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戦史  5  久保正彰



 かれは一巻二二章における有名な序文において、こう述べている、「私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んで而白いと思う人はすくないかも知れない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところ、ふたたびかつてのような、これと相似た過程をたどるのではないかと思う人々が、ふりかえって過去の真相を見つめようとするとき、私の歴史に価値をみとめてくれればそれで允分である」と。これと似た考えは、さらに具体的な、科学的な形で二巻四八章において、疫病記述に関連して述べられている。ここでかれは、自分が病因については触れず、病状経過についてのみ記する理由は、「またいつ何どき病魔がおそっても、症状の経過さえよく知っていれば、誤断をふせぐよすがにもなろうかと思い」観察によって主たる症状を記した、といっている。この巧えにもとづいて、かれは医学的なメモを作成した。

 この記述には、疫病発生後幾年か後に否が加えられた痕があるが、メモそのものは病気が発生し蔓延していたときに作られたものであることは疑われない。当時おそらく三十歳前後であった史家は、当時の正確な医学用語を殆んど誤りなく駆使して、症状を記述している。つまりメモそのものが、たんなる雑駁な記録ではなく、ある一つの方法的な考慮のもとに記されていた、と考えてよい。さらに注目に値することは、かれは「主たる」症状だけを述べているのであって、「多岐にわたる個別的症状は省略する」と後で附記している点であろう。予断に資するためとはいえ、かれは同じ兆候、同じ現象が正確に同じ円をえがいて繰返されるなどと、信じていたわけではない。戦争という社会的な一種の病気の場合にも、原理的には相通ずる兆候があるとしても、同じペロポネーソス戦役が幾世久しく繰返されるなどと。トゥーキュディデースが考えたわけはない。

 ともあれ、同じような方法的、ないしは目的的な考慮のもとに、「戦史」のメモも作成されていったと考えることは自然ではないだろうか。つまり、かの有名な「戦史」序文の思想は──文字にされたのは後年のことであるにせよ──、著述のメモをとりはじめるまえから、非凡な若者の心底に芽生えており、その視野展望にもとづいて、多岐多端にわたる戦争と政治の渦のなかから主たる兆候を記していったのではないだろうか。すくなくとも、トゥーキュディデースの前にも後にも歴史記述にその例のない、春夏秋冬の時間的経過の枠の定め方は、ヒッポクラテースの「病状診断記」の模倣でないとすれば、史家の最初からの卓越した歴史の構想から生れいでたものに違いない。そして社会、政治、戦争の各分野を錯走する事件の糸は、さまざまの状況下におかれた人問の行為の兆候として、点々とかれの手記に記入されていったのであろう。

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 トゥーキュディデースは、この度のアテーナイ人とペロポネーソス人との戦争は、史上最大の規模に達するであろう、との予測を開戦当初にたてた。その理由として、一つはおびただしい戦備の量、一つは参戦国の数をあげている。しかしながら、ギリシアにおける戦闘方法はそれまでの四百年間実質的に変化しておらず、また参戦国の数にしてもペルシア戦争のときと大差あろうはずはなかった。だが史家が「戦備」というとき、これには多大に経済的な要素、ことに蓄積された戦争資金の意味がふくまれており、予測を立てるについてかれはとくにこの面を判断の拠り所としている。つまり戦争の規模の大小をはかる基準はさまざまであろうが、要するにすべては一つの基尺、すなわち戦備にあてうる軍資金の額の大小に還元される、と見たのであろう。これは当時の政治家の常識であったと考えてよい。

 アテーナイではこれより三、四十年も昔に、キモーンは己れの金で、ペリグレースは国家の金で、庶民のふところを豊かにし政治家としての徳望を得たことが知られているし、またペロポネーソス戦争開戦の前夜、ペリグレースはアテーナイが動員できる莫大な戦争資金を指して人心の鼓舞をはかっており、またスパルタ王アルキダーモスもアテーナイの基金を理由にあげて和平論を唱えている。その額のおおよそは識者には判っていたから、史家も戦争の及びうる規模について、先のような予測を立てることができた。

 一般に「考古学」とよばれている一巻二の十九章にわたる古代ギリシア史の説明は、この「軍資金即ち戦争の規模」という理論を裏づけるための、古代伝承の再解釈の試みと見ることができる。現代の考古学は、かれの解釈の驚くべき正確さを出土資料によって示すことができるが、われわれとして一そう驚異を感じるのは、史家が一個の経験的事実。あえていえば、一片の常識をもとにして、曖昧な伝承や文学作品を取捨選択し、これに再解釈をほどこし、過去のありうべかりし姿をみごとに復原してみせる能力であろう。かれは、富の蓄積のないところには政治力の結集もなく、支配者と被支配者との関係も稀薄である、また内乱もなく大きい戦争もおこりえなかった、と鋭い推理力によって過去の神話や伝承のなかから、人間のいとなむ物質文明の歩みを着実につかむ。

