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あの朝の光はどうだ

町の片隅に点在する
塾に、分校に、子供団に、
きらきらと輝く
子供たちがやってくる。
閉塞の社会に
新しい地平を開く
現代の壮大な叙事詩!
ゼームス坂物語
 


あの朝の光はどうだ


「あいつ今日も休みかよ」
 と正憲がいまいましげに言った。
「あいつ、いいかげんだよな」
 と明彦が応じると、広美が、
「でも学校にいけるようになったんだって」
「だけど、毎日いってるわけじゃねえよ」
「またいけなくなるかもね」
「また家で食っちや寝、食っちや寝しているんだ。ぜったいにだらけた生活してるんだ。せっかく冒険できるようになってきたのに、これじゃまたもとにもどっちゃうじゃねえか」
「喘息もでなくなったしねえ」
「ねえ」
 と洋子とみどりも相槌を打つ。
「あいつはまったくちょろかったからな」
「そう。すぐぶうぶう言ってさ、洋子にも抜かれて、いつも点になっちゃうぐらい遅れるんだ。早く走れよってはっぱかけると、ぼくは喘息だからって、ぜいぜいさせてさ」
 正憲がその頃のことにふれると、みんなはいっせいに信州遠征の大冒険のことを話題にするのだった。その話になると子供たちは、気がちがったみたいに興奮する。
 信州に向けて分校のサイクリング隊が出発したのは八月のはじめだった。夜明け前に品川を立つと、丸子橋を渡って、多摩川を一路北上する。立川あたりから国道にはいって青梅にむかった。青梅の青年館が最初の宿だった。二日目は青梅街道をさらにさかのぼって氷川を抜け、奥多摩潮を左に見て、丹波村を通って塩山にでた。二日目のその山越えが文字通りその遠征の山場だった。峠をいくつもこえなければならない。やっと勾配の急な山道を上りきったと思ったら、さらにまた新しい坂がまちかまえているという具合だった。しかしその道の景色は美しかった。峠があり、湖があり、川がありと変化に富んだ景観のなかを走るのだ。二目目は大菩薩峠近くでテントを張った。そして三日目、目的地である原村めざして全員もりもりと走った。甲府を抜けて、韮崎を抜け、小淵沢をあっという間に走り抜けて、目的地である原村に入ったのは、まだ一時前だった。
 原村の川北牧場が経営するペンションで、二日ほど休息の日をとって、また同じ道をたどって品川に戻ってくるという八日間の信州遠征を、分校の生徒は一人の脱落者もなくやりとげたのだった。その遠征によって分校の子供たち全員が、しっかりと一つの太い絆で結ばれたように思えた。困難な道をともに乗り越えてきた友だちという感情が、だれの心にもあふればかりに植えつけられたのだ。
 その遠征が終わると、正憲がまたみんなを集めて、
「今度はいよいよ日本海だからな」
 子供たちのなかに、大きな冒険を成し遂げた深い充実感が、まだたっぷりと残っている。だからたちまちその話なると活気づくのだ。
「今度は二週間だからな。いまから計画をたてておかなくちゃいけないぜ」
「練習もしなければね」
「そうよね。一番おそいのは博くんだからね」
「でも博康は強くなった。お前は今度はすごくがんばったからな」
「あれがおれの力ってもんよ」
「よく、言うよ」
「しかしさ、あの青梅の坂を、ぴったりとおれについてきたとき、ほんとうにびっくりしたぜ。お前はすごくなったなって思ったよ」
「博くんのつくるヤキソバだってうまいしね」
「博康もいくんだからな、今度の遠征にも。ぜったいだぞ」
「もちろん」
 そして正憲は、一人も脱落するなよとばかりに、
「いいか、お前たち全員いくんだからな。ぜったいに裏切るなよ」
 と念を押すのだった。
 しかし、その博康は夏休みが明けてから分校に姿を見せなくなった。学校にいくようになったのだ。なんでも博康の母親の報告によると、突然明日から学校にいくと言って学校に通いはじめたらしい。その登校はいまでも続いていて、もしかしたらこのまま学校に復帰できるかもしれないと、母親は弾む声で報告してきた。
 その報告があってからしばらくたって、また博康の母親から電話があった。その声がちょっととげを含んでいる。
「正憲君と明彦君がうちまでやってきましてね」
「大森のですか?」
「そうなんですよ」
 博康の家は大森にあったが、信州まで遠征した分校の生徒にとって、大森あたりにいくのはわけないことだった。
「二人はとても気にしてるんですよ。元気でやっているかって」
「それはうれしいことなんですが。しかし正憲君は、うちの子を脅迫しているようなんですよね」
「脅迫ですか」
「ええ、分校にこいって。分校と学校がどっちが大事かって。裏切り者になりたくなかったらちゃんと分校にこいって。そんなこと言われて博康もずいぶん迷って、ぼくは分校にいかなくちゃいけないのかなあって。そんな、先生。せっかく博康は学校にいくことができるようになったのに。そんな馬鹿なことがあるかという思いなんですがね」
「ええ、そうですとも」
「まさか野島先生が、そんな指導をなさっているとは思わないのですけど」
