中江藤樹──村の教師 内村鑑三
中江藤樹──村の教師
内村鑑三著 内村美代子訳
1 日本の教育
《われわれ西洋人が君たちを救いに行く前、日本の学校教育はどんな形のものだったのですか。君たち日本人は異教徒の中では最も賢い国民であるように思われる。何らかの道徳的、知的の訓練を受けたればこそ、君たちは過去においてまた現在においてこれほどになり得たのだとわれわれは信じるのですがね》
故国を離れて初めて西洋人の間に立ち交じった日本人に対し、文化的な西洋人は往々にしてこんな調子の質問を発する。これに対するわれわれの答えは、ほぼ次のようなものだ。
《そうです。われわれは学校教育を受けました。それも相当のものです。われわれがまだ母のひざの上にいたころ、われわれは少なくとも十戒の内の八つまでを父の口から学んだと信じます。すなわち力は正義ではないこと、宇宙は利己主義の上に立つものではないこと、いかなる形を取ろうとも盗みは正しくないこと、生命と財産とはわれわれの究極の目的とすべきものではないこと、その他多くの事どもです。われわれには学校もあり先生もありましたが、それはあなた方偉大な欧米人の間で見られるもの、また今やわが国でもそれをまねしているものとは全く違うものであります。第一学校が知的の年季奉公をする所だなどとはわれわれは考えたこともありません。われわれが学校にやらされたのは、卒業の後に生活費をかせぎ出すためというよりは、むしろ「真の人間」、われわれの言葉で言えば君子になるためでありました。
君子とは英語のジェントルマンに似かよったものです。またわれわれの学校では一ダースもの違った学科を、同時に教えるということもありませんでした。昔も今も人間の脳髄は一ダースどころか、わずか二葉しかないと決まっていますから、昔の教師は数年の短期間にあらゆる種類の知識を詰め込んではならぬと考えていたのです(賢い考えだとわれわれは思います)。それゆえわれわれの学校には、悪魔学、天使学、蛙学、かぶとむし学などを専門にするような教授はいませんでした。いなごの研究に二十五年も費やしたと自慢したあとで、しかし自分はいなごについて実は何も知っていないのだと、人知に限りのあることをさも悲しげに告白するような者はいなかったのです。また生徒の中にだって、かぶとむしや、かえるや、悪魔学等の専門家に仕立てられようと思う者は一人もありませんでした。
これは旧日本の教育制度のすぐれた特徴であります。われわれは主として、歴史、詩歌、作法を学びましたが、しかし、最も力をこめて教えられたのは道徳であり、それも実践的な性質のものでありました。純理論的、神知学的、神学的の道徳を、われわれの学校で強いられたことはありません。たとえば天の中心にあって日輪をささえる人や、人語を語る駿馬のことなどで、われわれは決して頭を悩ましませんでした。わが国の仏教学者が、山中の幽居で実在しない動物である亀甲の毛の数その他、取るに足りない事どもを論じていたのは事実ですが、しかしわれわれのように下界に住んで、人間世界の実際問題に携わらなければならぬ者は、このような問題を一々気にかけなくてもよかったのです。要するに、われわれの学校では神学を教えませんでした。神学を学びたい者は、寺(教会)へ行くことになっていましたから、他の国々のように宗派上の論争が学校で行なわれるなどということはありませんでした。これもまた旧日本の教育のすぐれた面であります。
次にわれわれはクラス別に学ぶこともありませんでした。魂を持った人間を、オーストラリアの農場の羊よろしく、クラス分けにする制度は、旧日本の学校にはなかったのです。われわれの教師は人間とは分類できない者であり、誰しもが個人として、すなわち、顔と顔、魂と魂をつき合わせるようにして扱われねばならぬ者であることを本能的に知っていたと私は思うのです。それゆえ、教師たちは生徒一人一人を対象にそれぞれの肉体的、知能的、精神的特性に応じた教え方をしました。教師が一人一人の生徒の名前を知っていたことはもちろんです。こうしたやり方でしたから、驢馬と馬とが一つの馬具に繋がれるようなことは決してなく、驢馬は打ちのめされて愚か者扱いされ、馬は卒業生総代の墓に追い込まれるような危険はきわめて少なかったのです(大学の卒業生代表として、卒業式当時告別演説をする名誉をになう優秀な学生が、そのために身を誤ることを指す)。適者生存の原理に基づく当世流の教育制度は、人類愛にあふれた寛容な君子(紳士)を作るのには不適当のものと考えられていました。それゆえこの点で旧日本の教育者は、ソクラテスやプラトンの教育理論と一致した考え方をしていたわけです。
このような次第ですから、教師と生徒との間柄もこの上なく密接でした。われわれは教師をあの近づきがたい教授という名では決して呼ばず、先生と呼びました。先生とは先に生まれた人という意味ですが、それは必ずしもこの世に現われた時期が早かったというばかりではなく(教師が年下の場合もありますから)、真理を悟るに至った時期も生徒たちより早かったことを意味するのです。こうしたわけですから、われわれは先生に対して、両親や藩主に対すると同様の、最高の尊敬をささげねばなりませんでした。まことに先生と両親と君(藩主)こそは、われわれが尊敬の念をもって仰ぐ三位一体であったのです。そしてこの三者が同時に水におぼれようとしており、しかも自分にはただ一人を救う力しかないときに、三者のうちの誰を救ったらよいかということは、日本の青年を最も悩ませた問題でありました。それゆえ先生のために命を捨てることは、弟子たる者の最高の徳と考えられていたのです。近代的教育制度のもとでは、教授のために死んだ学生の話など聞いたこともありません。
