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日蓮上人   内村鑑三


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代表的日本人

日蓮上人──仏教の僧 

                                 内村鑑三著  内村美代子訳


1 日本における仏教


 宗教は人間の最大の関心事である。本来の意味において宗教を持たない人間がいることは考えられない。われらの欲望ははるかにわれらの能力を超え、われらの願望は世界の総力をもってしても満たし得ないというこの不可思議な世においては、この不釣り合いを除くために何かをなさなくてはならぬ。行動でそれをすることは不可能であるとしても、少なくとも思考の中では何かをなさなくてはならぬ。「自分は無宗教の者だ」と自称する人が多くいることは事実だが、それは彼らがただ特殊な教義に署名せず、聖職者の命令を世渡りのしるべとせず、また木や、金属や、心霊の像を、神として崇拝しないということにすぎない。

 だがそれにもかかわらず、彼らは宗教を持っている。彼らの内にある測り知れぬ欲望は、黄金崇拝やウィスキー礼讃をはじめ、それぞれ好むところの催眠的また鎮静的方法によっておさえつけられているのである。ある人の宗教とは、人生に対するその人自身の解釈だ。そしてそれらの解釈の中には、この戦闘の世にあって安心立命を得るために欠くことのできぬものがあるのである。

 次には、最大問題たる死の問題が来る。貧しき者には望みであり、富める者には恐れである死こそは、人生最大の問題である。死のあるところには必ず宗教がなければならぬ。これは人間の弱さの証拠であるかもしれないが、それと同時にわれわれが高貴な生まれであること、またわれわれの内に不死の生命があることの証明でもある。死んで死なないことこれこそは、すべてアダムの末裔が望んでやまぬことであり、その点にかけては日本人も、宗教心に厚いと聞くヘブライ人やヒンズー人に劣るところはない。日本人は「復活」の教えに接する以前の二十五世紀間、何らかの形で死に対処して来た。われらの先人の中には実に立派な死を遂げた人もあるが、これはひとえにわれわれが抱いていた良き宗教のおかげである。さくらに飾られる楽しい春、もみじに染められる澄んだ秋、かくも美しい国土に生を享けて、楽しい平和な家庭を営むわれわれが人生を重荷と感じることはまれであっただけ、死はわれわれにとって大きな悲しみであった。

「千代に八千代に」生きたいと願うわれわれは、死を二重の苦痛と観じた。そしてこの苦痛を和らげるものとしては、死後のわれわれを、さらにより良い国へと導くことのできる信仰だけしかなかったのである。それは神道でいう天にある聖人の家でもよかったし、また仏教で教える極楽の蓮の園でもよかった。われわれは臆病からというよりは、むしろこの美しい国への愛着の断ちがたさのゆえに死を恐れた。それゆえ定命が尽きて、または義務に強いられてわれらの生を享けたこの愛する国を去らねばならぬときに、われわれの身を託するものとしてわれわれは宗教を求めたのである。

 日本人は独自の宗教を持っている。それはおそらく中央アジアのわれわれの発祥地から携えて来たものであろう。その宗教が本来どんな性質のものであったかを正確に語ることはむずかしい。それが「モーゼの信仰」に似ていることが近ごろ指摘されたし、またユダヤ人の記録に残る「失われた十支族」を、日本人の中に見出だそうとする研究がなされたこともある。しかしわれわれの最初の宗教が何であったにせよ、その宗教はやがてそれよりはすぐれて複雑な、またあえて言うならば、さらに洗練されたインド生まれの宗教にその座を譲り光を失う時が来た。このヒンズーの宗教が初めて日本人の中にはいって来たときの効果を、われわれはたやすく想像することができる。

 その豪華な儀式と、高度の神秘性と、大胆で複雑な理論とによって、単純な日本人の心は驚かされたにちがいない。無学な者はその儀式を見て満足し、学ある者は知識欲をそそられ、統治者はこの宗教が自分たちの目的に叶うものであることを認めた。異国の宗教を全面的に受け入れることについて愛国者の反対があったにもかかわらず、このヒンズーの宗教は猛烈な勢いで日本にひろがり、少なくとも一時は古来の宗教がすっかり陰に押しやられたかとさえ見えた。そして新しい宗教はその後何百年にもわたって、この国に君臨し続けたのである。

 日本へ仏教が渡来した時期は、第二十九代、欽明天皇の治世の第十三年であった。これは西暦で言えば、五二五年、また仏教の年代学者流に数えれば仏陀の入寂後、一五〇一年に当たる。そして早くも西暦五八七年には、壮大な天王寺が聖徳太子によって難波(大阪)の地に建てられた。太子は日本歴史上最も賢明な皇子であり、かつ「日本仏教の父」である。次の第七世紀には、帝国内に続々と改宗者が起こり、歴代の天皇自らこの運動の先達となった。

 あたかもこのころシナは唐の時代で、名僧玄奘の指導のもとに仏教の大復興が行なわれていた。(玄奘のインド冒険旅行については、バーセレミー・セント・ヒレールの目に見るような叙述がある)。仏教発生の地インドで、この教えを探究して来た玄奘に学ぶため多くの日本の学者は海のかなたの唐へ派遣された。奈良朝(七〇八─七六九)の歴代の天皇はみな仏教の強力な支持者であった。日本渡来後、幾ばくもなくしてこの新しい宗教がかちとった力の強大であったことは、奈良の旧都を今もいろどる大寺のかずかずに見ることができる。

 しかし新しい宗教熱が最高調に達したのは第九世紀のはじめ、最澄と空海という二人の学僧がシナ留学を終え、それぞれの選んだ宗派を携えて帰国した時である、奈良から京都へ首都を移した桓武天皇は、この二人に対し寺院建設のためのすぐれた敷地、ならびにそれに附随する基金と特権を与えた。最澄は新都の北東、あらゆる災いがこの方角から来ると思われていた地を選んで叡山を建立し、空海は紀伊の国の高野山を本山と定めた。しかし彼はその他に首都の南端にも敷地を与えられて、有名な東寺を建てた。京都駅の真南には今もこの寺の塔が見える。七八七年の叡山の開基、八一六年の高野山の開基によって、日本仏教は堅く祖国の土に根をおろしたと言うことができょう。他のいかなる宗教も、仏教と競うことはできなかった。最澄や空海が、仏教の基礎は彼らの住む山のようにゆるぎなく据えられたと考えたのも道理である。

