私は少女Mを、精神科医たちの行う精神分析的アプローチといったものを模して分析してみたのですが、しかしこの分析はなにかおかしい。すでに私たちは「ゼームス坂物語」によって、Mという少女を知っています。Mという少女の実像を知っている私たちにとって、学問的アプローチ、あるいは医学的アプローチで捕らえた少女M は、なにかが決定的にちがうことがわかる。

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 Mのいじめはもっと複雑であり、複合的であり、悪魔的です。子供は天使の子であると同時に悪魔の子です。子供は時にぞっとするばかりの悪魔的行為に手をそめたりする。Mもまた椅子を担任教師に投げつけたりして、完全にクラスを崩壊させた。それで、不登校児童になるわけですが、その後もMの復讐は続き、両親とともに学校と担任教師を攻撃していく。そして森のなかで担任教師を呪い殺そうとする儀式まで行う。担任教師はその呪いの儀式に打ち倒されたのか、二度と教壇に立てなくなった。

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 Mは「ゼームス坂物語」の第四巻にも登場してきます。Mも成長して中学生になっています。教師に椅子を投げつけた日から、Mは不登校児童になっていたのですが、中学生になると学校に行くようになった。するとそこで何が起こったのか。今度は彼女が激しくいじめられる。小学生のときのMは過激ないじめっ子でしたが、今度は逆に過激にいじめられる子供になってしまった。いじめという人間活動は、つねに動いている。一瞬たりとも停止していない。翌日になるといじめていた子供が、猛烈にいじめられるという逆転現象だって起こる。ですからいじめの事例を、分類し体系づけてファイルなどしておくことはできないのです。

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 さらにこの第四巻で、彼女の心の闇といったものが明かされていきます。なぜあのようにクラスを悪魔的にひっかき回し、最後は教師に椅子を投げつけるまでに暴れたのか。それだけでなく森の中で、ダンボールに描いた担任教師のからだに、死ね死ねと叫びながら五寸釘を打ち込む呪いの儀式をしていったのかが。その闇が明かされるとき、学問的医学的アプローチによって人間分析をすることが、いかに実像から遠いものになっていくかということがわかるというものです。

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 いじめは人間が織りなす行動の、もっとも高度な精神活動であり、心理活動であり感情活動であり、それはおそらく恋愛に匹敵するものなのでしょう。最新の心理学の研究とか、現代の精神医療の進歩というものを否定するわけではありませんが、恋愛というものが分析されたり体系づけたりすることができないように、いじめもまた複雑な要素がいつくもからみあい、からみあったものがそこで科学変化など起こしたりさらに複雑になっていく。しかしいじめの指導書づくりに取り組む大学の先生たちを中心に編成された作成チームは、いかに実像から遠いものになろうが、彼らが信じる学問的医学的アプローチでそれを作成していく以外にない。

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 そのテキストはいわばいじめのマニュアル書であり実践書ですから、当然、具体的な現実的な対応策もまた書かれていきます。そこまで書かれていなければマニュアル書にはなりませんから、Mの事例にも具体的な処方箋が書かれます。Mの事例は学級崩壊という危機的状況にあり、医学的にいえばステージ四にあたり、早急なる外科手術が必要である。Mこそクラスを危機的状に追い込んでいくガン細胞ですから、クラスを守るために、担任教師を守るために、学校を守るために、学校をあげて決然とMを除去する外科手術を断行せよと診断され、そのような処方箋が書かれる。

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 私立学校ならば、そんな強引な摘出手術など簡単に行えますが、公立の学校ではそれをおおっぴらに行うことができない。ですからそこは巧妙な方法で治療せよということもちゃんと書かれている。マニュアル書の面目躍如といったところです。とにかく学校を守り、教師たちを守らねばなりません。かくてマニュアル書の指南どおりに、学校は決然としてMの摘出手術を行った。こうして学級崩壊の危機は救いだされて、いじめのないにクラスになっていった、ということになるのだろうか。ガン細胞はMだけに取り付いたのだろう。ガン細胞はすでに他に転移していて、クラス中に広がっていたのではないのだろうか。

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 たしかにMを追放して、表面的にはクラスは平和になったのかもしれません。とにかくいじめを扇動し主導していくMがクラスから消されたのですから。しかしそれは一時の光景であって、ガン細胞は切除され、いじめという病気は完治されたなどということにはならない。すでにガン細胞はクラス中に転移していたのですから。クラス中に転移していたからこそ、学級崩壊現象が起こっていったのです。したがってこの学校が行った外科手術は、最悪の方法だったということになる。このとき学校がもっとも力をこめて立ち向かっていかなければならなかったのは、Mではなかったのです。