先生と弟子との間柄に関しこのような考え方をしていたればこそ、キリスト教の聖書の中に主とその弟子たちとの密接な関係を読んで、直ちにこれを理解し得た者がわれわれの中にあったのです。弟子は師にまさらず、しもべは主にまさらぬこと、良き羊飼いは羊のために命をも惜しまぬこと、その他これに類した言葉を聖書の中に見いだしたとき、われわれはそれを自分たちがずっと昔から知っていた真理としてすんなりと受け入れました。そして、師を教授、弟子を学生としか考えぬ西洋のクリスチャンは、われわれに伝道するために持参した聖書の中のこのような教訓を、そもそもいかにして理解することができたのかといぶかったものです。それですから、旧日本の教育制度は少なくともこの点において、キリスト教的のものであったと信ぜざるを得ません。それに反し近代の教育制度は、その悪魔学や批評哲学等の講義といい、その日曜学校といい、強制的な教会通いといい、総じて非キリスト教的な時には反キリスト教的な要素をそなえたものだと断じます。このように物有の真相を突きつめて行くと、後のものが先になることもあれば、またその反対の場合もあるのです。
もちろんわれわれはすべての点において、旧いものが新しいものにまさっていたと主張するのではありません。先にも述べたように旧い教育には、現在のような悪魔学や、かぶとむし学の講義はありませんでした。しかし人類と自然とに関係のあるものはすべて知る価値があります。そして博士の学位を望む者があふれている一方、教授の俸給が非常に高くなっている現在では、残された道は一つしかありません。すなわちオーストラリアの牧羊制度を採用して学生をクラス別に分け、集団的授業を行なうことです。われわれは必要に強いられてこの手段を執ったのであり、これ以外に執るべき道はありません。しかしながら旧いもののすべてが悪いのではなく、また新しいもののすべてが良くて完全ではないとわれわれは言いたいのです。新しいものにもなお大いに改善の余地があり、旧いものもまた復活すべきです。今のところはまだ旧いものはことごとく捨て去り、新しいものにはすべて心服せよと勧める時期ではありますまい》
以上のようにわれわれは自分の所信を表明し、今もなおそれを続けている。が、それに対して、西洋人のさかんな拍手は報いられなかった。日本人は自分たちが思ったほど御しやすい従順な民ではないようだと西洋人は気付いたのである。私はここにわれわれの強情と、受容性のなさと、排外主義とをさらに維持するために、われらの理想の学校教師(先生)の一人の生涯をしるそうと思う。これによって、日本の青年の教育に心からの関心を寄せている西欧の良き友大たちに、一、二の手がかりを与えようと思うからである。
2 初期の時代と自覚の発生
西暦一六〇八年といえば、関ヶ原の合戦からわずか八年の後、大坂城落城に先んずる七年という戦国の世であって、男の主な仕事は戦うことであり、女のそれは泣くことであり、文学や学問は、学ぶ価値のないものだという考えが、まだ世間の実際家の間に行なわれていたころである。この年に日本の生んだ最も徳の高い、最も進歩的な思想家の一人が近江の国に生まれた。そこは琵琶湖の西岸で、近くにそびえる比良の峰がその円い頂を鏡のような眼下の湖に映す所である。しかし彼は幼いころ近江の父の家から遠く四国の祖父母のもとに送られ、主として彼らに育てられた。彼は幼いころからその年に似ぬまた武芸を仕込まれる武士の子にしては珍しい敏感さを示した。すでに十一歳のとき孔子の『大学』の一部を読んでその後の全生涯を決定する人望を抱いたほどである。その中には次のように書かれてあった。
「天子をはじめ庶民に至るまで人間の主たる目的は、その生活を正しく整えることに ある」これを読んで感きわまった少年は「このような本がここにあるとは! ああ天に感謝します」と言い、さらに次のように叫んだ。「私自身とても怠らず努めたならば、聖人になれないことがあろうか!」彼は泣いた。そしてこのときの感動は一生涯、彼の心から消えなかった。聖人になる──これはまた何という大望であろう!
しかしこの少年は、祈りや内省にのみに明け暮れる、感受性過多の柔弱考ではなかった。あるとき暴徒の群れが祖父の家を襲ったが、そのとき彼は刀をふるって真先に賊の只中へ飛び込み美事に賊を退散させた。しかもそのあとは平然として以前の通りであったという。わずかに十三歳の時のことであった。
同じころ彼は、天梁という学識ゆたかな仏教の僧侶のもとへ、作詩と習字とを学ぶために通わせられた。この早熟な少年はその師に向かって多くの質問を発したが、次の質問は特に彼の人と成りをよく表している。
先生のお言葉によれば、仏陀は生まれたとき、片方の手で天を指さし、もう一方の手で地を指さして「天上天下唯我独尊」と言われたということですが、これでは仏陀は天が下でも、最も高慢な人間ではありませんか。それにもかかわらず尊敬する先生が仏陀を理想としておられるのは、そもそもどういうわけでございますか?
