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ウォルト・ホイットマン  酒本雅之

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ウォルト・ホイットマン(1819~92)は、1918年5月31日に、ニューヨーク州ロングアイルランドのウェスト・ヒルズという小さな村に生まれた。(彼はロングアイランドを原住民の言葉でポーマノクと呼ぶことを好んだ)。ウォルターと名づけられたが、当時三十四歳だった父親も同様にウォルターといい、農業を営むかたわら腕のいい大工でもあった。
 
しかし一徹で、しかもあまり目先のきかぬほうだった。だから、次第に増えていく家族が、彼にはどうやら重荷だったらしい。絶えず頭にのしかかっている生活の重圧のためか、気むずかしく怒りっぽい父親だった。のちに詩人が「かつて出かける子供がいた」のなかで、「がっしりとしていて、うぬぼれが強く、男性的で、下品で、怒りっぽくて、不当な父」と歌っている言葉の背後には、恐らく彼自身の父親のこのような面影があるのだろう。しかしこの父親も、詩人の自己形成にとっては、あながち否定的な要因であることのみに始終したわけではない。
 
彼はアメリカ独立革命の思想的指導者のひとりトマス・ペイン(1737-1809)やクェーカーの急進的な牧師イライアス・ヒックス(1748-1830)の崇拝者であり、急進的な社会運動家フランシス・ライト(1795-1851)の雑誌「フリー・インクワィアラー」の講読者でもあった。恐らくはかなり意識的に、自由主義、ないしは平等思想をそなえていたにちがいない。彼が息子たちに、ジョージ・ワシントンとか、トマス・ジェファソンとか、アンドルー・ジャクソンなどという名前をつけられたことからもこのことはうかがえる。いっぽう母親のルイーザはオランダ系移民の家計で、目が青く、顔が丸く、そして性格はまことに陽気だった。
 
この母に対しては、詩人は生涯変らぬ愛を抱いていたらしく、「草の葉」第六版の序文に付けた注のなかで、数年前に死んだ母をなつかしみつつ、「わたしがこれまで知りあったどんなひとよりも、遥かに完全で魅力に富み、実務と道徳と信仰心とを稀に見るほど兼ねそなえ、そのうえ自分自身のことは少しも気にかけない性格で、わたしがこよなく深く、ああほんとうに心の底から愛を捧げた母」だったと回想している。
 
1823年5月、一家は土地を売り払ってブルックリンに出る。恐らく大工として身を立てることで、生活の苦境を打開したいと願ったのだろう。しかし事態はやはり好転せず、「自選日記」のなかの詩人自身の回想によれば、「父が家庭にふさわしい立派な家を建てたが、……どの家も抵当に入れられ、やがて人手に渡ってしまった」。たぶんこういう事情のためだろう。1830年、十一歳のウォルターは通学をやめ、ある法律事務所で、それからある医者の家で、使い走りの少年として働くことになる。つまり正式の教育が早くも中断されたわけだが、しかし幸いにも最初の雇い主が彼に読書をすすめ、のみならず巡回図書館に登録してくれた。おかげて彼は「アラビアン・ナイト」全巻を読破し、あるいはスコットの小説や詩を次々と耽読して、初めて文学の面白さを知ることができた。
 
翌31年、当時ブルックリンで五百人ぐらいの読者をもっていた「ロングアイランド・ペイトリット」紙の植字工見習いになり、以後四分の一世紀にわたる長いジャーナリスト生活を始める。当時のアメリカは産業革命が本格的に開始され、そのうえ西部に広がる未開地への移住もめざましく、従来の社会を商業資本主義体制に基づく悟性的で保守的な社会だったと言えるなら、それが今や創造と冒険を美徳とする産業資本主義体制の社会へ飛躍しようとしていた。
 
いわば古いアメリカと新しく生まれ出ようとするアメリカとが激しい交代劇を演じていたわけだが、これを政治的な分布で言い変えると、保守的なホイッグ党と、第二次対英戦争(1812-14)の国民的英雄で、初めて西部から大統領に選ばれたジャクソンの率いる民主党との対決ということになる。熱気をはらんだこの転換期を、ウォルター少年は小さな新聞社の窓ごしに眺めていた。無論彼の共感は民主党の側にあった。

33年に彼は家を出て自立する。異例に早い自立だが、家庭の事情がそうすることを強いたのだろう。35年にはブルックリンからニューヨークへ出て、すでに一人前の植字工としていろいろな印刷所で働いた。ところがその年の8月と12月とにニューヨークで大火があり、せっかくの職場を失ってしまったためか、早くも翌36年にはロングアイランドに帰って、さまざまな村の学校で教鞭をとり、あるいは38年から39年にかけて「ロングアイランダ―」という週刊紙を独力で発行したりした。もっともこのころの彼の作品は、文体も主題もおおむね陳腐で、のちの「草の葉」の詩人を思わせるようなところは、まだごく萌芽的なものとして現れているにすぎなかった。

