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中高生からの人文学 その7

3-2. 他ならぬ自分が考えること

3-2-1. 人文学の特徴

 人文学が圧倒的に他の分野と異なるのは、他ならぬ自分が考えることに意味がある点です。みなさんはひとりひとりが全く異なる環境で生まれ、育ち、経験してきた、誰とも違う一人の人間です。

同じものを見ても、何を不思議と思うか、面白いと思うか、違って当然なのです。ざっくり好き嫌いのことと捉えていただいてもOKです。

一方で少し話は逸れるようですが、誰もそうとは言わないものの、クラスや部活といったリアルの場かSNSなどのバーチャルな場かを問わず、一般的にはみんな同じ意見をもたないといけないような雰囲気があると思います。

みんなが面白くないと言っている漫画を例え自分が面白いと思っていても、なかなか言い出せないという経験はないでしょうか。これはもちろん学生だけに限ったことではなく、会社で勤めたり、大学で研究をしたりする中でも同じことです。

われわれが日々暮らしている社会ではある程度言えることは限られており、誰もが異なる意見をもっているということは頭の中で分かっていたとしても、実際に意見を言えるかどうかは別問題なのです。

より大きな話で言えば、LGBTQやSDGsが話題になっているように令和の今は多様性の時代であり、一人一人の個性を大事にしようと言われてはいるものの、「暗黙のルール」に則っていない場合は個性を表現することは推奨されていないわけです。

3-2-2. 個性を尊重すること

 ですが、そうした一人一人の個性を人文学は尊重します。

先程の哲学とはどういった分野かといった紹介において、「自分の疑問・モヤモヤから始めて」という言い方をしましたが、人文学はそうした「自分」ということを何よりも重要視するわけです。

もちろん学問である以上、より正しそう、間違っていそうという議論は避けられません。ですが、人文学は本当の意味での個性や多様性を何よりも重視します。同じ人の営みを違った目線で見ること、異なる切り口で切り取ることが新たな価値を産みます。

再び哲学を例に取ります。2章で説明したように哲学とは「自分自身の疑問を出発点にして、過去の哲学者の考えによって、人の考えに」迫っていく学問です。つまり自分の疑問に基づいた、新たな考え方を世の中に提示していくと言えるでしょう。

「本を読むのは楽しいけれど、人が物事を理解できるのはどうしてだろうか」「みんなすぐ良い悪いと言うけれど、善悪を区別することはできるのだろうか」そういったハンドメイドな疑問から始まって、どんどん大きな疑問や研究につながっていくこともあれば、ときには「そもそも良い悪いは、何かと比較して良い悪いと言っているだけだから、みんなの頭には善悪の基準となる何かがあるのだろうか」といったように、細かい疑問をさらに突き詰めていくこともあります。

ここでは哲学を例にあげましたが、このように自らの興味・関心に基づいて新たな疑問や研究が生まれていく様子は、難しい言い方ですが「人文学の地平を拓いていく」と表現することができます。

3-2-3. 柵の中で周りを見渡す

 ここでイメージできるように一つ架空の世界を考えてみましょう。日本語の文法についてある程度のことがこれまでの研究で分かっているとします。「分かっていること」を柵で囲まれた敷地のようなものだと考えてください。

今みなさんは日本語の文法の研究を始めたばかりです。その「分かっていること」という敷地の中に投げ込まれますが、自分が立っている場所の周りにどんなものがあるのかや柵の位置がどこなのか、つまり何が研究されて既に明らかになっていることなのかがほんの少ししか分かりません。

書籍や論文を読み、授業を受けていく中で段々敷地がどんな形をしていて、どこに柵があるのかがハッキリしてきます。そうして研究を進めていくなかで自分の興味関心が変化して、自分の位置も少しずつ動いていき、徐々に柵のある位置に近づいていきます。

ある日目の前の柵の向こうに何かがありそうだということに何となく気がついて、研究を進めていくとその柵が少しずつ前に進み出しました。このように日本語文法の「分かっていること」敷地が自分の興味関心を中心にして広がっていくわけです。研究は自分の興味関心以外を中心とすることはほぼありえません。さらに人文学においては、その興味関心が自分だけのものであっていいのです。

3-2-4. あなただから出せる価値

 つまり人文学では自分が自分であることを強く求めます。誰とも異なるあなただけの意見だからこそ、着眼点だからこそ、疑問だからこそ価値があるのです。

普段人の意見と違うことを気にしすぎることで自分の考えを引っ込めてしまうことは良くあることだと思いますが、人文学においては少しずつ口に出すことが大切なのです。

独自の視点、不思議だなと思う感覚を心から楽しんでください。人文学はそういう意味ではみなさんひとりひとりにしか見せない顔がある、とも考えられます。

また、だからこそ人文学は本来は誰にでも開かれた学問分野であり、誰のどんな疑問でも研究に値する可能性は否定できません。

決して専門家だけのものではなく、「何でだろうな」と首をかしげる人全ての手の中に人文学はあるはずです。

3-3. 自分が変わること

3-3-1. メガネの喩え

 そして私は人文学によって自分が変わることが何よりの面白さだと思っています。もちろん他の学問分野でも新しい知識を得ることによって、世界の見え方が変わってくるというのは間違いありません。

