なぜ「ゲーム」は面白いのか

普段からずっと考えていることを垂れ流すコーナー。

昔からいわゆる「ゲーム」と名のつくものが好きだった。

CSに代表されるテレビゲームに始まり、SteamなどのPCゲーム、
カタンなどのボードゲーム、古典的なゲームのオセロ、
そして何もモノを使わない、水平思考ゲームなどだ。

なぜ面白いのだろう、何が面白いのだろう。

自分の体験や周りの人の話から類推して、
今の自分なりの答えを明らかにしていきたい。

そして、その答えを持った上で後半にバトンを渡したい。

ゲームの定義

まずはここからだ。

といっても、そんな学問的な定義を求めているわけではない。
考えをまとめるにあたって、枠のようなものを取り付けて
話を進めるよすがにしよう、というだけのことだ。

ある一定のルールに則り、プレイヤー間、
もしくはプレイヤーの勝ち負けを決めるもの

つまり複数のプレイヤーがいて、一部が勝ち、残りが負ける。
もしくはプレイヤー全員が勝つか、負ける。

そして全員がルールに則る。
突然、一本の指がグーチョキパーの全てより強い!
なんて言ってルールを逸脱するのはゲームではない。

したがってこの定義で言えば、じゃんけんやスポーツもゲームになる。

それにRPGのような一見定義にそぐわないようなものも、主人公(プレイヤー)が勝つか、敵(ゲーム)が勝つかというように考えることができる。

そして一つだけ例外を設けておきたい。

UFOキャッチャーや一部のソーシャルゲームのように、
実際に何かが手に入るようなものは考えない

これは、モノを得る楽しさ、面白さが明らかなためである。

さぁここから具体的にどんなゲームを面白いと思ったか、
思いついた順に見ていくこととしよう。

面白いゲームの例1:Slay the Spire

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いうまでもない、デッキ構築型ローグライクの金字塔だ。

知らない人向けに説明すると、異なる能力をもったキャラクターとともに入るたびに順路が変わるマップを手札を構築しながら進んでいくカードゲーム。

この作品だけで記事が書けるし、いつか書こうと思っているので、この場では先を急ごう。(100時間近くやっても、まだ最大登塔レベルが4なのが残念なところ)

このゲームの面白さは

デッキを構築する、そして構築の意図通りに動けたときの快感

にあると思っている。

例えばキャラの一人である「サイレント」は、主に二種類の戦法があると思っている。一つは毒で相手を殺す戦法、もう一つはコストのかからないナイフを大量にまわす戦法。

そのどちらもが、力こそパワーと言わんばかりに殴るというよりはむしろ、チクチクチクチク相手を痛めつけていくような戦法であることは、未プレイの人でも想像に難くないだろう。

このゲームを遊びだした頃はそんな戦法があるとは露知らず、いや、そもそもTCGをやったことのない私は強そうなカードを手札に増やして適当にやっていたので、全く勝てなかった。

ただ、そんな中でも次第に気づくことがある。

「触媒」というカード。このカードは相手の毒を二倍、三倍にできるカードだ。

また「標本サンプル」というレリック(まぁ持っているだけで効果が発揮されるアイテムだ)は、倒した相手に付与されている毒を他の敵に移す。

試行錯誤しているうちに、毒を主体とするデッキに必要なカードやレリックがこうやって見えてくる。ここまで来たら、あとは噛み合うのを待って倒すだけだ。

面白いゲームの例2:ウミガメのスープ

友人とプレイすることの多い水平思考ゲーム、またの名をウミガメのスープともいう。

これまた簡単に説明すると、例えば以下のような支離滅裂な文章を読んで(実際にプレイする場合は聞いて)、「はい・いいえ」だけで答えられる質問をして、行間を埋めてストーリーを完成させるゲームだ。