 トゥーキュディデースは、この記述において人間の歴史を動かしていく経済的な原動力を、あますところなく摘出してわれわれの眼に見えるようにする。このような、合理的な文明論の先鞭は哲人プロタゴラスによってつけられたものとされているが、古くはアイスキュロスの悲劇「しばられたプロメーテウス」にもあり、五世紀末のエウリーピデースの悲劇「アンティオペー」やクリティアースの「シシュポス」などにもそれぞれ違った主張と形式で展開されているところから、五世紀後半のアテーナイ人のあいだでは、一種の流行であったかの如き感もある。しかしトゥーキュディデースの「考古学には、富の蓄積と政治権力の形成という純粋に政治的大綱だけによる過去の再検討であり、その一貫した論理のきびしさは、他の詩人や哲学者の追従をゆるさない。

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 史家は、富が蓄積されていく過程を、大きく二つの段階にわけている。一つはもちろん人間が定住し、農耕をいとなむこと。第二は海洋の利川による商業利益の蓄積。「考古学」がギリシアにおける海洋制覇の歴史に重点をおいているのも。一つはこのためである。史家はまずこれを二つの歴史的段階として述べているが、過去のギリシアで大をなしたものは、つねに第二の蓄積方法をつかんだものであることを言っている。しかしこの「考古学」の論理、ないしは常識は、過去の解釈のみにとどまるものではなく、一巻の章がすすむにしたがって、これら二つの富の集積法の違い、ひいては政治的権力の形成過程の違いは、大戦前夜におけるスパルタを中心とするペロポネーソス諸邦と、アテーナイとのおのおのの軍資金の性質の違いであることがわかる。

 すなわち、今次の大戦は武器と武器との撃ちあいではなく、本質的には二つの相ことなる経済的基盤の争いであり、ひいては二つの相反する生活態度の優劣をきそう争いであることが明らかにされていく。トゥーキュディデースの記述を信ずるならば、このような違いは戦争が始まる数年前から両陣営の指導者たちによって明確に意識されていた。極言するならば、「考古学」の基本的な論理、とりわけ海を制する者はギリシアを制するという信条は、戦中戦後の経験を過去の伝承に投影したものではなく、開戦前夜のアテーナイにおける開戦支持派の主張を歴史的にうらづけるものでありえたろう。しかし逆に、もし戦争の経験を過去に投影したものとすれば、トゥーキュディデースの怒りを殺した問題提起であったかもしれない。海を制したアテーナイがギリシアを制しえなかったのは何故か、と。

 このように考えれば、史家にとってあるいは当時の政治家にとって、軍  資金の蓄積額は戦争の規模を予測する目安となりえた。しかしその額の大小、ないしはその蓄積方法の新旧、優劣が、ただちに勝敗の帰趨を推しはかる目安となりうるだろうか。ペリグレースとアルキダーモスは然りと答え、おそらくトゥーキュディデースもそう考えたことであろう。そしてもし戦がその予断どおりに終っていたならば、トゥーキュディデースの「戦史」はついに生れなかったかも知れない。生れたとしても、いまわれわれを打つ鋭い批判と悲劇的な緊迫感をそがれていたにちがいない。しかし戦争の結果は予断をうらぎった。戦はたしかに投入された資金のつづくかぎり延々と長びき、戦線は野放図に拡大された。

 しかし勝敗の予測に閠する限り、制するべきアテーナイは制せられたのである。この期に及んではじめてトゥーキュディデースは「戦史」を書かねばならぬ立場に己れを追いこんだのではないだろうか。かれの「戦史」の最終的な構想は、一分の隙もゆるぎもない明析な政治的な予断と、疑うべからざる結果的事実との矛盾相剋にせめぬかれて生れたといっても過言ではない。理念と現実、言葉と行為、予測と結果、ギリシア人の思念の両極を支えていた巨大な対置的な世界が、一国の運命をかけた現実となってトゥーキュディデースに解答をせまったのである。なればこそ、冷厳無比なる記録者から、内なるパトスを圧殺した歴史家トゥーキュディデースが生れえたのである。

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