40年の大統領選挙には、民主党から立ったヴァン・ビューレンのために積極的に働いた。その働きぶりがかなり認められたらしく、ニューヨークで開かれた民主党の集会で、彼は大勢の聴衆をまえに演説することを求められ、更に翌日の党機関紙などに、その演説が詳しく報道された。いわば輝かしい政界入りというべきだろうが、しかしそれよりも注目すべきは、ホイットマンはこの演説のなかで、政界を権力奪取のための争いではなく、「偉大な原理」のための戦いだと規定していることである。政界の指導者たちにこのような彼の考え方が無縁であったことは言うまでもないが、この差の意味は以外に大きく、やがてホイットマンを次第に民主党内における正統派の位置から遠ざけ、ついには彼に政治の世界から詩の世界への移行を果たさせる要因になっていく。

41年5月にニューヨークへもどって、「ニュー・ワールド」紙の植字工になってからは、民主党系のさまざまな新聞の記者として活躍し、42年には「ステイツマン」紙の編集陣に加わり、あるいは有名な雑誌「デモクラティック・レヴュー」に小説を掲載するなど、多彩な文筆活動を展開した。40年代前半のこの大都会でのジャーナリスト生活が、十年後に訪れる彼の詩人への変身と無関係だったとは思えない。アメリカが新しい社会に変っていくその渦中に身をおいていたからには、新しいアメリカのとるべき姿が、アメリカの未来に関するヴィジョンが、次第に鮮明になっていたにちがいない。そして同時に政治世界への彼のかかわり方が密接になっていけば、当然「偉大な原則」に忠実であろうとする彼と、現実の論理に固執しようとする政治世界とのあいだには、越えられぬみぞが次第に広がっていくだろうからだ。

45年にブルックリンに帰り、しばらく「ロングアイランド・スター」紙に寄稿していたが、翌46年3月には「ディリー・イーグル」紙の主筆に就任、北部と南部の対立が先鋭化していくなかで、時代の提起する課題に直面しつづけ、仕事が終わると渡船に乗ってニューヨークへ渡り、大都会の雑踏のさまざまな光景と活気とを吸収するのが日課だった。この頃から彼の内部には、たとえばエマソンの超絶思想や東洋の思想に触れたことも恐らくきっかけになって、徐々に「草の葉」の原形とも言えるものが育っていったようである。現在残っている47年のノートブックや「イーグル」紙の社説がそのことを示してくれている。  

翌46年テキサスの帰属をめぐって起こったメキシコ戦争の結果、アメリカは西部の広大な土地を手に入れるが、それらの地域を奴隷州とするか自由州とするかという問題で、国論が二つに割れた。ホイットマンはいわゆる奴隷制度廃止論ではなく、国の統一を犠牲にしてまで奴隷の解放を主張するような急進論はむしろ嫌ったが、にもかかわらず低廉な奴隷労働は自由労働にとって脅威だと考えて、新しい土地は「自由な土地」であるべきだと主張した。この主張を彼は「イーグル」紙の社説で説きつづけたが、これに反対する保守派がニューヨーク州の民主党の実権を握った。「イーグル」紙の経営者もそのひとりで、当然のことながら48年1月にホイットマンは職を追われることになる。

ところが早くも2月、ある劇場のロビーで偶然に出遭った男がニューオーリーンズで創刊することになっている新聞「クレセント」の副編集長としてホイットマンは雇われることになる。そこで彼は弟のジェフを連れて出発し、メリーランド州カンバーランドまで汽車、そこから駅馬車でアレゲニー山脈を越え、汽船でオハイオ川とミシシッピー川を下り、二週間がかりでニューオーリーンズに着いた。この初めての大旅行はアメリカの広大さと多様さをまざまざと彼に見せてくれたにちがいない。しかし、南部での生活にかなり魅力を感じながらも、考え方や気質の違い、おまけに金銭上の誤解も手伝って、実際には三か月を過ごしただけで、ホイットマン兄弟は早くも五月には辞職して帰路につく。こんどは五大湖やシカゴやナイアガラをゆっくりまわって、ブルックリンに帰りついたのは6月の半ばだった。

八月には自由土地党が結成され、九月にホイットマンはそのブルックリン地区の機関紙「ウィークリー・フリーマン」の主筆になる。しかし48年の大統領選挙でヴァン・ビューレンを立てて敗れ、そのうえ彼らの分派的な行動が結果的には民主党の候補をすら敗北させてしまった挫折感から、自由土地党員のほとんどが逆に民主党の保守派に転向してしまう。ホイットマンはこの総退却のさ中でひとり踏みとどまっていたが、恐らくおのれの孤立無援な境遇を悟ったのだろう、49年9月に読者に対する別れの言葉を紙上に掲げ、そのなかで、かつて民主党にかけていた希望が裏切られたことを嘆きつつ、理念を持たぬ保守派を激しく非難して「フリーマン」をやめた。

ホイットマンにとって、民主党は単なる政党ではなく、いわば彼がアメリカの未来に思い描いたヴィジョンに向かって力づよく進んでいく者たちの隊列のはずであった。それが今もろくも崩れ、列を乱して敗走していく。政治にかけた希望が夢にすぎなかったことを、夢が現実に裏切られたことを、今はっきりと彼は思い知った。