ある男がレストランでスープを頼んだ。その男はそのスープがウミガメのスープであることを知ると自殺した。

まぁとにかく、場所と時間とモノを選ばない。どこでもいつでもできる。

そして、思考を重ねて、ときに飛び越えて、「真理」に辿り着いたときの快感は計り知れない。

惜しむらくは、良問と呼ばれるものが少ないために、ある程度繰り返してしまうと問題が枯れてしまうこと。

私もラテシンと呼ばれる水平思考ゲームの問題が集まったサイトをよく参考にしていたが、ここの問題はあらかた掘り尽くしてしまった。油田みたく復活しないかな。

あとはGMが必ず必要なので、GMが問題を探す過程で問題の答えを見てしまい、回答者にまわったときに新鮮味が味わえないこともあげられる。

面白いゲームの例3:パンデミック

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コロナ禍になって、まぁよくもこんな時節を捉えたようなゲームがあるもんだと感心するばかりだが、もちろん生まれはCOVID-19くんよりもずっと昔。

私が一番遊んだビデオゲームはポケットモンスタープラチナだろう。
では私が一番遊んだボードゲームは何か、もちろん答えはこのボードゲームだ。

盤面上に徐々に広がる4つのウイルスによるパンデミックから世界を救うため、異なる職業に就いたプレイヤーが協力するゲームだ。

つまりこのゲームでは、盤面が勝つか、プレイヤーが勝つかの二択だ。
勝つときも負けるときも一蓮托生。世界の終焉はすなわちプレイヤーの敗北。

最初にランダムで割り振られる職業ごとに特殊能力があり、その能力と手元のカードを用いて、プレイヤーが常に情報を共有しながら世界を救うための最善択を選んでいく。

といっても序盤は動きにかなり余裕がある。

アウトブレイクしそうな都市を未然に防ぐのもよし。
さっさとウイルスの特効薬をつくるのもよし。

そうしてヘラヘラしながら中盤を過ぎだすと、雲行きが怪しくなってくる。

明らかに盤面の状況が悪い。
一手一手最善を尽くさないと、すぐさま負けてしまう。

ただ、動かせるリソースは制限がある。その中では起こりうる可能性をいくつか諦めながら、プレイヤー同士で相談して進める必要がある。

針の穴に糸を通すような可能性を信じて、前に進む。
その先に待ち受けるのは世界の終焉か。
はたまたウイルスに打ち勝った人類の叡智か。

このゲームの面白さは、絶妙な難易度と、相談しながらゲームを進められる点にある。

あまりにも簡単だと世界を救ったときの達成感がない。
あまりにも難しすぎると世界なんてどうにでもなれと匙を投げたくなる。

ゲームに慣れて、このゲームの肝がどこにあるのかを把握したプレイヤー同士でやれば、自分たちで縛りプレイをすることで難易度を設定できる。

さらに自分だけでは思いつかなかったような、コマの動かし方、能力の使い方が見えてくる。あーでもないこーでもないと世界を救う最善手を選び出す議論は国連のそれにも劣らない。

書いててやりたくなってきた。

面白いゲームの例4:龍が如く7

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ここまできて初めてCSゲームの登場。

実は私自身龍が如くシリーズは本作品とスピンオフ的な立ち位置のジャッジアイズしかプレイしたことがない。そんな私が「シリーズもの」ではなく「一つの作品」としてどハマリしたゲームだ。