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 クラスに起こったいじめが病気であり、ガンであるならば、教師と学校が全力をあげて立ち向かわなければならなかったのは、いじめを傍観し、いじめからいつも冷たく距離を置き、そんな面倒なことには関わりたくない、あるいはその火の粉がわが身にふりかかるまいと、必死に自らを防衛しているクラスの大多数の子供たちです。彼らこそクラスという生命体を衰退し破壊していくガン細胞そのものであり、彼らにこそ外科手術が必要だったのです。


 
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 いま教師のためにつくられた、いじめ対応のテキストを痛烈に批判してきたのですが、しかし佐伯先生によってすでに指摘されていますように、現場で日々子供たちと苦闘しているみなさんの方が、これらのテキストの欠陥を私などよりもっと深く鋭くとらえているはずです。これらのテキストは、現場の苦悩を知らない人物たちによって書かれた机上の空論のたぐいであって、参考になるどころかかえって現場の判断を狂わせしまう。なにか学問的アプローチによって方程式を作り出し、その方程式を解いていけば、いじめ問題は解決するといった具合なのです。

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 あるいはまた、これらのテキストの底に流れているコンセプトは、いじめ問題に苦しむ教師たちを救い出すというよりも、問題をより大きくさせないために、外部にこの問題が洩れていかないようにするために、あるいは外部から批判などされないためのマニュアル書であって、いわば学校を防衛するためのいじめ対応のテキストになっている。そして問題がこんがらがって面倒くさくなったら、ただちにいじめの部分を摘出する外科手術を敢行せよという権力的策謀のにおいが漂っている。どうもこれらのテキストは読み込めば読み込むほど、抵抗と反発が募っていく。

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 ではどうしたらいいのか。クラスにただならぬいじめが発生した。いじめられる子はもちろん、いじめる子供たちも、またいじめを傍観しよう、いじめに立ち入るまいとしている子供たちも苦しんでいる。そんなクラスになったとき、どうしたらいいのか。それは結局、一人一人の教師が、それぞれのやり方で立ち向かっていく以外にないのですが、しかしそのとき、そこに踏み込んでいくとき、先生たちを励まし、勇気づけ、光の出口に導いていくようなテキストがやはり必要なのです。体験の少ない若い先生たちにとっても、またベテランの教師たちにとっても。とくに十年、二十年と教師生活を続けていると、次第にその対応が硬直していって、それこそ学校を防衛する、教師生活を防衛するような処遇をしてしまうことになる。

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 ここで冒頭で述べましたみなさんへ投げ込む挑戦のボールを登場させるのですが。どういうボールかといいますと、このいじめのテキストを大学の先生たちの手ではなく、現場の先生たちの手によってつくるべきだという挑戦のボールなのです。先生たちはこれまでにたくさんのテキストを作ってきました。社会や、国語や、算数や、理科や、さらには音楽や、図工や、体育など全教科の。文部科学省でつくられた教科書、あるいは定められたカリキュラムの枠をこえて、先生たちが独自につくりだしたテキストで、授業をよりさらに深めたり、より躍動させたりしてきました。それと同じように、いじめのテキストを先生たちの手でつくりだすべきだという挑戦のボールなのです。

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 それはテキストと呼ぶよりも、むしろ教材といったほうがよいのもしれません。テキストというと、一つの解答を押し付けるような指導書とかマニュアル書といったものになってしまいますから、そういうものではなく、むしろ教材と呼ぶべきものです。さまざまなアプローチができ、いくつもの対応と解決への道があり、さらにそこから新しい地平が開けていくような教材です。そしてそのとき、その教材をつくるとき、私がみなさんにレポートを書いてもらう素材として差し出した「ゲジ子」の物語のような、それはいじめ問題の対応に失敗した事例ですが、こういった挫折した事例、敗北した事例を中心にして組み立てるべきだと提案するのです。

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 このようにしていじめ問題を解決したとか、このような取り組みでクラスからいじめを見事に追放したといったような成功した事例ではなく、むしろいじめ対応に敗北した事例、失敗どころかさらに悪化させクラスを崩壊させてしまったとか、生徒たちを傷つけ、教師もまた立ち直れないばかりに深く傷ついたとか、そんな敗北と挫折の事例をたくさん載せていく教材です。いじめ対応に成功した事例ばかりで編まれた教材は、結局は文部科学省や教育委員会などで作られる指導書と同じようなものになってしまう。そのように解決しろと。このように取り組めと。成功例だけで編集されるならば、むしろそんな教材は作らないほうがいいと思います。なぜかというと、そのような組み立ての教材は、いじめという限りなく深い問題を覆い隠してしまうからです。