 このようにして九世紀の初期には、いわゆる「仏教八宗(不案内な読者のために、八宗の名を掲げる。三論、法相、華厳、律、成実、俱舎、天台、真言)」が、この国に確立された。空海の死後四百年の間、この他に新しい宗派が渡末したとか、設立されたとかいうことは聞かない。八宗の勢力と影響力とは次第に強まり、とりわけ最澄の天台宗が他を圧していた。そしてここでも他の場合同様に、宗団の勢力獲得に伴うあらゆる腐敗が生じたのである。やがて僧侶は天皇の天皇となり、ある天皇などは「私の力に及ばぬものが二つある。加茂川の流れと山法師だ」という有名な言葉で、僧侶の横暴を歎かれたほどである。歴代の天皇や貴族は自分たちの帰依する宗派の寺を建てたり、寄付したり、飾ったりすることを競い合った。広大な京都市街とその郊外とには、今もなお至る所に山門や、塔や、六角堂や、鐘楼などの壮大な宗教的建築物がそびえて、われわれの間にかつて栄えた信仰の巨大な記念碑となっている。

 第十二世紀の終わり近く、長い間の内乱がようやく終わって国内に平和が蘇ると、宗教思想の新しい活動が始まった。大頼朝は僧侶の俗的権力を奪いはしたが、人民の精神的指導者としての僧侶にはそれ相応の敬意を表したので、学徳すぐれた大教師が続々として起こるに至った。頼朝の後を継いだ北条氏は、一族の多くが忠実な仏教徒であったが、当時行なわれていた宗派の、虚飾と浮華とに飽きた彼らは仏教の冥想派である「禅宗」をシナから導人して、京都や鎌倉や越前に壮大な寺院を多く建てこの新しい礼拝様式をこの国に永存させようと計った。西暦千二百年のことである。新しい宗派「禅宗」の神秘性と、無限の抽象性とは、旧来の諸宗派の外面的儀式と著しい対照をなし、こうして禅は上流知識階級の特愛の宗派となった。

 その一方、禅哲学の高い知性や、旧来の諸宗派の近づきがたい荘厳と無縁の大衆は、別個の信仰を求めていたが、それを彼らに与えたのは、源空(法然上人)という僧侶であった。西暦一二〇七年ごろ、源空はそれ以後「浄土宗」と呼ばれるようになった宗派を民衆の間に伝えたのである。この宗派は仏の名を唱えることによってのみ、極楽浄土へ行くことができると教えるものであった。それゆえこれを一名「念仏宗」とも言う。会衆が手に手に振る鈴の音に合わせて、哀愁を帯びた単調な声音で「南無阿弥陀仏」(わが身を、あなたにおまかせ申します。阿弥陀仏様)という念仏を唱え、時に身振り手振りをも交えるこの宗派の礼拝様式は、それまでの各派の尊厳きわまる信仰様式とはがらりと変わる目新しいものであった。浄土宗の一分派である「浄土真宗」も、ほとんど同じころ範宴(親鸞上人)という僧によって創始されたが、この宗派の影響力が国民の大部分に及ぶに至って、他の各派はことごとく光を失った。

 浄土真宗の他と著しく異なるところは、僧侶にこれまで科せられていた純潔の誓約──肉食妻帯を禁じる戒律を免除し、彼らもまた人生普通の楽しみを味わうことができるようにしてやった点である。仏教はこうして通俗化され、たちまち庶民の間に浸透して行った。もはや皇室の力で普及を促すまでもなく、民衆の間に力を張りはじめたのであって、これは後に続く時代に著しい影響を及ぼすこととなった。「念仏宗」のもう一つの分枝を「時宗」という。浄土宗、浄土真宗、時宗の三宗派がそろうことによって、日本における大衆的仏教の開発は完成した。そして神秘的な禅宗が当時の教養社会に入り込むのに対し、これらの三派はほとんど時を同じゅうして民衆の間に受け入れられて行ったのである。時宗が完成した直後、この国にはさらにもう一つの宗派が加わった。これで合計十二である。それゆえ十三世紀は日本仏教の最後にして最大の形成期であったと言うことができよう。

 というよりも、実はこの時期はヒンズーの宗教の日本における再形成の時代であった。この時期に見たような光はもはや再び現われない。今世紀に生きるわれわれは、時代の信念を籠めて発せられた当時の言葉のかずかずに依りすがっているのである。ほかの諸国におけると同じく、この国でも宗教的熱狂は迷信とともに消えてしまった。現代のわれわれは非科学的であることを恐れて臆病な人間となり、目に見えるものにたよって行動することしかできない。そして人々が現代人のような知識がなくても誠実であった時代、また雑事に心を煩わされず勇敢に生きた時代のかすかな名残りともいうべきものを行動のたよりとしている。

 そこでわれわれはここに一人の英雄を呼び起こそう。それは天と地とがわれわれにより高貴な行為と、より大きな犠牲とを求めている今の世に、教義を鼻にかけ安逸を楽しむことしかしない、われわれを恥じ入らせるためである。

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2 誕生と献身

 貞応元年(一二二二年)の春、波打つ水平線上にのぼった太陽が、地上の国々のうちの最東方の一点にバラ色の光を投げかけたとき、安房の国の東端の岬に近い小湊村の漁師の家に一人の赤子が生まれた。子供の父親はある政治的の理由から、この地に亡命して来た者であるが、今は他と何の変おったところもない貧しい漁夫である。同じく生まれの卑しくない母親は、太陽神の熱心な崇拝者であった。彼女はその神に男の子を授けたまえと、長い間祈っていたのであるが、その祈りが今こそ叶えられたのである。神の恵みを記念して。両親はその子に善日麿という名をつけた。

 この事実はこの子の成人後、この世界に対する彼の使命を決定しようとする際に、重要な意味を持つのであるが、そのことは後にわかるであろう。彼の誕生に伴って、あらゆる驚異や奇蹟が現われたことが伝えられている。たとえば出産の汚れを洗い流すために、その漁夫の家の庭さきには透き通る泉が自然に噴き出したとか、世の常ならぬ大輪の白蓮が家近く季節はずれに花を開いて、空中に芳香を放ったとかいう頽である。

 現代に生きるわれわれは、これらの話を信心深い当時の人々の空想のなすところと考えがちであるが、しかし彼の誕生の年月日だけはここに特筆する価値がある。なぜならばそれは後年、この若い熱血漢の心中に日本国の救済というきびしい問題が持ちあがったとき、彼が幾たびも思いめぐらしたことであったからだ。彼の誕生の年は、仏陀の入寂後二ー七一年であって、すなわち第一の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」もまた過ぎ、第三でかつ最後の「末法千年」にはいったばかりの時であった。大なる教師(仏陀)の予言によれば、彼の東方に一つの光が現われて、最後の暗黒の日々を照らすであろうとされていた時代である。また善日麿の誕生の日は陰暦二月十六日であるが、これは仏陀の誕生日である二月十五日の一日あとである。そしてわれらの主人公のような性格の人は、このような一致をきわめて重大なものと考えるのだ。

 善日麿が十二歳になったとき、信心深い両親は息子を僧侶とすることに決めた。後年の彼の行動と考え合わせて、われわれは彼の幼時の非凡さを物語る多くの逸話を十分信用するに足るものだと信ずる。また亡命漁夫である彼の父親が、息子を僧職にささげることによって、息子の世に出る機会を作ろうと熱望したことも当然であると思う。なぜならば、階級差別のきびしい当時にあっては、低い階級に生まれた秀才が、世に頭角を現わそうとすれば宗教に入るよりほかに道はなかったからである。彼の生まれた地から遠くない所に清澄寺という寺があって、そこの住職の道善は学徳ともにそなわった僧として、その地方に名高かった。

