目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第10章
第10章
その日曜日、令子と渋谷の《テミーローラサン》で落ち合うことになっていた。ぼくがその店で待っていると、令子は都会生活社に出入りしているフリーライターの須埼とカメラマンの稲垣を連れて入ってきた。すっかり葉狩たちの活動に魅せられた令子は、その活動をずうっと追いかけようとしていたのだ。
テーブルに座るなり葉狩たちの話になった。令子はいつにもまして饒舌に彼らの活動を語るのだ。それはなにか心に秘めた愛人を語るような熱っぽさなのだ。
「彼はひょっとするとペテン師かもしれないぞ」
とぼくは言ってみた。
「どうしてペテン師なの?」
「彼は結局詩人なんだよ」
「この平和な時代のなかで、なるほど葉狩さんは、ペテン師にみえるかもしれない。とても危険な人物なのよ。彼はダイナマイトをかかえている人ですからね」
「腐った平和の尻の穴にダイナマイトをつめこむという詩があるな」
と須崎が言った。
「あの詩はとてもいいよ。ぼくも好きな詩だ。しかし実際にダイナマイトなんて仕掛けることなんかできないし、ましてそいつに火をつけて平和を吹き飛ばすなんてだれもできやしないよ」
とぼくは冷ややかに言った。
「しかし彼の言う独立国家というのは、昔からあった新しい村づくりといったものなのだろう。そういう話だったら少しも珍しいことではないよ」
と須崎。
「そうさ。昔からあったんだよ。そういう運動って。しかしほとんどが挫折しているわけだよ。夢のあとには草がぼうぼうと茂るのみでね」
「でも葉狩さんたちのはちょっと違うと思う。現代の実験とよばれるぐらい大きな意味をもっているのよ」
「国家を建設するということなんだね。そこが面白いな。独立宣言して単独の国家を打ち立ててしまおうというわけだから」
とカメラマンの稲垣が言った。ぼくはさらに冷ややかに言った。
「それは夢物語としては面白いさ」
葉狩にぐいぐいと惹きこまれていく令子に、水をかけたい気持ちだったのだ。すると彼女はちょっとぼくを非難するように、
「それが夢物語ではないのよ」
「夢物語でなく本気でそれをやろうとしたら、なるほど現代的なテーマだな。彼らは騒乱罪とか国家転覆罪とかで監獄行きだからね」
「国家を転覆するわけではなく、新しい国を建設するわけよ」
「同じことさ。たちまち制圧されてしまうぜ」
「しかしこういう論理も成り立つわけですよ。独立宣言をして素早く一つの国家を打ち立ててしまう。そうすると日本国憲法の第九条が生きてくる。他国との交戦を永久に放棄するというやつですよ。もし独立宣言したそのちっぽけな国を制庄しようと、警察なり自衛隊を動かせば、憲法違反になるわけですからね」
と稲垣がまじめな口調で言った。なるほど面白い話だった。最近なかなか痛快な話に出会えない。そういう意味で面白いのであって、もしそんなことがほんとうにできると信じている人間がいるとしたら、これはもう気違い沙汰である。
開演時間より大分早くいったのに、《十四世紀》のあるビルのまわりには長蛇の列ができていた。令子と稲垣はその活動の中心となって動いている若者たちともう顔パスができているのか、ぼくたちを報道者としてそっと入れてくれた。
三か月前にきたときとは、会場の様子ががらっと変わっていた。ステージの上には何本ものマイクが立ち、ドラムやシンセサイザーなどが並び、くねくねと何十本ものコードが走り、なにやらロックのコンサートがはじまるような雰囲気だった。ベンチの背後に何台ものカメラがステージにむけられていた。さまざまなマスコミが彼らの活動を追いかけているのだ。
五時になるとビルの回りを取り囲んでいた長蛇の列が、どっとなだれこんできた。たちまち席は埋まってしまった。ベンチだからいくらでも人は詰めこまれる。その数はざっと数えてみて四百人近くにのぼるのだろう。消防署がよく黙っているなと思うほどの詰めこみ方だった。
およそ葉狩的な世界と無縁の若い女の子たちがいやに目についた。彼女たちが会場を陽気に明るくしていたが、なんだかそれだけ安っぽくしているようにも見えるのだった。しかしじわじわざわざわと満員の聴衆からあがる熱気には力があり、これから展開されるドラマにはやくも胸おどらされているといった様子なのだ。
