戦史 久保正彰 7
ペロポネーソス戦争を雄大な規模で描いたトゥーキュディデースの「戦史」。その大作に生涯をかけて立ち向かい、磨きあげた日本語で翻訳した久保正彰さんの「トゥーキュディデース論」の最終回。
ではトゥーキュディデースは、演壇からのべられた政見演説の形をもちいて、どのような真実性を追究しようとしたのか。この問いにたいして、かれは二つの答を用意している。第一には、かれ自身がことわっているように、実際に表明された主旨には出来うるかぎり忠実であろうとしたこと、これを敷衍することはあっても、あるいは要約することはあっても、これを曲げてはいないこと。すくなくとも議事録抄くらいの真実性はあるらしい。じじつ、「戦史」のなかでも演説に先だってその主旨を簡単な数語で記述し、演説本体に移っていく例も幾つかあげられる。
あるいはまた。演説本文の中で、明白な主点に議諭を集約していく形式をとっているものもある。たとえば、ケルキューフがアテーナイに救援要請の使節を送り、大海軍を擁するケルキューラの危急を救いアテーナイの傘下に加えるのはアテーナイにとって得策である、という主旨を民議会の席上で述べたことが事実であった、とする。たとえ卜ゥーキュデーアースが当時その席に列していたとしても、三十年後にかれはこの演説内容をそのまま正確に再現することはできなかったにちがいない。ケルキューラの悲劇的な重要性も、その内乱後、そしてさらにシケリア遠征後にならなくては、その全貌を明らかにしたとも考えられない。とすれば、トゥーキュディデースはまずその主旨の事実をもっとも強調する形で、つまりそれが結論として浮かび上ってくる形でケルキューブ使節の演説を再現する。
当時のケルキューフの立場にあって、この主旨を説いてアテーナイ人の賛同を得たとすれば、どのような国際的視野ないしは偏見のもとに議論を展開しなければならなかったか、ということを念頭において史家は、条件と結果をむすぶ正確な論理を再現していく。演説は与えられた条件が、動的な力にかわっていく論理をつまびらかにしようとするのである。しかしかれは、この一面的な論理では真相は解きあかされたとは考えない。動あれば反動あるように、議論の場で与えられた条件のもとにある結論が生れたとすれば、かならずその反諭もあったはずであり、その間をえらぶ決議者の判断をもともなったはずである。こう考えることは弁論家の言説を仰ぐまでもなく、政治家としては常識であり、歴史家としてはこれを明らかにする義務がある。かれは一つの議題が論じられるとき、必らず一組の賛否両論を記すことを忘れない。ケルキューラの場合にはこれと利害関係を逆にするコリントスの使節に、反論を述べさせる。
これら両諭の対置によって明らかにされるのは、歴史的事件は一つであっても、当初の当事者以外の第二者がこれに介人をせまられたときには、判断の拠り所として与えられた条件はけっして一様ではなく、じつは矛盾する幾多の条件が入りまじっている、結局は国際的な力の関係を見とおして条件の取捨をおこない方針を定めるほかはないのだ、ということが錯綜する議諭の間からあきらかになる。「戦史」をつうじて大きな転機をまねく会議や、会談の席上では、同じようにして賛否の論が一組ずつ述べられる。三巻のミュティレーネー人処罰をめぐるクレオーンとディーオドトス、またプラタイア人とテーバイ人の応酬、五巻のメーロス島討論、六巻のニーキアースとアルキピアデースのシケリア島遠征の賛否討論、などはもっとも有名な例としてあげられる。
ここにたんなる議事録抄としての真実性よりも、さらに深く重大な第二の真実性が認められなくてはならない。これはひとえにトゥーキュディデースの「戦史」にかぎらず、ひろくギリシア人の生活に古くから浸透している考えから発するものである。すなわち、真実とは行動的事実だけをもって成立っているのではなく、「言葉」にあらわれた知性の営みと、行動的事実との両面から捕捉される、という考えである。このような対置的な思念は、ありとあらゆる対立概念とむすびついて、ギリシア人の創造活動に決定的な刻印をのこしている。しかしこれはトゥーキュディデースの「戦史」において、他の誰の作品よりも最終的にみごとな結品をむすんでいる。
「言葉」と「出来ごと」、演説と決議、理論と実際、予断と結果、等々の一面的な対置から、歴史の真実を見きわめようとする態度は、われわれの史家の血肉となって、措辞、文章、論旨のすみずみにいたるまで浸透し、独自の形をとどめている。ことに政見演説においては、対置文体がその論理的な許容量の極限にまで圧縮され、文は文と、節は節と、語は語との対応によって、比較され、抽象化されていく。このような文が大濤のように次々と積まれると、文意が息苦しいほどに濃縮され、屈折し、対応が対応をよび、激しい知的なエネルギーの奔流が厳密な対位法的なリズムを刻みあげていく。この壮大な文体は、散文史の発達からいえば、四二〇年頃を頂点としたことが判っているが、トゥーキュディデースの「戦史」において、はじめてその使命を果しえたといっても過言ではない。なぜならば、先にも述べたように、政治的予断と事実的結果の相剋から生れた「戦史」自体、その構想の基盤にきびしい対置関係をはらんでいたからである。