「もちろんです。学校にいけるようになるのが目的の一つなんですから」
「ですから博康が、学校にいけるようになったということは、みんなに祝福してもらっていいことなのに、それが裏切り者だなんて言われると。博康はすごく考えこんでしまう子なんですね、ああ見えても。それは分校のみなさんにお世話になって、ようやく学校にいけるようになったことは感謝していますけど、でもいまは大事な時期ですから」
「ほんとうにそうですわ」
「ですから正憲君、ちょっと困るんですよね。しょっちゅう電話があるんですよ。ちょっとしつっこいぐらいに。なにを話しているかききもしませんけれど、博康の様子をみて、やっぱり裏切り者だとか、分校にこいとか言われていると思うんですね」
 正憲が明彦をつれて博康の家にいったことも、彼が頻繁に電話をいれていることも智子ははじめて聞くことだった。智子は博康の母親の非難めいた電話に一応謝ってみた。しかし正憲の言った裏切り者という言葉の意味は、彼女が非難しているような意味ではないはずだった。しょっちゅう電話をいれているのも、彼女が言うようにおどかしているわけではなく、友情といったものであり、友を失うことにたいする寂しさからくるものだと思うのだ。二人のあいだにはそれだけの心の交流があったのだ。だからこそ博康だって裏切り者と言われて悩んだりするにちがいなかった。
 だから正憲の行為を一方的に非難するのではなく、そんな正憲の気持ちも少しはくんでほしいと思うのだった。ともに助けあって活動してきた仲間だった。あの遠征を力をつなぎあわせてのりきった仲間だった。その一人がある日突然姿を見せなくなってしまう。そのことの寂しさや悔しさを。
 しかしそれはそれとして、やっぱり正憲には言っておかなければならなかった。注意するということではなく、博康をもう少しそっとしておこうと。それだけですべてを察する子だった。
 翌日、正憲と二人になったとき智子は、さりげなく、
「昨日ね、博君のお母さんからまた電話があって、博康君、がんばってるって」
「ふうん、それで」
「毎日元気で学校にいっているって。博康君も一生懸命なのよ。だからみんなでそっと見守ってあげましょうよ」
 正憲はふんと顔をそむけて、不満げな様子でその場をはなれていった。
 そんなことがあったあと、九月も終わろうとしているとき、明彦の母親が分校に姿をみせた。典子は分校を創設するきっかけをつくった一人であり、いまなお智子を精神的に支えている一人でもあった。智子はなにかと問題があるとまず典子に相談した。彼女にはずいぶん助けられてきたのだった。あの信州への遠征も、夫婦で応援してくれた。
 その彼女が、雑談のあとに切り出しにくそうに、
「これから火木土と、塾にやろうと思っているの」
「すると、ほとんど毎日じゃないの」
 いま明彦は月水金と進学塾に通っている。その日は二時ごろに分校をでて、渋谷にある塾にでかける。それを今度は火木土も通わせると言うのだ。
「ゼミのテストが毎月戻ってくるんだけど、ぜんぜんだめなのね。このままじゃどこにも入れそうにもないのよ」
「でもそんな過密なスケジュールを組んだら負担にならないかしら」
「でもそのぐらいしなければ、とても受からないと思うわ。ものすごくレベルが高くなったでしょう。私たちの時代にはあんな学校なんて馬鹿にしていた学校が、それはもうすごく高いレベルになっているのよ」
「そうね。それは異常なぐらい」
「明彦は公立では無理なのね。万引したというレッテルが貼られているわけだし、そのことがまた中学に入っても全校に広まっていくわけでしょう。中学にいってまで、そのことでつまずいてもらいたくないし。住所を変更して別の公立にいくことも考えたけど、これもたいへんなのね。いろいろと面倒なことがあって」
「そうね」
「万引というレッテルを貼られていない新しい世界で、のびのびと生きてもらいたいのよ。そういう過去を引きずらないためにも、どうしても私立に入れたいのね」
「なんだか、つらい話ね。レッテルが貼られているなんて」
「子供って残酷なところがあるから、そんなふうにレッテルを貼って、からかいおとしめていくことが上手なのよ。そんなところは、なかなか迫力よ」
「そうね」
「宏美ちゃんはやっぱり公立なの?」
「そうなの。ぜったいに公立にいくって。公立にいって私をいじめた子をやっつけてやるんだってはりきっているの」
「たくましいわね。ほんとうに宏美ちゃんはたくましくなったものね」
「正憲君に、いじめっていうのはかならず中心になる子がいる、その中心になる子と、タイマンで戦えばいいんだという知恵を吹きこまれたらしいの。それでこの間もコンビニで、クラスの子に会ったら、その子たちはさっそくかたまって宏美をみながら、ひそひそ話しをするわけね。そこで広美はつかつかとその中心になっている子のところにいって、その子の目をまっすぐににらんで、なに話しているわけって言ったらしいの」
「ヘえ」