場内のあかりが消え、光がぱっとステージの上に走ると、鼓膜を破らんばかりの音がドドドドと炸裂して、ロックのうなりが小気味よいリズムを刻みこんでいった。前の方に陣取っていた女の子たちが、手を頭上で叩きはじめた。若い子がいやに目につき不思議に思っていたが、その原因がようやくわかった。この六人組のロックバンドがお目当てだったのだ。ぼくには葉狩がなんだかとてもおかしな方にいってしまったように思えた。
しかし彼らが何曲か歌いこんでから、《長くつらい戦いを選んだおれは、ときどき崩れそうになる》と歌いはじめたとき、ぼくはおやっと思った。よく聞いてみるとそれは『長距離走者』におさめられている「夜を燃やせ」という詩をうたっているのだった。
《……/ガレージのなかにおれはあいつをつれこみ/あいつの真中につっこむみたいにベースをはじいて歌ってみたら/あいつはあくびをしてのりがないわねといったので/おれはあいつをダンプにのせ夜の街道をぶっとばし/おんながエキサイテイングね、うふふふ興奮するわといったので/おれはべースをすてて走りはじめたがときどき/気が狂いそうになるのは、おれは自分がわかっていないからだと思ってみたが/走る、走る、走る、走ればなにかが見えてくると思い/走る、走る、走る、走る、白い朝はまだかと/おれが選んだ長いつらい戦いは、けっして終わることはなく/ときどき気が狂いそうになるのは、その長さではなく、なにもみえないことで/夜の底に排気ガスを吐きだしながら叫ぶのは、おれのロックであり/ああ、朝が、ああ、朝が、ああ、白い朝が/消されかけた町に浮かぶとき、おれはちょっと立ち直るのだ/……》
その詩が、はげしいロックのリズムに、びっくりするほどうまくのっているのだ。ぎっしりと埋まった人の渦を、はげしく高揚するリズムの波に巻きこんでいく六人組を、ぼくはちょっと見直してしまった。そして葉狩の詩にロックが似合うのではなく、葉狩の詩がロックそのものではないかと思ったりするのだった。
爆風を浴びたような音量が、まだ耳のなかに残っているなかに葉狩があらわれた。彼は髭をたくわえていた。無造作にのばしたごわごわとした硬そうな髭が、頬から顎をつつんでいる。そのごわごわした髭のせいか、表情が柔和にみえたばかりか、その全身がなにかとても優雅な印象をあたえる。
彼は今夜もまた、人を驚かせる主題を投げることから話を展開させていった。それは全く見事な組み立てだった。前の方に陣取っていた、およそ葉狩的ではない女の子たちが、いったいどんな反応をみせるのだろうかとながめていたが、彼女たちもまた葉狩の仕組んだ言語のドラマに、ぐいぐいと引き込まれていくのがみてとれた。
彼はこう語りだしのだ。人類を見舞った原爆の第一発目はどこに落とされたか? 聴衆が合唱するように広島とこたえた。第二発目はどこに落ちたのか? また聴衆がこたえた、長崎だと。それでは、もう一つ訊くが第三発目はどこに落とされるのだろうか? だれも答えない。しんとなった場内の目と耳が葉狩の口元に集まる。静かにささやくように漏らすのだが、またしてもこの日本に落ちるのだ、と彼は言った。こうして今夜のドラマがはじまっていった。
《先の大戦のさなか、こう祈った日本人がいた。暴力と攻撃の牙となったこの国を、あなたの手で亡ぼして下さい。ことごとく、そのすべてを亡ぼしてして下さい》と。その日本人の祈りは天にとどいたことになる。日本は焦土と化したのだ。そこで葉狩もまたこう言った。《おれも析ろう、この国を亡ぼして下さい。この国はあなたのためにつくられたものでもなく、またおれたちのためにもつくられたものでもない》。だから《亡ぼして下さっても結構です》。葉狩はそのあたりを天にむかって祈るようなしぐさをしたが、彼には珍しい演技だった。しかし《結構です》といってもぼくらは困るのである。
固唾をのんで見守るぼくらをうっちゃるように《第三発目の原爆も日本に落ちる》という乱暴でショッキングな主題は、ここでひとまず打ち切られ、第二章とでもいう別の主題があらわれる。
