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実朝と公暁  二の章


実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。──小林秀雄

序の章

 源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。
 しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。
 それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
 したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。


二の章

 広元を乗せた牛車は、歩調よりも遅いのんびりとした速度で、幕府の正門を出た。雨は小止みになり、霧に煙るような景色を見せている。このあたりは鎌倉の中枢だが、幕僚たちの大きな屋敷が立ち並んでいて、行き交う人も車もまばらであった。それでも武者や、物売り人や、騎馬に引率された部隊や、女や子供たちが行き交う。広元は車窓に流れる景色に眼を向けていたが、彼の心はしきりに実朝を見ようとしていた。
 実朝が彼を遠ざけるようになったのは訳があった。昨年の九月のことだった。その年の六月に実朝に中納言の官位が下されると、追いかけるように左近中将に任ぜられた。すると実朝はさらに上位の官位を求めて、早急に朝廷と折衝せよと幕府に要求してきたのである。このことが幕僚たちの閣議で大きな物議をかもした。
「いったい将軍は何を考えておるのか、いまどき朝廷の紙きれごとき官位を授けられて何がうれしいのか」
「さよう、天下の中心は鎌倉にあるのではないのか、何の力もない朝廷にへりくだることはないのだ」
「官位を一つ上げるごとに朝廷はその対価をつり上げていく、朝廷の狙いはそこにあるのだ、彼らが繰り出すそんな甘い罠にまんまと陥ることはない」
「そうだ、これは朝廷が仕掛ける罠なのだ」
「朝廷というより上皇というべきであろう、後鳥羽上皇だ、後鳥羽上皇が仕掛けている罠だ」
「将軍の上皇に対する心服は常軌を逸しているからな、そんな将軍の心を見抜いての上皇の巧妙なる官打ちなのだ、官位を小出しにして、蹂躙するという策動が濃厚に漂っているではないか」
「それはある、それはあるぞ、官位と引き換えに、西国の領地をどんどん拡大させていくからな、いよいよ西国の統治が困難になる」
「いや、領地などというなまやさしいものではない、上皇の狙いは鎌倉から政権を奪い返すことなのだ、聞くところによると、上皇は鎌倉どのの像をつくらせ、そこに毎朝呪いの釘打ちをしているそうだ」
「あの上皇は化け物だ、なぜ将軍はそのことに気づかぬのだ」
 より上位の官位をしきりに要求する実朝に対する幕僚たちの非難の声は高まるばかりだった。その紛糾した閣議を取り仕切るように、政事と軍事の二つの機関の長となっていよいよ勢威を強めていく北条義時が、広元に向かって言った。
「ここは大江どのの出番ということになる、将軍が心を開き、幕府の具申を聞き入れるのは大江どのであるからな、どうも最近の朝廷の動きは三善どのが言われるように気になる、我らのあずかり知らぬ所で、事が運んでいくのも危険なことだ、ここらで朝廷と将軍の間に一線を引いておかねばならない、この鎌倉にたとえ小さな穴といえでも一つでも穿たれたら、そこから鎌倉は崩れていくこともある、自戒しなければならぬ、そのことを将軍に説論かたがた伝えることができるのは大江どの以外にない」
 その閣議の翌日、広元は実朝に対面した。
「かつて上洛した頼朝さまに、朝廷は右近大将と権大納言の官位を任じて、最大の敬意を表したのでございます、しかし頼朝さまは儀礼上いったんその官位を受けましたが、すぐにその任を返上しました、なぜそのようなことをなさったのか、それは鎌倉こそ日本国を治めていく主体であり、鎌倉こそ日本国の中心であることを強く朝廷に知らしめるためでございました、それからまた二年後の建久三年でございましたか、朝廷はいよいよ天下の中心になっていく鎌倉の力に、頭を垂れるように頼朝さまに征夷大将軍の地位を授けられましたが、これもまた返上いたすのです」
 そのとき実朝はちょっと気色ばんで、