 善日少年はそこに連れて行かれて、慈愛深い師に預けられたが、師はこの少年に対し特に目をかけていたように思われる。四年間の修業期を過ぎて十六歳になったとき、少年は正式に僧職に任ぜられて蓮長という新しい名を与えられた。この若い弟子の異常な才能を見守って来た善き師は、このときすでに彼を自分の後継者として指名しようと考えはじめていたのである。しかし、両親の望みであり師の誇りでもあった少年の心の中には、人知れぬ争闘が行なわれつつあった。そしてこの心中の争闘に駆り立てられて、彼はついに生まれ故郷を捨て、道を求めて日本全国を巡るようになるのである。

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3 暗黒の中と外にて

 解決せねばならぬ幾つかの疑問を心中に抱いていた彼は、ついに仏教の根本義は何かという問題に直面するに至ったが、そのうち最も差し迫った問題は仏教に多くの宗派が存在するのはなぜかという点である。彼は自分自身に問うてみた。

 一人の人の生涯と教えとに始まった仏教が、かくも多くの宗派と分派とに分かれているのはなぜであろうか? 仏教は一つより多いものであろうか? 私の周囲に見られること、つまり、一つの宗派は他のすべてを悪く言い、どれもが自分たちこそ仏陀の真の心を持つものであると主張しているのはどういうことなのであろうか? 海水はおしなべて同じ味であり、仏陀の教えに二種あるはずはない。ああ、この宗派分離の説明はどこにあるのであろうか? そしてこれらの宗派の内、どれが仏陀の逆で、ひいては私の歩むべき道なのであろうか?

 これが彼の最初でまた最大の疑問であった。きわめて当然の疑問であると私も思う。われわれも仏教につき、また他の宗教について同じ疑問を抱く者であるから、われらの主人公の苦悩に対して心からの同情を寄せることができる。しかし彼をこの懐疑から救い出してくれる者は、彼の周囲に一人としてなく、彼の師もまたこの疑問を解いてはくれなかったので、彼は勢い祈りにのみ頼るようになった。こうしたある日のことである、日ごろから深く帰依する菩薩の堂に熱い祈りを籠めての去るとき、内心の重荷に圧せられ口から多量の血を吐いて土の上に倒れた。同僚たちに助け起こされた彼が意識を回復したのは、それからしばし後のことであった。

 この出来事のあった地点は、今も正確に指示されており、そのかたわらにある竹の葉のやや赤味を帯びた色は、そのとき飛び散った血に染められたものと伝えられている。ところがある夕まぐれ、涅槃経(仏陀が涅槃という恵まれた状態に入る前に述べたものと言われる)に読みふけっていた彼の眼は、《依法不依人》人に頼まず、法に頼めという一句に引き付けられた。そしてこの句はこの悩める青年の心に、名状しがたい救いをもたらすものとなったのである。すなわち彼はこれより後、人の意見に依ることなく(それがいかにまことしやかに、また立派らしく見えるものであっても)、偉大な教師、仏陀の残された経典に頼り、すべての疑問をただ経典に依ってのみ解決しようと心を決めたのである。彼の心は今や安らかとなった。流砂の上に立つようであったこれまでとは打って変わって、しっかりとした足場を彼は見出だしたからである。

 ところでこの日本僧侶の話を読んで、四百年前のエルフルト修道院におけるドイツの若き僧マルチン・ルーテルの同じような場合を思い起こさぬ人はないであろう。彼もまた多くの疑問に苦しみ、意識を失うほどの煩悶の後、古いラテン語の聖書の中の一句にふと目を奪われ、ここに心の安らぎを見出だした。そしてその時以後、彼の信仰と人生との拠りどころとして、ひたすら聖書にのみ依りすがったのである。

 しかし仏教の僧である蓮長の場合、権威ある経典は何かという問題は、キリスト教徙であるルーテルの場合のように簡単ではなかった。ルーテルがただ一冊の聖書に頼ればよかったのに反し、蓮長は相互に矛盾することの多い幾十という経典の中から、最高の権威あるものを選び出さねばならなかったからだ。とは言ってもいわゆる高等批評などというものが全く存在せず、人々は古人の記述に単純に信頼し、「なぜ?」とか、「どんな理由で?」とかいう疑問を発しなかった当時にあっては、それも比較的やさしい仕事であった。ある経典の中に大乗小乗にわたるすべての大経典が、年代順に示されているのを見出だしたとき、われらの主人公は満足したのである。

 そこに示された順序は、次のようなものであった。すなわち、仏陀の最初の公的説教を含んでいると思われる華厳経を筆頭に、その伝道の最初の十二年間の教えを載せた阿含経、伝道の第二期たる次の十六年間の教えを収めた方等経、第三期の十四年間の説教集である般若経、仏陀の生涯の最後の八年間の教えを載せた妙法蓮華経、またの名、法華経である。この順序から推論すれば、最後の法華経こそ仏陀の生涯にわたる教えの精髄を含むものだということになる。また、日蓮自身の言葉によれば「万物の原理と、永遠の真理と、仏陀本然の姿とその教化の徳との重大な秘義」が、この経の中にしるされているという。それゆえにこの経典には「妙法蓮年経」という美しい名が与えられたのである。

 しかし、仏教の経典の正確な序列につき、また一つの経典が他にすぐれて価値あることにつき、批判的に検討することが、今のわれわれの目的ではない。日蓮があれほどまでに重要視した法華経は、仏陀の死後およそ五百年という後代に書かれたものであり、また日蓮がそれに依って種々の経典の序列を知った無量義経なるものは、この新著の法華経に確実性と最高権威とか与えることを、特別の目的として書かれたものだということが、今では定説となっているようだ。

 しかしこれら経典の本体が何であるにもせよ、われらの主人公がそこに書かれた経典の序列をそのままに受け入れ、法華経の中に仏教信仰の基準を見出だし、法華経をもってすれば、仏教内にかくも多く存在する異説も単純明快に解明し尽くすことができると悟ったと知るだけでわれわれは十分なのである。この結論に達したとき、彼の胸中の歓喜と感謝とはあふれる涙となってほとばしった。

 彼はついに心中で次のように言った、「私は、父母を捨てて、この至高の教えへの奉仕に身を委ねた者だ──その私が凡僧どもによって因襲的に伝えられる教えにのみ依りすがり、仏陀自身の金言を尋ね求めなくてもよいのか?」この聖い野心が心中に燃えあがったとき、彼は二十歳であった。この上はもはや田舎の僧庵に隠遁していることはできない。そこで彼は老師と僧らとに別れを告げ、遠くまた広く真理を探り求めるため、大胆に世の中へ乗り出したのである。

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 彼の最初の目的地は、時の将軍の首都たる鎌倉であった。都に出て来た一介の田舎僧、蓮長(ローマにおけるルーテルもそうであったが)にとっては、目に映る現象のすべて、耳に聞く教義のすべてが奇怪であった。豪壮な寺院と華美な僧とのひしめく鎌倉は、今や虚偽の町と化していた。禅宗は上層階級の人々を導いて、無益な思弁の泥沼におちいり、浄土宗は下層の人々に迎えられて、阿弥陀仏盲信の熱に浮かされ、仏陀の仏教はどこにも見出だすことができなかった。いや、それのみか仏陀の像がなんと子供のおもちゃとして与えられている一方、人々の称する仏教礼拝で本尊の地位を占めるものが、伝説的存在にすぎぬ阿弥陀仏であることを彼は見たのである!