そして少年はその後も決して仏教を好きになれなかった。少年の理想は完企な謙遜であったのに対し、仏陀はそういう人ではなかったからである。
十七歳のとき彼は孔子の『四書』の完全な一揃いを手に入れることができた。(このことは、当時の書籍の欠乏のさまを示すものである)。これ以来彼の勉強欲はさらに高まり、今は自分のものとなったこの貴重な宝庫から知識を吸収するために、余暇のすべてをささげたのであった。しかしながら武士の主な仕事は戦うことであり、読書などは僧侶か世捨て人にふさわしい仕事として、さげすまれていた当時のことであるから、若き藤樹の勉学も隠れて行なうほかはなかった。それゆえ昼間の時間はすべて武芸のために費やし、夜だけ読書に没頭したのである。しかし、秘密がいつまでも現れるにいるわけはない。あるとき同僚の一人が彼を「孔子さん」と呼んだ。これは彼が夜ごとに読書くに没頭することと、当時の粗野で好戦的な若者とは全く違う、彼の温和な性質とを嘲ったものであることは確かだ。
「君はなんと無学な人なのか!」さすが温厚な若者も、怒りに声を荒らげた。「孔子は二千年も前に亡くなられたお方だ。その聖人のお名前をあだ名扱いする君は聖人を冒涜するのか? それとも私が学問を好むのをあざ笑うのか? あわれなやつ! 戦争ばかりが武士の勤めではないぞ。平和の時の仕事もまた武士の励むべきものだ。無学の武士は人間ではない。物質だ。奴隷だ。君は奴隷であることに甘んじるのか?」
藤樹の一喝は効き日があった。その同僚は自分の無学を認め、その後は全くおとなしくなうたのである。
彼は今や二十二歳となって、彼をはぐくんでくれた祖父母はすでに世を去り、近ごろ父をも失った。父と共に暮らした月日はほんのわずかのものだった。残るは母一人、重なる不幸に彼は一屑感じやすく涙もろく情ぶかい人となり、彼の思いは今はひとすじに近江に残した母親に向けられる。当時の彼はその学識とその潔白な人格とのゆえに、日々名声を高めつつあり、前途には栄誉と高給とが待ち受けていたが、彼にとっては全世界よりもただ一人の女性、彼の毋の方が大切であった。この時以来、母は息子の心尽くしを一身に集めるようになるのである。
3 母親崇拝
はじめ彼は母親を自分の手もとに招いて、伊予の藩主に仕えようとしたが、それがむずかしくなったので、この上は藩主のもとを去って母のもとへ帰ろうと決心した。しかしこの決定に行きつくまでには、心中の激しい戦いを戦わねばならなかったのである。彼は藩主の家老に宛てて手紙を書き、一身上の事情により藩公への奉公よりも母への孝養の方を選ぶに至った理由をしるした。次はその一節である。
《この二つの勤めについて深く考えましたが、主君は給与を与えることによって私の ような家臣を幾人でもお招きになることができるに反し、私の母は私というつまらぬ者のほかにたよる者のない身の上でございます》
彼の「三位一体」についての悩みは、このようにして解決されたのである。彼は、米や、家屋敷や、家具などすでに相当の額にのぼっていた全財産を置き去りにして母の許へと旅立った。毋のかたわらで暮らすようになって、彼は全く満足だったが、母を慰める術は何もなかった。母の家へ着いたときの彼の所持金は、わずか百文(現在の通貨の一銭、しかし価値の上では、おそらく一円に当たるだろう)にすぎなかったという。彼はその金でわずかの酒を買い、それに少しの利を加えて近隣の村々を売り歩いた。かつての学者でまた先生とも呼ばれたほどの人が、今や行商人と変わったのもすべては母のためである。彼はまた武士の魂である刀までを手放し、その代金の銀十枚を村人に貸し付けた。この貸し金からあがるわずかの利益に、行商に由る利益を加えたものが、母子二人のささやかな生活をささえる収人であった。藤樹先生はこれらの卑しい労働を少しも恥とは感じなかった。母の笑顔の中に彼の天国はあった。その笑顔を見るためには何を代償としても惜しまなかったのである。
このような貧しい生活が二年間続いた。彼の書いたものから想像すると、これは彼の生涯のうちで最も幸福な期間であったらしい。母を離れては夜もよく眠ることができず、「夢の中にも母を思って、寝返りを打つこと幾たびか」であったという。なぜなら彼の道徳体系はすべて親に対する義務(われわれはそれを孝行と呼ぶ)を中心として組み立てられており、この中心的義務を怠ることは彼にとってすべてを怠ることであったから、母への孝養に至らぬところがありはせぬかと、不安に堪えなかったのである。われわれがすでに知る通り、彼の生涯の目的は聖人すなわち完全な人間となることであった。彼の目から見れば、聖人となることは学者や哲学者となるよりも偉大なことと思われた。だがここに藤樹の学者としての力量もまた必要とされる時が来た。彼はついに説き伏せられて、その学問を世の人々に伝えるようになるのである。
4 近江聖人
