仲代達矢さんへの手紙
それは2020年にことだった。仲代達矢さんが89歳のときに、仲代さんはこんなメッセージを世に放っている。
今はなき女房の宮崎恭子(やすこ)が残してくれた無名塾という財産とともに、健康に感謝して、足腰がきく限り、体力が続く限り、声が出る限り、もう少し頑張りたい。
私の心の片隅にはずっと思い続けていたことがある。それは宮崎恭子との共同作品「いのちぼうにふろう」を私の役者としてのグランドフィナーレにしたいということだった。なんせ今年90歳になる私はセリフを覚えるのが大変でして、これから若者以上に、無名塾の若者以上にがんばってこの作品をしあげたいと思っています。果たしてうまくいくかどうか非常に心配です。とにかく頑張ってやりたい。
若いうちは一時間で覚えたセリフが十倍、二十倍かかりますからね、しかしこいつらに負けたらたまらないっていう気持ちなんですね、なにしろだんだん歳をくって足腰がきかなくなったり、セリフが出てこなくなったり、記憶力が減じてきたり、どんどん役者としての才能にひびがはいってくる。だからこそ若い者を指導しながらも、この若者たちに負けてたまるかという気持ちがどこかにある、それがここまで現役でやらせてもらっている原因になっている気がします。
しかし、人間は生まれて生きて死んでいくわけですから、いずれ私もこの世から消えていくと思います、それまでは頑張りたいと思います。
こうして「いのち棒にふろう」が挙行された。しかしそれから一年後の2023年三月に、仲代さんは来年の十月に、ブレヒトの「肝っ玉おっ母と子供たち」を能登演劇堂で演じることにしたと宣言するのだ。
──役者となって戦争に対する批判的な作品を上演するのは私の役者としての、演劇製作者としての義務でした。もう一度、役者としていきたいなと思いまして、若い時の十倍くらい稽古を重ねないと、現役の役者はつとまりません。この劇の上演にむかって、訓練訓練の毎日になると思っています。
客席数651席の規模をもつ能登演劇堂は、1995年に誕生するのだが、仲代さんはこの演劇堂を次のように記している。
私と能登との交流は20年以上にもなり、今や無名塾にとっても第二の故郷になっています。
家族旅行がご縁で、それから毎年、無名塾が能登半島の中央にある中島町で夏合宿をするようになりました。
それがきっかけに町の人たちは演劇に興味を持つようになって、専用の劇場を作りたいと相談されました。私は劇場経営の難しさを知っているだけに当初は反対しましたが、町の人たちの熱意は変わらず、感動した私は監修を引き受けることにしました。
最近は多目的ホールが多い中で、能登演劇堂は本格的な演劇のための劇場、観客にも役者にも最適な環境を目指しました。町の人たちと酒を酌み交わしながら、オンリーワンの理想の劇場にしたいと語り明かしたこともあります。
柿落とし公演は無名塾の『ソルネス』で、観客から圧倒的な拍手とカーテンコールで迎えられました。そして大胆にも、それから2年後、「隆巴追悼公演」と銘打って一ヵ月のロングラン公演に踏み切りました。
実はその当時、妻だけでなく、敬愛する小林正樹監督、私を支え続けてくれたプロデューサーの佐藤正之さん、そして母と相次いで大切な人を亡くしました。私にはその人たちの鎮魂の強い思いがあったのです。
果たして人口8000人の小さな町に一ヵ月間で2万人の観客を集めることができるのか……。誰もが無謀だと言い、私にとっても人生最大の賭けでした。
『いのちぼうにふろう物語』全30ステージ。大都市でも難しい長期公演は、予想に反して大成功、全国から訪れた観客は2万人を突破しました。町の人たちの熱意が成功に導いてくれたのです。今、中島町は七尾市になり、さらに元気になっています。
こうした草の根的な地方からの熱い声援を受けるたびに、もっと新劇のよさを知ってもらいたい、感動を与えられる役者でありたいと初心に返ったように心を新たにします。
