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第6回「本を売る」ことに魅せられて


 1986年(昭和61年)4月、僕は大学4年生になりました。この年も紀伊國屋書店渋谷店に新入社員が配属されました。
「木村郁子さんが仲間にくわわった」と書くと、なんだかRPG風の言い方になりすね(笑)
木村さんは、臼杵さんと一緒に児童書を担当することとなりました。

さて、「政治・社会」を担当する僕にとって、大きなニュースが飛び込んできました。

4月26日ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で原子力事故が発生。のちに決められた国際原子力事象評価尺度では深刻な事故を示す「レベル7」に分類されました。「レベル7」は、福島第一原発と同じ。

日本から遠く離れたウクライナで起こった事故であり、情報が少なかったため、すぐに出版される本は、なかったのですが、まずはじめに、既刊では、この本が注目を集めました。
広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(文藝春秋1982年刊  文春文庫1986年刊)本書の内容は「不屈の男ビッグ・ジョンはガンとの凄絶な戦いに敗れた。彼だけではない。ゲイリー・クーパーもロバート・テイラーもスティーブ・マックイーンもヘンリー・フォンダも、そしてユル・ブリンナーもみんなガンに散った。ハリウッドの俳優たちに、なぜガン死がかくも多発するのか?精緻な論証と推理で解明する衝撃の事実!」とあります。米国のネバダ州の砂漠には、核実験場がありました。その風下で、映画の撮影があり、俳優たちの死と関連があると指摘しているのです。


また広瀬隆の『東京に原発を! 』(JICC出版局1981年刊  集英社文庫1986年刊)が売れました。野坂昭如が「それほど安全だというなら、東京に建てたらどうなのだ!過疎の浜の人は死んでも仕方ないというのか」と解説。「安全神話に彩られた原発の危険性を最新データや写真をもとに説く衝撃の書」と宣伝されました。ちなみに、この本は、東日本大震災の時にも再びベストセラーとなりました。

こうした社会的な問題が起こるたびに、何かを提示することが、書店の役割だと言うことに気付かされたのです。

後に「出版とは悪食(あくじき)」ということを僕に教えてくれた人がいました。
悪食とは、仏教では、禁じられたものを食べること。出版は、人が避けるものを好んで食べる商売でもある。
誰かが亡くなれば、「追悼」と称して、本を集め売るのも、書店の仕事であり、綺麗事ばかりではない世界なんだと理解しました。

5月8日、イギリスのチャールズ皇太子と夫人のダイアナ妃が大阪空港着の特別機で来日。ダイアナフィーバーが巻おこりました。
まだまだ週刊誌が売れていた時代。臨時増刊号も発売されるなど雑誌が売れました。


5月27日、任天堂ファミリーコンピュータ用の『ドラゴンクエスト』(エニックス)が発売されました。ソフト欲しさに学校をさぼる小学生がでたりと、バージョンを重ねるごとに大きな社会現象となっていきました。
ちなみに僕は、この『ドラクエ』を未だにやったことがありません(汗)

7月1日、富士フイルムが、レンズつきフィルム『写ルンです』を発売しました。「デジカメにない、味わいがあってエモい」と近年、Z世代による再ブームがきてますね。

7月17日、1986年上半期の直木賞、芥川賞が発表されました。
直木賞は、皆川博子の『恋紅』(新潮社)
芥川賞は、「受賞作なし」という結果でした。山田詠美は『ジェシーの背骨』でノミネートされていましたが、今回も落選でした。


8月2日、スタジオジブリ初制作のアニメ『天空の城ラピュタ』が公開されました。


8月23〜25日、卒業論文の取材のために、彼女を連れて、平泉の中尊寺金色堂、高館義経堂、毛越寺などをめぐる旅にでました。
卒業論文の題目は『源義経と平泉』です。
金色堂には、今も奥州藤原氏4代のミイラが安置されています。1950年の学術調査に立ち合った大佛次郎は、「私は、義経の保護者だった人の顔を見まもっていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立と称してはばからない」と書き記しています。この時の記録映画を中尊寺で観ました。