《わが国土を廃墟にしたあの大戦はいったいなんであったのか》。そしてそれはまた《自由と平和のはじまりであったのか》と言ったあとに、葉狩はちょっと急ぎながら《ちがう、ちがう、ちがうのだ》と打ち消した。二百年後、三百年後の歴史家は、いったいあの大戦とおれたちの時代をどのように描くのか。明治に導入された富国強兵という政策はいくつかの戦争をつくりだし、あの第二次大戦で決定的破局に見舞われたようにみえる。つまりあの敗北によって富国強兵策は壊減したのであると。しかし実はそうではなくあの敗戦こそ、富国強兵策をより強く熱くするための〈熔鉱炉〉であったのだ。そして戦争を永久に放棄するという例の第九条は《暴力の牙》と《帝国の野望》をものの見事に覆い隠す、ピンクのネグリジェであったと後の歴史家は描くにちがいないと葉狩は予言するのだ。
《あのすけすけの悩ましい欲情の香水をふりかけたピンクのネグリジェの下で》日本人の《攻撃的、拡大的、官僚的、画一的、集団的、組織的、没個性的、徒党的、好戦的》な体質が、《よりあくどく、よりけばけばしく、よりどぎつく磨きあげられ》ていったのである。だからあの敗戦は《民主主義や自由》を育てあげたが、それ以上の異常さで《日本人の体質》をさらに露骨に鍛えあげていった。だから《見るがいい、この大洪水を》。世界各地に《現代のペスト》をばらまく《情熱的な行商人たち》が、《斥侯、転覆者、略奪者、征服者》となって、ありと世界の町や村に出没し商品を売りこんでいく。
その怒涛の進撃は《韓国を、台湾を、フィリピンを、タイを、ビルマを、インドネシアを》とアジアからアフリカの国々の名を並び立て、《パプアニューギニアを、フイジーを、オーストラリアを、ニュージーランドを》と南太平洋をひとなめし、《ハワイを、アラスカを、カナダを、アメリカを、メキシコを、コスタリカを》と突き進み、《ベネズエラを、コロンビアを、ブラジルを、ペル一を》と南アメリカをかけめぐる。そしてその進撃はかつて世界の中心であった《イギリスを、フランスを、スペインを、ドイツを、イタリアを》ひたひたと攻め立て、《ポーランドを、ハンガリーを、ユーゴスラビアを》、そして《ソビエト》にさえ侵攻していくのだ。
それは《アレキサンダーの長征、ジンギスカンの大帝国》に比肩しうる一大壮挙ともいえるのだが、しかし《現代の攻撃と征服》は、《商品のなかに野望の牙を》かくしく、《商品のなかに人間を亡ぼすペスト菌をぬいこんでいる》がゆえに、その正体がなかなか見えにくい。そして葉狩は再びうんざりするほどの町や村の名を並び立てる。《チャイーを、タイナンを、バキオを、ケソンを、バタンガスを、バコロドを》と東南アジアの小さな町や村の名をえんえんと連ねていったのは、三年前に半年かけて放浪してきた、そのとき彼がたどってきた村や町だったのだろうか。その小さな村や町にも《現代のペスト》はひたひたと攻め寄せていた。
全世界の資源を奪い取り、全世界を商品の大洪水にして、全世界から金をふんだくろうとする日本と日本人。かつて《世界の海を制圧した大英帝国をも凌駕するく歴史上類をみない新形式の大帝国》が形成されつつあるが、それは《日本人が勤勉であったからなのか?》。あるいはまた《日本人が優秀な民族であったからなのか?》。 葉狩はちょっと叫ぶように《違う、違う》と強く打ち消した。そして四か月前の朗読会ではじめて耳にした、《悪魔の野望》《悪魔の原理》であるところの《機械と機構》があざやかに登場してくるのだ。巨大な帝国をつくりあげていく力動のエンジンは《機械と機構》なのであって、日本人の体質はまことに《機械と機構》を育む格好の《子宮であり士壌》であった。《機械と機構》は日本人の体質のなかでおどろくべき速度で巨大になっていった。
《攻撃的、拡大的、官僚的、画一的、組織的、徒党的》と並び立てたが、さらにそれだけでは物足りないのか《出る杭は打たれる的、弱いものいじめ的、上にはぺこぺこ下にはおいこら的、のぞきみ的噂ばらまき的、村八分的》と執拗につけ足していく。この体質のなかで《悪魔》は思いのままに跋扈し跳梁するのだ。日本はいよいよ巨大になっていく。しかしそれは《大崩壊への道》なのだ。《人間は黙っていない》。《人間は機減の奴隷》でもなく《機構の部品》でもない。《人間の抵抗と反抗》がはじまる。機械と機構の手先となって、全世界に商品という《現代のペスト菌》をばらまき世界の富を一手に握ろうとする日本に、止めをさそうと《数発、あるいは数十発の原爆と水爆》が舞い落ちてくる日がやってくるのだ。