行商の仕事をやめて村に学校を開いたのは、藤樹の二十八歳の時のことである。当時は学校を開くほど簡単なことはなかった。先生の住む家が同時に寄宿舎とも礼拝常とも講義室ともなったからである。室の正面には孔子の肖像が掲げられ、生徒を従えた先生はその前に進んで、然るべき儀礼のうちに香をたいて敬意を表した。科学と数学とは教科の中に無く、シナの古典、多少の歴史、作詩、習字が当時の学課のすべてであった。学校の教師とは地味で目立たぬ仕事である。その影響は実にゆっくりとしか現われない。世の派手好きの人には卑しまれようとも、天使に羨まれる事業、それが教師の仕事である。
この国の片田舎に根をすえて、彼は平和にあふれる生涯をその死に至るまで楽しんだ。まもなくわかることだが彼の名が世間に知られるようになったのは、ほんの偶然のことからである。評判を立てられることを彼は何よりもきらった。彼にとっては彼の心こそ彼の主国であり、彼は自分自身の中に自分のすべて、否、それ以上を有していたのである。彼が村の出来事につねに関心を持っていたこと、村の裁判所に訴えられた村人のためにとりなしをしたこと、自分をのせた駕籠かきにさえ、「人の道」を教えたことなど、彼にまつわる幾つかの話を村人は語り伝えているが、これらの話は藤樹自身の人生観と完全に一致するものだ。次に引用するのは「徳を積むこと」について、彼の述べたところである。
《人はみな悪い評判を立てられることをきらい、良い評判が聞こえることを好むものである。そして小さな善行は積り積らぬかぎり評判とはならぬから、凡人はこれを心に留めないが、君子は日々行なわねばならぬ小さな善行を決しておろそかにしない。君子とても、大きな善行に直面する場合にはこれを行なうが、ただそれを探し求めようとしないだけである。大きな善行をする機会は少ないに反し、小さな善行を積む機会は多い。そして前者は人の評判となり、後者は徳を積むに至る。世の人が大きな善行を探し求めるのは、評判を立てられることを好むからだ。しかしながら評判のためにするのでは、たとえ大きな善行であっても、小さなものとなり終わる。君子とは小さな善行を積み重ねて徳を建てる人のことである。まことに徳より偉大な行為はない。徳はあらゆる大きな善行の源である》
彼の教え方には一つの著しい特徴があった。彼は生徒の徳と人格とに非常に重きを置き、文学と知識の習得とをきわめて軽く見たのである。真の学者とはいかかる者であるかについての彼の考えは、次の通りであった。
《学者とは徳に対して与えられる名であって、学芸に対して与えられる名ではない。文学は学芸であるから、生まれながら文才に恵まれた人が文学者になるのはむずかしいことではない。しかしながらいくら文字に精通していても、徳がない人は学者ではない。それは文字を解する凡人である。これに反したとえ無学でも徳のある人は凡人ではない。それは文字ぬきの学者である》
こうして藤樹が彼の身近の小さな社会以外には名を知られることもない静かな生活を数年も送ったころ、ついに「摂理」は彼を引き出して、無名の彼を世の中へ知らせたのである。ある一人の青年が岡山を立って旅に出たことからこの物語は始まる。その青年は彼の先生として仰ぐ聖人をこの国の中に探し求めて故郷を後にしたのである。しかしながら単身探索の旅に出たこの青年が、かつてユダヤ人の王を求めて旅立った東方の老博士たち以上に明らかな目標を持っていたわけではない。彼は岡山から東の方、首都をさして道を急いだ。首都には大名や名士も住めば聖人も住むと、彼が考えたのは無理もないことである。彼はついに近江まで来て、そこの田舎宿に一泊した。薄い仕切り壁で隔てられた隣室から、二人の旅人の話声が聞こえる。近づきになったばかりらしいこの二人の交わす会話は、青年の注意を引いた。二人のうちの一人は武士で、彼は自分の経験をこんなふうに話していた。
《私は主君のお使いで都に上りましたが、国へ帰るに際して数百両の金を持ち帰ることを命じられました。私はその金を肌身離さず持っていたのですが、どうしたわけかこの村に着く日に限って、いつもの習慣を違え、その日の午後雇った馬の鞍に金のはいった財布を結び付けたのです。そして宿に着くと、鞍に付けた宝のことをすっかり忘れ、馬子と共に馬を帰してしまい、しばらく経ってから恐ろしい忘れ物をしたことに気付きました。その時の私が、どんな絶体絶命の場に立つたかを想像してください。馬子の名も知らぬ私に、どうして彼が探し出せましょう。万一、探し出すことができたとしても、彼が金を使ってしまったあとでは何にもなりません。私の失態は申し開きの余地のないものです。主君に対しておわびをする道はただ一つしか残されていません(当時は人の命がそれほど貴重でなかった)。