1986年8月23日 岩手県一関市・幽玄洞   3億5千万年前の地歴を誇る日本最古の鍾乳洞


9月、社会党土井たか子委員長誕生。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首となりました。

9月5日、表計算ソフトLotus1-2-3が発売されました。NECのPC-9800、MicrosoftのMS-DOS時代のアプリケーションソフトの3種の神器と言えば、ワープロの「一太郎」(ジャストシステム)表計算の「1-2-3」(ロータス)データベースの「桐」(管理工学研究所)でしたね。今では、懐かしいとしか言えません。

さて、今回も歴史書の話を書かせていただきます。読みながら寝ないように、ご注意ください。(笑)

この頃の歴史書は、いろいろなブームがきていました。ひとつは、「アナール派」について、話をしなければなりませんね。

現在の人文書の担当者にとっては自明であるとは思いますが、1980年代、当時としては、「アナール」って何ですか???という感じでした。

『アナール』とは仏語で『Annales』と書き『年報』という意味です。
もともと『社会経済史年報(Annales d'histoire economique et sociale)』という歴史学誌として、リュシアン・フェーヴルによって1929年に創刊されました。それがいつしか?誌名の最初の部分だけになったのです。1956年、フェーヴルが亡くなったのち『アナール』の中心的人物であったフェルナン・ブローデルが編集長となりました。ブローデルは、第二次世界大戦中、従軍しナチスの捕虜となっていましたが、その5年におよぶ収容所生活で書きあげた『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(邦題は、『地中海』)を自費出版しています。そのブローデルが、昨年1985年に亡くなりました。

『フェルナン・ブローデル―1902―1985』新評論


そのこともあり、これから「アナール派」が注目されると僕に教えてくれたのは、当時、新評論の営業部長(現在、社長)だった武市一幸さんでした。武市さんには、以前イヴァン・イリイチの『オルターナティヴズ―制度変革の提唱』(新評論1985年刊)などの販売で、大変お世話になっていて、僕にとっては、業界における恩人のひとりです。その新評論が毎年、書店員を招いている新年会にも参加させていただきました。その時、たまたま隣の席だった方が、編集長の藤原良雄さんでした。藤原さんと、その時に「アナール」の話になり、まだ日本では邦訳されていないブローデルの本について、話をしました。だから新評論から新刊が出るものと思っていたのですが、藤原さんが新評論を退職し、ご自身で藤原書店を創業して、ブローデルの『地中海』を出版するのは後の話です。


ブローデルの新刊を待ち侘びていましたが、「アナール派」に関する本では、ブローデルの後任編集長でもあったエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリが著した『新しい歴史〜歴史人類学への道〜』(新評論1980年刊  藤原書店1990年新版刊)がありました。この本こそ、「アナールの古典」とも言うべき名著であり、樺山紘一先生(当時45歳、東京大学助教授のち東京大学名誉教授、現在は印刷博物館顧問)を中心に邦訳されました。