《大崩壊へと導く悪の原理》は、もはや切り離すことができないほど日本と日本人の肉体のなかに深く巣くっている。だから《悪の原理》を打ち砕くには再び原爆や水爆の力を借りなければならないことになるのだが、《たった一つだけ別の方法がある》と葉狩はひとさし指をたてて、ちょっと誇らしげに言った。すなわち《分裂、分解、分散、分岐、分派、分流、分水、分家》であり、《大きなものを解体し分解し、限りなく小さく》してしまうのだ。《量を質に、富を貧に、連を個に、大を小に》して、力の方向も《個人から組織》にではなく《組織から個人》に。だから国家と個人の関係を《国家から県ヘ、県から町ヘ、町から村ヘ、村から個人ヘ》と力の矢印を逆転させるというのである。そのために《解体する》ことである。《巨大なものをことごとく解体していく》ことこそ必要なのである。《あのNHKを、NTTを、トヨタを、日産を、富士を、三井を、三菱を、松下を、東芝を、ソニーを》と大組織や大企業の名をまたうんざりするほど並び立てた。
巨大なものをことごとく解体していかなければならないのは《大崩壊》へとつづく道だからだが、それはまた人間を復活する戦いでもある。《人間の工場、人間の企業》は、せいぜい百人程度の規模でいいのであり、それならば《人間の呼吸、人間の感情、人間の思考》ができる《人間の組織》となる。しかし一万人の工場、一万人の企業などというのはもはや人間のものではなく、《機械と機構のための工場》、《機械と機構のための企業》であって、哀れ人間はそこでは鼻くそ程度の存在でしかない。このあたりになると葉狩の声の調子に熱がこもってくるのは、今日の朗読の一つの山場にさしかかっていることを語っていた。じっと注がれる聴衆のなかに、彼はまた刺激的な言葉を投げこむ。
《機械と機構の象徴たる巨大な国家の解体を》。《われらの国をつくるために国家からの独立を》と。そのためにまず日本をもう一度日本の青春に引きもどさなければならない。《そうだ。思い浮べるのはわれらの日本の青春》、《あの輝きに満ちあふれた日本の青春》である。それは《大帝国であった江戸幕府》を揺り動かし崩壊へと追いこんでいった《日本の興奮》《日本の情熱》である明治維新のことだった。しかし《無限の可能性を宿していた》あの革命は、実は葉狩に言わせると《大崩壊の原点》でもあった。
《日本の珠玉》がことごとく倒れてしまい、残ったのは成金屋と政治屋ばかりだった。その成金屋や政治屋たちが《中央集権という心棒》を日本の背骨に打ち据え《富国強兵》という政策に日本を売り渡してしまった。そこから《拡大と拡張》、《攻撃と征服》、《侵略と弾圧》の野蛮な進撃がはじまり、ついには《大敗北を喫して》焦土と化すのだが、では葉狩はどうしてその敗北の原点に引きもどそうというのか。そのあたりがちょっとわかりにくかったのだが、あとで全体の流れのなかで振り返ってみると、どうもそこに二つの論理をぬいこめようとしているようにみえた。一つは大崩壊へと走っていく日本を救いだすためにもう一度この国を《青春の時》に引き戻し、《中央集権という背骨》を叩き折り、《富国強兵》という政策を葬りさることである。そしてもう一つはそのとき地方の各藩が江戸幕府に反旗をひるがえしたが、《あの抵抗、あの分裂、あの分散、あの解体》の延長線上に新しい日本を打ち立てようということのようだった。つまり今度は一点に権力を集中していく国家ではなく、権力が限りなく解体された別のシステムをもった日本をつくりだそうと。だから《鹿児島県よ、再びあの反旗をひるがえせ》、《山口県よ、反乱のラッパを吹き鳴らせ》とすべての都道府県の名を並び立ててあおるのだった。《ふざけてはいけない、どんなに長くつづいた体制だって三百年》であり、《三百年に一度はものみなすべてがひっくり返る》のである。その日が《早ければ早いほどよい》のは、《大崩壊の日は刻一刻》と近づいているからであり、《原爆が何十発と打ちこまれる前に、この日本をことごとくひっくり返さなければならない》と栄枯盛衰の物語を語るように話を展開させていくのだった。