新劇の役者として誇りを取り戻せる瞬間です。
2009年秋、無名塾は念願の『マクベス』を引っ提げて、叫び能登演劇堂での二ヵ月のロングランに臨みます。不況が長引き人心が不安定な状況に敢えて反発して、文字通り命をかけた挑戦です。
新たな冒険に、私は今から興奮と不安で胸を鳥鳴らせています。
能登演劇堂のいちばんの自慢は舞台正面奥の観音扉を開くと、そこ には自然の緑の森が広がること。自然の風景が舞台と一体になる世界でも珍しい仕掛けです。
落成式で、宮崎恭子は、自然の借景を利用した動く森にいななく本物の馬に乗ったマクベスをイメージして目を輝かせました。実は、柿落とし公演は『マクベス』が有力だったのですが、その時は予算の関係もあり断念せざるをえなかったのです。
スコットランドの荒野に模した舞台を本物の馬が駆け抜け、自然の森が動く愛と野望の壮大な悲劇「マクベス」。
76 歳のマクベスは14 年ごしの夢に挑みます。
その能登演劇堂で、2024年の十月に、九十一歳になる仲代さんが肝っ玉母さんになってブレヒトの劇が演じられるのだ。そのメッセージにふれたとき、私は仲代さんに熱烈なる挑戦のラブレターをしたためようと思ったのだ。われらの時代に長寿革命が起こって、いまや人は百歳まで生きれるようになった。この長寿革命は、これまでのルールやシステムや思想を根源的に打ち壊す革命でもあった。私はいまこの革命の中で起きる思想、あるいは起きなければならぬ思想を「八十歳から生起させるルネサンス」というタイトルにした一冊を世に送り出そうとしていた。
そんな仕事に立ち向かっている私に、仲代さんが放ったメッセージは、いまや人は八十歳どころか九十歳になってもルネサンスを誕生させることができるのだと覚醒されるのだった。
そんなわけで私が仲代さんに送付するのは、九十一歳になった仲代さんが、能登演劇堂で挙行されるブレヒトの「肝っ玉おっ母と子供たち」は、人生百年時代になった時代に新しい地平を開く、先駆的なお仕事ですといった文面の手紙になるはずだった。しかしそれだけの文面ならただのファンレターである。私が仲代さんに送付しようとしたのは、熱烈な挑戦のラブレターだった。
2011年の三月、東北地方を襲った大災害は、私の中に深く突き刺さっていて、その悲劇を主題にした戯曲を書き上げていた。老画家が渾身の力を振り絞って大震災に遭遇した十人の人々を百号の大画面に描いた。その一点一点を一人語りで演じていく戯曲である。あの大震災が起こってすでに十二年の歳月が流れるが、いまなお深い爪痕をのこしたままである。あの大災害を決して風化などさせてはならないのだ。この一時間半にも及ぶ一人語りの戯曲を、迫真の演技で演じられるのは、名優仲代達矢以外にないのだと。
そんなラブレターを送付しようとしていた矢先、年が明けた一月一日、突如として大地震が能登半島を襲うのだ。その被害は甚大だった。家屋が倒壊し、火災が町をなめつくし、道路が分断され、あらゆるライフラインが切断された。能登演劇堂はどうなったのか。能登演劇堂に次のような公布が張り出された。
【令和6年能登半島地震の影響による休館のお知らせ】
1月1日に発生いたしました「令和6年能登半島地震」に伴い、多くのご心配をいただき誠にありがとうございます。
この度の地震の影響により、能登演劇堂は当分の間休館とさせていただきます。
今後の公演につきましては、復旧状況を見ながら、改めてホームページにてご案内させていただきます。
皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご容赦賜りますようよろしくお願い申し上げます。
皆様の温かいご支援が力になります。
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次いで仲代さんは次のようなメッセージを発している。
