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二人の筆の人に感謝する 井上ひさし
堀田善衞『定家明月記私抄』を読む
二年前に上梓された『定家明月記私抄』(以下「正篇」と呼ぶ)を貪るが如く読んだのは、たとえば次のような理由があったからだった。「源平が角逐し、群盗放火が横行し、天変地異もまた頻発した平安末から鎌倉初期の動乱の世に、余情妖艶な美のかけ橋を架けた藤原定家」(「正篇」の帯の惹句である)、その定家が、時に欠落の時期はあったとはいえ、えんえん五十六年間にわたって書きついだ厖大な漢文日記『明月記』が、著者の適切この上ない読解作業のおかげで、普通の読書人にも容易に扱える共通財産になったということへの感謝と感動。
その読解作業によって明らかにされた定家像の新鮮さ、そのおもしろさ。定家が、この時代の群婚的多妻多夫制のせいもあって、生涯に二十七人の子女を得ていたこと、そのくせ日記には絶えず「病躯」だの「老屈」だの「衰老」だのと書きつけていたこと、さらにまた定家の宮廷官僚の仕事は、雨戸の開け閉(た)て碁の相手といったようなものであったことなど、これまでの国文学史上の大人物であったゴリッパな定家先生像と堀田定家像の間には千里も万里もちがいがあって、それが読者に新鮮な驚きを与え、「ここに本当の、生きた定家がいる」とおもしろがらせたのである。
さらに読解作業のあちこちに著者が埋め込んでおいてくれた和歌論や王権論についての目映(まばゆ)く光る省察の数々が読者へのまたとない贈物になっていた。たとえば筆者は今でも、
《個人の実情、実感とは切れているのであるから(そういうところで詩歌の制作を強いられるのだから)、詩歌が人工的、工芸品的になって行くのは当然である。》
という数行を忘れることができない。
なにしろひどい世の中である。花鳥風月の実感などどこにもありはしない。つまり実感では歌は詠めぬ。いきおい歌は過去の蓄積を生かすか(本歌取り)、人工の極致へ向うかしかない。定家はこの双方に足をふまえつつ、(官能と観念を交錯させ、匂い、光、音、色などのどれがどれと見分けがたいまでの、いわば混迷と幻覚性とが朦朧模糊として、しかも艶やかな極小星雲を形成)したという指摘は、いわゆる『新古今調の歌』に対する、これまでになされた最高の注釈のひとつだった。
そして右のことを読者に手渡すための文章が上質、咲(え)みに溢れて、かつ正確だった。自分の愛するものをなんとかしてうまく読者に引き合せたいと芯から願うとき、文筆家はしぱしばじつに機能的な、しかしじつに美しい文章を創り出すが、正篇はまさにそのような文章で綴られていたのである。
正篇のこういったすばらしさは残らずこのたびの『定家明月記私抄続篇』(以下「続篇」と呼ぶ)に引き継がれている。そればかりではない、時代は、定家の前半生よりさらに劇的、すなわち「和歌を通じて交流をもった源実朝の暗殺、歌壇のパトロンであり同時に最大のライヴァルでもあった後鳥羽院の、承久の乱による隠岐配流」(「続篇」の帯の惹句)、この乱によって一天皇三上皇が一瞬のうちに消えて、宮廷文化も、歌による共同体も消滅──という未曾有の乱世。当然のことながら続篇は、俗語でいえば、ハラハラドキドキワクワクの連続である。
いや、こう書くと続篇が冒険小説かなにかのように誤解されるおそれがあるので次のように云い直そう。年表に太文字で記載されるような重大事件が次々に定家の身辺に出来しつづけているにもかかわらず、彼の日記をたどる著者の筆にまったく力みというものがなく、平静にして精緻、それがかえって読者の胸中に劇的な緊張を孕ませるのだ、と。このあたりの機微を説明するために続篇の次の一節を引く。
