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上杉鷹山、200年前の行政改革

代表的日本人・上杉鷹山    内村鑑三


1 封建政体
「神の国」の出現はこのみじめな地上ではついに望み得ぬことであろうか? 人類はこれを全く望みなきことにあらずとして切望して来たし、人類の歴史はそのそもそもの始めからそれと明らかに自覚はしないながらも、神の国をこの地上に実現しようという試みの連続であったように思われる。クリスチャンはヘブライの預言者の理想を受け継いで、十九世紀ものあいだ神の国の出現を祈ってやまなかった。神の国は確かに地上に実現されると、早くも想像した人々があり、アダムの堕落した子らの間に神の国を来たらせようとの大胆な試みも幾たびかなされたが、これらの試み以上に尊い勇気と気高い自己犠牲の精神とを現すものは歴史上にかつて存在しなかった。

 サボナローラのフイレンツェ共和国、クロンウェルのイギリス共和国、デラウェア河辺に試みられたベンの「聖なる実験」などは、地上で人類が試みた勇敢な企図のうちの最も高貴なものである。しかしそれらとても理想は実現にやや近づいたという程度にすぎない。政治機構としては非常に進歩したものを持つにもかかわらず、現在のわれわれが理想の国から遠ざかっていることは、十世紀前の祖先の時代と少しも変わらない。事実、われわれの状態にはいささかの進歩もないのである。さればこそある賢人は、人類はただ一つの方向、すなわち堕落への道を歩んで来たにすぎないと述べてわれわれを驚かした。

 何十年か前には立憲政治こそ、黄金時代をもたらすものだと考えられていたが、それが実現した今日ではさらに遠い未来に希望をつなぐほかはない状態である。ある者は責任内閣制が、われわれに待望の自由を与えるものだと説くが、われわれはすでにこれらの政治奇術師どもの言葉に信を失っている。彼らはわれわれをまぼろしの国へと導く者ではあるまいか。選挙政治によって神の国が実現することなどは断じてあり得ない。

 もちろん、われわれはあらゆる種類の圧制政治を憎みきらう。専制的の圧制政治は今や熱帯地方に行なわれるのみであり、それすらやがて滅びるであろう。しかし投票箱の中にはいかなる圧制政治も忍び入らないと想像するのは愚かなことだ。圧制政治はわれわれが悪魔どもと結んでいるかぎり存在し、この紳士を名乗る悪魔どもがわれわれの中からことごとく追い出されぬかぎり滅びないであろう。それゆえに私は言う。人類を苦しめた二種類の圧制政治、すなわち専制的なそれと投票箱によるそれとを比べるならば、後者はただ前者より悪の程度が少ないというにすぎないと。それだけのことである。この二者より善いもの、または最善のものはまだ現われない。そしてそれが、いつ、いかにして来たるかについては、われわれは発言を禁じられている。

 しかしいかなる制度といえども、徳に取って代わることはできないということを、われわれは断固として信じよう。のみならず徳が現実に存在する場合には、制度は徳の助けをするどころかむしろ妨げとなる。進歩した機構は聖人を助けるよりも、盗人を縛るに適したものであって、代議政体とは進歩した警察制度の一種だと私は考える。それによって無頼漢や悪者を取り締まることはできよう。しかしいかに多勢の警官が集まっても一人の聖人、一人の英雄の代わりをつとめることはできない。非常に悪いものではないが、さりとて非常に善いものでもないというのが、代議政体に対する批評でなければならない。

 封建制度にはさまざまの欠点があり、その欠点のゆえに日本はそれを廃して立憲制度を採用した。しかしねずみを焼くはずの火は、同時に納屋をも焼いたのではあるまいか。そして封建制度が失われるとともに、それと結びついていた忠義や武士道等、男らしく情ある心情の多くもわれわれの中から消えたのではあるまいか。真正の意味における忠義は、君主と臣下とが直接に結びついている場合にかぎり存在するのであって、この両者の間に制度がはいり込んだならば、もはや忠義は存在しない。なぜなら主君はもはや主君ではなくて統治者となり、臣下もまた人民と変わったからである。

 そのうちにやがて憲法上の権利をめぐる争論が始まる。そしてその解決を求める人々は、これを心にただすという昔のやり方を改め、法律の成文によって解決しようとするのである。自己犠牲のうるわしい精神が残りなく発揮されるのは、仕えるべきわが主君、または心にかけてやるべきわが臣下を持つ場合に限られる。封建制度の強味は治める者と治められる者との間に、この人間的なつながりがある点にあり、封建制度の真髄とは国家に適用された家族制度にほかならない。

 ゆえに封建制度を理想的な形にしたもの、それこそは理想的な政治形態である。愛の法律以上に高い、法律も規約もないからである。あらゆる本の中で最もすぐれた本である聖書をひもとけば、未来の約束の国において、われわれは「わが民よ」と呼ばれ、「汝の鞭と、汝の杖」(詩篇二三・四)とがわれらを慰めるであろうと書いてあるではないか? それゆえにわれわれは、封建制度の廃止が一時的のものであって、永久的のものではないようにと、心から願うのである。憲法上の論争を数百年または数千年も続けた後に、われわれ人類はすべて、一人の「父」の子であり、それゆえに互いに兄弟であるということを悟るとき、封建制度は完全な栄光に満ちた形をとって再びわれわれの間に現われ、そして真の武士が征服した者をゆるし、誇る者をくじき、平和の法の基をすえるために、再びその座を取り戻すに至らんことをわれわれは望んでやまない。

