上杉鷹山 (下) 内村鑑三
代表的日本人 上杉鷹山 内村鑑三著 内村美代子訳
5 社会と道徳との改革
東洋的考えの一つの美しい特徴は、経済を道徳と切り雎して取り扱わなかった点である。東洋の哲学者にとって富は必ず徳の結果であり、富と徳との相互の関係は実と木との関係にひとしかった。木に肥料を施せば、努力せずに実を得ることができるように、人々に愛を施せば必ず富をなすことができる。それゆえ偉人は木を思って実を得るが、小人はまず実のことを思うゆえに実を得ることができないという孔子の教えは、恩師細井によって鷹山の心に刻み込まれていたのである。
鷹山の産業改革の偉大さは、彼が臣下の者たちを徳行の人とすることを第一の目的とした点にある。快楽主義的な幸福観は彼の思想に反するものであった。富はそれによって万人が礼儀正しい人となるために必要であった。なぜなら昔の聖人の言葉にもあるように、人は「衣食足って礼節を知る」からである。鷹山は天から依託されたその臣を導くにあたり、上は大名から下は百姓までをひとしく律する「人の道」に依ろうとしたが、これは当時の慣習から驚くほど飛躍した行為であった。
藩主となってより数年、彼の施した諸種の改革が順調に進行しつつあるとき、彼は長い間閉ざされていた藩校の再建に着手し、それを「興譲館」と名付けた。これは謙譲の徳を奨励するための学校という意味であって、彼が主として奨励しようとした徳が何であるかをよく現わすものである。この学校はその規模といい設備といい当時の米沢藩の財政状態とは全く釣り合わぬほどすぐれたものであった。その校長として当時最大の学者の一人で、また鷹山自身の家庭教師であった細井平洲を迎えた上、領内の貧しい有為な青年に高等教育を受ける機会を与えるため、多額の奨学金(返済の義務なし)を提供したのである。創立以後およそ百年の間、この学校は全国の学校の模範であった。この学校は今もなお昔の名前のままで残っているが、おそらくこの種の学校のうち日本最古のものであろう。
しかし病者を癒す設備を欠いては愛の治世は完全とは言えない。わが賢明な君主はその点も見のがさなかった。彼は医学校を設立して、高名な医学者二人を教授として招く一方、薬草栽培のための植物園を作り、そこで栽培した薬草を材料にして調剤法の授業や実習が行なえるようにした。ヨーロッパの医術がまだ恐れと疑いとの目で見られていたこのころに、鷹山は数名の家来を杉田玄白のもとに派遣して新医学を学ばせた。
玄白は日本最初のオランダ医学者として高名な人であった。ヨーロッパの医学が日本やシナの医学にまさることをひとたび確認すると、鷹山は手に入るかぎりの医料器械を買い込むのに費用を惜しまなかった。そしてそれらを彼の学校に備えつけて授業と実習に自由に使えるようにした。こうしてペリーの艦隊が江戸湾に現われる五十年前に、すでに北日本の山間地方において、西欧医術が一般にひろく行なわれていたのである。鷹山のシナ的教養は、彼をシナ的人間にはしなかったのである。
鷹山の行なった純粋な社会改革については、わずかにその二つを述べるゆとりしかない。その一つ、公娼の廃止はひとえに「愛の治世」という彼の方針に基づくものであった。公娼を廃止して下等な欲情のはけ口を断てば、さらに憎むべきやり方によって社会の純潔がおびやかされるかも知れないという月並みな反対論に対しては、鷹山は次のようにはっきりと答えた。「欲情が公娼によってしずめられるものであるならば、公娼の数は幾らあっても足りません」と。彼は公娼廃止を断行した。社会的に何らの不都合もなくこれが継続された。
鷹山が「五、十組合の制度」に関して農民たちに行った訓示は、国家についての彼の理想をよく語っているものだから、原意をそこなわぬように全文をここに訳してみよう。
《百姓の天職は耕作と養蚕である。この二つに精を出すことによって、父母、妻子を養い、また税を政府に納めて保護を願うのである。しかしそれも互いが助け合わなければできることではないから、ここに何らかの組合が必要となる。今までに組合がなかったわけではないが、真にたよりになるものがあったとは聞かないので、ここに新しく次のような「五、十組合」と「五か村組合」を設立する。
一 五人組(家長のみを数える。以下同じ)は、常に一家族のように親しく交わり、喜びも悲しみも分かち合わねばならない。
二 十人組は親類のようにたびたび行き来して互いの家事の世話をせねばならぬ。
三 一村の者どもは友人のように互いに助け合わねばならぬ。