「その子は、なんにも話してないわよって言って、ほら、よく女の子たちがやる、手をひらひらさせて、くさいくさいといった仕草をしたらしいのよ。そうしたら宏美は、その子の手をつかんで、なにがくさいわけ、どこがくさいわけ、くさいだとか、バイキンだとか、あなたたち平気でそう言うけど、言われた人のことを考えたことあるの。もしあなたがそう言われたら、泣きたくなるぐらいくやしい思いをするでしょう。あたしの目をちゃんと見てよ。その目をぐらぐらさせないで、あたしの目を見て。あたしはあなたの目に言ってるんだから。あなたね、もっと人間として成長してよねって言ったらしいの。そのコンビニのお店のなかで、大きな声をあげて」
「すごい子だわ、宏美ちゃんは」
「それも正憲君の影響なのよ。正憲君はいつも博康君たちにはっぱをかけるときそうやって言っていたのね。おれの目をみろよなって。ぐらぐらさせないで真っ直ぐにおれの目を見ろよなって。正憲君のいいところをいっぱい吸収しているのね。そんなことがあったあと、その女の子たちは宏美の姿をみると、こそこそと逃げ出してしまうんですって」
「宏美ちゃんは、完全に立ち直ったのよね」
 宏美もまた分校のなかで大きく成長していった。彼女はそれまで自分のことしか見えないところがあった。クラスのなかで完全に浮き上がっていたのは、まわりの状況が見えていなかったことがあったのだ。しかしいまの宏美はしっかりとまわりが見える子になっていた。もうみんなのなかで自分はどう動いていけばいいのかをしっかりと考える子になっていたのだ。彼女は分校に育てられたのだ。正憲に、明彦に、博康に、洋子に、かおるに、久美子に。分校の仲間の一人一人が彼女の先生だった。
 それは十二月に入ってのことだった。藤沢の「自由広場」の創立記念目が十二月二十日に行われるが、分校の生徒たちもそのパーティに参加することになっていた。そのパーティで、子供たちは劇をしたり歌をうたったり楽器で演妻したりする。だから分校でもなにか出し物を用意していかなければならなかった。「自由広場」の子供たちの出し物はいつもユニークで力にあふれていた。そんな舞台を何度か見ている正憲や広美や明彦は、分校でもそれに負けないぐらい面白いものをつくろうと、あれこれと思案をかさねていた。
 それで編み出したのが、宏美がピアノを弾き、正憲たちは、バケツだとか、鍋の蓋だとか、ヤカンだとかを、どかどかどんどん叩きながら、そのリズムにのって踊りだすという出し物にした。その踊りもちゃんとした振付けがあって、手の振り方、体のねじり方、ステップの出し方と、なかなか高度に仕組まれていて、子供たちは毎日その踊りの練習をしていた。
 その日まであと二週間とせまった日、ふと明彦がそのパーティに自分はいけないと言った。みんながびっくりして、
「ヒコザがいけないんだって」
 と声をたてると、正憲がちょっと色をなしてとんできて、
「どうしていけないんだよ」
「ゼミの全国テストが……」
「そんなもんと、こっちと、どっちが大切なんだよ」
「でもお母さんが、進路をきめる最後のテストだから、ぜったいにだめだって」
「お母さんお母さんって。おれたちを裏切ってもいいのかよ」
「そうじゃないけど」
「でも裏切るっていうことだろう。博康がこなくなっときお前、言ったじゃねえか。あいつは裏切り者だって。ああいうやつは許せねえって。それと同じことをお前だってやろうとしているんだぞ」
 と正憲ははげしく責め立てた。そんな様子をみていた智子は、正憲の怒りをなだめるように、
「正憲君の言いたいことはよくわかるけど、でもいま明ちゃん大変なのよ」
「だけどおれたちのほうだって大変でしょう。ヒコザが抜けたらアウトじゃないですか。冬の合宿にもこないわけだし」
「それはまだわからないわよ」
「きやしねえよ。そうだろう。ヒコザ」
 明彦は叱られたようにうつむいたままだった。
「お母さんがよ、また受験だって言うに決まってんだろう。なあ、ヒコザ」
「それはまだわからないわよ。おばさんがたのんでみるから。二日ぐらいだったらこれるかもしれないわよ」
「二日なんてきたってしょうがねえよ。まったく博康だってさっさとやめていくし。だらだらぐたぐたしてた博康がさ、チャリでちょっと自信がついたらバイバイしやがってよ。そんなのねえよな」
 正憲の心のなかでは、まだ博康のことがひっかかっていることに智子は気づくのだ。彼はいまだにそこから脱出できていないのだと。
「でもみんなで博康君を励まして、あれだけのことができるようになって、それですごく勇気がでて、学校にいけるようになったんだから」
「だからって、こっちをあっさりと裏切っていいということではないでしょう」
「でも、博康君はぜったいに心のどこかで思っているわよ。この分校で正憲君たちに鍛えられたから強くなったんだって。強くなってまた学校に戻っていったんだから、祝福すべきことじゃないの」
「おばさんの言うこと聞いてるとさ、学校、学校って言うけど、それじゃあ学校にいけないぼくらは、悪いってこと? なんだかおれたち、すごく悪いことしてるみたいに聞こえるけど。勇気がなくて、弱くて、駄目だって」