 しかし、そのような王国の実現を待ち望む間は、それと非常によく似た事実を追想することによって、われわれの心を元気づけようではないか。これは水と陸とから成るこの地球上で、しかも異教国の日本において実際に行なわれたことである。泰西の知識がわが国にはいる前に、すでにわれわれは平和の道を知っていたのだ。そして日本独自の方法で「人の道」を行ない、英雄の勇気をもって死に臨んだのである。

2 その人物と事業
 鷹山はわずか十七歳のとき今の羽前の米沢藩の家督を相続した。九州の小藩主、秋月家に生まれた彼は生家より家の格式も高く、領地も大きい上杉家の養子となったのである。そうはいうもののこの養子縁組が彼の側から見て、ありがた迷惑なものであったことは読者にもやがてわかるであろう。彼はこれによって国中に類のないほどの重責を負わされたからである。この養子縁組の由来は、少年の伯母が米沢の老公に対し「無口で思慮深く非常に親孝行な子でございます」と言って彼を推薦したことに始まる。彼は一般の貴族の子とちがい家庭教師に対して驚くほど従順であった。師の名を細井平洲という。細井はきわめて低い身分から、この責任の地位に取り立てられたのである。この立派な教師が好んで少年に語り聞かせたのは、次のような従順な生徒のものがたりであった。

《御威勢のさかんな紀伊の徳川頼宣様が、いつも大切に扱われていたのは、おひざに残るあざでありました。それは紀伊様のお若いころ、何か先生の教えに従わぬことがあって先生に激しくつねられた跡でありました。紀伊様は後年そのあざを示して、これは、わが恩師がわれに残したもうた戒めである、恩師はこれをつねに見ることにより、つねにわが身を反省し、自身と人民とに忠実であれと教えたもうておられるのだ。しかし、ああ、あざはわが年のすすむに従って薄れ、それとともにわが自戒の心もまた衰えてゆくと歎かれるのがつねでありました》

 若き鷹山はこの話を聞くたびに泣いた。この時代にあって、きわめてまれな敏感さである。当時、貴族の子弟は他と隔たった環境で育てられ、目下の者に対する義務も自分たちの持つ権力と富との由来も自覚せぬのが普通だったのだ。彼はまた「民をいたわるに、おのれの体の傷に対するがごとくせよ」というシナの聖人の言葉を聞いて、心の奥底にまで達するほどの深い感銘を受けたらしい。この言葉はやがて彼自身のものとなり、後年、民を治める立場に立った彼の全行為を律したのである。

 非常に敏感な人は、宗教的の感受性もまた強い。初めて藩政を継ぐという囗に、鷹山は、生涯の守り神である春日明神に対し、次のような誓いを立てた。
一 文武の両道はこれまで通り将来も怠りなく励みます。
二 民の父となり母となることを第一に旨といたします。
三 次の言葉を、日夜.忘れぬようにいたします。
   濫費せざれば、危きことなし。
   施しをなして、浪費せず。
四 言行の一致せぬこと、賞罰の不正なること、不誠実、無作法、すべてこれらの不徳におちいらぬよう、努めて身を守ります。
 以上を、将来堅く守ることを誓います。万一、怠るようなことがあった場合には、たちどころに神罰を下し家の繁栄も永久に失わせたまえ。

 鷹山がこれから直面しようとする仕事は、彼ならではとうてい引き受けかねるようなものであった。彼の養家、上杉家は太閤以前の時代には日本有数の大藩であって、広く豊かな越後の国をはじめ、日本海沿岸の数力所を領有していたが、太閤によって会津地方に移されてからはとみに勢力が衰えた。とはいえなお年収百万石の雄藩であって、その領主は日本の五大名の一人に数えられていたのである。しかし関ヶ原の一戦(一六○一年)で、反徳川方に味方したばかりに、今度は遠い米沢地方に移され三十万石に減収の憂き日を見た。のみならずその後また石高は半分に減らされ、鷹山が領主になったとき上杉家の石高は十五万石にすぎなかった。しかし石高は減っても、なお百万石当時からの多数の家臣を養い、大藩時代の格式に基づく習慣を維持せねばならなかったのである。

 それゆえこの新しい領地では藩をささえることができず、藩の負債は数百万両にのぼり、税金と強制取り立てとにおびえる領民は他国に流れ、領内は貧窮と欠乏との極に達した。羽前の国の南部に位置する米沢は、海に臨まず、地味は痩せ、天然資源にも乏しいという日本の中でもきわめて貧しい地方であった。すべての情勢がこのように絶望的であったから、藩の崩壊とその保護の下にある領民の破産とは早晩避けられぬことと見られていた。藩の総力を挙げてなお五両の金を調えられぬことがしばしばであったという話からも、藩の落ち込んだ困窮のほどは思いやられる。七百五十平方マイルの領土と、十万人余の人口を有する大名とは信じられぬほどの貧困の状態である。若き鷹山が第一になすべき仕事は、まず現在の窮境を切り抜け、どうにか忍び得る程度にまで藩を建て直し、その上でもし彼の守り神たる春日明神の恵みが得られるならば、彼の領地をいにしえの聖賢が考えたような理想の国とすることであった。