春日一番(以下、一番)という主人公のどん底からの成り上がりを描いたゲームだ。シナリオが命のゲームなので、シナリオに触れないように話を進める。

ネタバレ絶対アンチマンとしてカッコつけて宣言したものの、シナリオに触れずに面白さを伝えるというのも中々難しい。

このゲームの面白さがシナリオにあるのは間違いないが、ではシナリオであればゲームでなくても良いような気がするかもしれない。

ただこのゲームは一通りシナリオをクリアするのにおよそ40時間前後かかる。その間プレイヤーは基本的には一番を操作することになる。

一番を操作してあっちに行ったりこっちに行ったり。
ときに起こられ、ときに殴られ、ときに訳のわからないミニゲームに参加させられる。

するとどうだろうか、次第にプレイヤーは一番と自身とを重ね合わせるようになる。一番や仲間の身に起こった出来事が我が身に起こったことかのように思えてくる。

そしてここからがこのゲームの凄いところだと思うのだが、
一番はプレイヤーの気持ちを理解するかのように動く。

こちらがイラッとするとその怒りを代弁したり殴ってくれる。
こちらが悲しいときは、しっかり泣く。

そこに飛躍がない。プレイヤーが悲しいときに急にふざけたりしない。
プレイヤーが怒っているときに急に笑ったりしない。

一番はフィクショナルな存在でありながらも、等身大なのだ。
画面の中にいながら、その人格は何者にも揺らされることがない。

だからこそストーリーがただの作り話でなく、いまや一番と同化したプレイヤー自身に起こった出来事として「リアリティ」をもって身に迫る。

そうしたゲームが面白くないわけがない。

もちろんプロット自体の出来もある。その「リアリティ」に茶々を入れないようにする必要があるからだ。

そして優れた演出。「演出とは何か」、未だ答えの出ない問だが、
今はこの言葉を使わせてもらおう。

面白いゲームの例5:Factorio

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PCゲームからの登場。Slay the Spireもsteam出身だが、
こちらはまだCS機に移植されていないのでいいだろう。

このゲームは、プレイヤーが協力して原料を集め、最終的にロケットを飛ばすゲームだ。

まぁ一行で書いてしまうとなんとも味気ないが、一行に凝縮された要素が多すぎる、順を追って説明していこう。

想像どおり、まずもって原料を集めてロケットを作るまでの過程が非常に長い。

ロケット一基作成するのに必要な鉄鉱石の数は10万個だが、
一個手掘りするのにおよそ数秒かかる。

そのため当然自動化を行う必要がある。
石炭を使って鉄鉱石を掘る、という自動化だ。
さらに電気が通りだすと、電気で鉄鉱石を掘ることができる。

このようにヒッタイト人と肩を並べて鉄を作っていた時代から、
電気が通るようになると産業革命が起こりだす。

油田から燃料を取り出したと思ったら、
次の時代ではウランで原子力発電をする輩が現れたりする。
歴史は繰り返す、何度でもな。

しかし、産業革命やパラダイムシフトはただでは起こらない、
技術力を高める必要があり、技術力向上にも沢山の原料が必要なのだ。

そして次に鉄鉱石は原料なので、そのままではロケットにならない。
鉄板にして、鉄鋼にして、時には別の原料と組み合わせて、
別の資材にする必要がある。

しかしその資材の数もハンパない。大迫もビックリだ。
するとここでも資材作成の自動化を行う必要がある。

例えば最も基本的な技術力向上のためのアイテムは

原料の鉄鉱石→鉄板→歯車
原料の銅鉱石→銅版

こうして出来上がった歯車と銅版をがっちゃんこすることで完成する。

これだけだったら寝ててもできるのだが、
中盤以降に必要なアイテムのクラフトは死ぬほど面倒だったりする。
一つ作るのに途中のクラフトアイテムが20,30になることもザラにある。

つまり、このゲームは

最終的なロケット作成のために、
技術力向上と作成自動化をいかに効率的に行うか

というところにプレイヤーは神経を注ぐことになる。

いかに無駄なく、いかに効率的に、そしていかに美しく製造ラインを組み上げるかが非常に難しい。

後の事を考えずに適当に製造ラインを組み上げると、後々痛い目を見る。

え?このアイテム向こう岸まで運ぶんですか?(Factorioあるある)

そして製造を手助けする様々なクラフトアイテムがある。

遠くの原料を運ぶための電車。
資材を空を経由して運ぶロボット。
バイター(外敵)を抹殺する兵器。

一行に詰め込まれた要素はあまりにも多く、
全てを遊び尽くすことは不可能に近い。

そしてこのゲームの魅力はなんと言っても、協力プレイができることだ。

私は〇〇をやるから、君は□□を頼む

こういった会話を繰り返しながら、黙々と作業を進める。
ときに相談し、ときに助け合う。そしてときに...

住民(バイター)と和平交渉してきます

と言って、資材集めやアイテム作成をほっぽらかして
バイターと戦争しているやつがいたりする。
(安全に資材を集めるのには必要な作業ではある)