「そうじゃないわ」
 と智子はあわてて言った。
「おばさんの言い方は、そうじゃないですか。学校にいけないことが悪いことで、駄目なことだって。学校にいけることがいいことで、祝福されることだって」
 彼は頭のいい子だった。すべてがわかっているのに、このからみ方はいったいどういうことなのだろうか。智子はもつれた糸をていねいにほどくように、
「だからおばさんの言っていることは、学校ににいけたからって、裏切り者だってきめつけてはいけないってことなの。それはそれで素晴らしいことでしょう」
「学校にいけない子は、素晴らしくないってこと?」
「そうじゃないわ」
「この分校は素晴らしくないってことですか。おれたちがここにくるのは学校よりも素晴らしいからでしょう。学校よりも素晴らしい活動が行われているからくるわけでしょう。学校よりもおれたちの力をつくるから通ってくるわけでしょう」
「そう思いたいわね。それをめざしているけど」
「それなのにさ。みんなを裏切ってよ。そんなことってないじゃないですか」
 と正憲は嘆くようにうめくように言った。智子はかえす言葉もなかった。正憲の言ったことは、驚くほど深く智子のはじめた分校の本質をついているのだった。どんなに分校が素晴らしい活動をしても、それは結局分校という名がしめすように学校に付帯した、付帯などというのもおこがましい、学校に吹きこむ隙間風を防ぐようなそんな機能でしかないのだ。正憲はそう言っているようでもあった。
 正憲もまた分校の創造者だったのだ。正憲だけではなくここに通う子供たちすべてがともに築く者たちだった。智子はいつも彼らに言ってきた。あなたたちはこの分校の共同の創造者なのだと。事実みんなでこの小さな砦を築いてきたのだ。それがもう崩壊しはじめている。正憲はその危機をだれよりも深く感じているのだった。このままだと明彦がやめていくのは時間の問題だった。そして宏美もまた四月から学校にいく。残る人間はわずかになってしまう。
  その夜、智子は典子に電話をいれた。正憲との会話を話して、冬の合宿には一日でも二日でもいいから明彦を参加させてもらえないだろうかと頼んだ。しかし逆に典子から、いまの窮状を訴えられて、来週から分校を休ませたいと言うのだった。なんでも冬期の講習会がはじまり、最後の天王山だからぜひ通わせたいと。
 典子もまた必死なのだった。登校拒否をした子を入学させる私立中学というのはほんとうにわずかしかない。そのわずかしかない学校に入るには、入学試験で上位の成績をとらなければならないのだ。典子があせる気持ちは智子によくわかる。智子はよくわかったと言い、彼女は励ますのだった。
 そのことを正憲に伝えねばならなかった。また正憲はがっかりするにちがいない。心が重いことだった。しかし言わなければならなかった。できるだけ明るい所で告げようと、庭にいた正憲をつかまえて、
「明彦君、だめだって。合宿も」
「そうなるだろうと思ってたけど」
「なんだか残念ね」
「残念でもないですよ」
「それならいいけれど」
「あいつのことは前からわかっていたから」
「また正憲君がっかりすると思って、どう言えばいいかって……」
「いいですよ。合宿にいく者だけで燃え上がればいいわけだから」
「そうね」
「おばさんもそんなにがっかりすることありませんよ」
 と正憲はかえって智子をなぐさめるのだった。
 日曜日、智子は叔父を食事に誘った。彼女が食事に誘うときはいつもなにかをたのむときで、そのときもそんなちょっとうしろめたい気持ちを軽いジョークにしてまぎらわせようと、
「私に食事を誘われると、いつもひやりとしません?」
「とうして?」
「だっていつもたのみごとばかりだから」
「もう覚悟はしているよ。今度はなんだね」
「お正月に休暇を二日ほどとりたいんです。土曜日と日曜日をつかって、四日ほど湯沢で合宿するんです」
「ああ、それはかまわないよ」
「なんだかいつもすみません」
 支給された冬のボーナスも昨年より多かった。叔父は智子をずうっと背後で援護しているのだ。ほんとうに彼の援護がなければ分校は続かない。
「もうすぐ一年になるね。分校も軌道に乗ったというところかな」
「いえ、それが次から次へと、いろんな問題が出てきて。博康君が学校にいけるようになったんですけど、そのことが子供たちにはとてもショックで。その波紋が消えないうちに、今度は明彦君が中学受験のためにこなくなってしまって。春になれば宏美もまた学校にいってしまうし、残るのは五人になってしまうんですよ」
「子供たちがいなくなるということは、学校にいけるようになったということで、それは智ちゃんの指導がよかったということじゃないのかね」
「そう言ってもらえたら、うれしいんですけど」
「ゼームス坂分校は、めざましい成果をあげたということじゃないのかね。子供たちはそれぞれたくましくなって、また荒海に乗り出していくんだから」
