ジュピター 2
そこから突然、光輝は日本語から英語に変えた。さかまく激流のように英語をまくしたてた。この人物の母国語は英語になってしまったのだろう。英語で思考し、英語で激論し、英語で論文を書いていく。英語というリズムや文体こそ、彼の怒りをストレートに表現できる言葉なのだ。光輝はしばしばおれの言っていることがわかるかと念を押すが、昴(すばる)はマシンガンを放つような速度で話される英語をほとんど理解できた。彼の耳はするどく、初めて耳にするリズムをほとんどコピーできる。それは英語でも同じだった。彼は英語をリズムでつかんでいるのだ。その英語の弾丸を浴びた昴は、日本語で反撃した。
「あなたが化学的リソースなるものを、パッチワークよろしくつなぎあわせて否定したって、そいつは存在しているんです。ぼくたちは環境ホルモンに汚染された新世代の人種なんですよ。ぼくの思想はそのことを一切説明ぬきで、現代という時代に刻印することなんです。ぼくの思想に言葉は不要です。言葉は思想を汚していくだけですからね。だってそうでしょう。紙の上に一本の直線を引く、その直線をどのように説明するのですか。そこに存在する花瓶を粉々に打ち砕く、砕け散った破片をどのように説明するのですか。思想を結実させるということは、直線を引くという行為ですよ。花瓶を打ち砕くという行為ですよ。
ぼくの思想を結実させるために、その日、リヴォルバーに六発の弾をつめこんで、最初に狙撃する人物の家に張りこんだんです。そしたら警察車両が二台、三台とやってきて、ぼくを逮捕しようとした。思いもよらぬ展開で、それでそのときぼくはそのおまわりたちに弾丸を撃ち込んでやろうと思いましたよ。しかしそれは違う、それはぼくの思想を確立することではないと気づいて、六発は全部空に向かってぶっぱなしました。それで少年刑務所に投げ込まれ、それから武蔵刑務所にまわされたんです。少年刑務所には六百人、武蔵刑務所には千人のわが同朋がいましたが、ぼくはこう思いましたね。彼らもまた環境ホルモンに取りつかれた者たちだって。彼らの体内に強烈にそのエキスをためこんでいるわけですからね。彼らに出会って、ぼくの思想はさらに強固に裏打ちされていったわけですよ。
ぼくのいう環境ホルモンとは、アメリカの生化学者たちが編み出した、あなたはそれをエドクリン・デイスラプター(endocrine disruptors)っていいましたよね。ちゃんと聞き取れましたよ、あなたの英語を。おれはそのエドクリン・デイスラプターなるものに、現代という時代にとりついた悪霊といったものを象徴させているんです。だからあなたが環境ホルモンという言葉を嫌悪するならば、悪霊と言い換えてもいい。ぼくたちの全身は環境ホルモンという悪霊によって成り立っているってね。ぼくたちの肉体も精神も悪霊の棲家になってしまった。そのことに覚醒した精神と肉体は、その存在をどのように確立させるべきか。ぼくの思想は実に単純ですよ。ぼくたちの肉体と精神は悪霊に取りつかれている、そのことを、完璧に、大地をえぐるように、山が動き、川がひん曲り、平野が海に飲み込まれていくように現代という時代に叩き込むんです」
光輝はカサブランカの一茎を取り上げて、花弁をいっぱいに開いた花から放たれる豊穣な匂いをかぐと、その花弁に隠れるようにつけている蕾をいとおしむようにつまみ、それを昴に差し出すように英語ではなく、日本語で言った。
「環境ホルモンを、現代という時代に取りついた悪霊だと定義を変えてきた、それはそれで面白い。しかし君の思想なるものは幼稚なる蕾だ。このカサブランカの蕾は、花のもつ生命力よって開花していく。しかし人間がはらむ蕾といったものは、たいていそこで枯れ果てる。幼稚だからだ、子供だましみたいに単純だからだ」
たたきつけてくる光輝の日本語に、昴はすばやく切り返した。「ぼくの思想は地面に一本の直線を引くという行為なんだ。しかしそのたった一本の直線のなかに、限りなく複雑な精神と神秘と未来を照らし出す光が潜んでいる、ぼくの思想はあなたに簡単に切り捨てられるほど単純でも幼稚でもありませんよ」
「悪霊というやつは、西洋人にとって、彼らが思想というものを作り出したときからのテーマだ。聖書にたびたび記述されているもっとも有名な逸話は、豚に滑りこんでいった悪霊のことだよな。イエスに追い詰められた悪霊は、イエスに懇願する。あの豚の中に入ることを許してくれと。イエスはいけといった。あの太った豚の大群の中に入っていけってな。悪霊は喜びいさんでどっと豚どものなかに駆け込んでいった。悪霊にとりつかれた豚の大群はどこにいったのか。崖を駈け下って海になだれこんでいった、とイエスのコピーライターたちは書いた。それで悪霊はその豚たちとともに海の藻屑となって消えていったとでもいうのか。
そうじゃない。悪霊はもっと賢い。イエスよりも賢い。悪霊はよく知っていたのだ。人間は豚を食って生きていく動物であることを。みるがいい、悪霊は豚肉ととも人間の内部にふたたび帰ってきたじゃないか。もっと大規模に全人類の肉体と精神のなかにもぐりこんでいった。キリストが現れてから二千年たつ。しかしキリストの思想、キリストの理想など何一つ実現していない。世界はかえって悪化しているじゃないか。暴力はさらに狂暴に、戦争はさらに大規模に、精神は衰弱し、理想はどんどん腐敗していく。こんな時代にどんな思想がたえられるのか。君の思想とやらがまず対決しなければならないのは、おれの思想ではないのか。君の思想など砕け散っていくはずだ」
「面白いですね。やってみましょう。あなたの思想と対決しますよ。あなたの思想ってどういうものですか」
光輝はデスクにおいてあるノートを開き、そこにボールペンでさっと筆記すると、そのページをびしりと破り取って彼に手渡した。
「砂漠に打ち立てたリング・フィンガー・パーティのサイトだ。そこにおれの思想が英語で打ち込まれている。グーグルにもヤフーにも検索できない秘密のアドレスだ。おれの思想は地下水脈となって全世界につながっている。まずおれのサイトをひらいて、おれの思想の片鱗にふれてみるんだな。そこからだ。君の思想とやらが進化し成熟していくのは」