ル=ロワ=ラデュリ『新しい歴史〜歴史人類学への道〜』新評論1980年刊


樺山紘一先生は、『新しい歴史〜歴史人類学への道〜』の新版にあたっての感懐を述べていますので、以下に引用します。

本訳書の初版初刷が新評論から刊行されたのは、1980年12月である。はや十年の歳月が流れた。その当時、ル=ロワ=ラデュリの名は、わが国ではほとんど知られていなかった。むろん、著作の邦訳もはじめてであった。そればかりか、ル=ロワ=ラデュリの学問的同僚たち(俗にいわれる用語をもってすれば、アナール派歴史家)についても、なじみは薄かった。そんななかで刊行された初版は、ささやかな部数ではあるが、十年間、ひきつづき読まれてきた。ある程度の役割をはたしたものと、自負はしている。
というのも、この間に、ル=ロワ=ラデュリだけをとっても、『ジャスミンの魔女』(杉山光信訳、新評論)、『モンタイユー』(井上幸治訳、刀水書房)の二冊が翻訳刊行された。著者自身も、1983年に来日し、関係者におおきな刺激をあたえた。そして、アナール派の著作はといえば、邦訳の数はかぞえきれぬほどである。先鞭をつけたと思いあがりはしないが、なにがしか、呼び水の任を演じたのではあるまいか。しかも、かなり専門領域のとおい研究者からも、反応の声をきいた。いささかの自負の所以である。


『ジャスミンの魔女―南フランスの女性と呪術』新評論


さらに、「アナール」について、以下のように説明しています。

アナール派第三世代総帥として、ル=ロワ=ラデュリの仕事は、その歴史学派のエッセンスとみなされてきた。本書をはじめ随所で強調される「新しい歴史学」は、多様な観点から吟味される。日常生活の様相、伝統社会における基層文化のありかた、そして、民衆の文化、とりわけその心性のありさま。「歴史人類学」と自称もするとおり、人類学の手法による歴史事象の分析には、まことに、眼をみはるものがあろう。わが国で、ル=ロワ=ラデュリが、あるいはひいてはアナール派歴史学が評価され、受け入れられたのは、おもにそうした分野と手法とであった。旧来の歴史学に欠落した視点として、歓迎の声をもってよびよせられた。社会的上層、もしくは文化的表層のみではなく、広範な下層や深層にも着目すべきであるー。そのことに、疑いがあろうわけはない。強烈な問題提起として、ル=ロワ=ラデュリが前向きに読まれたのは、たいへん喜ばしい。



この優れた学者である樺山紘一先生と僕が、この24年後に東京国際ブックフェアの「本の学校出版産業シンポジウム」にて、パネルディスカッションで、ご一緒に登壇するとは、夢にも思っておりませんでしたが、それは、のちの話として紹介します。

こうして、「アナール派」により、世界史ジャンルは、活況を呈していましたが、日本史は、どうかと言えば、この頃、ブレイクしていたのが、網野善彦でした。
この辺りの話は次回お話します。

さてさて、1986年も年末商戦がはじまりました。
そんな頃の11月21日16時15分頃、伊豆大島の三原山で大噴火が発生しました。大島町は島民約10,000人全員の島外避難を実施、噴火活動が収まった12月までの約1カ月にわたり本土での避難生活が続きました。

そして、年末のこの事件。
12月9日、タレントのビートたけしと、たけし軍団12人が、講談社の写真週刊誌『フライデー』の編集部を襲撃しました。当時39歳のビートたけしと、交際していた当時21歳の専門学校生に『フライデー』の記者が、暴行をしたことが発端。年をまたぎ、裁判の行方など報道が過熱していました。

12月11日、田辺茂一の命日。
松原社長の巻頭言(社内報)に、ふるえました。

故 田辺会長を偲ぶ

 故会長の命日は12月11日で満5年を迎えることになります。古人が嘆いたように烏兎匆匆の感を禁じ得ません。故会長は株主総会、創立記念日、新規開店の祝賀パーティー等公式行事を主催される外は社業は全面的に私に委せ切りで、「内なる実を虚とし、虚なる外に実を求められた」御生涯で、ほとんどのエネルギーを外に向け実に多彩な日夜に亘る活動に傾注されました。
 大正3年10歳の時大正天皇の御大典の日、御尊父につれられて日本橋の丸善の2階から芸者の手古舞を見物された時、洋書の棚に眼をやられ「これ有る哉」と思いその時本屋になろうと思ったと申されました。これが昭和2年我社の創業となりました。私は、『大正15年慶應義塾高等部を卒業した田辺茂一は半日だけ銀座の近藤書店に見習い奉公した後、江戸時代より七代に亘る家業を放擲して書籍に対する思念止みがたく、昭和2年1月紀伊國屋書店を創業した。従業員6名で、店舗は間口3間、奥行6間2階建38坪で2階はギャラリーになっていた。』と紀伊國屋書店五十年史の冒頭に記しました。会長は「自分は女を始め諸事に飽きっぽい性格だが本には飽きなかった」と申されました。事実32年間御一緒に過しましたが実によく本を読まれ、よく書かれました。正に本に飽くことなき生涯で敬服の外はありません。私も本に情熱を失ったら書店人として失格だと確信します。
ー中略ー
 明年は創業60年になります。会社を更に大きく発展させ、本を通じ社会に貢献することこそ御遺徳を生かすものであります。
(61.11.15記)