四 五か村組合を構成する村々は、隣人にふさわしく災難の時には互いに助け合わねばならぬ。
五 村民は互いに仲むつまじく助け合うことを忘れてはならぬ。村々のうちに老年にして子が無いとか、弱年にして両親が無いとか、貧しいがゆえに養子をとることができぬとか、夫を失い、または不具のために生活ができぬとか、不治の病気にかかったとか、死んでも葬式が出せぬとか、火事に会って雨露をしのぐ所もないとか、その他さまざまな災難に会いながらたよるべきところのない者に対しては、五人組が力を貸してわがことのように世話をせねばならぬ。
もし五人組の手に余るときは十人組がこれを引き受け、それでも力が足りぬときは村が力を貸してその災難から立ち直れるようにしてやらねばならぬ。一つの村が大きな災害に襲われ、その存続が危ぶまれるような場合に、その隣村は救いの手をさし伸べないでおられようか? 五か村の組合を形づくる他の四か村はこれに対して心からの援助をしなければならぬ。
六 善を力づけ、悪を諭し、倹約を奨励し、ぜいたくを戒め、各自その天職にいそしむ──それがこの組合設立の目的である。百姓の中に自分の田地をおろそかにしたり、百姓の業を捨てて他の職業に走ったり、舞踊、劇、宴会その他の怠りにふける者がある場合には、まず五人組がきびしく訓戒し、それで改めぬ場合には十人組に引き渡すが、それでもなお手に負えぬ場合にはひそかに村役人に報告して、その処置をこれに一任しなければならぬ》
これらの文書の中に官僚主義の匂いはあまり感じられない。のみならずこのような布告がなされそれが実行に移されたことは、米沢領を除き地球上のいずこにもなかったことであると私は断言する。アメリカその他の地で、農民ギルドと呼ばれているものは、自己の利益を主たる目的とする産業協同組合にすぎない。鷹山の農民組合に似たものを見付けようと思ったら、われわれは遠く「使徒の教会」(新約聖書、特に使徒行伝に記きれている使徒らを中心とする初代教会)にまでさかのぼらねばならないのである。
警察官や、巡回教師や、学校や、たびかさなる訓示に加え、彼自ら模範を示すことによって鷹山は人口十五万人の米沢藩を、徐々ながら確実に理想の藩にしていった。鷹山が行った藩の理想化がどのよう成されたかは、「聖人の政治」を視察するためにわざわざ米沢まで行った倉成竜渚という高名な学者の領内視察報告書を読めばわかる。その数節を引用しでみよう。
《米沢には正札市というものがある。人家を離れた道のかたわらに、ぞうり、わらじ、果物、その他の商品を陳列しそれらに正札を付けて、売り手はその場所を離れる。そこを通りかかった人は正札通りの金を置いて品物を持ち去るという仕組みだ。米沢では正札市で盗みをはたらくような人がいようなどとは誰も考えない。
鷹山公の役所では身分の高い者ほど貧しいのが普通である。重臣中の筆頭である人物の生活ぶりを見るに、その衣食の粗末さ加減は貧書生同様である。
領内には税関またはそれに類した妨害物はなく、商品の流通は自由である。しかも密移入が企てられたためしはない》
ここに記したことは遠い代の、神秘の国の理想談と思われては困る。われわれが書いたことはみな実際にあったことであり、しかもこの地上の明確な地点でこれらのことが行なわれてからまだ百年と経ってはいないのである。そしてあの偉大な統治者の時代に現実であったことが、今では過去のものがたりとなったとはいえ、ひとたびそれらが試みられた場所、またそれらを実行した国民の間には、はっきりとした影響が残っている。これらはただ選ばれた環境の下でのみ実行されることであるからその再現は望み得ず、ましてやこの地上でそれを永続させることは不可能だなどと考えてはならない。
われわれの法律は、人間は悪者であるという推定の上に作られているし、われわれは今でもそう考えているが、鷹山はこれと正反対の考えから出発した。人間の中には神のようなところがあるから、誠意をもって当たりさえすれば、その神らしさを呼びさまして、悪に打ち勝たせることができると彼は信じたのである。彼はそれを信じ、その通りに実行し、そしてそれを成し遂げた。鷹山の大の崇拝家であった西郷隆盛は次のように述べている。
《古人の武勇伝を読んでこんなことは実行できぬと思うやからは、敵前で逃亡する卑怯者にひとしい》と。
そして神の国について論議し、その実現を祈りながら、そのようなことは実際には不可能だと考えているわれわれすべてもまた卑怯者、いや偽善者なのではあるまいか?