「第二の故郷」と交流させてもらう様になって40年、これまでにも沢山の事がありました。今、寒さに耐えて今日一日が精一杯で過ごしている皆様に、何か出来る事はないか……私も無名塾も一丸となって、大切な能登の為に出来るだけの事をしていくつもりでおります。この状況下に並べる言葉が思い付きませんが、とにかく生きて欲しい。お互い元気で、皆様と再会したいなぁと祈るばかりです」
この短い痛切なことづけのなかに仲代さんの深い悲しみと悔しさをみるのだ。黒澤明監督との出会いによって世界の大スターになり、二百本をこえる映画やテレビドラマに出演し、何十本もの演劇のステージに立ち、無名塾を起こし、能登演劇堂を立ちあげ、この国最大の賞である文化化勲章を受章している。その輝かしい人生の最後の段階に入って能登半島を襲いかかった大地震。この大地震の襲撃は復旧とか復興といたレベルではなかった。能登半島そのものが再起できないばかりの損傷をあたえているのだ。この悲劇に立つ能登演劇堂と無名塾は何ができるのか。四十代、五十代の身だったら、この悲劇に立ち向っただろう。しかし九十歳こえた老体になにができるのか。おれの人生は大地震で打ち倒された敗北のなかで生命を閉じていくのか。
この能登半島の先端に狼煙(のろし)という名をもった地帯がある。私はこの狼煙の森に棲息するトンビたちのストーリーに取り組んでいることもあって、この半島に幾たびも旅をしていた。能登半島は美しい景色を放つ観光だけの地ではないのだ。縄文時代の土器や遺跡や墓が発掘されたように六千年にもわたる日本創生のドラマを秘めている。珠洲神社は十代崇神天皇の時代に創建されたとある。三世紀か四世紀の時代にである。五世紀に日本に仏教が伝来すると、この半島一体に寺院が建立された。この半島には実に二千もの神社と寺院が立っている。
718年には、人々はこの半島に能登国という一国を起立させた。半島の港では今でいう商社のような企業活動が行われていた。そして能登は祭りの半島である。およそ百地域の町や村で、キリコ祭りがほぼ二か月にわたって展開される。各地で挙行されるその祭りは二つとして同じものではない。その地域の人々が独自の工夫と思想と信仰のもとで作り出されてきた祭りである。
これほどの伝説と歴史と信仰と政治と祭りをはらんでいるこの半島を、日本の中世の歴史に新しい視点で掘り起こしていった歴史学者の網野善彦さんはほとんど軽視していた。そのことを吐露した文章を網野さんは記している。
単なる「豪農」でなかった時国家 網野善彦
はじめて能登に行ったころ、私は能登を辺鄙で交通不便な地域と考えていた。実際、東京から能登に入るまでにはほぼ一日を必要とするという経験からだけでなく、時国家(ときくにけ)がその祖先と伝えている平時忠の配流によっても知られるように、能登は古代から中世にかけて、罪人の流される「辺境」の地だったという周知の事実が、こうした思い込みの背景にあった。
また時国家についても、多数の下人、農奴または奴隷を駆使して中世的な名田経営を営む、名の名前を名字とした農奴主的な豪農という、通説的な見解以上の認識はまったく持っていなかったのである。
そして最初の本格的な調査のさい、輪島から曾々木、時国家に向かうバスの車中から千枚田(輪島市の郊外にいまもその景観が保存されている棚田)を見て、その見事さに強い感銘を受けるとともに、奥能登は田地の少ない地という印象を持ち、やはり当時の常識通り、田畑の少ないのは貧しい地域と考えたことは、正直に告白しておかなくてはならない。
今にして思えば、まことに失礼で誤った見方をしていたことになるが、当初、私はこうした思いこみを持って、奥能登と時国家の調査を始めたのである。一緒に調査に入ったメンバーもおそらくそれほど違いはなかったと思う。
しかし時国家から新たに大量の文書が見出され、調査・整理がかなり長びくことが確実になったころから、調査を誤りなく進めるためという趣旨で、月島分室で刊行した日本常民文化研究所編「奥能登時国家文書」の読書・研究会が始められ、文書を一点一点読み進めるとともに、この思いこみは文字通り音をたてて崩れ去っていったのである。