「本に情熱を失ったら書店人として失格」が頭の中で、リフレインしています。

「情熱」を内に秘めて、
僕も生涯を書店人でありたいと思います。

さて、1986年の出版業界は?

萬画家の石ノ森章太郎が著した『日本経済入門』(日本経済新聞社)
堺屋太一の『知価革命』(PHP研究所)
長谷川慶太郎の『日本はこう変わる』(徳間書店)
大前研一の『大前研一の新・国富論』(講談社)など、ビジネス書がベストセラーのランキング上位を占めました。

文芸書では、阿川弘之の『井上成美』(新潮社)渡辺淳一の『化身』上・下(集英社)が売れています。

細木数子の『自分を生かす相性・殺す相性』(祥伝社1985年刊)『大殺界の乗りきり方』(祥伝社1986年刊)が、ロングセラーとなっていました。

音楽シーンでは、石井明美のデビューシングル『CHA-CHA-CHA』(作詞:G.Boido 日本語詞:今野雄二 作曲:B.Reitano・B.Rosellini・F.Baldoni・F.Reitano)が『男女7人夏物語』(TBSテレビ系列)の主題歌となり、大ヒット。

期間限定バンドのKuwata Bandの『BAN BAN BAN』(作詞・作曲:桑田佳祐)や、少年隊の『仮面舞踏会』(作詞:ちあき哲也  作曲:筒美京平)渡辺美里の『My Revolution』(作詞:川村真澄 作曲:小室哲哉 )がリリースされたのもこの年でした。

最後は、映画の話。この年、僕が観て面白かった作品のランキングです。
(国内興行収入1位は『子猫物語』監督: 畑正憲って、ムツゴロウさんじゃん)

まず第3位。原作:栗本薫、監督:角川春樹、主演:野村宏伸の『キャバレー』JAZZの名曲「レフトアローン」が耳に残ります。

つづいて、第2位。シルベスター・スタローン監督・脚本・主演の『ロッキー4 炎の友情』彼女とのデートの約束でしたが、なぜか彼女の妹も来て?3人で観ました(笑)シリーズ最高傑作でしたね。

そして、1986年の第1位は、ロバート・ゼメキス監督。マイケル・J・フォックス主演の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』です。

チャック・ベリーのダックウォークや、ピート・タウンゼンドのウィンドミル奏法、ジミ・ヘンドリックスの背面弾きなど主人公のマーティ・マクフライ(マイケル・J・フォックス)が『Johnny B. Goode』を演奏するシーンがカッコよかったね。何回観ても面白い傑作です。

それでは、『ロックの殿堂入り』第一号、チャック・ベリーのこの曲を、一緒に歌いましょう。

Go,go
Go Johnny go,go
Go Johnny go,go
Go Johnny go,go
Go Johnny go,go
Johnny B.Goode

『Johnny B. Goode』(作詞、作曲:Chuck Berry 1958年)



「ゴーゴー 大谷ゴーゴー」
って聴こえませんか?
空耳かしら。
『タモリ倶楽部』終わってましたね。

デロリアン(タイムマシーン)は、ないけど、この連載をはじめてから、ずっと1980年代にタイムリープしてます(笑)
たまには、現代で仕事しなくちゃ!

つづく

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