 藩主となってから二年目に鷹山は、米沢の領地へ初のお国入りをした。晩秋の風情がさらぬだにあわれな領内の様子をさらに悲惨なものとしている。行列が村から村を進むうち、若い領主の鋭敏な心は、眼前に横たわる村々の荒廃し打ち捨てられ住む人もまれな光景に深く動かされた。附き添いの家来たちが乗り物の中の主君をふと見たのはそのときである。主君はひざの前にある火鉢の炭火を吹き起こしている最中であった。「殿様、良い火をお持ちいたしましょう」と家来の一人が言うと、鷹山は「いや、要らぬ、私は今、大きな教訓を学んでいるのだ、それが何であるかは後でおまえたちに話そう」と答えた。そして一行がその夜の宿にはいったとき、鷹山は家来たちを呼び集めてその日の午後学んだ新しく貴重な教訓を語った。

《わが民の悲惨なありさまをこの目でじかに見て絶望に沈もうとしたとき、私は火鉢の炭火がまさに消えようとしているのに気付いた。そこで火鉢をそっと取り上げ静かに根気よく吹いているうちに、とうとう火を起こすことができた。私は実にうれしかった。そのときこれと同じやり方で、私にゆだねられた領土と領民とを生きかえらせることもできるのではないだろうかと自分に問うてみた。そして私の心にはまた希望がわいて来たのだ》
 鷹山よ、それこそは天の声である。それと同じようなやり方で、神は昔の預言者に語りたもうた。鍋の召しによって、民を悔い改めさせ(煮え立っている鍋によって預言者エレミヤが召された故事をさす──エレミヤ書)、星の示しによって諸国民に平和を与えたもうた(キリスト降誕のとき、天に異様に輝く星が現われ、東の博士たちがそれに導かれて、キリストを訪れて拝した故事を指す──マタイ伝、ルカ伝参照)のである。われわれに聞く耳があれば自然の語る声を聞くことができる。鷹山は誠実であったがゆえに、その声を聞いた。なぜならば誠実な人間のみが自然と結ぶことができるからである。

3 藩政の改革
 人間は生まれながらに現状維持を好んで変化をきらう。これは日本と外国とを問わず同じことである。しかし若き鷹山は改革をやりとげねばならぬ。それをやらねば藩を救済することはできない。そして他人に改革を強いようと思ったら、まず自身の改革から始めなければならないのだ、鷹山の場合、まず第一に手を着けねばならぬのは財政の改革であった。藩の秩序と信用とを幾らかでも回復するには、極度の倹約あるのみだ。そこで藩士たる鷹山自身まず奥向きの費用を、一千五十両から二百九両に切り下げることとし、五十人の女中はわずか九人に減らし、木綿の着物以外は身に着けず、食事も一汁一菜にとどめた。家来たちも同じように倹約を申し渡されたが、その比率は主君よりも軽かった。年の予算も半分に減らし、それによって生じた金は藩の多額の負債の支払いにあてる、この状態を十六年続けて、初めて藩は負債の重圧からまぬかれることができるのである! これはしかし藩の財政改革の消極面にすぎない。

「民の幸福は、統治者の富である」といい、「悪政の下にある民の富むことを期待するのは、胡瓜のつるから茄子の実を得ようと期待するにひとしい」ともいう。しかも適材を適所に配することなしに良い政治はできない。「能力に応じて、人を起用する」という民主的の思想は封建政治の世襲制度に反するものではあるが、鷹山はあらゆる手段を尽くして人材を得ることに努めた。才能のある人に対しては、貧しい財政の中から高額の俸給を支払い、これらを三つの異なった役目につけて領民を治めさせた。第一は、総監督たる知事とその補佐役とである。彼らは人民の父となり母となって、その小区画の行政事務の責任を持つ。彼らに対し鷹山は次のような指示を与えた。

《幼い子供は何の知識も持たないが、母は子供の要求を知ってそれを満たしてやる。それは彼女が誠実な心を持っているからだ。誠実な心からは愛が生まれ、愛から知識が生まれる。誠実でありさえすれば何事も不可能ということはない。役人は母がその子に対する心をもって、民に接するようにせねばならない。君たちに民を愛する心さえあれば、知恵の足りないことを嘆くに及ばないのだ》

 第二種の役人は巡回教師ともいうべき者で、道徳や儀式の事を人民に教える。たとえば親孝行をする事、寡婦や孤児をいたわる事、結婚に関する事、衣服や食事の作法や葬式や家の修繕に関する事等である。そのために藩の領分を十二の地区(教区)に分け、各区域ごとに監督教師(平民司教)を置いた。これらの教師たちは年に二回総会を開いて顔を合わせるが、その他に随時領民の間での仕事の進行状況を領主に報告することになっていた。

 第三種の役人は厳格な警察官である。彼らは領民の非行や犯罪を見付けて、それに相当する厳罰を課する任務を帯びていた。彼らはいささかの容赦もなく町村の隅々にまで目を光らせた。罪人を出すことは地区の恥であったから、自分の受け持ちの地区の者が警察に厄介をかけた場合には、教師自らが責任を取った。この第二種と第三種との役人に対して、鷹山が与えた指令は次のようなものである。
  