 聖なる法衣をまとう人たちが、大っぴらに恥さらしをしている。彼らの教えによれば、阿弥陀仏の名を唱えることによってのみ、人は救われるのであって、徳行や戒律は救いに何の関係もないという。それゆえ南無阿弥陀仏の唱名をかしましく唱える人々の間に、最悪の放埒が横行したのである。鎌倉に滞在した五年の間に彼は、現在はすでに「末法」の世であること、彼の奉持する法華経の中で如来が予言されたように、光明の新時代をもたらす新しい信仰の世に出る必要と機会とは熟したことを、十分に確信するに至った。つい最近には万人崇敬の的である大阿上人が死んで、その死にざまが信徒のすべてを恐怖におとしいれた。

 上人の体は子供のように小さく縮まり、その皮膚の色は真黒く変おった──これこそは、上人が地獄に落ちた、まぎれもない証拠であり、また彼が代表していた信仰の魔性のものであることの証明ではないか。それからまた、空中に現われるこれらの怪異は何を意味するのであろう? 西の空に白と赤との三筋の形がはっきりと現われ、白の二筋が消えた後も赤の一筋は残って、さながら天頂を貫通する火柱のように立ったと思うと、続いて激しい地震が起こった。多くの寺は地に倒れ、人や獣はその破片の下敷きとなって、自分たちの救いのために建てたはずの建物の下でうめいたのである。

 すべてこれらの事は、この国で真の経典が説かれず、誤りが教えられ信じられているために起こるのだ。私はこの国の宗教を復興すべき使命を天から与えられている者ではなかろうか? このような思いを胸に蓮長は鎌倉を去った。一国の首都とは真理をひろめる場所であって、真理を学ぶ所ではないと、彼は賢くも気づいたのである。

 故郷の両親のもとにしばし立ち寄ってから、彼はさらに知識を求めて遠く旅立った。すべての災厄から守るためその鬼門(悪魔の門)の方角に建てられた叡山は、過去一千年の間、仏教知識に関しては日木最大の宝庫であった。高い杉木立に囲まれ、波静かな琵琶湖の壮観を見下す、海抜二千五百フィートの高地で、仏教の学徒は釈迦の教えを探求し、熟考し、継承して来たのである。繁栄をきわめたころのこの山には、三千の托鉢僧が住み、全山はさながら一大特殊部落の雑踏を呈していたという。

 ここの僧兵は民衆の脅威であるとともに、代々の天皇をも悩ませたのであった。かの源空もまたここで学び、叡山の教義とは正反対の大衆的仏教である浄土宗を作り上げ、それは後に広く民衆に受け入れられたのである。源空の弟子で浄土真宗の創始者である範宴もこの山の学徒であったし、仏教の奥義をきわめて国民的名声を博した多くの僧たちもここの出身である。そして今やわれらの蓮長が、日本に真の仏教をひろめようとの大志を胸に抱き、安房の国の漁夫の小屋からこの山まで、四百マイルの道を歩いて啓発を求めて来たのである。

 この地で真理探究への新しい手がかりを得た蓮長は、手の届くかぎりのものをむさぼるように取り入れた。しかし彼の専門は、あくまでも法華経である。そしてここで法華経の貴重な写本や注解書も手に入れることができた。事実、ここを本山とする天台宗は、法華経に非常に重きを置いていたのである。天台宗の『六十巻』と呼ばれるものは、実に法華経だけについての注解書であった。

 法華経がいかに偉大な書であるかということは、天台宗の開祖であるシナ人の天台がこれについて三十巻の注解書を書き、彼の弟子である妙楽がそれになお注解を付ける必要を感じて、最初の三十巻の注解のためにさらに三十巻の注解書を著わしたことによってもわかるであろう。そしてその内の十巻はこの経典の名を構成する六個のシナ象形文字の一つ一つについて論じているのである! われわれにはさして驚くべきものと思われぬこの本が、昔の人には意味深長なものに映ったと見える。

 十年の長い間、蓮長は叡山にとどまって、これらの複雑な問題の研究に没頭した。ここにはただ彼の到達した結論のみを掲げよう。すなわち法華経は他のいかなる経よりも、すぐれていること、叡山の開祖最澄はこの経を純粋な形で日本に伝えたが、彼のあとに来た僧たちが、その純粋度を相当に損ねたのであること等、以前から抱いているこれらの見解を彼は今や確信するに至った。京都へ足しげく通い、奈良、高野ヘー度ずつ行って研究した結果も、彼の確信を強めるばかりであった。

 そして心にもはや一点の疑問もないという時に至って、法華経のために一身をなげうつ覚悟を決めたのである。これよりさき彼は日本の主な神々が現われて、彼の身を守ろうと約束されたのを、その眼で見た。そして神々の姿が空中に消えると、
 斯人行世間  能滅衆生鬨 
(この人は世界をめぐり、人心の凹を打ち砕くであろう)
というこの世ならぬ合唱が空に聞こえたのである。しかしながら古来これに類する幻を見たり、神仏の降臨を経験した者は日蓮一人ではなかった。

 日蓮今や三十二歳、友もなく、名も知られぬながら、しかも独立であり不屈であった。浄土真宗の範宴とはちがって(範宴は貴族の皇太后宮大進、日野有範の子で彼の妻恵信尼は九条兼実の娘玉日姫である)、おのが主張を押し通す際にたよりとなる祖先の系図も彼にはなかった。彼は一介の漁夫の子、後に自称したように「海辺の旃陀羅(せんだら)」(インドの四姓外の最下級の種族で、屠殺などに従事する賎民)にすぎない。

 また彼の研究も最澄、空海をはじめとする高名な「学僧たち」のように外国で行なわれたものではなかった。昔も今をもこの国では、外国留学が必須の条件である。それなしにはいずれの知識の分野であれ奥義をきわめた者として、国人に認められなかったのだ。彼はまた後楯と名の付くようなものをいっさい持たなかった。ましてや他宗の設立者の多くに恵まれていたような皇室の庇護などあろうはずもない。彼はただひとり独力で出発した。