しかしその日は待っていたってくるわけではない。われらの国をつくりだすためには踏み出さねばならぬことがある。そしてそこに《YESの体質》という聞きなれぬ言葉が繰りだされてくる。原爆の第三発目にむかって歩いている日本人は、《骨のなか、腸のなか、神経のなか、皮膚のなか》にしみこんでいる日本人の体質《画一性、官僚性、攻撃性、徒党性、組織性、拡大性、排他性》がなせるわざなのであって、これを葉狩は《YESの体質》と名づけたのだ。《出る杭は打たれる》とか《長いものには巻かれろ》とかいった格言をまたうんざりするほど並べ立てたが、日本人の血管に流れるこの体質は圧倒的であり、日本の歴史は《YESの体質》でつくられてきた。
そしてここに当然のことのように《YESの体質》の対極をなす《NOの体質》がでてくる。日本の変革はまずこの《NOの体質》を育てることなのだ、そこからはじめなければならないと葉狩は言った。日本の学校も社会も企業も《YESの体質》のなかで成り立っている。そのなかで《NOの体質》をつくりだすことは至難のことだ。しかしそんな日本の歴史のなかにも、かすかであるが《否と叫ぶ人間たち》や《否という抵抗》はいくつもあったのである。《YESの体質》の大軍団の前にいつも《NOの体質》の抵抗はあえなく潰えたが、それでも細々と歴史のなかに流れてきたのである。いまその《ちょろちょろたる流れ》をうけつぎ、《NOの体質を全面的に復活させ》全面的に《否という精神を息吹かせる》ことが、人間としてのさまざまな美徳《自由、高貴、独立、尊厳、勇気、連帯、友情》を復活させることなのだ。だから葉狩は全員に呼びかける。《この地上に君はたった一人で立つことができるのか》。《君はたった一人で世界とむきあえることができるのか》。《たった一人でこの地上に立つとき》すなわち人間の復活のときなのだ。
こうして葉狩は彼らの運動にふれていく。《おれたちも徒党を組み戦いを開始するが、誤解してはけない》。《おれたちの仲間が組織化され建設がはじまっていくが、誤解してはいけない》。それは《一人一人が自分を発見していくための組織であり》、《一人一人が自分の国を建設していくため》の戦いである。《いまおれたちにあるのは、ただの白いキャンバスだけである》が、だからこそそこでは《既成の価値は一切役に立たず、あるのはただ一歩一歩手さぐりで進んでいく》のみであるが、しかし《前方には光があるという希望のみ》である。《おれたちは考える。金とはなにか、国家とはなにか、産業とはなにか、労働とはなにか、家庭とはなにか、社会とはなにかを》。《おれたちの建設はそれら事物の根底から疑いはじめていく》のである。気の遠くなるような戦いがはじまるがこれこそ《NOの体質によって》、《NOの体質の国家を地上に建設しようという一つの偉大な実験である》。
ようやく今日の朗読が、最終楽章に入ったことを語るように葉狩の口調のテンポがはやくなった。熱っぽくたたみこむように《おれたちの前方に横たわるのは、数多の障害、絶望、失敗、挫折》である。《その苦難の坂を息もたえだえに登っていく》とき、彼らのなかに《ちょろちょろと先人たちが流した血が流れこんできて》、《打ちひしがれていたおれたちに立ち上がれ、挫けてはいけない、もう少しなのだ、もう少しで夜が明けるのだと告げるのであり、おれたちはよろよろと立ち上がる》。《おれたちは否という国家を打ち立てる。それがたとえ《米粒ばかりのような小さな国であろうとも》、《YESの体質でできあがった巨大な国家のなかに打ち立てられた新世界の砦なのだ》。《やがてNOの体質をもったわれらの仲間が、他の場所で立ち上がるときがくる》のであって、《おれたちと同じ血を流す人間が、南に一つ、北に一つ、西に一つ、東に一つ》と生れていけば、次第に《日本人の体質が変化していく》のであり、そのときはじめて《原爆の第三発目という大崩壊》から少しづつ遠ざかっていくのである。そしてそれらの《NOの体質》をもった小さな国が、日本の各地に次々と生れていったとき、さしもの《強固な中央集権国家も打ち倒され》、《新しい時代の登場を告げるラッパが高らかに吹きならされる》日がくるのだ。