《教師は地蔵尊の慈悲をもって民に臨め。しかし心の内には不動明王の正義を抱くことを忘れるな。警察官は閻魔大王の正義と義憤とを示せ。しかし心の内にはつねに地蔵尊の慈悲を蓄えよ》
 以上、三種の役人は力をあわせて立派な働きをした。鷹山の計画した一般政策は、知事とその補佐役とによって遂行されたが、しかし彼の言にもある通り、「教えを受けていない民を治めるのは、費用がかかる上に効果のあがらぬこと」であるから彼は民を教える監督教師を置いて、民に生命を与え、暖い血液を体じゅうに行き渡らせようとしたのである。しかし規律の伴わぬ教育もまた効がない。そこで教育をさらに効果的にするため、また示された恩恵をさらに明らかにするために、きびしい警察制度を設けたのだ。人間を治めるためにこのような三種の制度を考え出した若き鷹山は、人間性の底にまで徹する並み並みならぬ洞察力を持っていたに相違ない。

 新しい組織はどの方面からの妨害も受けずに五年間実施された。こうしてようやく秩序が見えはじめ、絶望視された社会に復興の光がさしそめたそのとき試練がやって来たのである。それは試練の中でも最もきびしいもの、鷹山ならでは堪えられぬような試練であった。保守派が正体を現わしたのだ。たとえ私利私欲のためではないとしても、旧そのもののために旧を愛する人々、このような人々にとってはどんな革新も気にくわないのだ。ある日、藩の最高の重臣七人は連れ立って若き藩主の前に出て、新しい政治組織に対する不満を述べ、その即時廃止の言質を彼からもぎ取ろうとした。

 藩主は答えない。このとき彼は領民に自分を裁かせようと決心したのである。そしてもし彼らが新しい政治に反対だと言うならば、彼は自分よりもすぐれた有能な人に喜んで彼の位置と領地とを譲ろうとしたのであった。そこで彼は即刻全家臣を召集した。武装した数千の家臣は武器を手にして城内に集まり、藩主の命令を待っている。その間に藩主は春日明神の社に行って、紛争の平和的解決を祈った。それが済んでから初めて愛する家来たちの前に出て、彼の統治は天意にそむくものであるかと尋ねた。

 知事とその補佐役とは答えた、否と。すべての警察官も否と答え、指揮官と兵卒も否と言う。一同が異口同音に否と答えた。藩主は満足した。民の声は神の声なりという。彼の心は定まった。彼はさきの重臣七人を彼の前に呼び出して判決を申し渡した。七人のうち五人は碌高を半分に減らされて隠居閉門を命ぜられ、謀反の首謀者二人は武士の作法に従って処分された。すなわち名誉ある自殺の方法たる切腹を賜おったのである。

 こうして保守主義者と不平家とが取り除かれると、幸福は領内に満ち満ちて来た。反対者の一掃というこの荒仕事の終わらぬかぎり完全な改革はない。深い信仰と鋭敏な心の持ち主であるこの若い藩主は、その上になお真の英雄でもあった。彼の力によって繁栄の治世が到来するのは期して待つべしである。

4 産業の改革
 鷹山の産業政策は二つあった。その一は領内に荒地を残さぬことであり、その二は領民の中にある怠け者の一掃である。本来痩せた土地であっても彼と領民とが力を合わせて励むならば、十五万石どころか三十万石の収穫も挙げ得ようと彼は考え、農事の奨励に全力を尽くした。藩主となってから数年の後に大規模な「土地礼拝」の式を行なったのもそのためである。藩主をはじめ、知事、郡役人、村役人、巡回教師、警察官などが祭服を身にまとい、まず春日明神におもむいて彼らの志すところを神に告げる。次いで一行は新たに開墾した土地に向かって進み、第一に藩主がおごそかな態度で鋤を取り上げて三度土にくわ入れをする。次には知事が進み出て九度、次の郡役人は二十七度、村役人は八十一度というふうにくわ入れを続けて、ついに農夫の一人一人にまで及ぶのである。鷹山はこの儀式によって以後、土を神楽に扱いますということ、また生活の幸福はすべて土から得られるものだということを、最もおごそかに宣言したのである。要するに悪い儀式ではない!
 
 鷹山は平和な時には武士に農夫の仕事をさせたので、数千エーカーの荒地を耕地とすることができた。また広範囲にわたってうるしの木を植えることを命じ、武士の家の庭には必ず十五本のうるしの苗木を植えさせた。武士以外の家は五本、寺はその境内に必ず二十本のうるしの木を植えなければならなかった。この割合以上の苗木を植えると一本につき二十文の褒美が出たが、その反対に枯れたまま補充もしないでおくと、同額の罰金を課せられるという仕組みである。こうして米沢の領内にはきわめて短期間に、百万本以上の苗木が植えられ、後世に非常に大きな影響を及ぼしたのであった。
 