 あらゆる種類の権力と対立し、当時の有力な諸宗派と根本的に相容れない見解を携えての出発であった。私の知る限りにおいて、彼の場合は日本の仏教徒中、唯一の例外である。誰に見習うこともなく、一つの経と法のためにその生涯をひっさげて立ったのであった。彼の生涯において興味深いのは、彼が主張し広めた教義上の見解そのものよりも、むしろそれを貫き通した勇敢な生き方にある。日本における本当の意味での宗教的迫害は、実に日蓮をもって始まったのであった。

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4 宣言

「預言者はおのが故郷において尊まるることなし」という。それにもかかわらず、予言者が常にその公生涯をその故郷で始めるというのはいたましい事実である。この世に枕する所のないのをおのが運命と知りつつも、なお故郷に引かれ、そこでどのように扱われるかを知り尽くしながらも、鹿が谷川を慕いあえぐようにそこに行き、そこで拒絶され、石で打たれ追い出される、それが予言者の運命である。蓮長の場合もまた例外ではなかった。

 彼の故郷、小湊のささやかな生家では、彼の父母が息子の帰りを待ちわびていた。そして彼はここに生涯の試練の中の最初にして最大のものと戦わねばならなかった。ここには、青年時代の彼をはぐくんだ寺があり、その寺の住職としておさまる息子の姿を見たいという両親の無理からぬ願いに彼はそむいたからである。彼は名を日蓮と改めた。すなわち彼に生を与えた神「日輪」と、彼がこれから広めようとする「妙法蓮華経」、この二つを意味する名前である。

 建長五年(一二五三年)四月二十八日、紅の太陽が東方海上に半ば姿を現わしたとき、日蓮は広い太平洋に面した断崖の上に立ち、前なる海と後ろの山と、さらにこの海と山とを通して仝宇宙へ向かって、彼自身の定めた祈祷の言葉、南無妙法蓮華経を繰り返した。この言菜こそは、すべて他の人の囗を封じ、彼の弟子たちを地の果てまでも導き、永遠に弟子たちの合言葉とするようにと定められたものであって、実に仏教の真髄、ならびに人間と宇宙との大理を現わしたものである。「南無妙法蓮華経」、その意味は、「私は心から妙法蓮華経に帰依いたします」である。
 
 朝、大自然へ語りかけた彼は、午後は村人に語りかけようとした。彼の名声はすでに近隣に隠れもない、鎌倉、叡山、奈良で十五年の研学を積んだこの僧は、新奇で、深遠で、有益な何事かを教えてくれるにちがいないと信じた村人は、老いも若きも、男も女も、群れをなして彼のもとに集まった。ある者は真言宗のハラハリタヤを、またある者は浄土宗の南無阿弥陀仏を唱えながら。堂に人があふれ、香が四隅に立ちこめたとき、日蓮は太鼓の音とともに壇上に現われた。当時まさに男盛りの日蓮、連日の徹夜のあとは顔に残るが、両眼は熱信に燃え、予言者の威風堂々として、満堂の注目を一身に集め、会衆は息を潜めて彼の発言を待ち受けた。彼は彼の経典である「法華経」を取り上げて、第六巻の一部を読み、顔色おだやかに声張り上げて次のように語りはじめた。

《私は長年にわたり、あらゆる経典の勉学に努め、諸宗の主義、主張についてことごとく究めました。一説によれば、「仏の入寂以後、五百年間は多くの人は努力なしに成仏することを得、次の五百年間は勤勉と黙想とによって成仏することを得るだろう」とのことであります。これを正法の千年と言います。次いで来るのが、読経の五百年、その次が造塔の五百年であって、この二つを合わせて、像法の千年と言います。それに続いて「純粋な法の覆い隠される五百年」が始まりますが、ここで仏の御利益は尽き果て、人類成仏の道はすべて閉ざされるとのことであります。これが末法の始めであって、これが一万年続きましょう。……今日は、末法の世に入ってより二百年という末の世でありまして、仏がこの世に御教えを垂れたもうたのは、遠い昔のこととなりました。今のわれわれにとり、成仏を得る道とては、たった一つしか残されておりません。

 これぞ妙、法、蓮、華、経の五字であります。しかるに、浄土宗は、この貴き経文を閉じて、これに耳を傾けるなと教え、真言宗は、これを、彼らの経典である大日経の足下にも及ばぬものだとののしるのです。かかる者については、法華経の第二巻、『譬喩品(ひゆぼん)』の中に、「かかる人々は、仏陀の教えの根絶者であり、その終わりは無間地獄である」としるされてあります。聞く耳を持ち、見る眼をそなえた人は、この理をわきまえ、虚偽と真実とを区別なされよ。浄土は地獄に落ちる道、禅は悪魔の教え、真言は国を滅ぼす邪法、律は国賊でありまするぞ。

 これを言うのはこの日蓮ではありませぬ、日蓮が法華経の中で読んだことであります。雪上のほととぎすの声を聞かれよ。ほととぎすは正しき時を知り、今は田植えの時だと教えております。それゆえに、みな様は、今、田に下りて植え、刈り入れの時に至って悔いることのないようにせねばなりませぬ。今こそは法華経をひろめるべき時であり、私はこの目的のためにつかわされた御仏の使であります》

 彼が語り終わるや否や、猛り立った聴衆から怒りの叫びがあがった。ある者は「彼は気ちがいだ。そう思えば、腹も立たぬ」と言ったが、他の者は「彼の不敬は極刑に値する」といきまいた。そこに出席していた地頭はこの不敵な僧が、この寺の境内から一歩でも足を踏み出したが最後、直ちに彼を殺そうとした。しかし彼の老師は親切だった。この弟子がやがては悔い改めて、正道に立ち帰り、悪夢から覚めるであろうと思って、二人の弟子に命じ、夕やみにまぎれて地頭の目の届かぬ裏道から日蓮を連れ出させたのである。

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5 孤独の反逆児

 故郷を追われた日蓮は「真理をひろめるのに最適の場所」である首都の鎌倉へ直行した。そして今日なお松葉ヶ谷と呼ばれている持ち主のない土地に小さな草庵を建て、法華経を携えて移り住んだ。一個独立の人たる日蓮は、今後ここを拠点として誤謬に満ちた周囲と戦おうとする。偉大な日蓮宗門も、その端緒をこの小さな草庵に発したのである。身延、池上をはじめ全国に散在する五千の壮大な寺院と、二百万の信徒とは、実にこの小さな草庵とこの一人とから始まった。偉大な事業はつねにこのようにして始まる。

 世に抗する一個の不屈な魂、永遠に偉大なるものはその中から生まれるのである。われわれ二十世紀に住む者は、彼の教義は別としても、彼の信念と勇気とには学ぶところがなくてはならぬ。ところで、日本におけるキリスト教の始まりは、はたしてこのようなものであったろうか? 否、宣教師学校や教会など、物心両面にわたる多くの援助が与えられたのではなかったか。偉大なる日蓮はこのような助けの一つをも借りず、すべてを独力で始めたのである!