例えば化学を専門的に学んだ人であれば身の回りのものを見るとどういった成分で出来ているか、体に良いのか悪いのか気になることもあるでしょう。学問だけに限らず、例えばみなさんが将来的に取ることになるであろう普通自動車免許などでも同じことです。

免許を取る前は普段道を歩いていても何も気にならなかったのに、いざ免許をとると標識や道に書かれた指示がはっきりと見えるようになってきます。このように知識を得ることで世界の解像度をあげる、つまりより細かいところまで世界を見ることができるようになります。良いテレビでドラマや映画を観れば、風景や人物の細部まで表現できるのと同じことです。

このことはメガネによってしばしば例えられます。視力が悪い人が目の前の風景をぼんやりとしか認識できないのと同じように、知識が少ない状態ではものごとをぼんやりとしか認識できないわけです。

例えば日本には様々なお城がありますが、お城について詳しくしらない場合はどれを見ても同じように見えるかもしれません。ですがお城のつくりや立地などにお城ごとの特徴があり、時代によって移り変わっていきます。そういったことを少し頭に入れておくだけで、同じ「お城」でも全く違って見えてきます。

さらに勉強すれば屋根の形や石垣の組み立て方にはいくつかの種類があること、外敵から城を守るための工夫が随所になされていることなど、これまでは気づかなかった「お城」が見えるようになってきます。

3-3-2. 人文学におけるメガネ

 しかし人文学におけるメガネは、その解像度をあげるグレードアップとは少し異なります。言うなればメガネのフィルターの種類をたくさん用意すること、になるでしょうか。

「色眼鏡をかけて見る」という言葉があるように、我々は何かしらのフィルターを通してこの世界を見ています。フィルターを通しているので「ありのままの世界」が何かしら歪んで見えてしまいます。

私は時間に厳しい方だと自覚しているので、遅刻してくる人を基本的に許せません。でも遅刻する人がただ怠けていただけなのか、何かしら理由があって遅刻してくるのかは「遅刻した」という出来事だけからは判断しようがありません。なのに遅刻した人間は怠けていると決めつけてしまうのは、まさにフィルターによって世界が歪められてしまうことの良い例でしょう。

これは生まれつきのものであり、さらには育ってきた環境によって大きく性質を変えてしまうので、フィルターがあることを頭で理解しつつも、そのフィルターの影響を消すことは限りなく難しいことです。

人文学になぞらえると、古来から数多くの哲学者がこのフィルターの影響を取り払って、ありのままの世界がどのようになっているか長い時間をかけて考えてきました。そういった哲学者の議論について他の本に解説を譲るとして、私はフィルターを消す必要はないと思っています。

そのフィルターがあることこそが先ほど述べたように自分が自分であることの何よりの証拠だからです。それを取り払ってしまうことは自分であることを辞めてしまうようなものです。

では、そのフィルターとどのように付き合っていけばいいのでしょうか。答えは一つです。色々なフィルターを身につけることです。このフィルターは実は取り外して他のフィルターに取り替えることができます(取り外せるなら裸眼で見ればいいじゃんというツッコミは聞かなかったことします)。

異なるフィルターから見える世界を知ることが何よりも重要です。異なるフィルターとは今横に座っているクラスメイトや同僚が世界を見るそのやり方のことです。

彼らが何が好きか・嫌いか、何に興味があるのかといったところから始まり、その人の人となり全てがフィルターです。自分と全く違う世界の見え方を知ることは、本当の意味での多様性を理解することにもなりますし、自分のフィルターの特徴を再確認することにもなります。

3-3-3. 別の自分になる

 つまり人文学を通じて別の自分になれるということでもあります。「put yourself in other’s shoes」は英語のイディオムで「相手の立場になって考える」という意味です。人文学が重要視するのはまさにこの立場です

。本来このイディオムを使う際は思いやりをもつという意味合いが強いのですが、人文学の場合はそれだけに留まりません。他の人の靴を履き、他人のフィルターを身につけると、自分でいながら他人の人生を少しだけ生きることができます。

私たちは全てを経験することはできませんが、人文学をすることによって、具体的には書籍や論文に触れることによって、他人の経験をジブンごとにすることができます。

もちろんそれは簡単な作業ではありません。本来昔の人が遺したものからその人の考え方を探り、人生を再現するのは並大抵のことではないはずです。

ですが人文学の長い研究の歴史の中で多くの手法が編み出されてきました。その手法を利用することによって、つまり先人の成果に基づいて、今ここから私たちが他者のフィルターを解読していくことができるのです。その手法について具体的なことを言おうと思うと研究方法についての専門的な内容になってしまうので、詳しく知りたい人は是非参考書籍にあげた本を読んでもらえればと思います。

 重要なのは自分と他人のフィルターの間に優劣をつける必要はない、ということです。ただ少しの時間他人になることを楽しんでみましょう。近年コスプレ文化もコミケやアニメの流行などによってかなり根付いてきた印象を受けますが、コスプレも自分を忘れて他人になることを楽しむ、という側面もあると思います。他人が見ている世界をいっときの間楽しむことで、自分に戻ったときに世界の見え方が少し変化しているかもしれません。


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