ただ、数時間のプレイでロケットを飛ばせるようには設計されていない。

だからこそ、前回はできなかったあんなことやこんなことを試しながら
ゆるゆると協力しながら作業をすることができるし、ふざけているやつがいても一緒になって楽しめる。

もちろんガチプレイもいいと思う。
実績にも「8時間以内にロケットを飛ばす」というものがある。

なぜ「ゲーム」は面白いのか:その1

さて計五つのゲームを紹介してきた。

なぜ「ゲーム」は面白いのだろうか、
記事の終わりに向けて収束させていこう。

以下ゲームのシステム上のネタバレを含みます。
未プレイの場合は斜め読みを推奨します。

slay the spireではキャラクターごとにデッキが異なる。
したがって戦法をキャラごとに「考える」必要がある。

またパンデミックでも職業ごとに特殊能力があり、
それぞれどのような動きを「考える」必要がある。

Factorioでは資材採掘場所からどのように資材を流していくのが
最適なのか、その方法を「考える」必要がある。

そう、面白さの一つ目には「考えること」がある。

ゲームには「システム」が必ず存在する。
目的を達成するためには、システムの理解が必要不可欠である。

重要なのは目的を達成することではない。
システムを理解するまでの過程だ。

ここでいう「システムの理解」とは、
ゲームにおける強い動き、重要な要素を把握することだ。

例えばslay the spireにおいて最も意識すべきことは、
回復手段に極めて乏しいということだ。

したがって、どのように相手からダメージを喰らわないようにするか
もしくは適切なタイミングで回復するかということを考える必要がある。

相手からダメージを喰らわないようにするには方法が二つある
①ダメージを喰らう前に倒す
②防御を高めてカチカチにする

このうち①はサイレントの毒デッキやウォッチャーの占術デッキなどが相当する。また②はアイアンクラッドのバリケードデッキやディフェクトのフロストデッキなどが考えられる。

また適切なタイミングで回復する方法としては、アイアンクラッドの筋力デッキにおける死神カードの利用などが考えられる。

こうした「回復手段に乏しいから、どうやってHPを温存するか」を四キャラクターで考えていくのが「面白い」のだ。

このカードは何のためにあるんだろう。
さっきは気づかなかったけど、あのレリックとこのカードの相性がいいな。

そうやって自分だけのデッキを構築する過程が面白い。

パンデミックにおいては結論から言えば、科学者と建設作業員が強い。

これは本来カード5枚で治療薬を作れるところを4枚で作れる科学者は、MAX7枚の手札制限の中で二種類の治療薬のリーチをかけられるからだ。
(=青3黄3の状態で待つことができる)

治療薬を完成させることが勝利条件のゲームにとってこの要素が大きすぎる。完成までのスピードが断然早くなるためだ。

また建設作業員は、ほぼ自由に研究所を作成することができる。
研究所が広大なマップの移動の要かつ治療薬を作成できる拠点であるため、縛りプレイをする上ではほぼ必須の能力となる。

こうしたシステムの理解をすること、その過程が面白いのだ。

この職業はどうしたら活躍させてあげられるだろう、人類をパンデミックから救うにはどう動けばいいんだろう。

色々試行錯誤して経験値を貯める中で、

あ、この動きが強いんだ。

となる瞬間が「面白い」のだ。

これはRPGにおいても同じことが言える。RPGごとにシステムがあり、どのパラメタを強化するか、どの技を覚えさせるか、どの仲間を連れていくか、その思考過程に面白さがある。

そしてその思考過程において、思考結果において
脳汁が吹き出る瞬間が楽しい。

なぜ「ゲーム」は面白いのか:その2

水平思考ゲームは自分自身とGMとの一対一の対話ではない。

他のプレイヤーが質問した内容を受けて、自分でも思考をめぐらせる。
プレイヤー間の質問は禁止されていないので、なんとなく思いついたアイデアや現時点での理解を口にして、相互の理解を深めることも戦略の一つだ。