「もうよい、そなたたちはすぐに頼朝だ、頼朝しか規範がないかのようだ、時代はもはや父の時代ではない、この実朝の時代ではないか、実朝は実朝のやり方があるのだ、朝廷はこのところしきりに余との接触を求めてきている、その朝廷から官位が下された、それはそれで、礼儀を正して受けとるのが筋ではないか」
「仰せの通りでございます、そのことは幕府は最大の礼を尽くして受け入れる所存であります、しかしながら、このたびまたさらなる官位を授ける策動を朝廷になせというご下命は少し性急すぎると」
「たしかに性急すぎるが別の思いが浮かばぬか、朝廷がこの鎌倉に下す評価だ、いまこの国は鎌倉を中心にして動いているのに、中納言とか中将とかあまりにも軽くあしらわれていないか、余がさらなる官位を求めるのは、朝廷にこの鎌倉を正当に評価させることにあるのだ」
「そのお考えもまた一つの真実でありましょう、しかし天下の中心はかの朝廷にあるのではなく、この鎌倉にあることはまぎれもない事実、いまや官位とは実態のない虚飾のようなものであり………」
 と論じようとした広元を実朝はさえぎって、
「そうであろうか。真実この国の中心は鎌倉であろうか、余はそう思わぬ、この国は天皇さまを中心にして成り立ってきた、古代から綿々として連なってきたその中心が天皇さまであった、その天皇さまをいだく朝廷こそこの国の軸ではないのか、どんなに武力を持とうとも所詮鎌倉は田舎にすぎぬ、生粋の京育ちのそなたにはよくわかることであろう、余が大将を大臣をと望むのは、この鎌倉をその国の軸に近づけることにあるのだ、鎌倉は成長していかねばならぬ、鎌倉はより強靭になりより重厚になって、連綿と連なるこの国の歴史に繋がらなければならぬ、鎌倉をこの国の軸にするためにその軸を呑み込まなければならぬのだ」
 広元は実朝の放った言葉がよくわからず、成長するとはどのようなことでございますかと問い、さらに鎌倉がこの国の軸を呑み込むとは、どのようなことなのですかと問うた。そのとき実朝は広元を驚愕させることを口にするのである。感情をめったにあらわさぬ広元はあまりの驚きに言葉を失った。
「誰にも言ったことがないことだ、いまはじめてそなたに漏らした、このことは口外してはならぬ、まだそのときではない、けっして口外してはならぬぞ」
「それは、それはよくわかっておりますが………」
 実朝はさらに余という公の表現を脱ぎ捨てて、
「おれが官位を求めるもう一つの理由がある、世継ぎができぬこともあるのだ、世継ぎがいれば月日をかけて事を成就していくことができる、おれの成さんとすることを次の世代に、さらにその次の世代にと引き継いでいくことができる、しかし世継ぎのいないおれはそのことを一代で成し遂げねばならぬ、おれも本気で事を起こさねばならなくなったのだ、いままでのようにそなたたちに右に左にと操られることはしない、もはやそなたたちに手玉に取られることもない、おれはおれの思う国につくり上げていく、おれが上位の官位を求めるのはそのことの決意でもあるのだ」
 実朝が広元と距離を置くようになったのはそのときからだった。その距離が広元には冷たく寂しく感じられ、もはや老人は政事の舞台から消え去らねばならぬのかという思いを深めていたのだ。
 牛車は政子が起居する尼寺に着いた。小さな門をくぐると、そこから丸石を置いた段が、ゆるい傾斜をつけてくねりと曲がっている。その石の段を上っていくと、木立のなかにひっそりと庵のような建物が立っていた。これが大将軍頼朝の台所の館かと誰もが驚くばかりのつましい建物だった。
奥の間に招かれると、政子はさっそく広元の容体を尋ねた。
「いかがでございますか、お体は?」
 広元の体調はこのところよくない。床に伏せているときが多かった。そのことを彼女は気づかったのである。
「気力だけは誰にも負けぬつもりですが、やはり年ですかな、あちこちにがたがきております、どうも最近は視力が弱くなって、白黒が定まらなくなりました、しかし尼さまのあいも変わらぬお美しさはよく見えます」
 と無骨な広元がぶすりと言った。こういう見え透いた冗談にも政子はころころとよく笑う。そのとき政子は六十を一つ出た年であったが、ふくよかな姿態は年よりもずうっと若くみせた。
「まあまあ、大江さまがそのようなご冗談を言うのはご健在な証拠、安心いたしました、それで、何か相談ごとでも………」
「はい、さきほど上さまとお会いしてまいりましたが、多少思案しなければならぬことを申しつけられまして」
「それはまたどのようなことを?」
「公暁さまを京から戻して、鶴岡宮の別当にあてよというご下命でございますが、このことは尼さまのお耳に入っておられましょうか」
「まあ、もうそのことをそなたにお命じになられましたか」