六 その為人(ひとなり)
どんな人間であろうと、これに対しアダムの並みの子以上の取り扱いをすることは、当世流のやり方ではない。ことにその人が、恩恵と天啓とに無縁の異教徒である場合はなおさらである。こうした点からわれわれ日本人が、わが国の英雄を神にまつる風習もとかくの非難を受けがちであるが、しかしあらゆる人間の中で鷹山ほどその欠点や弱点を数え上げる必要の少ない人間はなかったと思う。それは鷹山自身が伝記者の誰よりもよく自分の欠点や弱点を知っていたからである。彼は人間という言葉の持つ意味をすべてそなえた人間であった。
責任の地位に就くにあたって、神社に誓詞を納めるのは、弱い人間のみのすることである。また彼自身と藩とが危機におちいったとき、守り神の社に走ったのは彼の弱さ(この言葉を用いてよければ)のゆえであった。ある日、江戸の邸にいた彼の手もとに一通の公文書がさし出されたが、それは親孝行のゆえに表彰さるべき臣下の名前を書きつらねて、彼の審査と認可とを待つものであった。ざっとそれに目を通した彼は、家庭教師の講義が済むまでそれをたんすの中にしまっておくように命じたが、講義の終了後その重要な書類のことをすっかり忘れてしまった。これは万人の主として許すべからざる怠りであると、臣下の一人にきびしく非難されて藩公は限りなく恥じた。
彼はその場にすわったまま、夜もすがら後悔の涙にくれ、朝が来ても後悔のため、朝食に手をつけることさえできなかった。招かれた教師が、孔子の書の一部を引用してその罪の許されることを告げ、ここに初めて食物がのどを通るようになったという。これほどまでに鋭敏な魂に対し、歴史的批評の荒々しい手を触れさせてはならない。
しかし彼の公明で誠実な性格を知るには、その家庭生活と家庭内の諸事とを見るにしくはない。彼の生活の質素なことについてはさきに述べたが、彼は木綿の衣服と粗末な食事との習慣を、藩庫の信用が全く回復し自由に多額の金が使えるようになったその晩年まで続けた。畳は修繕がきかぬほど古びるまで取り換えようとしなかった。自ら破れ畳に紙を張りつけてつくろいをしている藩主の姿が見られることもしばしばであったという。
家庭に対する鷹山の考えは、非常に高潔なものであった。この点において、彼は次の聖人の言葉に文字通り従った者である。
《自分を治め得る者のみ家を治めることができ、その家が正しく治められている者にして 初めて国を治めることができる》
と。その当時は蓄妾の風が公然と行なわれ、ことに鷹山の属する大名社会にあっては、妾の数が四、五名にとどまる者はまれであったにもかかわらず、鷹山は十歳も年上の妾を一人持っていただけであり、それとても次のような特別の事情あってのことだった。
すなわち彼のまだ成年に達しない前、当時の日本の風習として双方の両親同士の取り決めで結婚させられた妻は、十歳の子供の知能しかそなえぬ、生まれながらの障害者だったのである。しかし彼は心からの愛と尊敬とをもって彼女に接し、彼女のためにおもちゃや人形を作るなどあらゆる手段を尽くして彼女を慰め、二十年に及ぶ結婚生活中一度として自分の運命に不満を示したことはなかった。夫妻が一年の大半を江戸で暮らす間、もう一人の配偶者(妾)は米沢に残され、障害者の正夫人に与えられていたような権限を決して与えられなかった。正夫人には一人の子もなかった。
彼が慈愛に満ちた父親であったことは言うまでもない。彼は子供たちの教育のために、熱心に努力した。子供たちの教育は彼の大切な義務の一つであることを彼はよく知っていた。なぜならば封建政体の世襲制度の下では、領民の未来の幸福はひとえに彼が後にのこす統治者のひととなりにかかっていたからである。貧民の実情に通じる教育を彼は息子たちに授けた。これは彼らがその大きな使命を忘れ、それを私利私欲のために犠牲にすることのないようにと願ってである。彼が子供たちに施した教育の方針を知るよすがとして、彼が孫娘たちに与えた美しい手紙のかずかずの中から一つを選んで掲げよう。これは父の家を去って都の配偶者のもとに行こうとする姉娘に宛てたものである。