「でもそれはほんとうにそうなのか。たくさんこれからしたいことがあるのに、その途中でやめていく、あるいは学校にいけるようになってしまう、それでいいのかって。なんだか全部中途半端に終わってしまって。そのことを鋭く批判した子がいましてね。その子にはなにも言えなかったんです。鋭いなって。その通りだなって」
「なるほどね」
「そんなことですっかり落ちこんでしまって。分校って、結局学校の下請け機関なのか、たったそれだけのものかって思ったり」
「学校という大企業のね」
「零細も、零細の、下請け」
「そう考えればみじめだね。貧しくとも自主独立というか、独自の精神をもって進みたいものね」
「ええ、そうです」
「だからさ、いろんな問題があるけれども、智ちゃんの掲げた最初の高い理想の旗は、やっぱり振り続けていなければならないということじゃないのかね」
「そうですね。それはぜったいにそうなんですけれども」
「高い理想は、たいていその高さにつぶされていくもんだよ。でもそれでつぶれたら本望じゃないか」
「ええ」
「もともと分校をはじめるようになったのは、宏美ちゃんのことがあった。その宏美ちゃんがたくましくなって、かつてのいじめっ子たちを、完膚なきまでやっつけられるようになった。そのことだけでも素晴らしい成果じゃないか。それだけでも分校の役目は果たしたと考えてもいいんじゃないか」
「なんだかずいぶん調子のいい考えですけどね」
「だから、このままみんな学校にいけるようになって、分校の生徒がゼロになるということは、偉大な目的を達成したということだね。ゼロになれば智ちゃんはまたわが零細企業に戻ってくるということなる。これは素晴らしいことじやないか」
 と言って叔父はからからと笑うのだった。
 なるほど、そんなふうに考えることもできる。たしかに叔父の言うように宏美のために分校をつくったようなところがあった。しかしいまはそうではなかった。分校は正憲のものであり、洋子のものであり、久美子のものであり、かおりのものであり、美香のものだった。彼らのためにも分校は守りぬかなければならないのだ。
 冬の合宿をほんとうは弘の子供団のような、あるいは丹沢の小屋にこもった長太の塾のような手づくりの合宿にしたかったのだが、いまや博康が去り、明彦が不参加で、戦力が極端に落ちた分校ではどうすることもできなかった。結局、三泊四日のスキー合宿ということになった。
 そのスキー場をどこにするか、あちこちにあたってみたが、見知らぬ地にでかけていくことが不安なこともあって、かつて邦彦と宏美でよくいった湯沢にいくことにした。そこに智子の友人の経営するペンションがあるからだ。
 その年は雪が降るのが遅かった。冬休みに入っても湯沢の積雪はゼロに等しくやきもきさせられたが、正月に寒波が日本列島にやってきて、どっと各地に雪を降らした。彼らの出発は一月七日だった。明彦をのぞいて分校の全生徒がいくことになった。全生徒といったって、正憲と、宏美と、かおりと、久美子と、美香と、洋子の六人だったが。電車に乗り込む前から、もうわいわいがやがやとうきうきした気分をかくしきれない様子だった。新幹線にのると、座席をむかいあわせてトランプだった。彼らのけたたましい騒ぎに智子は何度も注意するほどだった。
  列車はあっというまに越後湯沢に着いた。あたりは雪景色だった。
 和子がラウンドクルーザーで出迎えてくれた。彼女と会うのは三年ぶりだったが、ジーパン姿は相変わらず若々しかった。駅から彼女のペンションまで車で十分の距離だった。
 子供たちはしゃれた屋根裏部屋に通され、そこで荷物をおろすと、もう外に飛び出していった。和子は智子を食堂に連れていき、コーヒーをいれた。食堂の大きな窓から子供たちが、雪のなかをかけずりまわっているのが見える。
「みんないい子ね」
「そうなの」
「礼儀正しいし、とてもしっかりしているし。しつけがいいせいね」
「それはうれしいわ」
「あの男の子、いい感じね。とても素敵よ」
「そうなの。あの子はうちの隊長なの」
「みんなに号令をかけている姿なんか、たいしたものよ」
 そして話題を変えてきた。それは避けて通ることができない話題かもしれなかった。離婚してからはじめて和子に会うのだ。
「ほんとうはここにきたくなかったの。あまりにも邦彦との思い出がありすぎて。いろんなことを思い出して、とてもつらくなるんじゃないかと。でもきてよかったわ。あの子たちも喜んでいるし。充実した合宿ができそうだわ。それにあなたに会えたし」
「でもあなたたちが離婚するなんて思いもよらなかった。危ないのは私たちだったんですからね。もっともいまでも危ないけど」
「そうなの? あなたはいよいよペンションのおかみさんという感じだけど」
「あたしたちだって、いつ別れるかわからないわよ。ぱあっと別れて、新しくなりたいっていつも思っているのよ。だって一人になればまた恋だっていっぱいできるわけでしょう」
「そんなものじゃないと思うけれど」
「でもよ、結婚しているといろんな膿とか垢とかがいっぱいたまるでしょう。そんな澱みをきれいに流して、新しくなりたいという気持ちがおこって当然でしょう。それが普通なのよ。だから智子がうらやましいよ」