むしろその時間がなければ、水平思考ゲームは正解までの時間を競うようなただの「おれつえーゲーム」に成り下がる。

少なくとも最近は、誰が答えにたどり着いたかを競ったり、正解までの質問数の多寡で争うようなプレイスタイルをとったことはない。

またパンデミックはボードゲームにめずらしい協力型のゲームで、
プレイヤー間での積極的な議論が推奨されている。

もはや自分の手札は全員の手札で、全員の手札は自分の手札になる。

盤面・手札・職業・現状の理解・自分の思考、全てをシェアして
ウイルスにまみれた世界を救うために文字通り一致団結する。

全く自分が気がつかなかったムーブを知った時のワクワク、
ピンチを打破する数手先まで読んだ神の一手のひらめきとその興奮。

思考や感情はシェアしてこそ、喜びになる。

もちろん世界を救うことが何よりの喜びだが、
感想戦のように敗北を喫してから、

あそこでこうするべきだった、今回は仕方がなかった

と振り返るのもまた楽しみの一つだ。

このように友人・知人と肩を並べてゲームをする時間を提供し、
日常生活のしがらみを離れて感情を共有する場を用意してくれる

だからこそゲームは「面白い」のだ。

ゲームという媒介を通じて、集められた人間が喜びを見出す。
メタ的ではあるが、これもまたゲームのもつ面白さの一つだろう。

ただし、この「面白さ」には非常にシビアな条件がついてくる。

肩を並べる」ことと、
ゲームで日常生活のしがらみを離れる」ことだ。

前者を噛み砕けば、いわゆるゲームの上手い下手が露骨にでるようなゲームはこの限りではないということだ。

例えば「大乱闘スマッシュブラザーズ(以下スマブラ)」は
ゲームをする人間なら誰もが知っているだろう。

私もDXのころからのファンだが、友人とプレイするときは
1on1でやるときを除いて、チーム乱闘でしかプレイしない。

もう察しのいい方なら分かると思うが、スマブラは実力差が如実に出る。

特に複数人での大乱闘は一人の頭では処理できないほどの情報量が画面を縦横無尽に駆け巡っているので、画面端やステージ端で待機するしょーもないプレイが一番強かったりする。

その上スマブラが上手な人が下手な人に負けることは、ほぼあり得ない。

そうすると、4人で大乱闘なんてやった日には実力がよっぽど横並びでない限りはだいたい上位と下位メンバーが固定される。

結局勝つことが面白さの一部を担っていると考えられているゲームにおいて、負け続けることが面白いわけがない。そんな人がいたらただのドMだ。

私も負けず嫌いなので、自分より明らかに強い人と大乱闘をするなんてまっぴらごめんだ。

だから私はチームプレイしかしない。チームプレイは全員が勝つか、
全員が負けるかの二択しかありえないからだ。

ここまでの話は主に協力ゲームに適応される話だ。
しかしプレイヤー間で勝ち負けがつくゲームだとしても
その重みが軽く、運に撹乱される割合が大きいものは
「肩を並べてゲームをし」やすい。

たとえばカードゲームにラブレターという不朽の名作がある。

4人でカードを交換したり対決したりして、最後までカードを持っていたプレイヤーの勝ちという一周短いと10秒、長くても2分で終わるゲームだ。

これは運が絡む要素が大きく、そして一周が短いので、
勝つと嬉しいわりに負けても全く悔しくない。
私はカードゲームの理想形だと思っている。

他の例として近頃のマリオパーティはパーティゲームを自称するからこそ
運ゲーが多かったのだろう。

そして後者(=ゲームで日常生活のしがらみから離れる)は、
次のような主張へのカウンターになる。

日常生活のしがらみから離れることは「ゲーム」に固有の要素なの?
映画でも、登山でも、ライブでも、飲み会でも、良くない?

日常生活のしがらみから解放されるためには、本来は何も必要ない。
気心のしれた友人とただ話しているだけでもいいはずだ。

しかし、この主張に対してはNOと突き返さなければならない。

なぜなら、ゲームは決められたルールの中で争われるものであり、
本質的に日常と無関係なその世界は今を生きる自分の世界と比較して
矮小なものであるはずだからだ。

だからこそゲームで日常生活のしがらみから離れられるのだ。
ゲーム以外のものはしばしば日常生活とどこかでリンクしてしまう。

日常生活は人によってルールが違う、
それは換言すれば「行動を促す枠組み」が違うということだ。

ある人は飲み会で大騒ぎする楽しさを求めるが、
同じ場である人は静かに気心しれた人と飲む楽しさを求める。

こういった日常生活の「ルール」が異なることによる弊害が露骨に出てしまうことは疑い得ないだろう。ある意味ではこれも「肩を並べられない」と言える。

日常生活はルール無用の世界だ。
正しく言えばルールを日々更新し続けていく世界だ。

昨日までのルールが通用しない。
リライトされ、捏造され、ときには目の前で上書きされる。
そこにはルールを決めるための絶対的なルールすらない。

ある意味人生にルールは存在しないとも言える。どう生きてもいい。
30歳までに結婚しない人がリスポーン地点に戻されることはない。
卒業式で泣きイベントのフラグをたてないと大学進学できないなんてこともない。
土日どちらか家から出ないと来週の食費が1.2倍になるなんてことも当然ない。
(もちろん守るべきマナーや法はあるが、それはルールではない。)