50年代前半は、こうして、失意と怒りのうちに過ぎ去る。たとえば1850年に、南部と北部の対立を安易な妥協で解決しようとする気運が議会で高まってきたことに対して、3月2日付の「イーヴニング・ポスト」紙に「議員寄せる歌」(のちに「腰抜けの歌」と改題)を発表し、南部の奴隷主たちの言いなりになって目先の利益ばかりを追求する「腰抜け」議員を痛烈に風刺し、22日付の「トリビューン・サップルメント」紙には、ウェブスターの議会演説に対する怒りを「血の支払」という詩に託し、この高名な政治家をキリストを売り渡したユダになぞらえて、その裏切りを痛切に非難した。

さらに6月21日付の「トリビューン」紙に「復活」という詩を掲げては、ヨーロッパにおける48年革命の挫折を嘆き、しかし「自由よ、君に絶望する者あればさせておけ、わたしは君に絶望しない」と、必ず自由が勢いをもり返してくるという信念を歌う。この最後の詩は、のちに「ヨーロッパ──合衆国紀元第72年、73年」と改題され修正されて、「草の葉」に収録された。明らかに、「草の葉」の詩人はすでに歌い始めている。

彼がジャーナリストから詩人に変身していく過程は、ヴィジョンの現実によって裏切られ、孤立し、その鬱屈した思いが表現を求めてほとばしり出ていく過程と等しいものである。右に紹介した三篇の詩が、いずれも孤立したヴィジョンの悲しみや怒りに導かれて、おのずから新しいリズムや詩法を獲得しているとこは、彼の詩人への変身が、けっして一般に言われているような「奇跡」ではなく、まさに必然的な過程であったことを、もっと具体的に言うと、現実のさ中で圧殺されたヴィジョンが、いわばそれ自身として蘇生していく過程であったことを、かなりはっきりと暗示してくれている(この意味で、わが北村透谷が自由民権運動に幻滅することで、「実世界」から「想世界」へ移行していく過程と似ていなくもない)。
 
こうしてホイットマンは、あれほど深くかかわってきた政治世界から抜け出して、51年にはブルックリンにみずから建てた家で印刷所と書店を経営している。そしてこのころから、政治家やジャーナリストに代わって、芸術家たちとの交際が始まっている。現実的な思惑の外側で、ただおのれのヴィジョンの表現にのみ専念する芸術家を、彼が新しい交友の対象に選んだということにも、この当時のホイットマンの精神の目ざしている方向がうかがえるだろう。

51年3月31日に、彼はブルックリン芸術組合で「芸術と芸術家」という講演をして、芸術家は現代アメリカの物質主義に対して美の理念に生きる者とならねばならぬと主張し、物質の理論に固執する者の対立概念として芸術家を捉えている。彼によれば、芸術家であるとは、単に美を表現する者ではなく、まさに美を生きる者である。「芸術家には……世間に出ていって、美の福音を説けという命令が与えられている」のである。とすれば、ある意味では、ホイットマンは少しも変っていない。ヴィジョンに生きようとする彼の姿勢は不動であり、政治家であることがその生き方を許さないから、何の「拘束も受けずに本来の活力のままに」おのれのヴィジョンを語ることのできる詩人になっただけのことだとも言えるのである。

ともかくホイットマンは、40 年代の末に彼を襲った精神の危機から、どうやらすでに抜け出しているらしい。それは、この講演から読みとれる彼の心境に、明らかにゆとりがそなわっていることで分かる。現実世界のありようにいらだつことなく、むしろ「ぼく自身の歌」のなかの詩句で言うと、「ものが完全に適合し均衡を得ている子途を知っているから、議論はそちらにまかせておいて沈黙を守り、悠然と水を浴びてはわが姿に見とれている」というような、一種の自己充足とで言えるような心境を、すでに彼はそなえている。

むろんヴィジョンそのものを語ればいいという、つまり詩人という、新しい生き方を見いだした自信のゆえのゆとりだろうが、同時に、たとい現在は物質的にからめとられていても、結局は、たとえば自由が必ず復活してくること、あるいは「ものが完全に適合し均衡を得ていること」を信じているというような、現実世界の歩みに対する楽観的信仰に支えられていたからだ。
 
昼間は父や弟たちと家業の大工仕事に従事しながら、夕暮れになると、時には夕暮れまで待ちきれず、渡船に乗り込んで川を往復し、あるいはニューヨークの雑踏のなかにおりたって、乗合馬車の御者席のかたわらに坐り、ブロードウェイを往来しながら、さまざまな光景や騒音や熱気を心に吸収しつづけたのも、現実に営まれている人間の生活に魅了されねその豊かさを信じて疑わなかったからにちがいない。
 
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「草の葉」の初版は1855年7月初旬に世に出た。みどり色の布地に金箔で縁飾りとタイトルを打ち抜いたわずか95ページの薄い四つ折判だった。シャツ姿で帽子を斜めにかぶった労働者風の版画と向かいあったタイトル・ページには、どこにも著者の名前は見当たらず、ただその裏ページにウォルト・ホイットマンという著作権者の名前が印刷されているだけだった。