私は遺書をしたためました、一通は御家老に宛て、他は親戚の者たちに宛てて書いて最後の瞬間に処する決心をかためたのです。口に言い表せぬ苦悩のうちに時は過ぎて、真夜中となったころ、誰かが宿の表戸を強くたたく音が聞こえましたが、まもなく宿の人が来て、人夫風の男が私に会いたいと言っている旨を取り次ぎました。その男に会ってみて、私が仰天したことは、まさしくその男こそその日の午後、私を運んだ馬の馬子であったからです。彼はすぐに話しかけました、「お武家様、あなたは馬の鞍に大岡な物をお忘れになりましたね。私は家に帰ってからそれを見付け、あなたにお渡しするために引き返してまいりました。それはここにございます」。そう言いながら、彼は財布を私の前に置きました。それを見て、私は思わず喜びに有頂天になりましたが、ようやく気持ちを落ちつけて言いました。
「君は私の命の恩人です。どうかこの金の四分の一を受け取ってください。それは私が生きることのできたことのお礼なのです。君は私の第二の父上ですよ」
しかしその人夫は、私の言葉に動かされる様子もなく、
「そのような物を私がいただくいわれはありません。そのお財布はあなたのものですから、あなたがそれをお持ちになるのは、当然すぎるほど当然のことです」
と言いながら、前に置かれた金に手を触れようともしません。そこで私は、では十五両、次には五両、次には二両、おしまいには一両でもいいから受け取ってくださいと頼みましたが、駄目でした。ついに彼はこう言いました。
「私は貧乏人ですから、わらじ代として四文(一銭の百分の四)ください。財布をお返しするために家から四里の道を歩き通して来ましたので」
そしてようやくのことで彼に押しつけることのできたのは、わずか二百文(二銭)でした。彼がいそいそとして立ち去ろうとしたとき、私は彼を呼びとめてたずねました。
「君をこんなにも無欲で、正直で、誠実な人間にしたのは何なのですか、この年になるまで、私はこの世でこんな正直な人に会おうとは、夢にも思っていませんでした」
その貧しい男は答えました。
「私の住む小川村に中江藤樹という方がおられました。その方が、私ども村の者にこのようなことを教えてくださるのです。金もうけが人間の目的ではない、正心と、正義と、人の道とが大切なのだとおっしゃいました。村の者はみなこの方のお言葉を聞き、そのお教えの通りに歩んでいるのです」》
隣の室でこの物語を聞いていた青年は、ひざをたたいて叫んだ、「これこそ、私の探し求める聖人だ。明日の朝、その方のもとをたずねて、奉公人ともお弟子ともしていただこう」。そして翌日、青年は直ちに小川村に向かい、聖人をたずね当てて、来訪の目的を打ち明け、弟子として受け入れていただきたいと謙虚に願い出た。驚いたのは藤樹先生である。自分は村の一教師にすぎない、身分ある遠国の方がわざわざ尋ねて見えるような者ではありませんと言って、若い武士の願いを謙遜に断わった。しかし青年はあきらめない。心に師と定めた人のもとから立ち去ろうとはしないのである。これに対し教師の決意もまた堅かった。客の考えは根本からまちがっている、自分は村の子供たちの先生よりほかの者ではないというのが藤樹の考えであった。今やねばりと謙遜とどちらが勝つかの競争である。両人とも最後まで一歩も譲るまいとの決意は堅い。
どんなに言葉を尽くしても、また嘆願しても、先生の心を動かすことができないと知った武士は、ついにねばりの一手のみで聖人の謙遜に打ち勝とうと決心した。そこで彼は、先生宅の門のわきに上着をひろげ、刀をわきに、両手をひざの上に置き武士らしく端然とすわった。そして、日光にも、雨露にも、通る人々の取り沙汰にも、姿勢をくずさずに、すわり続けたのである。折りから夏のこととてこの地方の蚊はうるさい。しかし正座した青年の姿勢は、一点に集中したその心同様、何ものをもってしてもくずすことができなかった。三日三晩にわたり、彼の沈黙の願いは、家の内なる藤樹に向けられていたが、内からは一言のゆるしの言葉も出なかった。藤樹の母、彼にとっては全能の母が、青年のためにとりなしに出だのはこのときである。これほどの真心こめた青年の願いを、無下に斥けてもよいものであろうか、息子は青年を弟子として迎え入れるべきではなかろうか、迎え入れるほうが斥けるよりも立派なことなのではあるまいかと母は考えたのである。
そこで先生は改めて情勢について検討し、母上が正しいと思われることは正しいにちがいないと考えた。そして、ついに譲歩して青年を彼の弟子とした。この青年こそのちの熊沢蕃山である。彼は後に強大な岡山藩の財政面と行政面との指導者となり、彼の先導によって行なわれた幾多の改革はかの地に今なお跡をとどめている。藤樹の弟子がたとえ蕃山一人だったとしても、なおかつ藤樹はわが国の大恩人の一人として記憶されたことであろう。藤樹の手に委ねられることになった仕事の重要さを十分に理解するためには、その弟子、蕃山に関して別に一篇を綴る必要があるほどだ。このようにして「摂理」は夜の影を好む宝玉を光の中へと導いたのである!