葉狩はいつもたんたんと言葉を朗読していく。それはたんなる朗読だった。しかしこの夜もその朗読は聴くものに大きな波動の渦を巻き起こしていた。それはやはり葉狩の紡ぎ出す言葉に力があるからなのだ。多彩多様に紡ぐ言葉が一つの大きな交響曲となって、ぼくらに襲いかかってくる。危険な興奮かもしれなかった。人をはげしく煽動させる興奮だった。
店内を埋めつくした人の渦が、きれいに消え去ったあと、多くの若者たちがあと片付けをしていた。ステージの上のキーボードやドラムが運びだされと、ベンチが並びかえられ、外に出ていたテーブルも運びこまれた。いつのまに令子も稲垣もその手伝いをはじめたので、ぼくと須崎も重いテーブルを運んだ。そのあと片付けが終わるとどうやら《池田屋》という酒場で打ち上げがあるようだった。ぼくたちもそこに流れていくことにした。
道玄坂の裏にある、あやしげなビルが立ち並ぶ飲食街の一角にあるその店は、倒幕の志士たちが集まった池田屋をなんとなく連想させたのは、店の名前からだけではなく、一階も二階も《十四世紀》から流れてきた人たちで埋まっていて、あちこちで口角泡を飛ばしての議論が戦わされていたからだった。あちこちのテーブルで、国家だとか、独立だとか、反乱だとか、政府軍だとかいった言葉が飛び交っているのだ。
ぼくたちのグループも二階の一角に陣取ると、須崎が、
「第三発目の原爆が落ちるなんて、こけおどしもはなはだしいな」
と口火を切った。
「どうしてこけおどしなわけ。日本人の傲慢さの危険というものに気づかなければ、日本は危ないと私だって思うわ。それは海外に出てみるとよくわかるのよ」
「だからといって、第三発目の原爆がまた日本に落とされるなんてこけおどしだぜ。みんなの関心を集めようという演出なんだ」
「演出かもしれないわよ。でもそれはやっぱり真実なんだと思うわ。その危険性というのは、すでに日本のなかに強く宿っているのよ」
と令子は断固として言った。
「しかしどうもおれにはよくわからない。いったいなにがはじまるのか。いったいどんな国をつくるのか。そのプロセスみたいなものを彼は一言も語らないわけでね」
須崎もまたショックを受けているのだ。そのショックをどう解釈していいのかと、自分に問いかけているようだった。
「それがだんだん明らかになっていくのよ。あそこに足を運んでいる人たちは固唾を飲んでそれを見守っているわけよ」
「彼の朗読を聞いたのはこれで二度目だけど、彼が語っているのはいつも観念だよ。なるほど人を酔わせる観念づくりというものはたいしたものだ。しかしそれは言ってみれば、ムードで酔わそうというわけでね。このムードで酔わすというのは、とても危険なことだとおれは思うがね」
「葉狩さんのつくりだす言葉の世界にみんな酔っているのもしれないわ。でもムードに酔うということは、全身で感じることで、それは一番たしかな理解の仕方だと思うけどな」
「国をつくるなんて、ムードなんかではできないよ」
「それはあそこにくる人たちにはわかっているのよ。なにが起ころうとしているのか。どこにむかって歩いていこうとしているのか」
「そんなものかね」
「それにやっぱりそこに自分の生き方を重ねあわそうとしているのよ。だからただのムードだけではないの」
「どうもおれにはまだよくわからないんだな」
「よくわからないのは当然だと思うわ。どうやって新しい国ができていくのか。どうやって具体的に動いていくのか。どのようなプロセスを通って積み上げていくのか。それはだれにもわかっていないのよ。おそらくそれは葉狩さんにもわかっていないと思うわ。だから葉狩さんの言葉には力があるの。だからみんなの心をとらえるわけよ。葉狩さんは私たちにその問題を投げ出しているわけですからね。その一つ一つの答えを見出だしていくのは、結局私たちでしょう。葉狩さんの言葉がいつも刺激的なのは、その問題の提起の仕方がすごく鋭いからなんだわ」
令子は熱弁をふるった。すっかり葉狩のとりこになってしまった令子。なんだかただごととは思えないほどの傾斜の仕方だった。
ぼくは葉狩を待っていた。彼に訊きたいたいことが山ほどあった。今夜の朗読を聞きながら彼と話したいとはげしく思ったのだ。しかし彼はなかなか姿をみせなかった。
