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その作家を最後まで追いかけることにした

 結局、彼らはトム・フレッチャーとは会えなかったのだ。ブライアンという男からききだしたミシガン糊の湖畔に立つ山荘を訪ねてみると、もうもぬけの空だったらしい。そこからさらに何百マイルもの奥に入った、ギルモアという所に移ったらしいという話を耳にするが、しかしそこにいっても彼に会えるとは限らない。もう時間の残っていない彼らは、仕方なく追跡の旅を打ち切って戻ってきたのだ。
「アメリカのいろんな顔が見れましたね」
「たった十日の旅で、アメリカがわかったなんて言えないが、おぼろげながら見えてきたものがある。フレッチャーのあのはげしいアメリカへの攻撃というものがね。なぜ彼がニューヨークから逃げていったのかもわかるような気がするよ。ここはすべて汚い、この町は豚だ、豚のえさだ、豚どもがはいずりまわる町だ。それであの小説の主人公は、汚れた町を救いだそうとする気違いのような妄想にとらわれる。それは実に彼のその後を予言しているんだな」
「それはありますね」
「彼のアメリカヘの攻撃はすさまじい限りだが、しかし彼はアメリカを愛しているわけでね。彼の本も、彼のさまざまな奇行も、アメリカを救うための戦いだった。彼の逃亡もそうなんだと思うな。彼はこう書いてある。アメリカを洗えって。水槽のなかに投げこんで、洗剤をぶちこんでかきまぜろって。ずいぶん無茶なことを書いてるけど、アメリカを救い出そうとした人間の妄想の歌だったということになるのかな」
「いい紀行文になりそうですね」
「彼に会えなかったのはよかったかもしれない。会うことによってかえってイメージが減退するということもあるからな」
「あとは高城さんのペンの力ですね」
「いや、ぼくよりも島君の写真がたよりだな」
 それは島の写真がたよりないと言っているようでもあった。高城と同行するカメラマンは木村保馬だったのだが、出発直前になってスタジオの階段から転落して骨を折ってしまった。代わりの人間を探すには時間がなく、なんでも屋として連れてきていた島に急遽その役を与えたのだった。
 その島が、高城たちと別れたあと、ホテルに向かう車のなかで、
「フレッチャーを最後まで迫いかけたいんだ」
「そのギルモアという所にいるというのはたしかな情報なのか」
「いや、それはわからないよ。またもぬけの空だということだってあるかもしれない。しかしそこまでいってみたいんだ。そこにいるという情報がある以上、いってみなければ嘘だと思うんだよ」
「それはそうだな」
「おれをもう一度そこにいかせてくれないかな。彼はそこにいるかもしれないんだぜ」
「そうだな。いってみる価値があるな。ここまできたんだ。徹底的においかけてこいよ。カメラマンとして、これが君の本格的なデビューになるわけだしな」
 それから五日後、もう仮設編集部をたたむという直前になって島から電話があった。彼はいまフレッチャーの山荘にいるというのだ。もっともそこには電話はなく何キロと離れた隣の山荘からかけているらしいのだが、声を弾ませてフレッチャーはとてもきさくな人で、写真などバシバシ撮らせてくれるし、これならばインタビューだって可能だと言ってきた。もうユキも日本に帰っていて、そこに飛べる人間といったらぼくしかいなかった。特設編集部を閉じ、そのあと残務整理をして、ニューヨークを離れるのは五日後という予定を組んでいたが、ちょっと滞在をのばせば、そのギルモア往復に要する四五日ぐらいの時間はつくれないこともない。これはちょっとした世紀のチャンスだった。このチャンスをみすみす逃すことはないのだ。明日もう一度電話をくれよと言ってひとまず受話器をおいたが、すでにぼくの気持ちは決まっていた。あとはいかにスケジュールを調整するかだった。