しかし冒頭の長文の序文につづいて、「ぼく」に関する長い詩的独白(のちに「ぼく自身の歌」となるもの)が唐突に始まり、そのまま読み進んでいけば、その「ぼく」がウォルト・ホイットマンという名前であることをようやく知らされる。

つまり著作権者で現実世界の人間であるウォルターと、詩人であり詩を生きているウォルトと、僕ら二人のホイットマンを持っているわけだが、むろん重要なのは後者である。いわばそれは創造された虚構だった。現実世界のいましめから今はすっかり離脱して、自由に飛翔し始めたヴィジョンの化身とも言えるものだった。解放されたヴィジョンのこの自由さ、伸びやかさ、次の詩句ほど鮮やかに語ってくれるものはない。
 
ぼくを繋ぎとめ抑えつけていた束縛(いましめ)がぼくを離れる、
ぼくの肘は海のくぼみに憩い、
ぼくは峨峨たる連山をめぐり、ぼくの手の平はあまたの大陸をおおう、
旅ゆくぼくの道連れはぼくの幻想

今はヴィジョンに変身したのだから、「ぼく」が海や連山や大陸と、のみならず宇宙そのものとおなじ規模にまで拡大しても、そのことには何の不思議もない。むしろこのような自己拡充の旅に出ることこそが、「ぼく」にとっては必然的で、きわめて自然な存在の仕方なのだ。ホイットマンにとって詩人であるということが、政治家であることの対立概念であるとこはすでに述べたが、とすれば詩人は、ただ単に歌を囀る者というばかりでなく、まことの道を説き聞かせる者、理念の「代弁者であり解説者である」者という役割も、同時に兼ねそなえていなければなるまい。

「ぼく」が「ぼくの魂を招」きつつ旅を始めるのは、宇宙の総体を包摂しつくし、さらにそのかなたに実在する「まぼろし」を求めてのことに相違ないが、同時にその「まぼろし」の存在を他人に教え、おなじ旅に他人を導き出すための先導役を務めようとする意図もある。

しかし初版が、それ以後の版には見られない独特の強烈な魅力をそなえていたのは、フランスの優れたホイットマン研究家アセリノーが「何ものにもその歩みを止めることができず、つねに混沌のままでありつづける溶岩の流れ」と評したように、詩人の深部の情念が「拘束を受けずに本来の活力のままに」流れ出し、語り出していたからだ。収録されている12編の詩がすべて無題のまま、数個のピリオドを挟んで延々とつづいていくことにもうかがえるように、詩人にはこの「溶岩」を人為的に秩序づけたり分類したりしようとする意志は毛頭なかったようだ。「序文」のなかで明言しているように、「大詩人とは……思想や物象を、ほんのわずかな増減すら加えずに、元のままの形で通過させる水路であり、自分自身を思いのままに通過させる水路なのである」

翌56年には、早くも第二版が世に出た。こんどは三百ページを越える十六折判で、詩の数も32編に増えている。しかし変ったのは外見だけではない。目次が設けられ、それぞれの詩には表題がつけら、つまりかつて思いのまま流れ出した「溶岩が」が、今は外から分類され秩序づけられ始めている。(そう言えば、句読法も伝統的なものに変っている)。言いかえると、かつてはただおのれの内的なリズムと衝動だけに導かれていた流れが、今は切断され、せき止められ、整序されている。つまり詩人は、おのれの内部をどうやら人為的に操作し、方向づけようとし始めている。

もはや彼は、「自分自身を思いのままに通過させる水路」ではなくなり始めている。まえにも述べたように、「草の葉」初版には、他人を教え導こうとする意志とともに、みずから抑えがたく溢れつづけるヴィジョンが、次から次へとさまざまな物象と結びつき、さらにそのかなたへと貪婪に越えていった。他人を旅へ誘いつつ、いっぽうでは他人のことなど気にかけるいとまもなさそうに、心ゆくまで旅の道行を楽しんでいた。
 
ところが、この第二版では、詩人の意識のなかに、他人を導こうとする使命感が、いわゆる「国民詩人」であろうとする自覚が、どうやら優勢になり始めているらしい。あるいは個々の具体的な物象よりも、「万物をつなぎ合わせる」「ひとつの広大な類似」のほうに、旅の道程よりも、旅路の果てにある「まぼろし」のほうに、どちらかと言えば心を向け始めていると言っていい。なぜかはよく分からない。流れ出る「溶岩」の熱気がいささか冷え始めたのかもしれないし、現実世界の状勢が彼の教導を必要とするほどに切迫してきて、「ものが完全に適合し均衡し得ている」などと呑気なことを言ってはおれなくなったためかもしれない。ともかくホイットマンのなかで何かの変化が起こり始めている。しかし兆候はほんのかすかなものである。
 