この対置的思考法をつらぬけば、歴史に真実を求めるとすれば、実際におこなわれた事件の顛末をいくら克明に記述しても、答はえられない。そのように厳密に確められた一つの出来ごとなり決議なりが、どのような情況下に、どのような論理と見とおしによって実際に行動化されたのであるか、その決議や行為をおこなわしめた動因は何であったのか。それらの点が「言葉」によって明らかにされねばならない。また、順序が入れかわって、一つの事績にたいする評価も、演説という時と場所を仮定しておこなわれるとき、相対的な正しさをもつ。
ペリグレースの葬礼演説はその古典的一例とよばれてよい。政策遂行のために生命をささげた市民らと、政策を立てる政治家とはどこで真に互いに触れあう場を見いだすことができるのか。史家はペリグレースの口をつうじて、両者はともに人間社会の理想を知において悟るとき、行為の真価をつかむことができるのだ、と言っている。トゥーキュディデースの演説は、たんなる修辞学の演習作文ではない。人間が人間であるかぎり、何時かどこかで似たような道をくりかえすであろう条件と選択と決断の個別的な実例を、厳密な史眼と厳密な論理性によって定着させるために、演説を書き記したのである。
「戦史」が歴史学上になした一つの基本的な貢献は、歴史事件を誘う遠因と近因、史家の言葉をもってすれば、もっとも真なる原因と、世に伝えひろめられた原因という両因を明らかにしたことである。しかもこの画期的な発見も、演説という媒体をつうじて充分な説明を与えられている。かれは、ペロポネーソス戦争の直接の原因として両陣営から公表された事項には、ケルキューラ、ボディダイアの両地における紛争が主たるものであったが、真の原因は、アテーナイの勢力仲張を恐れたペロポネーソス側が、戦争手段による阻止に踏みきらざるをえなくなったことにあると述べている。つまり大戦争は、局地の小競合から口火がついて起るかのように見えるが、真実をさぐればそれよりも何十年も古きに遡る原因が次第に嵩じて、ついに小さい契機から大事件に発艇することを言うのである。アテーナイの勢力がペルシア戦争いらい五十年のあいだ、世を瞠目させるばかりの急テンポで仲張したことは、その間の事績や成果を調べればわかるし、これを列記すれば読者の了解を得ることもできる。
しかしながら、ペロポネーソス諸邦がこれに対して恐怖と警戒心を大にし、ついには開戦を決したという、もっとも真を衝き、しこうしてきわめて心理的な要因を、どうすればもっとも正確に歴史の時と所の枠のなかで記述できるであろうか。トゥーキュディデースの解答は、ただこれのみをもっても史家の名を高からしめる秀逸なものであった。かれは、開戦に先立つこと約一年、四三二年七月スパルタでひらかれたペロポネーソス同盟の非公式会議とスパルタ人の集会においてなされた演説によって、問題を解きあかし ているのである。最初に引用されているのは、スパルタ人を開戦にふみきらせようと躍起のコリントス人代表が、スパルタ人の逡巡を逆手にとって激しく煽動する演説であるが、これをもしトゥーキュディデースの論理的、解析的な復原作だと見るならば、史家の徹底した対置的な考えをこれほど如実に表しているものは他にない。
己れを通じて敵を見、敵側の眼にうつるアテーナイヘの嫉視、疑惑、恐怖をありありとこの演説に写しだしているからである。またここにのべられているアテーナイ人とスパルタ人の性格比較論ほど、アテーナイにたいする悪意にみちた羨望を雄弁にものがたっているものはない。しかしまた論理を逆にして考えてみることもできる。もし真実コリントス代表がこれに近い主旨を会議の席上で述べ、それが決定的な圧力をスパルタ人に加えたとすれば、われわれの「戦史」の記述にたいする考え方もすくなからず変ってくる。コリントス代表をしてかくも激烈な論鋒をスパルタ人にたいして突きたたしめた原因は、ケルキューフとボディダイアにおける屈辱であったからである。
こうみるとき大戦の主たる近因をメガラ禁令にもアイギーナ併呑にもさして認めようとせず、ギリシア本土から遠くはなれたケルキューラとボディダイアにおける植民地争奪戦に決定的な重要性を認めている史家の態度がはじめて理解できるのである。もしこの第二の見方が真実に近ければ、ここでは史家は、演説によって事実を説明するという自明の理をおこなっているのではなく、実際おこなわれた演説とその呼び起した波紋から、それ以前の諸事実に再評価を下し、真の原因と直接因とを分離したのだ、とも考えられるのである。いずれにせよ、この演説の歴史記述の役割は、たんなる事実のみの記述では容易に摘出しがたい、歴史の内側にひめられた力に、言葉と時と場所をあたえ、これを明析な論理の上に位置づけ説明することにあったことは疑われない。
人間はポリスをいとなむ生物である、という定義とおなじような妥当性をもって、人間は歴史をつづる生物であるといえよう。そしてポリスにも理想と現実、力と力の相剋があるように、人間が歴史をつづるかぎり、「言葉」と「出来ごと」の関係はいつまでも歴史記述のわかちがたい表裏として、するどい真実の像をとらえるために争い、助けあっていく。「言葉」と「出来ごと」の意味と機能をはじめて鮮明な意識でとらえ、その意味と機能を極限にまでおしひろげ、真実探究の道をひらいたトゥーキュディデースの功績は、今日いっそう高く評価される。「戦史」の成立と構想をめぐる課題は、ただ歴史学研究の一つの根本的命題たるにとどまらず、歴史をつづる生物として一人一人の読者が、各々の視野のもとに問い、かっ答えを見出すべき問題ではないだろうか。このような意味でも、「戦史」は奇しくも世々の遺産たるべく綴られたということができる。
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