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解体と建設の物語

眠りについたような明科の町を通り抜けると、木戸橋の交差点に出る。 その交差点を右折した車は、潮沢川という小さな川をさかのぼるように、山に向かって走っていく。 県道は、くねくねと歪曲して、峠へと登っていく。 落石と雪崩を防止するトンネルを抜けると、道は大きくカーブしていよいよ峠に登っていくが、そのカーブの手前に、白坂口という停留所がある。 町営のマイクロバスが折り返す最終地点だった。 車はその地点を左折すると、その山道は鬱蒼と茂る木立の葉に包まれている。 そのあたり一帯を池桜とよぶのだが、かつてはこの山間には四十世帯ほどの集落があったが、いまはわずか三世帯を残すのみになってしまった。 そこに森の学校の一棟があった。

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その建物は、二階に蚕室を持つ広大な建物で、二層の屋根瓦をのせた堂々たる大建築であった。 しかし百年の年月で、雨漏りや土壁の崩落や土台の柱が傾くなど、家屋の老朽化が激しく、修復するには二、三千万円かけた大工事が必要だった。 到底そんな資金はなく、残る道は解体ということになるが、しかしその解体そのものに一千万円近くを要するというのが業者の査定だった。 もはやどうすることもできず、朽ちるに任せる以外にないというときに、六人の青年たちがこの巨大な建物の解体作業に挑んだのだ。

もちろん彼らのその挑戦は、解体作業そのものにあったのではない。 その建物を打ち壊した跡に、彼らの砦──ログハウスを築くというのがその目的であったのだが、しかしそれならばまったく新しい土地に、その建設をはじめたほうがずうっと合理にかなっている。 彼らはいずれも東京の青年たちだった。 東京から安曇野に入るには半日かかる。 さらにそこから山奥に入っていくのである。 彼らがしばしば通える砦を築くなら、もっと東京に近いところに建てればいいのだ。 秩父だって、丹沢だって、八ヶ岳だって、富士五湖だって、雄大な景観をもつ場所は無数にある。 しかし彼らは、明科町の池桜という辺境の地を選んだ。 しかも大建築を解体するという地点から。 なにやらそれは、大きな負債を背負ってスタートするようなものだった。

 解体といっても容易なことではない。相手は大建造物だった。どんな頑強なビルをも打ち壊し粉砕していくあの鉄の重機があれば、一週間もあればけりがつくのだろうが、彼らにはそんなものはない。素手で立ち向かっていくのだ。しかも彼らの地は東京だった。それぞれの仕事は、重責を担って忙しい。いずれも家庭をもち、子供たちもいる。経済生活だって余裕はない。そんな何重ものハンディを背負ってのスタートだった。私もまたこの建物の所有者の三好さんも、この挑戦に半身半疑だった。しかしもしこの作業を成し遂げたら、彼らの人生に鉄の意志を打ち込んだようになると語りあったものだった。どんな困難にもくじけずに立ち向かっていく強靭な意志と精神が。

 この六人は少年団の仲間だった。小学生のときから少年団に入っていて、高校生になると、今度は指導員となって活動の先頭に立ってきた仲間だった。彼らの紐帯は深かった。年月に鍛えられた、深い精神的な紐帯があっての挑戦だったが、実はこの紐帯なるものが、少年団の欠陥の一つだったのである。少年団はつるむことからはじまる。つるむことによって、はじめて活動が成り立つ。それはつるまなければ何もできないということであった。そのことの欠陥である。つるむということはいつも他者をあてにすることだった。あてにする他者がいなければ、なにもできないということだった。

 なるほど手をつないだ他者との波長があったとき、その活動はときには信じられないばかりに盛り上がる。人と人の輪が足し算ではなく、掛け算となって圧倒的なばかりにパワフルになることもある。しかし活動はいつもそういくとは限らない。むしろ頓挫することのほうが多い。そのとき、つるむことによって成り立つ活動の欠陥が露骨にあらわれるのだ。仲間を罵りはじめる。お前がいいかげんだからだ、お前が真剣にかかわらなかったからだ、お前がその仕事を担わないから失敗したんだ、お前のせいでこの活動がだめになったのだと。少年団の活動とはつるむ場であったが、一人一人の子供たちが、自己を確立していく精神をつくるための場ではなかったということになる。

 この欠陥を誰よりも鋭く見抜いていたのが、蓮池だった。この欠陥をどうしたらいいのか。蓮池は、千葉にある広大な山林を、少年団のために購入しようとしたのである。その山林のなかに、本格的なログハウスを建設するためだった。一人一人が重い丸太をかついで打ち立てるのだ。子供たちも、少年団を巣立っていった若者たちも、指導員たちも、そして父母たちも、それぞれ一人一人が、あの重い丸太をかつがなければならない。建設とは一人一人が、自身の体重の何倍もある丸太をかつがなければできないことだった。そこでは他者に責任をなすりつけることはできない。仲間を罵る前に、丸太を担ぐことから逃げ出した自分自身を罵らなければならい。

 それは広大な山林だった。そこに一棟、また一棟と建てていく。それが蓮池の少年団活動につきつけた挑戦だった。その挑戦によって、つるむことでしかなにもできないという少年団の欠陥と限界を打ち破り、少年団活動を社会に鍬を打ち下ろす、深く広い市民活動として成長させようとしたのだった。その蓮池はすでにいない。大きな志を抱いて十二年前に去っていった。しかし彼の魂が、この六人の青年たちのなかに、脈々と流れこんでいるのではないかと思えるのだ。彼らは少年団で活躍していた時代のように再びつるんで、巨大な解体事業に取り組んだ。しかしこのとき、彼らがつるんだという内実は、少年団活動の欠陥としてあったつるむということとは、本質的に違ったものだった。彼らは、一人一人が自己を確立していくためにつるんだのである。

六人が取り組んだ仕事は、まるで一千万円の負債を背負ってスタートするようなものだった。 しかし彼らは一人も脱落することなく、その困難な作業をやり遂げた。 それは彼らがつるんだからできたのではない。 彼らははっきりと自覚していたのだ。 その仕事は自分自身への戦いだということを。 その困難な作業こそ、彼らの精神を鍛えあげていく鉄床(かなとこ)であることを。 時間はむなしく流れていく。 あれよあれよという間に歳月はたっていく。 そんな人生のなかに、大地に足をふみしめて歩く自己を確立するために、取り組んだのだ。 それこそ蓮池がめざしていたことだった。 蓮池が成そうとしていた試みが、ついに少年団から巣立っていった青年たちによって実践されたのである。

彼らからその仕事に取り組みたいという相談をうけたとき、私は彼らにこういう提案をしたことがあった。 あの建物は巨大であり、六人だけで挑めるような仕事ではないと思う。 むしろこういうときこそ、少年団的取り組みをしたほうがいいのでないのではないのだろうか。 少年団もまもなく創立三十年をむかえる。 三十年の蓄積があるのだ。 少年団を巣立っていった子供たち、さらにはその活動にかかわった父母たちの数は決して少なくない。 彼らにあなたたちの事業を伝えて、資金の援護を、労力の援護をよびかければ、必ず反応の波が起こるはずだ。 そういう広い展望の中で、その活動を組み立てていったらどうだろうかと。

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