 その後の一年間、彼は再び勉学と黙想とに明け暮れる日を送った。後の日昭を最初の弟子として迎えたのはこの間のことである。日昭は日本仏教の現状に関する日蓮の見解に共鳴し、はるばる叡山から日蓮のもとに来たり参じたのである。日蓮の喜びは非常なものであった。あとに日昭ありと思えば、わが教えのこの国で絶えはせぬかの恐れなしに一命をなげうって公衆の前に立つことができるからだ。そこで、翌一二五四年の春、日蓮はこの国人がかつて聞いたこともない路傍説教(辻説法)なるものを始めた。

 首都の聴衆のあざけりとののしりとの中で、故郷で行なった最初の宣言を再び強調したのである。路傍で説教をするなどは僧としてあるまじき所業だという非難に対しては、「戦時には立食すら許されるではありませんか」と断固、反駁した。また国の統治者の抱く信仰を悪しざまに言うべきではないとの叱責に対しては、「僧侶は仏の御使であります。世間や人を気にしていては、使命は達成できませぬ」と明快に答えた。「他の礼拝形式がすべて誤りであるはずはない」というもっともな疑問に対しては簡単に答えた、「辻説法は寺を建てるまでの足場のようなものにすぎないのです」と。

 こうして日蓮は六年間というもの春夏秋冬を問わず、この辻説法を続けた。人々はようやく彼の努力と人柄とに注目するようになり、少なからぬ高官をはじめ将軍の家族までが彼の弟子となった。もし適当な時期に制圧を加えなければ、彼の感化は鎌倉全市に及びそうな勢いである。そこでこれを憂えた建長寺の道隆、光明寺の良忠、極楽寺の良観、大仏寺の隆観などの権威ある高僧連が一所に集まって首都における新興宗教の弾圧を協議した。しかし、大胆不敵の日蓮は、彼に対する連合勢力などを、ものの数とも思わない。あたかも、このころ、多くの災害が国土を襲ったのを機として、「立正安国論」(国に平和と正義とをもたらすことに関する所論)執筆に取りかかった。

 今もなお、この種の本の中で最もすぐれたものと思われているこの本の中で、彼は当時の日本を苦しめていた災害をことごとく数え上げ、それらはすべて民衆の間に誤った教義が伝えられているためであるとした。彼はこれらのことを、諸種の経文からの広汎な引用によって証明したのである。彼の見解によれば、この大難から救われる道は一つしかない。それは最高の経典たる法華経を全国民が受け入れることである。もし国民がこの貴い賜物を拒み続けるならば、その結果として必ず国内の戦乱と外国の侵略とが起こるであろうと彼は指摘した。かほどまでに辛辣な言葉が高僧連に向けて発せられたのは未曽有のことである。

 全文が雄叫びであり。決然たる宜戦布告であって、この戦いの行き着くところは、彼の宗派の絶滅か、他のすべての宗派の全滅か、そのどちらかよりほかはない。それは狂気と紛らうほどの熱信であった。ここに至って北条時頼(わが国における最も賢明な統治者の一人)はこの宗派の弾圧を決意し、この熱血漢を首都から迫放したのである。しかし政治家である時頼には、日蓮の人物がわからなかった。すでに死を恐れず、また多くの共鳴者を獲得したほどの誠意と、あらゆる試練に堪える覚悟(それは後によく証明される)とを持っている日蓮のような人に対しては、どんな脅迫も効がないのだ。かくて「仏敵に対する戦い」は飽くことなく続けられ、ついにこの小集団は解散を命ぜられた。そしてその指導者たる日蓮は遠い地方へ追放されることとなったのである。

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6 剣難と追放
 
「立正安国論」の発表後十五年間の日蓮の生涯は、世の権力と権威とに対する戦いに終始した。彼は最初、伊豆に流された。そしてそこに三年間、とどまるうちに多くの改宗者を得た。許されて鎌倉に帰った彼に弟子たちは、この上は仏敵との戦いをやめて、自分らの指導に専念していただきたいと懇願したが、彼は決然として次のように答えた。
「今は末世の始めである。多くの誤りが世に害毒を流しているこのとき、法戦は瀕死の病人に対する薬のように必要だ。一見、無慈悲のように見えて、これこそはまことの慈悲であるのだぞ」

 そして頭上に迫る破滅をものともしないで、この度しがたい僧は直ちに以前の攻撃的態度に立ちかえった。そのころのある晩、彼が数人の弟子とともに伝道旅行をしていると、突然、刀を持った一団の暴徒に襲われた。彼らの首領こそは、日蓮が新しい教義の宣言をした四年前の日、この大胆不敵な改革者を殺そうと計ったあの地頭であったのだ。日蓮の弟子の内、僧一人と俗人二人の三人が、師の命を救おうとして殺された。こうして法華経は日本における最初の殉教者を出したのである。この三人の名は今日なおこの教えを信ずる多くの人々に記憶され尊ばれている。日蓮はひたいに傷を受けたが、危く逃れ、その傷はこの教えに対する彼の忠信のしるしとなった。

 だが、真の危機がおとずれたのは、一二七一年の秋だった。彼がそれまで無事に過ごせたのは、ひとえに当時の法律が僧籍にある者の死刑を禁じていたからである。彼の不謹慎な態度は目に余ったが、その剃髪と袈裟とが強力な隠れ簔となって、法の励行を妨げていた。しかし彼の毒舌がますます激しくなって、国内の諸宗派のみか、政治、宗教両面の権威者にまで攻撃が及ぶに至るや、北条氏はついに例外的非常手段として、彼を死刑吏の手に渡すこととしたのである。いわゆる「竜の口の御法難」というのは、日本宗教史上、最も有名な出来事である。

 この事件の歴史的真実性が、近ごろ疑われているが、後世の信徒がこの事件に付け加えた奇蹟の衣を取り去った「危機」そのものは、疑う余地なく存在したと思われる。通説による事件のあらましは次のようなものだ。刑吏がまさに刀を振りおろそうとした瞬間、日蓮が法華経の経文を繰り返すと、突然、天から烈風が吹き起こり、周囲の人々があわてふためくうちに、刀身は三つに砕け、刑吏の手はしびれてもはや二の太刀を下すことはできなかった。(処刑台上に命を終えんとして 観音の力を念ずれば刀身、片々と砕かれなん)。かくするうちに鎌倉から赦免状を携えた使者が早馬で馳け付けて、法華経の道は救われたのである。

 しかしこの事件を、奇蹟の力を借りることなしに説明すれば、当時、聖職にある者を死に至らしめようとする刑吏の心が、迷信から生ずる恐怖におののいたことは実に当然であった。それゆえ読経しながら自若として死の一撃を受けている僧の威厳に満ちたさまを見たあわれな刑吏が、この無辜の血を流したならばどのような天罰が下るであろうかと、恐怖に駆られたのはもっともなことである。一方、この先例のない処刑を決意した北条氏自身も、それと同様の恐怖に襲われたであろうことは確かだ。そこで彼は直ちに使名を飛ばして、日蓮に対し死刑に代わる流刑の判決を申し渡したという次第である。まさに危機一髪ではあるが、しかしきわめて自然の成り行きであった。