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この変化が歴然と露呈するのは、一八六〇年に世に出た『草の葉』第三版である。新しく加わった詩は一二二編、四六判で四五六ぺージもある分厚い本だ。しかも単に外見ばかりでなく、その内実においても、まえの二つの版とはかなり異質な詩集だった。目次を見ただけでも、口頭に「序詩」が置かれてこれから歌おうとする詩題がまず提示され、そして末尾には「さようなら」が置かれて全体をしめくくるというふうに、単一で整然たる秩序をそなえている。ヴィジョンの広がりに人為的な意味を与えようとする試みは、すでに第二版でもかすかな徴候は見えていたか、第二版にいたって首尾をきちんとそなえたひとつの完結した世界を作り出した。
「ぼくは始まりや終わりについてのおしゃべりはお断わりだ」というかつての揚言を思いみれば、ホイットマンの変わりようも想像がつく。
 
この版から新しく加わった詩群に「カラマス」と「アダムの子供たち」がある。前者は男性間の愛を、そして後者は異性間の愛を、それぞれに主題とする詩群である。むろんこれまでにも、愛を歌った詩がなかったわけではない。しかし五〇年代の愛は、たとえば「ぼく自身の歌」におけるように、いわば無差別無選択、あらゆるものに対して向けられる愛であり、いかなる特定のものにもしばりつくされぬ愛だった。愛の対象は「君、たとい君が誰であろうと」であり、しかも注ぎかけられる愛にいささかの偽りもないか、にもかかわらず所詮は無数に存在している愛の対象のなかのひとつにすぎず、たとい今「ぼく」の愛を一身に集めていても、やがては見捨てられるべきものとしてある。
 
「ぼく」はさなから多情なドン・ファンのように、無数に存在する愛人たちのうちのひとりを、今この瞬間にはひたむきに愛しつくし、そのものと一体になりながら、同時にかなたへ永遠に越えつづけることを、「あの高みを平坦にして通りすぎさらにかなたへ進みゆく」ことを、いつも忘れることかない。逆に言うと、旅路の果てには「ぼく」の「本当の住家」である「まぼろし」が待っていてくれることを知り、そこを目ざして足を早めながら、しかも旅のゆきずりに出逢う多様なものたちに愛を注がずにはいられないのである。このように、五〇年代のホイットマン、つまり「ぼく自身」には、彼が「求心的でもありながら同時に遠心的でもある」と呼んだような二重性かそなわっているか、その愛の形が第三版になると大きく相貌を変える。たとえば「カラマス」詩群の第八歌は次のような愛を歌う(但しこの詩は第四版以後削除された)
 
知識だけでぼくには充分だと──ああ知識を手にいれることかできさえしたら
と、長いあいだそう思っていた、
それからぼくの国土に魅了された──大草原のつづく国土、オハイオの国土、
南部に広がる無樹の大草原に、ぼくはすっかり魅了された──彼らのために
ぼくは生きよう──彼らのことを雄弁にぼくは語ろう、
………………
それから一切を包みこむものとして、「新しい世界」の歌を歌おうと思いたった
それからぼくの生涯はぜひとも歌いつつ過されねばならぬとぼくは信じた、
しかし大草原のつづく国土よ、南部に広がる無樹の大草原よ、オハイオの国土よ、
………………
もはや君らの歌い手にはぼくはなれない──ぼくを愛する彼がぼくを嫉妬して、愛以外のすべてのものからぼくを退かせてしまうのだ、
ほかのものにぼくは一切ひまを出す──かつて充分だと思えたものと今ぼくは袂を分つ、充分ではないからだ──今ではぼくには空虚で味気ないからだ、
もはやぼくは知識にも、諸州の盛観にも……注意を向けない、
ぼく自身の歌にすら関心を持たず──ぼくの愛する彼といっしょに行くつもりだ、
ぼくらは、いっしょにいれば充分なはず──二度とふたたび別れはしない。
 
詩人はかつてあれほど献身を誓った国土と歌に別れを告げて、「愛する彼」といっしょに消えていこうとしている。それが排他的な愛であることは、彼が「ぼくに嫉妬」することや、「ぼく」がその嫉妬を受けいれて他のものに「一切ひまを出す」ことで明らかだし、それが永遠に越えられることのない窮極的な愛であることは、「二度とふたたび別れはしない」という「ぼく」の誓言にうかがえる。そしてさらに注目すべきは、詩人に歌を捨てることを決意させたほどのその愛の相手が「彼」であることだ。内部から溢れ出てくるおのれの愛の異常さに、詩人自身も気づいていたらしいことは、おなじ「カラマス」詩群の第九歌(これものちの版では削除された)に明らかだろう、
 
いつまでもつづくつらく苦しい時間よ、
ひとの訪れることも稀な寂しい場所に引きしりぞき、腰をおろして、両手で顔をおおう黄昏どきの時間よ、
寝もやらず、深夜さまよい出ては、こみ上げる嗚咽を押し殺しつつ、田舎道を足早に急いだ……時間よ、
失意と惑乱の時間よ──離れては片時も満たされぬぼくだのに、彼はぼくから
離れても満ち足りていた、
………………
(ぼくは恥ずかしい──だが恥じてみても仕方がない──とにかくぼくはこうなのだ)、
ぼくの苦悶の時間よ──いったいほかの男たちも、おなじような思いのゆえに、おなじような苦悶に悩むことかあるのだろうか、
 