そのルールの無用さこそが、今日の生きづらさの諸悪の根源であることは疑いがないだろう。ルール無用なはずなのに、SNSやWebサイトにはどこの骨かも分からない他人のルールが辞書のようにひしめいている。あたかも「おれのルールが正しい」と言わんばかりだ。

だからこそ、だからこそ、
既にルールの決められたゲームを思う存分楽しむことができる。
その「箱庭」の中ではルールは常に固定されているからだ。

ルールが固定されているものはやるべきこと、
つまり努力の方向がはっきりしている。

サッカーのシュート練習をしていたのに、明日になったらサッカーは
手でボールをパスするゲームになっていたから練習が無駄になった、
なんてことはまずありえない。

そしてゲームは自分の生きる世界がルール無用であることを、
わずかの間だが忘れさせてくれるものなのだろう。

なぜゲームは面白いのか:その3

そんな「箱庭」に過ぎないゲームだが、
枠の中と外とで一つだけ共有できるものがある。

それが感情だ。これは分かりきった面白さかもしれない。

枠内で起こった出来事に対して、ゲームの主人公が感情を変化させる。
そしてその主人公とコントローラーを通じて枠外で繋がっているプレイヤーも感情が揺さぶられる。

龍が如く7のようなシナリオの素晴らしいゲームは往々にしてそうだ。

ゲームをプレイしているということを徐々に忘れ、時間が経つ。
眼前にはっきりと見えていたはずの枠が揺らいでいく。
枠内と枠外の区別がつかなくなっていく。

その2の最後で述べたように、ゲーム世界への没入は
自分の生きる世界の生き苦しさを忘れさせてくれる。

そして我に返ったときの多幸感と喪失感。
この感覚は一度覚えてしまうと抜けられない。

これら三つが今の私が感じるゲームの面白さだ

あなたはなぜゲームが面白いのか

最近機会があってハイキュー!!の舞台を観ることがあった。
ご存知ジャンプで連載されていたバレーボールの漫画だ。

原作の中で次のようなセリフが出てくる。
烏野高校に所属するMBの月島が梟谷高校のエース木兎に対して、
「どうしてそこまでバレーを必死にやるのか、たかが部活なのに」
と問うた、その返答だ。

木兎「月島くんさ!バレーボール楽しい?」
月島「いや…特には…」
木兎「それはさ。下手くそだからじゃない?」

これが全てだ。

楽しいと面白いをナイーブに接続させるのは、
非常にシビアかもしれないが、話を簡単にするために今はそうしよう。

あなたがゲームを面白く感じるのは、つまりゲームを楽しめるのは、
あなたがゲームを「上手」に遊んでいるからだ。

どんなゲームにも「上手い遊び方」「下手な遊び方」がある。

そしてその上手く遊ぶための要因をいくつか挙げることができる。

①頭の回転が早い(=思考)
②センスがあり、練習をしている(=行動)
③ゲームを遊んでいるという事実を楽しむ(=体験)

頭の回転が早いと、ゲームの勘所の判断が早い。
例えばパンデミックだと、頭の回転が早いと
科学者と建設作業員の能力が秀でているとすぐに分かる。

二つ目についてスプラトゥーンやAPEXなどのシューティングゲームは
エイムが良くて、それを活かすムーブができると良く勝てるようになる。
格ゲーのプロも反射神経とたゆまぬ練習を元に楽しんでいる。

三つ目は難しいが、仕事を離れてゲームをしているという状況を楽しむメタ的な位相の話や、RPGをプレイしてゲームの世界に飲み込まれながら楽しむという話どちらも含まれる。

思考・行動・体験このループで「ゲーム」は回っている。
そしてその過程一つ一つに「上手」に遊ぶ余地がある。

もちろんどれか一つだけでも楽しめるし、複合的に行っても楽しめる。
ただし、これは一般論だ。

そしてこの記事は次の記事が宛先の「返信を待つ手紙」だ。
次の記事では

私がなぜゲームが面白く感じなくなってしまったのか

を考えていこう。


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