ところで、この静かな人の外面生活について、残りなくしるすためにはもう一つの挿話を書き加えなくてはならない。それは岡山藩の藩主自身、藤樹のもとをおとずれたことである。今はその家臣となった蕃山が、自分の先生の人格の偉大さを藩主に伝えたことから、この訪問となったのである。階級の差別のきびしい当時において、藩主がこのような訪問をするということは、例外中の例外である。藤樹がまだ無名の人物であるのに対して、彼を訪問した大名は、この国中でも最強の一つに数えられる岡山藩の当主であることを考えれば、この訪問はまれに見る謙遜の行為であり、また訪問した大名と彼にその気もちを起こさせた藤樹と、この双方の名誉となることであった。ところが予期に反して、藤樹の自宅と彼の村とには、かほどの貴人を迎える用意が全く整っていなかった。多勢の従者を従えて大名が藤樹の家におもむくと、先生は村の子供数人を相手に、『孝経』の講義の真最中。特に彼に会おうとて岡山藩主が来訪された旨を取り次いだ者に対し、藤樹は講義が終わるまで家の入口でお待ち願いたいと伝えた。
大名はこれまでにこんな奇妙な扱いを受けたことがない。しかし彼は従者と共にそこで待っていた、その間も家の中では外で何事も起こらなかったかのように、授業が続けられていたのである。藤樹はこの高貴の客に対し普通の人に対すると同様のもてなしをした。大名はこの日、自分の師または顧問として、藤樹を迎えたいと申し出たのであるが、藤樹は自分の使命はこの村に住んで母と共に生活することであると言ってその申し出を断わった。そして人名の名を藤樹の弟子の名の中に連らねる事と、藤樹の代わりにその長男を岡山に送るという二つの事を許したのみだった。大名がこの異例の訪問によって得たところは、せいぜいこの二つだったのだ。彼の教えにあずかろうとして来る貧しい青年に対しては、あれほど謙遜な彼が栄華の絶頂にある貴人に対しては、かくも威厳に満ちた態度で臨んだのである。まことに彼は後に全国民がこぞって彼に名付けた近江聖人の名にふさわしい人である。彼はひろく万人の尊敬の的となり、他の多くの大名もその領内の出来事に関し、彼の勧めをきくために彼のもとをおとずれたのであった。
これらの事を除けば、きわめて平穏無事な、彼の生涯に関するこの章を終わるに際し、欧米の読者は彼と妻との関係を知りたいと思われるであろう。欧米人は人を評価するに際し、いかなる対人関係よりも夫妻の関係を重く見るように思われるからである。藤樹はシナの聖人孔子の弟子であって、一夫一婦主義の信奉者であった。孔子の教えに従い三十歳で結婚したが、彼の配偶者となった婦人が肉体的にあまり美しくなかったところから、彼の母は家に降りかかる不評判をおそれて、彼に再婚を迫った。当時はこうした場合そのようにすることも珍しくはなかったのである。しかし母が望むことならほとんど何事もきき入れる温順そのものの息子が、この場合に限り母に従わなかった。
「たとえ、母の言葉であろうとも、天の道にそむくことは正しくない」と彼は言ったのである。こうしてその婦人は生涯、彼の家にとどまって二人の子を生み、自分の名誉はすべて斥けて、夫の名誉たらしめようとする典型的な日本の妻の一人となった。彼女のこの精神的美しさから暗示を受けて、彼は『女訓』と題する小冊子中に、理想の女性像を述べたのである。そこには、次のように書かれている。
《男と女との間柄は天と地との関係にひとしい。天は力であり万物の源である。地は受ける側であって、天が作ったものを受け入れて、それを養育する。このようにしてこそ、夫婦の間も調和するのである。夫が始めて、妻がそれを完了する》
そして私は信じるのである。キリストの教えそのものも女性に対するこのような考え方に反するものではないことを。
5 心の人
その外面の貧しさと単純さとはうらはらに、藤樹の内面は豊かでまた変化に富んでいた。彼の内には大きな王国があり、彼はその王国の完全な支配者であった。彼の外面の静けさは、内面の満足から自然に生ずるものにほかならない。まことに彼こそは天使のような人についてよく言われる、「九分が霊魂で一分のみが肉体」という言葉で評すべき人であろう。進歩した「来世論」を抱いているわれわれにしたところで、この人の半分も幸福であるかどうか疑わしい。
藤樹の著作が幾代か後の弟子二人によって注意深く細集され、一つにまとめられたのはつい最近のことであって、現代のわれわれはかなり大きな和風十巻の本に収められた彼の著作に接することができる。その全巻を通して、われわれの眼前に繰りひろげられるのは、わが国に系統的思考が存在したことさえ疑われる時代にあって、まさしくわれわれの間に実在した大物の全貌である。その中には彼の短い伝記、彼についての村民の回想、彼のシナ古典の注釈、講話、随筆、問答、手紙、思索の断片、座談、和歌、漢詩が収められている。私にできることはただ読者をこの人の内なる世界へ案内することだけだ。
知的方面の彼の生涯には二つのはっきりした段陪がある。その第一は当時の日本人がみなそうであったように、保守的な朱子学によって育てられた時期である。この朱子学は何ものにもまして不断の自己批判を重んじるものであった。感受性の強い藤樹が、自己の内なる欠点と弱点とを絶えず内省する結果、いよいよ敏感な青年となったことは想像に難くない。過度の自己批判の影響は、彼の青年期の行動や著作に、はっきりと現われている。彼の二十一歳の時の著作である『大学啓蒙』は、このような気分の中で書かれたものである。もし彼がシナの進歩的学者である王陽明の著作によって、新たな希望に接しなかったならば、ただでさえ内省的な彼は悲観的哲学に圧倒されて、彼のような性質の多くの人々同様病的な隠遁者となり終わったかもしれない。
この傑出した哲学者、王陽明については、すでに大西郷の章で少し触れたが、陽明学という形に現われたシナ文化は、われわれを小心で、臆病で、保守的で、反進歩的な人間とするものでは決してなかった。私のこの見解は、日本歴史の上で明らかに実証された事実であると思う。今では思慮深い孔子評論家のすべてが、この聖人を非常に進歩的な人であったことに同意するであろうと私は信ずる。孔子の同胞である反進歩的なシナ人が、自己流に彼を解釈して世界の人々の心の中に反進歩的な聖人という印象を刻み付けたのである。しかし王陽明は孔子の中にあった進歩性を表に引き出し、古い流儀で孔子を解釈しがちであった人々の心に希望を吹き入れた。
われらの藤樹先生もまたこの人の助けにより、孔子に対して新しい見解を抱くに至ったのである。近江聖人は今や実践の人となった。彼の陽明主義を示す断片をここに掲げよう。
暗くともただ一向に進み行け心の中のはれやせんもし
志つよく引き立て向こうべし石に立つ矢のためし聞くにも
上もなくまた外もなき道のために身を捨つるこそ身を思うなれ
これらの和歌からもの静かな村の教師像を描き出せる人がいるのだろうか?