 耕作不能の土地には百万本以上のこうぞの木を植えた。しかし鷹山の真の目的は、米沢藩を国内有数の絹織物の産地とすることであった。これに要する莫大な費用を藩の貧しい財政でまかなうことはとうてい不可能なので、彼は奥向きの費用として保留しておいた二百九両の中からさらに五十両を割き、これを基金として領内の絹織物生産促進のためにあらゆる努力を傾けた。わずかの資金も年々継続して出せば大きな額となるというのが、若き藩主の考えだった。その考え通り彼は五十年の長きにわたってこれを継続し、最初に植えた数千本の桑の木はふえて、ついには領内にもう植える余地がないまでに至った。今日の米沢地方の見事な絹織物は往年の藩主の忍耐と慈悲とを証明するものである。米沢織物の品質は今日の市場にあって最高のものとされている。

 領内にはなお荒地が残っていた。日本のように稲作を主とする国では、土地が肥えているということは水利の便がよいということである。水利の便が悪いために広い土地が不毛の状態にのこされていることが多いのだ。そうは言っても長い水路を作って水を引くことは鷹山の窮迫した財政の許さぬところと思われた。しかし鷹山の年来の主義である倹約はけちとは違う。「施して、浪費せず」というのが彼の標語であった。それによって社会が幸福になることが確かな場合には、彼は不可能ということを考えなかった。彼は資金の不足を補う忍耐力を持ち合わせていたからである。

 こうして最も貧しい大名である鷹山は当時の日本における最も巨大な二つの土木事業に取り組むのである。その一つが高架橋と長く高い築堤とによって延々二十八マイルの水路を作る工事であった。その水路を幾多の困難を乗り越えて完成させる。もう一つはトンネルによって、大河の水路を変える工事であった。堅い岩をくり抜いて千二百フィートのトンネルを作る。この大工事を二十年を費やして完成させた。それは鷹山がその領土に対する鷹山の貢献の中でも最大のものとなった。
           
 鷹山の家来の中に黒井という者がいた。のろい無口な男で鷹山がその男の才能を発見するまでは何の役にもたたぬ者と思われていた。しかしこの男が数学の天才であった。粗末な機具を用いて領内を念入りに測量した後、当時の人には狂気の沙汰としか思われなかったこれらの工事を立案したのである。第一の工事の完成後、第二の工事の進行中に彼は死んだが、仕事は彼の設計に従って続けられ、工事開始後二十年目に、トンネルの両端は通じたのであった。その時の高低の差、わずかに四フィートという。この国にまだ転鏡儀や経緯儀がなかった時代としては、驚くべき計算の正確さである。これによって、砂漠は花咲きはじめ、鷹山の領地の実りは豊かになった。東北地方のうち米沢のみは今日もなお水不足を知らない。

 鷹山の熱心な目は、領民の幸福につながることを決して見のがさなかった。そのためには馬の改良品種を移入し、湖や川に鯉やうなぎを放ち、鉱夫や織物工を他領から招き、商業上のすべての障害を除くなどあらゆる手段を尺くして、領内にある限りの資源を開発することに努めた。こうしてさきに述べた怠け者一掃という大方針は成功を見、怠け者は有能な労働者と変わり、日本一の貧しい地方が彼の晩年には典型的な豊かな地方と変じて今日に至っているのである。

 一人の人間の誠実によって混沌は秩序と化し、大地も不誠実な者には秘めている宝をさし出した。誠実をもって事に当たる人は、将来ともこの地方からさらに多くの宝を見出すであろう。注意と誠実とをもって探れば地球の資源はなお無限にあるように思われる。そして過剰人口をいかにすべきかの問題は、人類が尊敬の気もちをもって大地の正しい利用に当たるまでは解決しないであろう。ここに示された、鷹山と米沢とに関する事実を生命と生活とにおびえる者たちへの教訓としようではないか。

5 社会と道徳との改革
 
 東洋的考えの一つの美しい特徴は、経済を道徳と切り雎して取り扱わなかった点である。東洋の哲学者にとって富は必ず徳の結果であり、富と徳との相互の関係は実と木との関係にひとしかった。木に肥料を施せば、努力せずに実を得ることができるように、人々に愛を施せば必ず富をなすことができる。それゆえ偉人は木を思って実を得るが、小人はまず実のことを思うゆえに実を得ることができないという孔子の教えは、恩師細井によって鷹山の心に刻み込まれていたのである。
 
鷹山の産業改革の偉大さは、彼が臣下の者たちを徳行の人とすることを第一の目的とした点にある。快楽主義的な幸福観は彼の思想に反するものであった。富はそれによって万人が礼儀正しい人となるために必要であった。なぜなら昔の聖人の言葉にもあるように、人は「衣食足って礼節を知る」からである。鷹山は天から依託されたその臣を導くにあたり、上は大名から下は百姓までをひとしく律する「人の道」に依ろうとしたが、これは当時の慣習から驚くほど飛躍した行為であった。
 
 藩主となってより数年、彼の施した諸種の改革が順調に進行しつつあるとき、彼は長い間閉ざされていた藩校の再建に着手し、それを「興譲館」と名付けた。これは謙譲の徳を奨励するための学校という意味であって、彼が主として奨励しようとした徳が何であるかをよく現わすものである。この学校はその規模といい設備といい当時の米沢藩の財政状態とは全く釣り合わぬほどすぐれたものであった。その校長として当時最大の学者の一人で、また鷹山自身の家庭教師であった細井平洲を迎えた上、領内の貧しい有為な青年に高等教育を受ける機会を与えるため、多額の奨学金(返済の義務なし)を提供したのである。創立以後およそ百年の間、この学校は全国の学校の模範であった。この学校は今もなお昔の名前のままで残っているが、おそらくこの種の学校のうち日本最古のものであろう。
 