〈この当時の様々な書き物に、たとえば人の死に際して弔問に集った人々が、かたみに別れ去って行くときに、屡々(しばしば)、悲しみにとざされながらも、かくてしもあるべきにもあらねば、と挨拶を交わして各自の生活に帰って行った、と記されている。/かくてしもあるべきにもあらねば、帰られにけり。──如何なる大事件があったにしても、人々の生活は続けられて行くのである。また、それは続けられて行かなければならない。後鳥羽院が隠岐にあって、日本国を天照大神に返すなどと呪いをこめて喚いていても、人々の生活は続けられて行くし、また続けられて行かねばならない。英語の成句に言うところの、life continues である。》
それでも生きて行かなければならないとは、おそろしい言葉である。ほとんどの人間が、それぞれの幸福の絶頂期に、あるいは辛いことのさなかで、死ぬことができない。たいていが落ち目の長い坂をくだりながら、あるいは依然として辛い毎日を、衰老に向って生きて行かなければならない。とりわけ定家のような「歌の上手」が、最盛期のあと何十年も生き続けなければならないとしたら、たとえ多少の俗世的栄達に恵まれたにせよ、決して仕合せではなかったのではないか。加えて知己が次々に政治の罠にはまって自壊して行くのをただ傍観せざるを得ないとあってはなおさらひとしお人生が苦く感じられたのではないか。
しかしとはいうものの life continues…。定家の心の中で生起するこのドラマは万人共通である。そこで読者であるわれわれも静かな緊張のうちにハラハラドキドキワクワクすることになる。盛りの時をすぎても、たとえどんなに衰老しようが、とにかく生きているうちは生き続けなければならない。人生は過酷だ。続篇はいたるところでこの基調音を鳴しながら静かに進んで行く。
──こういう紹介の仕方をすると、「静かに進む、とは退屈と同義だろう」と受けとられそうだから、あわててつけ加えておくが、にもかかわらずおもしろいのである。たとえば、実朝を悲劇的に、より悲劇的に仕立てあげることに熱中しているかにみえる昨今の風潮への実証充分なる異議申し立て、後鳥羽院から追放処分にあったのは定家の歌が「不景気」だったからであるという指摘(この景気、不景気は和歌の核心にふれる重大問題である。くわしくは続篇そのものに当られたい)。
支配層や政治家には罪なくして配所の月を見る式の、悲劇の主人公でありたいという願望があり、彼等は本来的に役者気取りにもっとも近い役割であり、宮廷はもともと一つの劇場であるという卓抜な省察、(肉親というものは悲しいものである)というような、思わずぞっとする箴言の数々、平安文化は相続権によって自立した女性の教養とその力で成ったものだという独得な文化史観、庭に梅の木のあることが、当時、一つの社会的ステータスを示すものとなっていたというような雑学的知識――、こういったものが随所に撒かれていて、定家日記のある日の表現を借りれば「幸甚、欣ビニ感ズルコト極マリ無シ」といった仕立てになっている。
そして白眉は、定家のゴシップ好き。著者は、《定家卿、年老いるに従って「世事」のゴシップに対する関心がますます増進して行く……、これがおそらく、この人の老耄防止剤になっている。〉とあたたかくも苦笑しながら、日記の「世事」に丹念につきあっている。この角度からみた『明月記』は、平安から鎌倉にかけての大宅文庫といった趣きを呈しており、承久の乱前後の「歴史」に、にわかに赤々とした血が通いだすのであるが、あれほどの天才歌人が、いまは歌など詠みもせず、目脂や老涙を拭いながらせっせとゴシップで紙を黒くしている。
そのことを思うと、life continues という基調音がひときわ高く聞えてくるのである。続篇の最後で定家は八十年の生涯を終え、著者もまた八年にわたる労作を書き終えた。筆者は佳き物を恵まれたことをこの二人の筆ノ人に感謝すると同時に、新しい定家像がわが胸の内にも育ちはじめていることを付言して読後の感想としたい。