「すると尼さまはすでにご承知のことでございますね」
「その話、実は私から切り出したことだったのですよ」
「そうでございましたか」
「さかんな意気込みで建造した船が、あのようなみじめな顛未を迎えて、天下の笑いものになってしまった、あの子の心は繊細です、あの頓挫した企てが実朝にどんなに深い落胆の影を落としているか、私にはよくわかるのですよ」
 実朝は幕僚たちの反対を押し切って、東大寺の大仏建立を指揮した宗人陳和卿に、貿易船を建造させた。その大船が先月竣工した。派手な式典を挙行して、さて海上に進水させると、その巨体は砂浜にのめり込んだまま寸とも動かなかったのだ。そのことを政子は言っている。
「しかし実朝さまはまた鋼のように強い心もお持ちです」
「それならばよいが」
 青い風が木立の葉をさわさわと鳴らして部屋に吹き込んでくる。雨に濡れた風は心地よい。それにしても幕府を支えるもう一つの大きな存在である政子が、何の防備もなければ、警護の兵もいない尼寺に住んでいるのは不思譲な景色だった。和田の乱以来、互いに疑心暗鬼にとらわれている御家人たちは、二重三重の防備のなかで生活しているというのに。
「将軍はそなたに栄実の件の探査を命じたそうですね」
「その探査の報告を本日なしていたとき、公暁さまの唐突な話が出てまいったのです」
「近頃将軍はしばしば公暁の夢を見るようです、公暁もまた栄実のような事件に巻き込まれるのではないかという不安があるからでしょうか」
「そのことを私にもちらりと漏らされました」
「そんなことは私には一言も漏らしません、しかし私には将軍の心のうちがよく見えるのですよ、公暁を失うと鎌倉どのの血を受ける者は実朝一人になってしまう、その不安が何かしきりにあの子をせめ立ててくるようで、それで私は将軍にそれとなく提示してみたのですよ、定暁さまが先月お亡くなりになって、鶴岡の別当が空白になっている、そこに公暁を就かせてはと」
「そうでございましたか」
「実朝は不器用な子です、世継ぎがいまだにない、世継ぎなど側室をつくればよいこと、しかし女にだらしなかった兄頼家と違って、がんとして側室をつくらぬ、それはそれでよしとしますが、もう少し人間の幅がでてくるとよいと思うのですがね、親が言うのもなんですが不思議な子です」
「そのことはよくわかりました、されど公暁さまを園城寺から戻すことはともかく、いきなり鶴岡の別当とはどのようなものでしょうか、いまや鶴岡宮は天下の社でございます、幕府の行事が頻繁に行われます、その仕事に二十歳の若者が勤まるものでしょうか」
「大江さま、実朝が将軍の座に就いたのは十二歳のときですよ、公暁はもう二十歳になる年齢ではありませんか、それでも不安なら公暁の傍らにすぐれた僧を配置すればよいこと、鎌倉にもすぐれた僧はおられるでしょう、公暁はよく修行しているようですよ、園城寺の長顕さまからの書簡のなかにも、たびたびそのことがしたためられております」
「公暁さまのあの大きな器量は、私にはいつも鎌倉どの(頼朝のこと)を思わせるのです、鋼のように強く、嵐のように激しい気性だけではありません、数多の人間を抱き込み、どこまでも引きずっていく天性の素質は、まさしく鎌倉どのゆずりではないかと」
「そうです、私もそう思います、それゆえに不安になるのですよ、よからぬ企みを持つ者が公暁に近づき、栄実以上の謀反の行動を起こすかもしれません、そんなことにならぬうちに、あの子は鎌倉に引き戻すべきなのでしょう」
「大江にも尼さまのお心が見えてきました」
「しかし、くれぐれも言っておかねばならぬことは、あの子が戻ってきてもけっして政事に踏み込ませてはなりません、あの子は仏に使える身として鶴岡に赴かせるのです、この鎌倉にはあまりにも沢山の事件が起こりすぎました、怨霊がさ迷っているからかもしれません、無念の霊を弔い、鎌倉を清めるための一心の読経こそ、あの子に相応しいでしょう」
 政子の政事感覚が別に鋭いわけではなかった。むしろ彼女は少しも政事的な人間ではない。それなのに繰り返す騷乱のなかで、その判断を過つことなく動いてきたのは、彼女の傍らにいつも広元がいたからである。広元は難解な局面にいたると政子のもとに参じた。この政子を通して広元は策動をはじめていく。広元はよく知っていた。政子を政事の場に引き出すことによって、一つの現実が音をたてて動いていき活路の道が開かれていくことを。

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