 しかし病者を癒す設備を欠いては愛の治世は完全とは言えない。わが賢明な君主はその点も見のがさなかった。彼は医学校を設立して、高名な医学者二人を教授として招く一方、薬草栽培のための植物園を作り、そこで栽培した薬草を材料にして調剤法の授業や実習が行なえるようにした。ヨーロッパの医術がまだ恐れと疑いとの目で見られていたこのころに、鷹山は数名の家来を杉田玄白のもとに派遣して新医学を学ばせた。
 
玄白は日本最初のオランダ医学者として高名な人であった。ヨーロッパの医学が日本やシナの医学にまさることをひとたび確認すると、鷹山は手に入るかぎりの医料器械を買い込むのに費用を惜しまなかった。そしてそれらを彼の学校に備えつけて授業と実習に自由に使えるようにした。こうしてペリーの艦隊が江戸湾に現われる五十年前に、すでに北日本の山間地方において、西欧医術が一般にひろく行なわれていたのである。鷹山のシナ的教養は、彼をシナ的人間にはしなかったのである。
 
 鷹山の行なった純粋な社会改革については、わずかにその二つを述べるゆとりしかない。その一つ、公娼の廃止はひとえに「愛の治世」という彼の方針に基づくものであった。公娼を廃止して下等な欲情のはけ口を断てば、さらに憎むべきやり方によって社会の純潔がおびやかされるかも知れないという月並みな反対論に対しては、鷹山は次のようにはっきりと答えた。「欲情が公娼によってしずめられるものであるならば、公娼の数は幾らあっても足りません」と。彼は公娼廃止を断行した。社会的に何らの不都合もなくこれが継続された。
 
 鷹山が「五、十組合の制度」に関して農民たちに行った訓示は、国家についての彼の理想をよく語っているものだから、原意をそこなわぬように全文をここに訳してみよう。
 
《百姓の天職は耕作と養蚕である。この二つに精を出すことによって、父母、妻子を養い、また税を政府に納めて保護を願うのである。しかしそれも互いが助け合わなければできることではないから、ここに何らかの組合が必要となる。今までに組合がなかったわけではないが、真にたよりになるものがあったとは聞かないので、ここに新しく次のような「五、十組合」と「五か村組合」を設立する。
 
一 五人組(家長のみを数える。以下同じ)は、常に一家族のように親しく交わり、喜びも悲しみも分かち合わねばならない。
二 十人組は親類のようにたびたび行き来して互いの家事の世話をせねばならぬ。
三 一村の者どもは友人のように互いに助け合わねばならぬ。
四 五か村組合を構成する村々は、隣人にふさわしく災難の時には互いに助け合わねばならぬ。
五 村民は互いに仲むつまじく助け合うことを忘れてはならぬ。村々のうちに老年にして子が無いとか、弱年にして両親が無いとか、貧しいがゆえに養子をとることができぬとか、夫を失い、または不具のために生活ができぬとか、不治の病気にかかったとか、死んでも葬式が出せぬとか、火事に会って雨露をしのぐ所もないとか、その他さまざまな災難に会いながらたよるべきところのない者に対しては、五人組が力を貸してわがことのように世話をせねばならぬ。
 
 もし五人組の手に余るときは十人組がこれを引き受け、それでも力が足りぬときは村が力を貸してその災難から立ち直れるようにしてやらねばならぬ。一つの村が大きな災害に襲われ、その存続が危ぶまれるような場合に、その隣村は救いの手をさし伸べないでおられようか? 五か村の組合を形づくる他の四か村はこれに対して心からの援助をしなければならぬ。
六 善を力づけ、悪を諭し、倹約を奨励し、ぜいたくを戒め、各自その天職にいそしむ──それがこの組合設立の目的である。百姓の中に自分の田地をおろそかにしたり、百姓の業を捨てて他の職業に走ったり、舞踊、劇、宴会その他の怠りにふける者がある場合には、まず五人組がきびしく訓戒し、それで改めぬ場合には十人組に引き渡すが、それでもなお手に負えぬ場合にはひそかに村役人に報告して、その処置をこれに一任しなければならぬ》
 
 これらの文書の中に官僚主義の匂いはあまり感じられない。のみならずこのような布告がなされそれが実行に移されたことは、米沢領を除き地球上のいずこにもなかったことであると私は断言する。アメリカその他の地で、農民ギルドと呼ばれているものは、自己の利益を主たる目的とする産業協同組合にすぎない。鷹山の農民組合に似たものを見付けようと思ったら、われわれは遠く「使徒の教会」(新約聖書、特に使徒行伝に記きれている使徒らを中心とする初代教会)にまでさかのぼらねばならないのである。
 