ここに記されている輪島市の北方に立つ時国家の広壮な建物が、今回の大地震で完璧に崩壊してしまった。しかし私の仲代さんに送付する挑戦のラブレターは崩壊などしなかった。むしろ新しい挑戦がふつふつと湧きたってくるのだ。仲代さんはともに無名塾を創生した宮崎恭子さんをもう二十年前に失っている。宮崎さんはあの世に去る前に、仲代さんに次のようなレターを書き残している。
仲代達矢さま
本当に有り難う。楽しかった。充実した人生でした。モヤのおかげです。今死ねるのは、すごくいいエンディングです。
ただ、先に失礼するのが一番申し訳ないことです。
あなたが不便しますヨネ。本当にごめんなさい。これだけが胸が痛みます。
これからの願いは、あなたが幸福に人生を全うしてほしいことだけです。
日常を自立して、静かに律してゆく事は、あなたは出来る人と思いますが、あなたの輝かしき俳優人生を全うしてほしいので、そのためにはやはり「家族」(再婚を含め)と「塾」は車の両輪と思います。
あなたの老後、死後にあなたを「愛し」「讃えて」くれる人達、同業者も必要です。
再婚は相手によっては、ヒドいこともありうるので、よけいあなたの足をひっぱるというケースになっては怖ろしいの……、相手をよく見て下さいネ。
年をとっても最後まで仕事上のあなたを「したって」「もり立てて」くれる人が必要です。それだけの力をあなたが持っているのは、みんなわかってついて来てくれますが、一つ私が心配なのはあなたの強さ、厳格さ、圧力の強さは、みんなの能力では、耐え切れないだろうという事です。
あなたは強い人です。これを言えるのは私しかいないから言います。
強いからこそ一流なのですが、孤独になります。
年をとったら、優しくなるのがいいのです。まわりのみんなはまだ、それほど能力を持ってる訳ではないのだから、要求がきつく、急では来たい人でもついて来れません。
こちらが力の盛りならば、引きずってでもゆきますが、年を取ったら方法を変えなければなりません。
私がいないからどなって怒るのは九〇%やめた方がいいと思います。どなられると縮み上がって、今の人は戻るのが大変です。
どうしても、ここは「どなるべきだ」と冷静に判断した時、次の日ぐらいにどなって下さい。フォローのことも計画した上で。見渡せば、塾、スタッフ、家庭と揃っています。
万全ではないにしても、あなたのこれからをフォローする体制は大体ついています。
私がいなくなって、不便ではありましょうが、そこで短気を起こさず、ニッマリと冷静に、この体制を「うまくコントロール」して下さい。
あなたはそういう落ち着きのある人なのです。私がそばにいると、「まあまあそこを何とか……」という係で、長い間あなたに「どなる」パートをやってもらいましたね。でも、これからは、あなたが両方やって下さい。
「どなる」係を、適宜にふり当てて「いい人」の役をやって下さい。みんなに囲まれて、あなたの長い業績の上に、明るく楽しく、仲代達矢を全うしてほしいのです。
次元を超えて「思いの濃い魂のための世界」があるかもしれません。長いこと有り難う。
又、逢いましょう。奈緒と総子をよろしくお願いします。
宮崎さんは、その手紙のなかで、不思議な一行を記している。「次元を超えて『思いの濃い魂のための世界』があるかもしれません」。私はこの謎の一行に誘われて、宮崎さんが世に投じた唯一の本、「大切な人」を手にするのだ。その本の中に次のような一節がある。
ここを死に場所に