してみれば、ホイットマンはこの「恋」を失ったのだ。おのれの愛の形が「ほかの男たち」のそれとは違うという認識は、ひょっとしたら、自分は万人にまことの道を教示する導師だというホイットマンの自信を動揺させたかもしれない。この内面の動揺が、たとえば彼に、「カラマス」 に対する補整として、異性間の愛を主題とする「アダムの子供たち」詩群を付け加えさせたのだし、「かつてぼくは雑踏する都会を通りつつ」で歌われている愛の相手が、原稿では「彼」となっていたのを「彼女」に変えさせたのだし、あるいは「真理を伝える者の言葉」という詩群を設けて(但しのちの版では解体された)、導師としての自画像をくり返して歌わずにはいられなかったのではないか。このように、第二版では単なる徴候にすぎなかったホイットマンの自己分裂──私的な自己と公的な自己への分裂──が、この第二版ではもはや決定的になっている。
 
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一八六一年四月に始まった南北戦争と、この破局にいたる政治的緊張とは、ホイットマンの内部に生じたこの亀裂を、恐らくは再統一するためのきっかけとして働いた。おのれの愛の災常さを意識し、その愛を失った苦悩のなかで、彼はしばらくボヘミアンたちのたむろしているブフアッフレストランに出入りしていたか、開戦の報を聞いた翌日、ノートブックに次のような決意を書きこんでいる、「きょうこのとき、ぼくは水と純粋なミルク以外のすべての飲物──それに脂身の多い肉、おそい夕食を、一切しりぞけることによって、清らかな血の流れる美しいからだに──みごとなからだに──浄化され、清められ、霊化され、活気づいているからだになることを決意した」。

つまりホイットマンは、汚れている自分を「浄化」しようとしている。言いかえると、異常な愛欲に悶える私的な自己を「霊化」しようとしている。あるいは逆に、公的な自已に変身することで、私的な自己にまつわる汚れを払おうとしている。
 
六二年十二月に弟ジョージが負傷したという噂を聞いて、とるものもとりあえずヴァージュアの前線に出かける。弟の傷は予想していたよりも軽かったが、しかしホイットマンはそのまま一週間あまりを前線で過し、月末に負傷兵たちの一団とともにワシントンまで後退して、翌六三年の春から主計官の非常勤助手として勤務しながら市内の病院で彼らの世話をつづける。

かつては「完璧な健康」を誇った彼も、このころから徐々にからだの不調を訴えるようになっているが、にもかかわらず新しい環境で、いわゆる「看護人」として病院へ通うことをやめなかったのは、傷や病いに苦しみ、あるいは死に瀕した若い兵士たちに献身的な愛をそそぐことによって、むろん無憲識のうちにではあろうが、異常で「恥ずかしい」愛の形を「浄化」しようと願ったからだ。そのままでは汚らわしい愛を、持続的に献身しつづけることによって、崇高な大義の成就に必要な美徳としての「僚友愛」に変えようとする試み、あるいは私的な自己を公的な自已に昇華しようとする試みだと言ってもいい。
 
六五年には、南北の抗争とその克服を主題とする詩集『軍鼓のひびき』が、そしてつづいて、「続軍鼓のひびき」という副題を持つ『先頃ライラックの花が前庭に咲いたとき、その他』が、世に出た。詩人の精神の側から言うと、所詮は外側の事件にすぎぬ主題を主として歌うこれらの作品は、アメリカの現在を憂え、その未来のために戦うことを呼びかけるというモティーフで歌われており、したがってそれを歌う詩人は、いわばすみずみまで公的な自己になりきっていなければならぬ。ナザレの青年イエスか救世主キリストになるためには肉親との私的な関係を拒まねばならなかったように、ホイットマンもまた、アメリカの未来をさし示す予言者になるためには、一切の私的な惑乱をきれいに越えていなければならないのである。
 
この意味では、ホイットマン自身がある手紙(オコンナー宛一八六五年一月六目付)のなかで、「『軍鼓のひびき』には『草の葉』のような惑乱がいささかもありません。『草の葉』に満足してはいますが……次の版で注意ぶかく削除しなければならぬところか幾つかあり、そのうえに、かなり改めねばならないところも幾つかあります」と言っているのは、まことに正確な捉え方だと思われる。私的な自己を捨てた「予言者」にとっては、かつておのれの深部から流れ出した「溶岩」はただの「惑乱」でしかなく、したがってそれを「削除し……改めなければならない」としても当然のことたのだ。
 
このころホイットマンは、内務省のインディアン局に書記として勤めていたが、やがて内務長官にいかがわしい書物の著者だとして解雇される。しかし友人の奔走で、まもなく法務省に職を見つけ、目まいや激しい頭痛や不眠に悩まされながらも、ようやく安定と余裕を手に入れることができる。
 
六七年には『草の葉』第四版が出版された。新しく加わった詩はわずか八編にすぎなかったが、元来はべつの詩集として出版された『軍鼓のひびき』と『続軍鼓のひびき』とが付録として加わった。しかしそれよりも注目すべきは、従来の版に対して改筆、削除、組み変えが大幅に行なわれたことである。またこの年にイギリスの文人ウィリアム・ロセッティがロンドンの『クロニクル』紙に一文を寄せて、『草の葉』を熱烈に賛美し、翌六八年には『ウォルト・ホイットマン詩選』を出版するなどして、ようやく海外にもホイットマンの名前は知られるようになった。
 