 警察官や、巡回教師や、学校や、たびかさなる訓示に加え、彼自ら模範を示すことによって鷹山は人口十五万人の米沢藩を、徐々ながら確実に理想の藩にしていった。鷹山が行った藩の理想化がどのよう成されたかは、「聖人の政治」を視察するためにわざわざ米沢まで行った倉成竜渚という高名な学者の領内視察報告書を読めばわかる。その数節を引用しでみよう。
 
《米沢には正札市というものがある。人家を離れた道のかたわらに、ぞうり、わらじ、果物、その他の商品を陳列しそれらに正札を付けて、売り手はその場所を離れる。そこを通りかかった人は正札通りの金を置いて品物を持ち去るという仕組みだ。米沢では正札市で盗みをはたらくような人がいようなどとは誰も考えない。
鷹山公の役所では身分の高い者ほど貧しいのが普通である。重臣中の筆頭である人物の生活ぶりを見るに、その衣食の粗末さ加減は貧書生同様である。
 領内には税関またはそれに類した妨害物はなく、商品の流通は自由である。しかも密移入が企てられたためしはない》
 
 ここに記したことは遠い代の、神秘の国の理想談と思われては困る。われわれが書いたことはみな実際にあったことであり、しかもこの地上の明確な地点でこれらのことが行なわれてからまだ百年と経ってはいないのである。そしてあの偉大な統治者の時代に現実であったことが、今では過去のものがたりとなったとはいえ、ひとたびそれらが試みられた場所、またそれらを実行した国民の間には、はっきりとした影響が残っている。これらはただ選ばれた環境の下でのみ実行されることであるからその再現は望み得ず、ましてやこの地上でそれを永続させることは不可能だなどと考えてはならない。
 
われわれの法律は、人間は悪者であるという推定の上に作られているし、われわれは今でもそう考えているが、鷹山はこれと正反対の考えから出発した。人間の中には神のようなところがあるから、誠意をもって当たりさえすれば、その神らしさを呼びさまして、悪に打ち勝たせることができると彼は信じたのである。彼はそれを信じ、その通りに実行し、そしてそれを成し遂げた。鷹山の大の崇拝家であった西郷隆盛は次のように述べている。
《古人の武勇伝を読んでこんなことは実行できぬと思うやからは、敵前で逃亡する卑怯者にひとしい》と。
そして神の国について論議し、その実現を祈りながら、そのようなことは実際には不可能だと考えているわれわれすべてもまた卑怯者、いや偽善者なのではあるまいか?


六 その為人(ひとなり)
 
 どんな人間であろうと、これに対しアダムの並みの子以上の取り扱いをすることは、当世流のやり方ではない。ことにその人が、恩恵と天啓とに無縁の異教徒である場合はなおさらである。こうした点からわれわれ日本人が、わが国の英雄を神にまつる風習もとかくの非難を受けがちであるが、しかしあらゆる人間の中で鷹山ほどその欠点や弱点を数え上げる必要の少ない人間はなかったと思う。それは鷹山自身が伝記者の誰よりもよく自分の欠点や弱点を知っていたからである。彼は人間という言葉の持つ意味をすべてそなえた人間であった。
 
 責任の地位に就くにあたって、神社に誓詞を納めるのは、弱い人間のみのすることである。また彼自身と藩とが危機におちいったとき、守り神の社に走ったのは彼の弱さ(この言葉を用いてよければ)のゆえであった。ある日、江戸の邸にいた彼の手もとに一通の公文書がさし出されたが、それは親孝行のゆえに表彰さるべき臣下の名前を書きつらねて、彼の審査と認可とを待つものであった。ざっとそれに目を通した彼は、家庭教師の講義が済むまでそれをたんすの中にしまっておくように命じたが、講義の終了後その重要な書類のことをすっかり忘れてしまった。これは万人の主として許すべからざる怠りであると、臣下の一人にきびしく非難されて藩公は限りなく恥じた。
 
 彼はその場にすわったまま、夜もすがら後悔の涙にくれ、朝が来ても後悔のため、朝食に手をつけることさえできなかった。招かれた教師が、孔子の書の一部を引用してその罪の許されることを告げ、ここに初めて食物がのどを通るようになったという。これほどまでに鋭敏な魂に対し、歴史的批評の荒々しい手を触れさせてはならない。
 
 しかし彼の公明で誠実な性格を知るには、その家庭生活と家庭内の諸事とを見るにしくはない。彼の生活の質素なことについてはさきに述べたが、彼は木綿の衣服と粗末な食事との習慣を、藩庫の信用が全く回復し自由に多額の金が使えるようになったその晩年まで続けた。畳は修繕がきかぬほど古びるまで取り換えようとしなかった。自ら破れ畳に紙を張りつけてつくろいをしている藩主の姿が見られることもしばしばであったという。
 
 家庭に対する鷹山の考えは、非常に高潔なものであった。この点において、彼は次の聖人の言葉に文字通り従った者である。
《自分を治め得る者のみ家を治めることができ、その家が正しく治められている者にして 初めて国を治めることができる》
と。その当時は蓄妾の風が公然と行なわれ、ことに鷹山の属する大名社会にあっては、妾の数が四、五名にとどまる者はまれであったにもかかわらず、鷹山は十歳も年上の妾を一人持っていただけであり、それとても次のような特別の事情あってのことだった。
 