《人は三つの感化の下に一人前の人間となります。その父母と、先生と、主君の恩とがそれです。そのどれもが測り知れぬほど深い恩ではありますが、とりわけ深いのは父母の恩です……私どもがこの世に生を享けたのは、父母あればこそであります。この体は父母の体の一部分であることを片時も忘れてはなりません。それゆえいささかの偽りもない心をもって父母に尽くされよ。心に誠意さえあれば、たとえ失敗したとしてもそれほど的はずれのことはないものです。また知恵が足りないゆえに物事が手に余ると考えてはなりません。その及ばぬところを誠意が補うのです……国を治めることはあなたの力に余る大変なことのように見えますが、国の根本はよく整った家庭にあるのです。
そして家庭を整えようと思えば、夫婦の間が正しい関係になくてはなりません。源が乱れているときに、どうして末の整うことが望めましょうか?……年若な婦人はとかく着物に心を奪われがちなものですが、これまでに教えられて来た質素の習慣を忘れてはなりません。養蚕その他の婦人の仕事に精を出すとともに、和歌をよみ、歌書をひもとくなどのことによって、心を養われよ。
しかし教養や知識そのもののためにそれらを追い求めるようなことをしてはなりません。学問の目的は身を修める道を学ぶことにあるのですから、善を勧め悪を避けるような学問を選ぶことが肝心です。和歌は心をなごやかにし、これをたしなめば月や花にも心が動き情操が高められます……あなたの婿君は父として民を教え、あなたは母として民を愛したならば、民はあなた方を父母として敬うようになるでしょう。
これにまさる喜びが世にあるでしょうか? くれぐれもそちらの御両親様に孝行の誠を尽くして、お二方を慰め、また婿君に対してはおだやかな心で従うことを心がけられよ。願わくはわが娘の限りなく栄え、わが国にふさわしい有徳の婦人として尊敬されるに至らんことを。
いとしき娘の都へ旅立つに際して
春を得て花すり衣重ぬとも わがふるさとの寒さ忘るな》
骨身惜しまず働いた節制家の鷹山は、七十年間変わらぬ健康に恵まれ、青春時代の大志の大方を実現させた。すなわち彼の藩が確固たる基礎の上に立ち、領民の生活が十分に安定し、領国全体が豊かに甦るのを彼はその目で見たのである。かつては一藩の力を集めても五両の金を調達できなかったものが、今は一万両の金さえ即座に調えることができるようになった。このような人の最期が安らかでないはずはない。文政五年(一八二二年)三月十九日、鷹山は最後の息を引き取った。
《領民は自分らの肉親の祖父母を失ったように泣いた。あらゆる附層の人々の悲しむさまはここに述べることもできないほどである。葬送の当日は悲しみの群衆数万が道筋を埋めた。両手を合わせ、頭を垂れ、声を挙げて泣くこれらの人々の嘆きに山や川や木々までが和した》
と、その光景がしるされている。
そして進歩した政治機構やベンタムとミルの経済学や、哲学的評諭とキリスト教的道徳に加えて、なおそれ以上のものを有するわれわれもまたその「父母の恵み」によって、かつてはこの世に存在したこの偉大な霊魂の死を悲しまずにはいられない。憲法上の口論を世の終わりまで続けても、鷹山が生前に成し遂げた事績に及ぶことはできないであろう。
彼のような君主を再びいただくは望めないであろうゆえに、われわれは封建制度に別れを告げ、西欧の発明にかかる投票制度をまねてこれを採用したのである。だがいつの日かすべての悪者が影をひそめ、すべての政治家がみな鷹山のようになった暁には、われわれは、新しい封建制度をわれわれの間に打ち立てよう。そのときにはわれわれはすべて満ち足りて欠けるところなく喜びにあふれて悲しむことはないであろう。
「上杉鷹山」は《草の葉ライブラリー》内村鑑三著「私たちは後世に何を残すべきか」に所収。