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南北戦争の結果、北部の産業資本主義体制が合衆国全体を支配することになったが、ようやく現実となった民主主義の社会は、しかしホイットマンの民主主義の理念(宗教的民主主義)とは大きく食い違っていた。イギリスの思想家トマス・カーライルのエッセー「大冒険、さてそのあとは?」の民主主義批判に対する反論として書かれ、七一年に「民主主義の未来像」としてまとめられた論文で、ホイットマンは、まさにこの「民主主義の……理念と民衆の粗野や悪徳とのあいだ」の断絶を嘆きつつ、それでも人格の崇高さを信じ、民主主義の未来を信じよりとしている。
  
しかしこの「人格主義」や「民主主義」は、もはや五〇年代前半におけるようなヴィジョンの広かりを持たず、むしろ現実世界に見捨てられた一片の観念でしかない。たとえばまわりを広大な虚空にとりまかれ、かかってくれる当てもなく糸をくり出しつづけているあの「もの静かな辛抱づよい蜘蛛」は、ついに世にいれられなかった「予言者」の孤絶を表した自画像にちがいない。
 
七一年には新しく十三編の詩を加えた『草の葉』第五版も出版されたか、売れゆきはなかなか好調で、早速その再刷が「インドへ渡ろう」などの詩を付録に加えて出たほどであり、後者はさらに翌七二年にも再発行されている。この版になると、まえに述べたホイットマンの自己の外化か、あるいは公的な自己の支配か、いよいよ歴然たる気配を帯び始める。

たとえばこの版に加えられた詩のうちの数編が、詩人の内面からそのモティーフを得ずに、外界の事件のために歌われたもの(いわゆる「偶作詩」)であることは、詩人の内面世界が今は独自の空間であることをやめて、単なる外界の「水路」になろうとしていることを暗示している。例をあげておくと、「博覧会の歌」は七一年九月七日にニューヨークで開かれたアメリカ協会の第四〇回年次博覧会のために求められて作ったものだし、「ある墓のための碑銘」は慈善家で富豪のジョージ・ピーボディの死を悼んだ挽歌だし、あるいは「牢獄に歌う」は当時の有名なソプラノ歌手パレパ・ローザがシング・ジング刑務所で開いたコンサートを賛えた詩だ。
 
「インドへ渡ろう」も、やはりこれら「偶作詩」のひとつである。スエズ運河の開通、北米横断鉄道の完成、大西洋海底電線の敷設を記念して歌われたこの長詩は、しかしこれらの輝かしい近代科学の成果を賛えながら、同時にこれら通信交通網の整備の意味を、かつてインドから始まった旅が世界をひとめぐりして今終わろうとしているという点で捉えている。つまりアメリカまで到達したこの旅は、これほどに素晴しい成果をあげることができたが、しかしっしてこれが窮極ではなく、さらにこれから最後の旅程に進み出なければならないのである。

「インドへ渡ろう」とくり返される呼びかけは、つまり物質的な繁栄で立ちどまらずに、さらに「最初の意図」の成就に向かって進もうという要請なのだ。とすれば、その呼びかけの背後には、物質的繁栄で立ちどまろうとする現実世界への苛立ちと、裏ぎられた予言者の孤絶感をひめているにちがいない。
 
錨を上げ、太綱を断ち切り、あまりにも長く立ちつくしすぎたこの大地から離れて、「ひたすらに深い海だけを目ざして」進もうという誘いは、かつて「大道の歌」で明るく逞しくくり返された旅への誘いとは違って、何という哀調をふくんでいることか。それに第一かつてのホイットマンなら、魂の世界へはいりこむのに、何もわざわざ大地を捨てる必要はなかった。魂を見たければ、「君自身の姿と顔を、人びとを、物体を、野獣を……」見ればよかった。
  
七三年一月、とつぜん中風の発作のために左半身が麻蟀し、そのうえ五月には母に死なれる。相ついで襲った不幸の衝撃に耐えかねたのか、六月になると二か月の休暇を願い出てニュージャージーの海岸へ出かけるが、途中で病いにたおれ、キャムデンに住む弟ジョージの家に身を寄せる。結局この地にホイットマンは終生住むことになるのだが、七五年末ごろにはかなり健康も回復し、ジョン・バローズといっしょにワシントンとボルティモアヘ旅行することができるほどになった。
 
そして七六年には建国百年を記念して、『草の葉』第六版と『二つの小川』と題する詩文集との二巻から成る『百年祭記念版』を出版することができた。ただし前者は第五版の再刷にすぎず、後者は一〇数編の新しい詩に、「民主主義の未来像」などの散文を再録、そして最後を「インドへ渡ろう」が全体の結びという形でしめくくっていた。
   