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 文学の主題というものはいつでも悲劇です。もちろんハッピーエンドで終わる物語もたくさんありますが、一級の文学、永遠の生命を保っている文学とは、そのほとんどが悲劇の物語です。なぜ成功した物語よりも悲劇の物語が永遠の生命をもつかというと、悲劇こそ人間の本質や人生の姿を深く抉り取っているからです。ですからいじめという問題を深くえぐるには、いじめ対応に成功した明るいハッピーエンドの物語ではなく、敗北した物語、失敗した物語、いまだに暗黒のなかにある物語こそ、いじめ問題の本質というものを鋭く照射していくはずです。人が一番深く学習していくのは、敗北したときです。強烈にその体験から学んでいくのは失敗したときです。

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 今日もまた日本各地の学校で、たくさんのいじめが発生して、多くの先生たちがその対応に苦しんでいるはずです。そして当然、先生たちは、果敢にその困難な問題に踏み込んでいく。その結果どうなったか。スポーツのように勝敗をつけるならば、その戦いは勝った数よりも、敗北した数が圧倒的に多いはずです。いじめ問題というものはどんな取り組みをしても、ハッピーエンドの明るい物語で終わるわけはないのです。その問題に深く踏み込めば踏み込むほど、生徒たちもまた教師たちも深く傷つく。そういったいじめの本質が赤裸々に暴かれていく失敗した事例、挫折した事例、敗北した事例をたくさん集めて編集された教材です。そういう教材にこそいじめに立ち向かうための道標となる知恵がぎっしりとつまっている。そういう教材こそ、いじめ問題に苦しむ教師たちを励まして、立ち向かっていく勇気を与えるはずなのです。

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 私はすでにここに立つ前に、みなさんに挑戦のボールを投げ込んだのですが、すでに早くも鋭いボールを投げ返してこられてきた先生がおられます。なにか私のグローブをはじき飛ばすような強烈なボールで、このボールを投げ込んでこられた先生、T先生としますが、T先生の許諾をとりましたので、このT先生のレポートを紹介して、今日の拙いスピーチを締めくくろうと思います。もちろん紹介するといっても、重くつらい体験が綴られていますから、それをそのまま紹介するのではなく、私の言葉に言い換えて、さらには公開してはならぬことはカットしたり暗喩化したりして、どこの学校にでも起こっている普遍的な事例としてお話していきます。

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 T先生のレポートは、原稿用紙に換算する三十枚ほどになるのでしょうか。大変な量のレポートです。これほどの膨大な量の文章が、どうして一気に書かれたかをT先生は次のように書かれています。「ゲジ子」と題された章の物語を読んだとき、あふれる涙がとまらなかった。そのあふれでてくる涙は、感傷からくる涙ではなく、なにか私の中に凍っていた魂がとけていくような涙だったと書かれています。なぜならこれは自分について書かれた物語だと思ったと。この物語に登場した担任教師は、少女Mに椅子を投げつけらればかりの学級崩壊を起こし、さらにMの母親に責任を取れと攻撃され、育委員会までに訴えられた。そんな決定的な事件が起こって、ついには精神のバランスが破綻して、二度と教壇に立てなくなった教師の物語でもあったのですが、それはまた自分の物語でもあったと。

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 その年、T先生が受け持ったクラスは、いままで受け持ってきたクラスとちがっていた。どうもクラスに落ち着きがない。クラスがなにかザラザラと荒れている。そんなクラスを立て直そうと、さまざまな試みをしてみるが、それもなにかコンクリートの壁にはじき返されるようだった。そうこうするうちに激しいいじめが発生していた。いじめられている生徒の家庭から強硬な抗議があったりして、その先生は、ゼームス坂物語に登場する野島智子先生のように、いじめを中心になって扇動している生徒の中に踏み込んでいった。そのときなにが起こったのか。野島先生が少女Mに踏み込んだとき、Mは激しく泣き叫んで智子に抱きついてきた。私に見捨てないで下さいと。

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 T先生が生徒のなかに踏み込んでいったとき、そこに起こったのはさらなる激しいいじめでした。かえって火に油を注ぐようになってしまった。その火を消さんとあせるT先生はさらに生徒たちに踏み込んでいく。それがまた生徒たちの抵抗と反発を加速させ、ついには「いじめの矛先が私に向けられた」とT先生は書かれています。T先生に対するいじめがどのようなものであったのか、それがこのレポートに具体的に一つ一つが書かれていますが、まったく子供たちはこのような企みをなすときは、天才的というか悪魔的です。その企み、悪意をもった企み、人間の尊厳を傷つける悪魔的ないたずらを、子供たちはまるでゲームをするように行っていく。