「なんだか、あなたは昔からそんなこと言っていたわね」
「そうだったかしら」
「あなたはやっぱり政夫さんから別れられないわよ。素敵だもの。政夫さんの生き方っていうか歩き方が」
「なにが素敵なものか。のんびりしているだけよ。あたしだってぱあっと別れて、あなたをびっくりさせるときがあるかもしれないからね」
 和子はひょっとするとそんなふうに言って、智子の離婚をなぐさめているのかもしれなかった。しかしもうなぐさめてもらうほど心は痛んでいないのだ。もう次第に過去のことになっているのだった。
「宏美ちゃんは、邦彦さんとときどき会ったりするの?」
「会ってないみたい。別に禁じているわけじゃないのよ。宏美にはいつも言っているの、会いたくなったらいつでもお父さんに会いにいきなさいって。でも宏美のなかにいまだにわだかまりがあるようで。邦彦のほうからもなにも言ってこないし」
「そうなの。それがいいのかもしれないわね」
 邦彦と彼女は駒沢に居をもって、新しい生活しているようだった。結婚式は宏美が中学生になって、しかもちゃんと学校にいけるようになってから挙げるというような話が、まわりまわって智子の耳にはいってきた。その話を聞いたとき智子はひどく不決な気持ちになった。そんなことを彼のほうが引きずることはないではないか。勝手に去っていったのだから、勝手に結婚式でも挙げればいいではないか。そこまで宏美のことを引きずってもらいたくないという心境だった。
 ペンションの前から、一本の道がゲレンデにつながっている。その道をみんなスキーを抱えて歩いていく。十分も歩けばスキー場だった。広場はもう人で一杯だった。平日だというのに、いったいどこからきたのだろうかと思える人の群れだった。みんな衣装がカラフルだった。まばゆいばかりの色どりにあふれている。
 リフトで初級者用のゲレンデにあがると、智子はスキーがはじめてのかおりや美香や洋子や久美子に講習会だった。ざっとすべり方を教えてすぐに実践。久美子はこわそうにそろそろとすべっていく。慎重なすべり方だ。かおりはきゃあきゃあと声をあげながらすべり、ああっと叫んで横転する。洋子は口をぎゅっとむすんで、神妙にしかし大胆にすべっていく。いいぞ、その調子、と智子が声をかけたとたんスキーが開いてどすんと尻餅をつく。美香のスキーは最初から攻撃的だった。どんどんすべっていく。スピードがぐんぐんあがる。木立がある。木立にむかって突っ込んでいく。危ないと智子が青くなって叫ぶ前に、美香は自分からどんと倒れこんでいた。
 遠くに目を転じると、正憲と宏美がぴったりとよりそってすべってくる。二人は気持ちよさそうに、あざやかな曲線を描いて、ぐんぐんとすべりおりてくる。そしてみんなの前にすべりこんでくると、派手に雪煙をあげてぎゅっと止まった。
「うまいなあ」
 美香がほれぼれとした声をあげた。
 正憲が智子のそばにやってきて、
「今度はおばさんがすべってきて。ぼくがこいつらを教えるから」
「まあ、やさしいのね」
「たまには親子ですべってきたら」
 というやさしさなのだ。そんなわけで、智子は宏美と並んでリフトに座った。そのとき宏美が、ふと、
「私、お母さんに黙っていたことがあるんだ」
「なんなの?」
「暮れにお父さんに会ったの」
「そうなの」
 智子は、おやという表情をむけて言った。
「三十日だったかな。お父さんから電話があったのたよ。お母さん、その日でかけていたでしょう。だからお母さん、いませんって言ったら、宏美にプレゼントがあるからどうしようと言うから、じゃあ送って下さいと言ったら、いま大井町にいるから、ちょっと出てこないかと言うの。だから出ていったの」
「そうなの」
「それで会ったんだけど」
「それはいいことじゃない。どうしていままで黙っていたの。お母さん、反対すると思ってたの」
「そうじゃないけど」
「そんなこと隠すことじゃないわよ」
「なんだか、お母さんに悪いみたいでさ」
「そんなことない。宏美のお父さんだもの。会いたくなればいつでも会ってもいいのよ。そんなことぜんぜんかまわはないわよ」
「お父さんのプレゼント、ちょっといやらしいと思ったけど……」
「どうしていやらしいわけ?」
「だって、私たちを裏切ったわけだし」
 宏美がこんな場所で、思わずそのことを漏らしたのは、彼女の心のなかにもありし日が、痛ましくよみがえってきたからなのだろう。このスキー場に毎年のように三人で訪れていたのだ。ここには濃厚なばかりに、三人の絆の思い出があるのだ。次第に邦彦は智子のなかで遠くなっていく。しかし宏美のなかで彼は依然として生々しい存在なのかもしれなかった。そうかもしれない。邦彦はなんといっても彼女の父親なのだ。
 二人はさらにリフトを乗り継いで、山の頂まで出ると、そこからすべり降りた。ひさしぶりだった。白い空気、ひかりの散乱、青い風。彼女のからだは風のように軽くなる。のんびりと広がった雪原を、右にまわり、左にまわり、体をのせて舞っていく。それは恍惚とするばかりだった。