このころにはホイットマンの名前もかなり世間に知られ、彼を訪れてくる者もあるようになった。健康の回復もいちじるしかったとみえ、ニューヨークを何度か訪れ、七九年には西部にまで長途の旅行を試みている。
 
八一年にはボストンの出版社から『草の葉』第七版を出すことかできたが、八二年三月にボストン地方検事からわいせつ文書と見なし、もしもいかがわしい部分を削除しなければ告発するという警告をうけた。しかしホイットマンは削除することを拒絶し、あらためておなじ版をフィラデルフィアの出版社から再発行した。この版で新しく加えられた詩も少しはあるが、それよりも重要なのは、従来は付録として扱われていた詩がすべて『草の葉』本編のなかに組みこまれ、配列も表題も本文も最終的に決まったことである。
 
つまり『草の葉』が現在の形に固定したのはこの第七版においてであり、以後新しく書かれた詩は(八八-九年の第八版で「古稀の砂粒」詩群が、九二年の第九版では「さようならわたしの空想」詩群)が付録として追加されていくことになる。またおなじ八二年には、自伝風スケッチ、南北戦争の想い出、それにさまざまな問題に関する随想などを集めた『自選日記』をその他の散文とひとつにまとめて、『自選日記および散文集成』と題して出版し、さらに八八年には六二編の「古稀の砂粒」と「過ぎこしかたをふり返りて」と題する序文などの散文を収めた「十一月の枝』や、『草の葉』第八版をふくむ『詩文全集』を出版した。
 
しかしこの年六月にはふたたび中風の発作に襲われて、以後は外出も困難になり、九一年末にかかった肺炎がもとで、翌九二年三月二六日の早朝に死んだ。彼が最後に残した『草の葉』第九版(一八九二年)は「臨終版」とも呼ばれ、定本版とされている。

しかしこれまでも述べてきたように、『草の葉』という共通のタイトルのもとに存在する九つの版は、その時々のホイットマンの内面を反映し、先行する版を組み変え修正することによって成立してきたものであるから、当然いわばそれぞれに独立した作品として再検討されることが望ましい。一九世紀というアメリカの激動期にあって、つねに時代の潮流をまともに受けながら、ほぼその企体を生ききったホイットマンの精神の軌跡を辿ることは、同時にアメリカ精神史の重要な部分を辿ることにもなるはずである。
なお一八九七年には、遺稿「老いのくりごと」詩群を新たに付鉄として、『草の葉』第一〇版が出版された。

以上ホイットマンの生涯と『草の葉』の歴史を、主として詩人の精神構造の変化といり観点から素描してみた。紙幅の制限のために書き残したことも多く、とくに個々の詩編の解説や評価には立ちいることかできたかったが、意のあるところを汲んで頂ければ仕合わせである。
 
最後に『草の葉』全訳という大仕事をともかくもなし終えるには、むろん多くの方々のお蔭を受けている。とくに翻訳にとりかかってまもなく逝去された杉木喬氏は、日本におけるホィトマン研究の先達であり、この訳業の中心的存在となって頂くはずでもあっただけに、氏を急に失ってしまった悲しみと衝撃は大きかった。しかし『草の葉』を相手に悪戦苦闘したこの三年間、挫けそうになる僕の励ましとなり支えともなったのは、何よりもまず、いつも脳裏を離れぬ氏の温顔の記憶だった。今はただ、むろん不出来なものではあるが、この訳書を氏の霊前にささげてご冥福を祈りたい。
 
杉木氏の逝去された一九六八年九月十二日という日は、僕にとってよほどの悪日だった。なぜならおなじ日に、もうひとりの訳者に予定されていた鍋島能弘氏が、インディアナ大学客員教授として離日されたからである。頼るべき柱を一度に失ってしまった心細さは恐らくご想像頂けるだろうが、それでもともかくここまで漕ぎつけることができたのは、共訳者として、外地での多忙をきわめる日常のさ中でゲラ刷に目を通し、あるいはその他の助力を惜しまれなかった鍋島教授のご厚情と、長期にわたって督励と助言を与えつづけて下さった岩波書店編集部の永見洋氏のお蔭である。両氏に心から感謝する次第である。
    一九七一年三月  酒本雅之

1971年刊行の杉木喬、鍋島能弘、酒本雅之訳の「草の葉」は、もはや廃物廃品同様に地底に捨てられて、いまや私たちは手にすることは出来ない。そこでウオーデンは、その優れた労作をこの大陸に植え込むことにした。
 
それから26年後に、酒本さんは再度「草の葉」全訳に取り組むことになる。そのときの経緯を酒本さんは次のように記している。
「訳者はかつて同じ岩波文庫で「草の葉」の全訳を刊行したことがある。だが四半世紀以上の時間が経過して、若いころの自分の仕事にさまざまな不満や反省を感じるようになり、まだ力が残っているあいだにできる限り良いものにしておきたいと考えた。旧訳を徹底的に見直し、むしろ新訳のつもりで取り組んだが、少なくとも今の自分としては精いっぱいのものができたと思いたい」
こうして1997年に、酒本雅之単独の「草の葉」全訳が刊行されたが、今ではこの本も私たちは手にすることができない。


 
 

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