 死刑に代わる流刑は、きびしいものであった。日蓮は今度は佐渡に流されることになった。日本海の孤島、佐渡に渡る旅は当時は困難をきわめ、それゆえここは、重罪犯人の流刑地として最適の場所であった。彼がここに五年間、流人として生き抜いたことはまさに奇蹟である。あるきびしい冬などは、その心の糧である法華経よりほかに、ほとんど糧もなしに過ごした。彼の糧はここに再び獲得した、肉に対する心の、また力に対する精神の勝利であった。それのみか彼はその流人生活が終わりに近づくころには、その霊的領土に、さらに一つの地域を加えたのである。この時以来、佐渡と、その隣国で人口の多い越後とは、彼の宗旨に熱烈な忠信を誓って今日に至っている。
 
 彼のこのような不屈の闘志と忍耐とを見て、鎌倉の権威者は彼に対し恐怖と賞讃との念を抱くに至った。のみならず、彼が予言した外国の侵略が、現に蒙古襲来という危機となって迫って来たので、鎌倉幕府は、一二七四年、日蓮の鎌倉帰還を許すこととした。そして鎌倉に帰った日蓮に対し、その宗旨を自由に国内にひろめてもよいという免許状を与えた。精神はついに最後の勝利を得たのである。これ以後七百年の間、彼の宗旨はこの国内の一大勢力となろうとする。

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7 晩年

 日蓮今や五十二歳、これまでの生涯の大半を徹夜の勤行とこの世に対する戦いとに費やして来たが、今こそは国人に対し自由に布教できる立場に立ったのである。しかし幕府がこの許可を与えた由来を考えると、日蓮は少しも喜べなかった。彼の目的は支配者と国民とが、心から法華経に帰依することであるのに対し、北条氏が布教の自由を与えたのは恐怖のためであったからだ。彼は引退を考えるようになった。かのヒンズーの師、仏陀にならい山に入って静かな黙想と、弟子たちの教化とに余生をささげようと考えはじめたのである。彼の偉大さと、彼の宗旨の永続する主な理由とは実にこの点にあるとわれわれは信ずる。世が挙げて彼を受け入れようとするときに、彼は世を捨てたのだ。彼より劣る人物がつまずくのは、実にこの時点においてである。

 しかし彼の弟子たちは、宗派の禁制が解かれたのを機として、旧来の諸派の信徒に対する攻撃活動を公然と開始した。彼らは寺から寺を廻り歩き、問答攻撃によってそれらを攻略していったという。それら熱狂者たちのやり方といえば、各自が手に手に太鼓を持ち、口をそろえて、南無、妙法、蓮、華、経の題目を唱えつつ、その五つの音節に合わせて、太鼓を五度たたくのである。彼らが二十人も集まれば、耳も聞こえぬくらいのすさまじさだが、それが何百人の集団となり、新しい元気と情熱とに燃えて、鎌倉中の家から家、寺から寺を練り歩きながら、すみやかに法華宗へ帰依せよと呼びかけたさまは、目に見えるようだ。宗祖日蓮の熱情と不寛容の精神とは、現代の宗徒の間にも、はっきりと認められる。この戦闘的熱情は、本来、非攻撃的また厭世的な宗教である仏教の中で、唯一の例外である。

 われらが主人公の晩年は平和であった。彼は富士山の西にある身延山に居を構え、南に太平洋の絶景を見おろし、周囲を霊峰に囲まれた所で、日本全国から集まる崇拝者たちの礼を受けた。そして彼の予言が一二八一年の蒙古来襲となって、さながらに実現するのをそこで見たのである。これによって彼の名声と影響力とが著しく増大したことは言うまでもない。この大事件の翌年、彼は池上(大森駅の近所)にある在家の弟子の家に客となって滞在中、十月十一日、そこで死んだ。

 彼の最後の望みは、天皇のいます都、京都で法華経を説き、ついには天聴に達したいということであった。そして彼はこの仕事を、当時十四歳の少年であった日像に託したのである。ここにわれわれの注意を引くのは、彼の臨終の一場面だ。このとき弟子たちは、臨終の床の慰めにと仏陀の像を持って来たが、彼は手を振ってそれを直ちに取りのけるように命じ、はなはだ不興気な様子を示した。そこで弟子たちは次に、南無妙法蓮華経と漢字で大書した掛け軸をひろげて見せたところ、彼は静かにそちらに向き直り、両手を合わせて礼拝しながら、最後の息を引き取ったという。彼は、経典崇拝者ではあっても、偶像崇拝者ではなかったのである。

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8 性格の評価

 日蓮はわが国の歴史を通じ、最も不可解な人物である。彼は敵にとっては冒涜者であり、偽善者であり、貪欲漢であり、いかさま師の親分のたぐいであった。彼のいかさまぶりを証拠立てるために、多くの本が書かれたが、その中には全くまことしやかなものもある。日蓮は敵が仏教をあざける時の絶好の対象であるのみか、彼の兄弟であるはずの他派の仏教徒までが、仏教の受ける非難のすべてを彼一人に押しつけようとするのである。彼ほど中傷の的となった日本人は他に居ない。そして、わが国にキリスト教がはいって来たとき、キリスト教もまた日蓮攻撃に参加し、この方面からも彼に対してさらに多くの石を投げた。ある著名なキリスト教の牧師が、ひととき日蓮攻撃に全力を集中していたことを私は知っている。まことに日本のクリスチャンとして、日蓮に讃辞を呈することはイスカリオテのユダをほめるぐらいけしからんことなのである。要するに、誰かが異教徒をほめる場合でも、最後まで取り残されるのは日蓮というわけだ。
 
 しかし私のみは、必要とあらば、日蓮のためにわが名誉を賭けようと思う。彼の教義の多くは現代の批判に堪え得ぬということを私は認めるし、彼の論争は粗野でまた狂気じみている。彼は確かに均衡のとれない性格で、ただ一方に偏していた。しかし、彼に附随している知識上の誤りや、生来の気性や、時代や環境の影響等を取り去った彼自身は、心の底まで真実な魂、最も正直な人、最も勇敢な日本人である。二十五年以上も偽善を続けられる偽善者などが居るものではなく、また偽善者は彼のために命を投げ出そうとする何千人もの崇拝者を集めることなどはできない。

「不誠実な人間に宗教が創められようか? 不誠実な人間は、煉瓦の家すら建てることができない」と、カーライルは叫んだ。日蓮の死後七百年の今日、日本全国には五千の法華寺院があって、四千人の僧と八千人の教師とが配置され、百五十万から二百万人の信徒が、日蓮の定めた方式に従って礼拝している。それでもなお、これは恥知らずのいかさま師の仕事であると言うのか? 人間性に深い信頼を寄せる私は、そんなことを信じない。この地上において、虚偽がそれほども長く続くものだとしたら、われわれはどのようにして虚偽と真実とを区別したらよいのか?