  ペンションの食堂は夕食時、ライトアップされて高級レストランのような雰囲気になっていた。テーブルにすわった子供たちは、最初は他の宿泊客に気がねして神妙にしていたが、すぐに地が出て、わいわいぎゃあぎゃあと何か爆竹がはぜたように盛り上る。
「あいつはいまごろ、受験でひいひい言ってるよな」
「ヒコザのこと?」
「そう、おれも去年そうだったもの」
「なんでしいしいするの」
「ひいひい」
「しいしいって言ったよ」
「ひいひいなの」
 宏美が直すのだが、洋子は何度言ってもしいしいとなってしまって、みんなどっと爆笑する。
「あんた、しいしいって言えないのか」
 と美香も言うのだが、その美香もしいしいなのだ。
「みんな気が違ったみたいに勉強するってこと。おれはあんまりしなかったけど」
「だからだめだったわけ」
「つらい過去にふれないでくれよな」
「でも落ちたとき、どんな感じがしたの」
「まずさ、あたりが真っ白になるわけよ、それからばばあの顔がぼうと浮かんできて、まただめだったのって顔でさ。次におやじの顔があらわれてさ。だからお前はだめなんだっていう怒鳴り声がきこえてくるようで。うるせえんだよ、おれはどうせだめなんだよっていう気分で歩いていたけど、頭の中は真っ白だったよ」
「ふうん」
「受験って、どこかやっぱ、おかしくなるよ」
「そうなんだ」
「ヒコザも、おかしくなるのかな」
「あいつも、ちょっと狂ってたじゃん」
「うん、狂ってた狂ってた」
「でもヒコザは、受かると思うけどな」
「あいつは受かるかもしんねえな」
「受かったらさ、やめていくわけでしょう」
「まあ、そうだな。こんなとこにくるわけねえよ」
 と正憲はなんだかやけっぱちに言った。
「でも受かったら合格パーティしようね」
「落っこったら落選パーティだな」
「落選パーティがいいな。だってそうしたらヒコザはまた一緒じゃない」
 とかおりも言った。
 しかし明彦はあっさりと私立中学に合格してしまった。二月に入って、そのことを報告にきた明彦をみんなで取り囲んで、さっそく合格パーティの話になった。子供たちはパーティが好きなのだ。そんな話になると一気に盛り上がっていく。しかしその輪のなかに、正憲は入ってこなかった。なにか冷たいのだ。冷たい距離を明彦との間においている。そのことが明彦にもわかっていて、気の毒なほど明彦は緊張していた。
 智子はそんな雰囲気がいやだったから、正憲もその話のなかに誘いこもうと、
「それで、そのパーティが終わったら、また春休みにむかって、活動を開姶しましょうよ」
「またどこかにいくの?」
「そう。今年の夏は、日本海遠征をするでしょう。だからそのためのトレーニングを開始するのよ」
 するとその時、遠くの椅子に座っていた正憲が鋭く言った。
「そんなの意味ねえよ」
「あら、どうして」
「だって、そうでしょう。ここではなにをやってもみんな裏切ってやめていくんだ。この分校はみんなで夢を育てるところだとか、冒険ができる場所だとか、あの開高さんのようにハナス湖にいけるんだとか言うけど、そんなことを本気で考えて、本気になってやってみようと八王子にいったり、八か岳にいったりするけれど、それで終わりなんだ。ぜんぶ中途半端で終わるんだ」
「それはちがうと思うけど」
 と智子はたじろぎながら言った。
「ぼくたちは大きな目的がある。だからみんなで雨のなかを走ったり、つらいときも励ましあってやってきたわけでしょう。だんだんみんなに力がついてくる。ぐたぐた泣きごとばっかならべてた博康もあんなに力がついた。ヒコザだってみんなを引っ張っていける力をつけた。みんな大きな目的があったからでしょう。チームワークができて、宏美なんか食糧の計算とか、スケジュールとかすごくうまくたてられるようになった。かおりだって、洋子だって、久美子だって、すごい力がついて、そうしてだんだんと大きな目的を実現しようと進んでいく。でももうそこでみんなぱあっとやめていくんだ。そこであっさりと裏切っていくんだ」
 智子は悲しくなってなにも言えなかった。
「この分校には沢山の夢があるって言ったでしょう。そんな夢をみんなの力をあわせて、一つ一つ実現させていきたいって。そしてここに新しい学校をつくり出していこうって。子供たちの力でつくり出していこうって。でも結局は、はい、さようならって裏切っていくんだ。どいつもこいつも」
 正憲はいま彼のなかにずうっとわだかまっていた疑問と怒りを、ありったけの力をこめて叩きつけているのだった。智子は正憲の叫びのような言葉にもうなにも言えなかった。
 
 その翌日、正憲は分校にこなかった。そして、さらにその翌日だった。正憲の母親から電話があった。彼女の声がなぜかふるえている。
「先生、正憲が学校にいったんです」
「ほんとうですか」
「そうなんです。なにを思ったのか、ふらりと学校にいくよって、今日出かけていったんです」
「そうですか」
「なにを考えたのか、突然なんです。なんの相談もなく。てっきり分校にいくかと思っていたら」
「それはすごいことですね」