「新しい彼女を連れてどこかに消えてしまったわけかな。彼にはかつて四人の愛人がいたぐらいだからな。あれでひどくもてるんだ」
とぼくはわざと令子にむかって言った。彼女はそんな話題をもちだしたぼくを軽蔑するような表情になった。
「どうしてかしら。いつもここにくるのよ」
「ひさしぶりに話したかったな」
「私もよ」
隣のテーブルにいたこの運動の中心の一人である若者が、葉狩さんは《にんじん》という店にいっていると教えてくれた。そこでぼくたちもそこに座を移すことにした。しかしその酒場から、路地を一つこえたところにあるそのスナックバーをのぞいてみたが、そこにも葉狩の姿はなかった。あきらめて出ようとしたときカウンターに座っている髭の男が、大声でぼくの名をよんだ。
「やあ、実藤じゃないか」
顔半分が髭におおわれているためか、その男がだれなのかわからなかった。
「おれだよ、おれ。笹谷だよ。よく三軒茶屋に飲みにいったじゃないか」
そう言われてはじめてこの男がわかった。彼を忘れるわけがない。思わず手を差し出すと、彼はかさかさした手で強く握りかえしてきた。なんだかひどくたくましい男になっているのだ。
「君がヨーロッパにいってしまったと聞いたとき、なんだか裏切られたような気がしたよ。ぼくに一言の挨拶もなくいっちまうわけだからな」
「そうだったかな」
「そうさ。あのあと葉狩さんのところから足が遠のいていったのも、一つには君がいなくなったこともあるよ」
笹谷は武蔵美に在学していたときに、インドから、イラン、イラクを通って、さらにはアフリカをまわって、ヨーロッパに入るという大旅行に二年間を費やしている。そんな大冒険をした男が選びとったのが、彫金というひどく微細な作業を要する仕事だった。すでにそのころ東中野のビルのなかに小さな工房をもっていて、そこで彫金教室などを開いていたし、彼のデザインしたリングやネックレスがなかなかの評判で、その世界では将来を嘱望された新進のジューリーデザイナーだった。しかしどうもぼくにはその世界が理解できなかった。彫金というそのこじんまりとした世界、女を飾り立てる虚飾といった仕事に男が一生をかけるものではないと思ったのだ。そんなぼくに、彼はいろいろな作品をみせたり、彼の手になる装身具がつかわれたファションショーなどに連れ出したりして、ぼくの偏見を打ち壊そうとしてくれたものである。
彼はよほどの早熟だったのだろう。中学一年生のころからすでにランボーばりの詩を書いていた。ところが少年から青年になるにつれてそのランボーばりの詩は、例の現代詩風にだんだんと難解になっていって、ついには観念の袋小路に陥ってしまった。大学を休学しての大放浪は、いわばそこからの脱出でもあったらしいのだか、いざ旅に出てみると一行の詩も書けない自分を発見するのだ。そんなときふと葉狩の詩集を手にする。いままで出会ったことのない詩だった。力と瑞々しい生命にあふれている。葉狩の詩は、笹谷の目を開いたばかりか、再び詩を書くという情熱をあたえたらしい。そんなわけで、渋谷の小さな喫茶店でひらかれていた葉狩の朗読会に、彼もまたしばしば顔をみせるようになっていた。そこでぼくと出会ったというわけだった。
この笹谷とはどういうわけかひどく気があって、渋谷から三軒茶屋へと飲み歩いた。そこまで流れていったのは、その頃彼は、三軒茶屋に居をかまえていたからだった。彼の部屋に泊まりこんで、そこから会社にでかけたことも幾度かあった。その彼があるとき突然、すべてをたたんで北欧に渡ってしまったのだ。
「なかなかいい髭づらだな。スウェーデン髭というのかな。葉狩さんも髭をたくわえはじめたけど君の影響かな」
「そんなことはない。おれがかえってきたのは二週間前だよ」
笹谷がすべてをたたんでスウェーデンに渡ったのは、ダイヤモンドの世界的販売会社であるデ・ビアスのジューリー・デザイン・コンテストで彼の作品が大賞をとったことからだった。その作品に目をつけたスウェーデンの装身具会社が彼をスカウトしたのだった。彼のかぎりないあこがれである世界的装身具メーカーであるジョージ・ジエンセンを生みだした国であり、それになんといっても本場で腕を磨きたいという気持ちもあった。彼が去ってから五年近くなるが、その地での仕事は順調にいっているようだった。その証拠にスウェーデン人の女性と恋に落ちて、もう二人の子供があると言った。そんな彼がひさしぶりに日本にもどってきたのは、葉狩から届いた一通の手紙のためだったようだ。