 難波の展覧会がヒュートンと、そこから歩いて五分もかからぬストーンという二つの画廊で開かれた。そのオープニングの日は、ナタリア・ペトルセワというチェリストの独奏会を開くというイベントをつけたのだが、ニューヨークの第一線で活躍している画家や彫刻家や作家や音楽家やデザィナーたち、さらにテレビのキャスターや俳優まで多彩な人間がそのオープニングのカクテルパーティに集まってきた。この都市ではギャラリーが社交場になっているらしいが、まるで水が湧き出てくるようにさまざまな分野の創造者たちが集まってくるのは、芸術や文化を生みだす厚い土壌があるからにちがいなかった。そのパーティは刺激的で、ニューヨーク特集号はここからスタートさせるべきだと思ったが、それこそもう後の祭りだった。
 そのパーティにはサンドラも姿をみせていて、その夜ぼくはサンドラのアパートに誘われた。彼女の部屋に入ったのは二度目だったが、壁になにげなく架けてあった絵が、たったいま会ってきたケリーという画家のものだということを知って、なんだかより一歩深く彼女のなかに踏みこんできたように思えた。それにしても彼女の部屋は、インテリア雑誌のカラーページさながらだった。部屋のレイアウトも、落着いた色調も、家具や調度品もなにか絵画をみるようにしゃれている。マンハッタン誌ではシニア・エディターという地位にいてかなりの高給をとっているにせよ、たった一人でこれだけの空間と生活を維持できるアメリカの底の深い豊さを思わずにいられなかった。
 彼女が編みだしたというミルクで割ったカクテルをつくってくると、
「わたしも行きたいのよね」
 と言った。トム・フレッチャーのいるミシガン湖の旅に彼女を誘ったのだ。しかしちょうど締切りにあたっているらしい。
「わかるよ。締切りの地獄は西も東も同じさ」
「本当にくやしいわ。あたしも彼にききたいことはいっぱいあるのよ。それにぜったい何かを書かせたいと思うわね」
「君の分まで彼にたずねてくるさ。彼の話しをテープにいれるかもしれない」
「そういう手は使いたくないわ。言葉と言葉をふれあわせなければ話したっていうことにならないじゃない」
「それはそうさ」
「でもこれであなたの雑誌、すごくエキサイトするわね。刷り上がったら必ずわたしの所に送ってちょうだいね」
「君にはずいぶん助けられたな。ほんとうに感謝しているよ。それにぼくの下手な英語に辛抱づよくつきあってくれて」
 彼女の暖かい部屋のなかで、彼女のやわらかい視線を前にして、崩れていくような濃密な空気に、ぼくは少し酔いかけていた。
「あなたが帰る前の夜はあけておいてちょうだいね。あなたをちょっと素敵な所に連れていきたいの。今度はあたしがおごるのよ」
 サンドラはまたぼくを崩し去ろうとするような視線を向けた。
 ミシガン潮に旅立つ前の夜、宏子に電話をいれた。このところ彼女の夢をよくみるのだ。彼女のもとに帰っていくのだという喜びが、無意識の世界を支配しているからかも知れなかった。
「もうすぐね」
 と宏子は言った。朝の声だった。明るく、健康で、ぼくを幸福にする声だった。
「うん、もうすぐだ」
「うまくいっているわけ?」
「まあまあだな」
「まあまあって言うことは、うまくいったってこと?」
「うん。みんなうまくいったよ」
「よかったわ。慣れないことばっかりだから、あなた痩せたんじゃない?」
「うん、すこし痩せたよ。眠りが浅くてね」
「うんと食べなくちゃいけないわ。あなたが倒れたらみんな困るのよ」
 彼女のやさしくやわかい声に身もとけるようだった。ぼくには待っている人間がいるのだった。もう孤独でもなれければ、一人でもない。喜びも悲しみもわかちあえる人間がいるのだという思いにしみじみとした幸福感が広がっていくのだった。
「もうすぐだな。もうすぐで君を抱けるんだ」
「あなたもそう思うわけ」
「そう思うさ」
「あたしもそう思うの。あなたの声、とても感じるのよ」
「もうすぐ君をベッドのなかでいじめることができる」
「わたしもあなたをいじめるのよ」
「うん。君の声もすごく感じるよ」
「あなたがいやだって言ってもわたしはいじめるのよ」
 と彼女はなんだか涙ぐんでいるように思えた。もう少しだった。あとわずかで彼女に会えるのだ。彼女との熱い夜がまっているのだ。

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