 すなわち彼のまだ成年に達しない前、当時の日本の風習として双方の両親同士の取り決めで結婚させられた妻は、十歳の子供の知能しかそなえぬ、生まれながらの障害者だったのである。しかし彼は心からの愛と尊敬とをもって彼女に接し、彼女のためにおもちゃや人形を作るなどあらゆる手段を尽くして彼女を慰め、二十年に及ぶ結婚生活中一度として自分の運命に不満を示したことはなかった。夫妻が一年の大半を江戸で暮らす間、もう一人の配偶者(妾)は米沢に残され、障害者の正夫人に与えられていたような権限を決して与えられなかった。正夫人には一人の子もなかった。
 
 彼が慈愛に満ちた父親であったことは言うまでもない。彼は子供たちの教育のために、熱心に努力した。子供たちの教育は彼の大切な義務の一つであることを彼はよく知っていた。なぜならば封建政体の世襲制度の下では、領民の未来の幸福はひとえに彼が後にのこす統治者のひととなりにかかっていたからである。貧民の実情に通じる教育を彼は息子たちに授けた。これは彼らがその大きな使命を忘れ、それを私利私欲のために犠牲にすることのないようにと願ってである。彼が子供たちに施した教育の方針を知るよすがとして、彼が孫娘たちに与えた美しい手紙のかずかずの中から一つを選んで掲げよう。これは父の家を去って都の配偶者のもとに行こうとする姉娘に宛てたものである。
 
《人は三つの感化の下に一人前の人間となります。その父母と、先生と、主君の恩とがそれです。そのどれもが測り知れぬほど深い恩ではありますが、とりわけ深いのは父母の恩です……私どもがこの世に生を享けたのは、父母あればこそであります。この体は父母の体の一部分であることを片時も忘れてはなりません。それゆえいささかの偽りもない心をもって父母に尽くされよ。心に誠意さえあれば、たとえ失敗したとしてもそれほど的はずれのことはないものです。また知恵が足りないゆえに物事が手に余ると考えてはなりません。その及ばぬところを誠意が補うのです……国を治めることはあなたの力に余る大変なことのように見えますが、国の根本はよく整った家庭にあるのです。

 そして家庭を整えようと思えば、夫婦の間が正しい関係になくてはなりません。源が乱れているときに、どうして末の整うことが望めましょうか?……年若な婦人はとかく着物に心を奪われがちなものですが、これまでに教えられて来た質素の習慣を忘れてはなりません。養蚕その他の婦人の仕事に精を出すとともに、和歌をよみ、歌書をひもとくなどのことによって、心を養われよ。

 しかし教養や知識そのもののためにそれらを追い求めるようなことをしてはなりません。学問の目的は身を修める道を学ぶことにあるのですから、善を勧め悪を避けるような学問を選ぶことが肝心です。和歌は心をなごやかにし、これをたしなめば月や花にも心が動き情操が高められます……あなたの婿君は父として民を教え、あなたは母として民を愛したならば、民はあなた方を父母として敬うようになるでしょう。
これにまさる喜びが世にあるでしょうか? くれぐれもそちらの御両親様に孝行の誠を尽くして、お二方を慰め、また婿君に対してはおだやかな心で従うことを心がけられよ。願わくはわが娘の限りなく栄え、わが国にふさわしい有徳の婦人として尊敬されるに至らんことを。
 いとしき娘の都へ旅立つに際して
春を得て花すり衣重ぬとも わがふるさとの寒さ忘るな》
                                
 骨身惜しまず働いた節制家の鷹山は、七十年間変わらぬ健康に恵まれ、青春時代の大志の大方を実現させた。すなわち彼の藩が確固たる基礎の上に立ち、領民の生活が十分に安定し、領国全体が豊かに甦るのを彼はその目で見たのである。かつては一藩の力を集めても五両の金を調達できなかったものが、今は一万両の金さえ即座に調えることができるようになった。このような人の最期が安らかでないはずはない。文政五年(一八二二年)三月十九日、鷹山は最後の息を引き取った。
 
《領民は自分らの肉親の祖父母を失ったように泣いた。あらゆる附層の人々の悲しむさまはここに述べることもできないほどである。葬送の当日は悲しみの群衆数万が道筋を埋めた。両手を合わせ、頭を垂れ、声を挙げて泣くこれらの人々の嘆きに山や川や木々までが和した》
と、その光景がしるされている。
 
 そして進歩した政治機構やベンタムとミルの経済学や、哲学的評諭とキリスト教的道徳に加えて、なおそれ以上のものを有するわれわれもまたその「父母の恵み」によって、かつてはこの世に存在したこの偉大な霊魂の死を悲しまずにはいられない。憲法上の口論を世の終わりまで続けても、鷹山が生前に成し遂げた事績に及ぶことはできないであろう。
 
 彼のような君主を再びいただくは望めないであろうゆえに、われわれは封建制度に別れを告げ、西欧の発明にかかる投票制度をまねてこれを採用したのである。だがいつの日かすべての悪者が影をひそめ、すべての政治家がみな鷹山のようになった暁には、われわれは、新しい封建制度をわれわれの間に打ち立てよう。そのときにはわれわれはすべて満ち足りて欠けるところなく喜びにあふれて悲しむことはないであろう。


 
 


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