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 そしてついに決定的な事件が起こってしまった。この決定的な事件を、もちろんここではレポートに書かれた通りにお話することできませんが、例えばこういうことです。そのとき逆上した生徒は、先生に襲いかかり、肋骨が折れるばかりの暴力に見舞われたということです。あるいは放課後の教室によびだされてレイプされた、あるいはそれに近い行為をされたといったことです。あるいはいじめられていた生徒がカッターナイフを手にして、次々にいじめていた子供たちに切りつけていったといったことです。あるいはまたいじめられていた子供が、マンションの八階から飛び降り自殺したということでする。要するにT先生を打ち砕くような決定的な事件が起こってしまった。この決定的事件に出会ったT先生もまた「ゼームス坂物語」のあの若い担任教師と同じように学校にいけなくなった。

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 しかしT先生は立ち直って、再び学校に戻ってくるのですが、その苦闘の日々もまたこのレポートには書かれています。私はこのレポートに出会って、これこそクラスに起こった、子供たちが引き起こすいじめの本質が書かれたレポートだと思いました。いじめ問題に踏み込むとき、そこにあるのは勝利とか敗北といったことではなく、子供も教師もまた深く傷つくという圧倒的な事実を書かれたこのようなレポートこそ、いじめ問題に苦しむ先生たちがもっとも望んでいるテキストではないのか思うのです。このようなテキストこそ、いじめ問題に踏み込むときの先生たちの指針となり、さらには苦悩する先生たちの精神を支えるものになるはずなのです。

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 いじめにあった子供たちが、遺書を書き残して自殺します。それはしばしば日本各地に起こっていて、いまでは新聞にも載らないばかりですが、大きな事件がないときなどは、その自殺が遺書ととも大きく報じられたりします。そのときその報道の姿勢はいつでも、激しいいじめが発生していたのに教師も学校も何の対応もしていない、子供を自殺までに追い詰めていった責任は教師と学校にあるのではないのかという追求の仕方です。ですからいつでも、学校の責任を問う自殺した子供の両親の声などを大きく紹介して、教師と学校の責任問題を追及する記事になってしまう。しかし問題はそんな単純なことではない。問題はもっと複雑であり、深刻です。

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 T先生もこのレポートのなかでお書きになっていることですが、子供たちのいじめとは、子供たちの自己確立の行為だということです。いじめという行為によって、子供たちは子供たちの独自の世界をつくっていく。そのとき絶対的な鉄則があります。大人を介入させないということです。絶対に教師を踏みこませてはならないということです。子どもたちの自己確立の行為が、厳しければ厳しいほど、踏み込んできた大人や先生たちは厳しく残酷に排斥されていきます。子供たちは命をかけて排斥していくものです。大人が入ってきたら自己確立などにはならないからです。

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 それはいじめられる子供にとっても同じことです。いじめられる子供たちもまた厳しく自己確立が迫られています。自己確立ができずに、ずるずると引きこもってしまう子供たちも沢山いますが、それもまた自己確立の戦いなのです。あるいは自殺によって自己を確立する子供たちもいます。自殺もまた自己確立の行為なのです。子供たちは苦しくて大人に救いを求めるシグナルを放ちます。そのシグナルに気づいて大人が救いの手を伸ばすことがあります。しかしそれはその子の本当の自己確立にはなりません。自己確立を瀬戸際まで追いつめられているいじめられる子供たちが、どの道を歩むにせよ、ここでもまた大人が介入してくることを厳しく拒んでいるのです。大人を踏み込ませないという世界です。とりわけ教師などには絶対に踏み込ませないという世界なのです。

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 いじめる子供の側からも、またいじめられる子供の側からも、かたくガードされた領域に教師が踏み込むとき、T先生が体験なさったような決定的な事件が起こるのはむしろ当然なことです。そこに踏み込む先生の意志や情熱が高ければ高いほど、情熱が熱ければ熱いほど、そこに激しい軋轢や争闘がうまれ互いが深く傷ついていく。いじめという問題は、かくも深刻で、かくも厳しく、かくも複雑な問題をいっぱいにはらんでいるのです。だからこそ最良のテキストが必要であり、このようなテキストは、現場の先生たちが体験なさった生々しい事例をもちよって、先生たちの手によって作り出していく以外にないという挑戦のボールを投げ込んで、私のスピーチを終わらせます。
 長時間のご清聴ありがとうございました。




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