藤樹がシナの古典について多くの注解書を晝いたことはさきに述べた、まことにこれらの注解書は彼の全著作中でもすぐれて重要な部分を占めている。しかしながら彼が、ありふれた意味での注解者であったと考えてもらいたくはない。彼は非常に独創的な人であった。注解という文学の一形式を自己表現の手段としたのは、ひとえに彼の生来の謙虚さのゆえである。古典の解釈にあたり彼が何ものにもとらわれぬ自由な態度を執ったことは、生徒に対し繰り返し語った言葉に明らかである。
「昔の聖人たちの講和の中には、今日の社会の事情に当てはめることのできぬものが多い」という意見を持っていた彼は、古典の中から不必要なものを抜き去った改訂版を作り、それを自分の学校で用いた。彼がもし今日生きていたならば、異端裁判の立派な対象となったことであろう!
藤樹が人の作った法律(法──ノモス)と、永遠に存在する真理(道──ロゴス)とをはっきり区別したことは、次に掲げる卓論の中に示されている。
《道と法とは別個のものである。両者を混同して考える者が多いが、これは非常な誤りだ。法は時代と共に変わる。たとえシナの聖人でも、これをいかんともすることができないのだから、ましてやそれがわが国に移し植えられた場合、変わるのは当然のことである。これに反し道は永遠に変わらない。徳という名のまだ無かった時から道は立派に存在し、人類がまだ現われぬ前に、道はすでに行なわれていた。そして人類が消滅し、天地は無に帰した後も道は存在し続けるであろう。しかし法は時代の必要に応じて作られたものである。たとえ聖人の定められた法であろうとも、時代と場所とが変わった場合、これを強制することは、道のために害をなす》
そしてこの考えは、いわゆる典籍「経書」が完全無欠の書と考えられていた時代に述べられたことである。それは今日の極端な霊感論者が、聖書を無謬と考えるのと同じような具合であった。このような時代にこのような精神で書かれた注解書が、大胆で、驚異的で、新鮮なものでなかろうはずはない。
しかしこの恐れを知らぬ精神、この独立の精神を持つ彼が、その倫理大系の中で謙遜の徳に最上位を与えたことは実に著しいことである。彼によれば謙遜は他のすべての徳の源となる根本の徳であり、謙遜の徳を欠く人間は何ものをも持たぬにひとしい。
《学者とはまず自尊心を捨て、謙遜の徳を求める者だ。この徳を欠く者はいかに学識と豊かな天分に恵まれていようとも、凡俗を超越した地位につく資格はない。
満ち足りることは損失のもととなる。謙遜は天の法である。謙遜とはおのれを空虚にすることだ。心が虚となれば、善悪の判断は、おのずから生じよう》
虚という言葉の意味を説明して、彼は次のように言う。
《昔から道を追求する者はこの言葉につまずく。霊的であるがゆえに虚であり、虚であるがゆえに霊的なのだ。このことをよく考えよ》
この徳の高さに達するために彼の執った方法は、きわめて醂純なものであった。彼は言う。
《もし有徳の人となるのが目的ならば、われわれは日ごとに善をなさねばならぬ。一つの善を行なえば一つの悪が消滅する。日ごとに善を行なえば日ごとに悪が消滅する。日が長くなれば夜が短くなるように、つとめて善を行なえば悪は残りなく消え去ってしまう》
そして自分の心中がこの「虚」であることに無上の満足を感じる藤樹は、まだ心中の利己心に縛られている人々をあわれんで次のような言葉を綴った。
牢獄のほかに牢獄があり
その大きさは世界を包む
その四方の壁を作るのは、名誉欲と
利欲と、高慢と、情欲
ああ、いかに多くの人々が
そこにつながれて、永久に悩むことか
藤樹はどのような形を採るものであろうとも、願望、欲望の類を軽蔑した。仏教にこういう要素が濃いところから、彼はこれをきらって全く仏教を離れたのである。報いを目的として善行をするということは、その報いがたとえ来世で与えられるものであっても、彼の心にかなわぬことであった。正義を行なうのに正義以外の動機は要らぬと彼は考えていた。たとえ彼が来世の存在を信じ、来世に生きることを期待していたとしても、そのことは彼の正義を愛する心と、「天の道」を実践する喜びとにいささかの影響をも与えなかった。
次に引用する彼の手紙は、息子が仏教の信仰を捨てて孔子の弟子となったことを悲しむある母親に宛てたものである。