 最も恐れを知らぬ人間、日蓮の勇気は、自分は仏陀が特に地上につかわしたもうた使者であるという確信に基づくものであった。彼自身は言うに足りない者である──「海辺の旃陀羅の子」にすぎない。しかし法華経の伝道者としての日蓮は、天地にもひとしい重要性を持つ者である。かつてある権力者に向かって彼は次のように言った。
《私はつまらない平凡な僧侶にすぎません。しかし法華経の伝道者としての私は、釈迦が特につかわされた御使であります。それゆえ梵天は右に、帝釈は左にあって、私に仕え、太陽は私の先導をし、月は私に従い、わが国の神々はすべて頭を垂れて私を敬うのであります》

 彼自身の生命は、彼にとり全く価値のないものであったが、このような法の担い手である彼を国民が迫害するということは、彼にとって言い尽くせぬほど嘆かいわしいことであった。彼が狂気であったとしてもそれは尊い狂気である。すなわち自己に課せられた使命に価値あるがゆえに、自己を尊しとするかの最高の自尊心と区別しがたい狂気であった。そして自分白身をこのような眼で評価した者は、歴史上日蓮一人ではなかったはずである。

 それゆえ激しい迫害の月日の間にも、聖経のかずかず、ことに彼自身の法華経はつねに彼の慰めの源であった。かつて日蓮を乗せた船が流刑地へ向かって船出しようとしたとき、愛弟子の日朗は、船に追いすがろうとして怒った船頭の櫂の一撃に腕を折られたが、そのいたましい姿に向かって、日蓮は次のような慰めの言葉を述べた、《末世に法華経をひろめる者は、杖で打たれ、流刑に処せられると、二千年前の法華経の「勧告」の章に書かれたことが、今、君と私との上に起こったのだ。それゆえに喜びなさい、法華経の勝利の時は間近いぞ》

 流刑地から弟子たちに宛てて書いた彼の書簡は、経典からの引用句に満ちている。その中の一つに彼はこう書いた。
《涅槃経に「重きを軽きに変える法」という教義があります。私どもはこの世でこのような重い苦しみを受けましたがゆえに、来世の苦しみの軽いことが保証されているのであります……提婆菩薩は異教徒に殺され、師士尊者は首をはねられ、竜樹菩薩は多くの試練に会われました。しかもこの方々は、正法の世、仏陀の生まれたもうた国において、この災難に会われたのであることを思えば、この辺境の地、しかも末法の世の始めに住むわれわれがこの災難に会うのは実に当然のことであります》
 法華経が日蓮にとり尊かったことは、聖書がルーテルにとって尊かったのにも劣らなかった。

 もし法華経のために死ぬことができたら、わが生命は少しも惜しくない、というのは、幾度かの危機に際して、日蓮が発した言葉である。ある意味でわれらのルーテルが聖書崇拝者であったように、日蓮もまた経典崇拝者であったかもしれない。しかし経典はあらゆる偶像や権力よりも尊い崇拝の対象物である。そして経典のために死ぬことのできた人は、英雄の名をもって呼ばれる多くの人たちよりも高貴な英雄である。日蓮を悪しざまに言う現代のクリスチャンは、自分の聖書がほこりにまみれていはしないかを顧みるがよい。またたとえ彼が聖書を日々、口に唱え、聖書から得た霊感に燃えていたとしても、彼は果たして聖書の宣伝者としての使命のために、十五年にわたる剣難と流刑とに湛え、その生命と霊魂とを危険にさらすことができるであろうか。すべての書にまさって人類の諸問題を善導して来た聖書の所持者であるクリスチャンが、日蓮を非難することは、見肖違いもはなはだしい。

 日蓮の私生活は簡素をきわめたものであった。鎌倉に草庵を構えてから三十年の月日が経ち、その間には富んだ俗人の幾人かも彼の弟子に加わって、安楽な生活は望むがままであったにもかかわらず、彼は身延におけると同様の草庵生活を変えなかった。そして仏敵と彼が名付けた者に対しては、きびしさをきわめた日蓮も、貧しい者、悩める者にむかってはこの上なくやさしかった。弟子に対する彼の手紙は、おだやかな調べに満ち、それはあの有名な『立正安国論』の激しさとはきわ立った対照を示している。弟子たちが日蓮を慕ってやまなかったのも無理のないところだ。

 日蓮の生涯を見るとき、われわれは多妻主義を除いたマホメットの生涯を思い出さずにはいられない。両者ともに同じ熱烈さと同じ病的熱狂とを示し、また目的の純粋なこと、内心にあるあわれみと柔和さとの豊かなことにおいて、この二人はよく似ていた。しかし私は日蓮の法華経に寄せる信頼が、マホメットのコーランに対する信頼よりも強かったところから、日蓮の方を偉大だったと信ずるものである。心から信頼できる経典を有していた日蓮は、現世的の力を必要としなかった。法華経はそれ自体大きな勢力であるから、その価値を確立するために、いかなる力をも必要としないのである。マホメットから偽善者の汚名をぬぐい去った歴史は、日蓮に対してもより正当な評価を与えるべきではなかろうか。

 日蓮から十三世紀の衣と、批評的知識の錯誤と、彼に存在したかもしれないわずかな精神異常(これはすべての偉人にあることだと思う)とを取り去るとわれわれの眼前に現われるのは、一個の著しい偉人像であって、これは世界史に現われる同種の人物の中でも最も偉大な一人である。われらの国人中、日蓮よりも独立の人を考えることはできない。まことに彼はその独創性と独立心とにより、仏教を日本人の宗教とした者である。他派の仏教の始祖がすべてインド人、シナ人、朝鮮人であるのに対し、彼の宗派のみは純粋の日本生まれである。彼はまた当時の世界を呑むほどの大志をいだいていた。すなわち彼が出るまでは仏教はインドから日本へ東進して来たが、今後はより改善された形で、日本からインドへ西進するのだと彼は常々語っていたのである。

 従って彼は、消極的、受動的な日本人の中で全く型破りの人物であった。自分自身の意志を有していたがゆえに、確かに扱いにくい人物ではあったろうが、しかし、このような人物のみが国民の中軸となるのである。愛嬌、卑下、ほしがり屋、物乞い性というような名で呼ばれるものは、国家の恥辱にほかならず、それはただ、改宗勧誘者たちが本国へ報告する「回心者」の数をふやすのに都合のよいものであるにすぎない。闘争性を取り去った目蓮こそはわれらの理想の宗教家である。

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「私たちは後世に何を残すべきか」草の葉ライブラリー版刊行 
 後世への最大遺物
 デンマルク国の話
 代表的日本人

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