 と智子もびっくりして言った。
「いったいなにがあったんでしょうか。なんだかぜんぜん信じられません。これがずうっと続くのでしょうか」
「続くかもしれませんね。いえ、きっと続きますよ」
「それならばうれしいのですが」
「正憲君、もう大丈夫なんですよ、きっと」
「これも先生のご指導おかげです。ほんとうにこんなにうれしいことはありません。なんだか、すごくうれしくて……ほんとうに、これで続いていけばいいのですが……」
 受話器の奥ですすりなく声が聞こえてきた。
 智子にはもうそれが本物のように思えた。正憲はいろんな意味ですばらしい成長をとげた。いや、成長というよりも彼の内部の芽がいま吹き出してきたのだ。それまで彼の人生はひたすら受験勉強だった。その受験勉強で彼のすべてのものが押えこまれていた。その鎧のような堅い殻が、一枚また一枚とはがれていったにちがいない。博康をしきりに面倒をみることで、自転車で遠征することで、美香や洋子や久美子やかおりたちと、ふざけたり笑いころげたりすることで、明彦や宏美と共同作業することで、彼をおおっていた堅い殻がばらばらとはがれていったのだ。そしてそこから彼の本来もっていた新しい芽──冒険が、友情が、思いやりが、やさしさが吹き出してきたのだ。彼はもう受験勉強だけの子ではなくなったのだ。
 そしてまた智子には、正憲があんなふうに爆発した原因もわかるような気がするのだった。博康がやめていった。そのあとですぐに明彦が受験でこなくなった。そして宏美もまた中学生になるとやめていく。そうすると自分だけが残ってしまう。そのことに彼はずうっとあせりのようなものを感じていたのかもしれなかった。どこかで決断しなければならなかった。分校に残りたい気持ちもある、しかしみんなが出ていく以上、自分もまた崖から飛び降りるような決断の時が必要なのだ。そんなジレンマのなかにあったのかもしれなかった。あのときの爆発は、その飛び立つときの決断の時だった。智子はそんなふうにも思えるのだった。
 正憲のその再起は本物だった。三月になっても彼はこなかった。母親から何度も電話があり、楽しそうに学校にいっていると報告してくる。彼は完全に復帰したのだった。
 その日もまた雨だった。三月に入ってから、毎日のように雨ばかり降る。梅雨がきたかのようにうっとうしい日が続いた。こういう気候を菜種梅雨というらしい。智子は書類をテーブルの上において雨をながめていた。広間では宏美や洋子やかおりや美香が、本を読んだり、絵を描いたり、ゲームをしたりしている。ほんとうに正憲がいなくなったあとの分校は火が消えたように静かだった。
 いまさらながら分校のなかで正憲の果たした役割が、なんと大きかったのかと思うのだった。彼はまさしく分校の創造者だった。ともに築き上げていこうとした同志だった。智子のなかにしきりに正憲のことがよぎっていく。
 あれは夏の遠征の時だった。二日目は大菩薩峠近くの河原でテントをはった。そのテントでぐっすり眠りこんだ朝のことだった。智子がテントからはいだしていくと、まだ夜明け前だというのにもう正憲はおきていた。川で顔を洗ってもどってくると、正憲は携帯コンロでわかした湯で、コーヒーをいれてくれた。智子は彼のかたわらに座り、しらじらとあけていく山の景色に目をやり、その熱いコーヒーをすすった。さわやかな朝だった。さらさらと川のせせらぐ音だけだった。草のにおい。木立ちのにおい、葉のそよぎ。ものみな生命が朝のひかりのなかでかがやいていた。自然の精があちこちにやどっているのだ。
 そのときふと正憲が言った。
「おばさん。ぼくは分校に入って、はじめて感動というものを知ったんです」
「そうなの」
「ぼくはいままで、絵をみたって、自然をみたって、美しいって思ったことなんて一度もなかったんです。だけど、こうしてみんなで遠征して山のなかに入ってきて、朝おきてみる緑が、なんてきれいなんだろうと思うようになったんです」
「そうなのか。正憲君は勉強ばかりだったものね」
「なんか生きることの喜びなんていうものがわかったんです」
 彼は朝の輝きのなかでしみじみと話すのだった。
 正憲にとって分校とはそんな存在だったのだ。彼にとって学校よりも素晴らしいところだったのだ。彼は本気でなにか素晴らしいものを創造しようとしたのだった。どこにも負けない新しい学校を。そんな彼のみずみずしいばかりの期待を裏切ってしまった自分の力のなさを思うのだった。
 雨に打たれている庭の木立ちをみやりながら、しきりに正憲の影をおっていると、玄関でチャイムが鳴った。玄関に出てみると、なんとそこに学校の制服をきた正憲が立っているではないか。鞄を片手に、そしてもう一つの手に、薔薇の花束をもって。
「おばさん、これ」
「どうしたの。正憲君」
「たまに顔を見せなければいけないと思って」
 智子はなんだかふる声で叫んでいた。
「みんな、正憲君がきたわよ!」

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