《来世にそれほどまでに重きを置かれるあなたのお気持ちは、私にもよくわかります。しかし来世がそれほど大切なら、現世はそれ以上に大切だということに気付していただきたい。なぜならばこの世で道に迷った者は、来たるべき世においても永遠に迷い続けるにちがいないからです……明日のこともわからぬ定めなきこの世では、心の中でたえず仏を崇めまつることこそ、最も肝要です……》
藤樹が無神論者でなかったことは、この国の神々に彼が深い敬意をささげたことに現われている。しかし彼の信仰はひたすらに正しくありたいという一つの願望のほか、あらゆる種類の願望を拒否するという驚くべきものであったのだ。
それでいながら彼は人生を十分に楽しんだ人のように思われる。彼の書いたものを読んでも、失望の一ふしすら見つけることはできない。孔子の流れをくむ王陽明派の学者であるこの人が、どうしてかほどまでに幸福であり得たかということは、神と宇宙とに関するわれわれの考え方からは想像することもできない。ある月明の夜、湖上に浮かぶ小舟の中で、彼は次のような漢詩の一節を得た。
念慮一毫の差も
応酬千里訛る
人心よろしく静を主とすべし
名月、波に沈まず
彼の心がつねに変わらぬ喜びで満たされていたればこそ、「冬の日に」と題する次のような和歌も生まれたのであろう。
世の中の桜をたえて思わねば春の心はのどかなりけり
次も同じような調子である。
思いきやつらく憂かりし世の中を学びて安く楽しまんとは
しかし彼は長寿を楽しむことができなかった。妻に先立たれて二年後の、一二四八年の秋、四十歳でその生涯にふさわしい死を遂げたのである。いよいよ最期が来たことを悟った彼は弟子たちを呼び集め、平常通りの正しい姿勢をとって言った。
《私は行く。この国で、私の道が失われぬように心掛けてくれよ》
そして彼の生命は絶えた。近隣の人々はすべて喪に服し、大名たちはその師に敬意を表するために特使を送った。彼の葬儀は国家的の行事として行なわれ、徳と正義とを愛するすべての人々は、国家の大きな損失として彼の死を悲しんだのである。彼が生前住んでいた家は後年、村人の手で修理され今日に至るまで保存されている。村人はまた藤樹を神として祭り、年二回、彼を記念する祭典を催す。彼の墓をたずねて行けば、簡素な礼服をまとった村人が案内役をつとめてくれるであろう。その人に向かって、三百年も昔の人物が、なぜ今もこのように敬われるのかと聞けば、次のように答えるであろう。
《この村や近在では、父は子にやさしく、子は父に孝をつくし、兄弟は互いに睦み合っています。どの家からも怒り声は立たず、一同の顔に平和があふれているというのも、ひとえに藤樹先生のお教えと後に残る感化のたまものです。それゆえ私どもは一人残らず、感謝をもって先生のお名前を崇めております》
そして現代に生きるわれわれが、太鼓のとどろき、ラッパの響き、新聞広告等によって、感化を他に及ぼそうとするならば、感化の真の秘訣は何であるかを藤樹先生に教えられるがよい。バラがおのれの香に気づかぬように、おのが感化力に気づかなかった人、藤樹のような静かな生涯を送ることができないならば、一生の間、いかに書き、説教し、怒号し、身ぶり手ぶりで訴えようとも、われらの死後には畳一枚ほどの土の塚よりほかは残らぬであろう。藤樹はかつて言った。
《聖人はこの国の至る所に散在している。谷の合い間、山の蔭に住むこれらの方々にわれわれが気づかないのは、この方々が自分を世に現わそうとなさらないからだ。これらの方々こそ真の聖人であって、この世に名のとどろいている人などは実は数えるに足りないのである》
幸か不幸か、藤樹の名は世にとどろいた。(これがまったく彼の意志に反したものであることはわれわれが知っている)。これは気高い目的を抱いて送る静かな生涯が、いかに力あるものであるかを、われわれがこの人によって学ぶためである。谷合いの住み家を学校として、あらゆる種類の卑しさに染まらぬよう旧日本を守ったのは、これらの聖人たちであった。そして現代の学校制度が、徳をたたき込み、天才を仕立てることにいかに懸命になろうとも、われわれの周囲にかほどまでに充満する卑しさをおさえることができるかどうか、われわれには疑いなきを得ない。「血はみんな頭にあがってしまった。手足はからっぽだ。われわれは間もなく卒中で死ぬだろう」と現代人は叫ぶ。もしこの国に多くの藤樹が現われないならば、この叫びはやがて現実となるであろう。