「もっとも故郷のおふくろが、このところずっと調子が悪くてね。その見舞のためでもあったんだがね」
「それで葉狩さんの手紙には、なんて書いてあったんだ」
「新しい国を建設したいと」
「まさか」
「まさかって?」
「そんな海のものとも山のものともつかぬ話を真に受けたわけか?」
「北海道の原野に、君の工房を建てないかと書いてあった」
「なるほど北海道は魅力的だよ。しかしなんのあてもない机上のプランなんだろう?」
「そんなことはない。すでにその土地は確保されているんだ。先週、葉狩さんたちとそこを歩いてきたんだ。それこそひとまわりもすれば日が暮れるというほどの広さなんだな。青写真を取り出して、そこが本部の建物、あそこが木工場、あそこが美術館、あそこが学校、左手の丘陵が牧場で、そこを下った渓流に水力発電の装置をつくるという具合さ。さて、君の彫金の工房はどこに建てるかなと言うから、おれは森林のなかで一番いい場所を指定してきたよ」
「こいつは驚いたな」
「おっと、これはまだだれにも話してはいけないことだった。実藤でもいけなかったのかな」
「たぶんいけなかったんだろう」
「これはやばいな」
「大丈夫さ。おれはだれにも話さないよ」
はじめて聞くその話は驚きだった。彼らのその奇想天外な話が、そこまで具体的に進んでいるなんて思いもよらぬことだった。
「しかしそれが事実だとしても、どうも雲をつかむような話じゃないか。君も今夜の葉狩さんの朗読を聞いたんだよね」
「ああ、聞いたさ」
「あれはどう受けとめるわけだ。独立国家などということを本気で考えているのか」
「極論だよ。極論を投げ出しているわけでね。葉狩さんの存在そのものがいつでも極論じやないか。その極論の投げ出し方がとてもうまくなった、実に計算されているなって思ったよ」
「あれも計算なのかな」
「葉狩さんって、昔からなかなか政治家だったじゃないか。いろんなことが考えられているよ。おれがすごく心動くのは、現実的計算の上にたっていることだな。そうでなければ土地など予約してこないさ」
「そうだろうな」
「おれはいまの生活がとても気に入っているわけだよ。おれは本質的に無国籍な人間なのかもしれない。どうも日本のなかではうまくいかなかった。どこか息苦しかった。ここはおれの住む国ではないとずうっと思っていたんだ。ところがあの国では、なんとなくしっくりいくんだ。気に入っているんだよ。ヨーロッパの伝統というものが、彫金作家としてのおれを励ますからかもしれないな。しかし葉狩さんと北海道を歩いて、はげしく心が揺れるものがあったのは、新しい国をつくるということだよ。新しいキャンバスに自分の絵を描いていく。この誘惑にかてる人間はいないんじゃないのかな」
彼はぼくに家族の写真をみせてくれた。彼の妻と二人の子供の幸福そのものの写真。彼はいま幸福にくるまれているのだ。
「美しい人だな」
とぼくは宏子のあのやわらかい微笑と重ねあわせて言った。
「うん。こうして遠く離れた地でながめてみるとなかなかいい女だと思うよ」
「果たして彼女が日本にくるかだね」
「いや、彼女は日本にあこがれているんだ」
「しかしいままでむこうで築き上げたものを、すべて投げ捨てなくてはいけないということだろう」
「彼女はバイキングの末裔だよ」
ぼくはなおも懐疑的だった。
「しかしそれほど葉狩さんを信じていいのかな。あの人は言葉の人であって、実践家ではないんだ」
「今夜の朗読をききながら、なぜ彼の言葉が多くの若者を惹きつけるのだろうかって考えていたんだ。あの人は昔からたった一つのことしか言っていない。つまり自分のなかの言葉を引きずり出せってことだ。彼はみんなの内なる言葉を引き出しているわけだよ。おれがあの人に賭けようとするのは、おれの内なる声に賭けようということなんだ」
異国で鍛えたその視線は、昔のように甘くはなかった。そのかたい強い視線がぼくにはひどくうらやましかった。