──無名塾本来の目的は、「プロ俳優の生涯修業の場」であり、新人の育成とともに、プロの門人たちの研究の場として、その二つの機能を車の両輪としたかったのだが、二十年たって、やっとそれが実現できるようになった。毎月第三土曜日を門人研究会の日とし、五年以上の門人たちの中から、希望者がエチュードを演じ、塾生たちより高度なプロのレッスン研究会を開く。忙しい門人たちも、曜日が決まっているから、その日にくれば、見取り稽古ができるし、みんなとも会える。その後は塾生たちの腕になる「やっこパーティ」(夏は冷ややっこ、冬は湯豆腐をメインとする、サラダ、おにぎり、味噌汁などの、ヘルシーな安いメニューのパーティ‥‥もちろん酒類も出すが……、閉店だけは九時半と早い……)である。研究会でもパーティでも、目的は、お互いに刺激しあうことで、こうした刺激が、芸道という不安で流されやすい職業を、生涯やりとおすための手がかりや活力になると、私たちは思うのである。
若い新人にかかわるのも楽しいことだが、五年十年と成長してきた門人たちに会い、彼らとじっくり研究できる喜びは、芝居の稽古とは、また一味違った興味と満足感に満ちた時間である。
いい料理人の台所は、質素でも、日々使い込み、工夫された優れた機能を持っていて、使い手の人間性や哲学や心意気がにじみでているものだが、稽古場もまったく同じだと思う。「劇堂」と名付けたのは、そうしたことを念じる祈りをこめたもので、仲代劇堂の価値は、そこで何が、どれくらい深くイメージされ、何が生まれ育つかで決まる。すべて、これからの問題である。
無名塾は二十年間、プロの芸道のことばかり考えつづけてきた。これからもそれが本道だが、これを機に、プロでない方たちにも、無名塾の扉を開放することにした。「だれでもが、最もその人らしく表現をする芸事」としての朗読の会、それも一人一人でなく、人と出逢い、互いに自分を表現し、もう一歩、人間理解を深めようと、「逢読会(あいよみかい)」という「人の輪の芸事」を始めた。
人の輪といえば、いろいろなジャンルの作り手の方々とも、自由な集いを持ちたいし、ささやかでも、深みと広がりのある企みが、ここを場として増殖し、劇堂を生かしてほしいと、私は念じている。
そして、もう一つ……実は私たちは、ここで葬式をしたい……と思いながら、劇堂を建てた。劇堂開きの日にそう言ったら、「縁起でもないことを」と叱られたが、仲代や私の世代にとっては、「骨を埋める」「死に場所を得る」という言葉は、生きがいや、自分のアイデンティティーに深くかかわった思想なのである。ここを死に場所にしようという思いは、清々と潔く、大きな安心感と、くっきりと鮮明な目的意識と活力を与えてくれる。
そういえば二十年前、無名塾を始めた動機を問われたとき、私は「死の準備です」と答えている。四十歳になったばかりで、まだ若かったのに……と今は思うが、あのときも、今と同じ気持ちだった……その実感は、脈々とつながっている。思えば、十二、三歳の頃、「二十歳くらいで死ぬだろう」と考えはじめた、ものごころついたときからの戦争世代である。いつも自分の死を、どこか身近に感じながら、そこから活力と気力を得て生きてきた……案外丈夫な世代なのである。
劇堂開きの日に、弟子が「お棺はかつぎますから」とスピーチで言ってくれた。大いなる安心、大いなる喜びである。
しかし、いずれにせよ、稽古場増築などということは、私的出来事である。お知らせとして、劇堂開きのご案内は出したが、あれほど多方面の、大勢の方々がきてくださるとは思わなかった。嬉しい驚きである。「仲代劇堂を作るまで」という原稿の注文なども、想像だにしなかった……私的な出来事の、どこが、多くの方の興味を引いたのか……今もってわからない。ただわかるのは、私たちの営々たる私的な毎日の繰り返しが、どこかで社会につながっているのだという実感である。ありがたいことだと思っている。これに勇気を得て、「仲代劇堂」の中で幻を追いたいと思う‥‥
「大切な人」を繰り返し読み進めていくとき、次元を超え発せられる宮崎さんの魂の声が聞こえるのだ。それは驚くべき声だった。
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