中高生からの人文学 その4
2-2. ディシプリン(discipline)について
2-2-1. ディシプリンとは何か?
というように、学問は「自ら問いを立てて、それに対するベターな答えを見つける作業」というように考えられるわけです。さて少し難しい用語になりますが一つ重要な単語をみなさんには知ってもらいたいと思います。「問いを立て答えを見つける」作業を行う学問において「どういった立場から、どうやって、何を見るのか」という枠組みのことを、「ディシプリン(=discipline)」といいます。disciplineと辞書で調べると「規律・訓練」といった説明が出てきますが、まぁ辞書の説明で分かったら苦労はしないわけで。ゆっくりと説明していきます。
人文学に限ったことではないのですが、学問が対象とする我々を取り巻く社会や環境、そして世界の大きな動きというものはあまりにも大きく複雑過ぎます。そうした複雑さをカオスと言ったりすることもあるのですが、とにかくそのまま把握しようとするのはどれだけ優秀な人間だろうと無理な話なのです。
ですから私たちが何かを研究しようと思う時 ーここでは分かりやすくするためにひとまず勉強する時でも構いませんー、三つのことを決める必要があります。
まず当たり前ですが、「何を」研究するのかを決めなければ話になりません。勉強する時でもどの科目のどの部分から取り組むかを最初に決めると思います。
そして次に「どうやって」研究するかを決めなければいけません。例えばイタリアルネサンスの絵画を研究するとして、実際に絵画にあたるのは当然のこととして、異なる時代に描かれた他の絵画と比較を行うというやり方もあれば、近年ではX線を利用した化学分析なども考えられます。勉強でもただ教科書を読むのか、単語帳に書き出すのか、はたまた自分だけの勉強ノートを作成するのかなど、どうやって勉強するのかは人によって異なります。
2-2-2. 本当にそれだけ?
これだけで学問において何かを研究するということに関して全ての条件が出揃ったように思えますが、少し待ってください。それは本当でしょうか。
ここまでの説明をまとめると「何を」「どうやって」研究するかを決めれば学問として成立するということですが、では令和の時代と明治の時代における日本人が、それぞれ源氏物語について研究したものは全く同じだと言えるのでしょうか。
何となく違う気がするなぁ、という感想をみなさんも持つと思います。もちろん源氏物語自体が大きく変化する、例えば源氏物語の原本が見つかってその多くが今伝わっているものと違うと判明するといったことはほとんどありえないですし、説明を簡単にするために源氏物語に使われている言葉(古文として中高では勉強しますね)の読み方についてもそう大きく変わらないとします。
さて結論から言えば、令和の時代と江戸の時代における日本人はそれぞれ置かれた状況や立場が全く異なります。令和の時代においては源氏物語で使われているような言葉を書ける人は一握りの研究者を除いてほとんどいないはずです。さらには衣服・食事・住居などの文化を代表するものも、私たちの日常と平安時代とではほとんど繋がりがなくなっています。一方で江戸時代においては、今よりも源氏物語の言葉に馴染みが深かったはずですし、文化としても多少の繋がりがあったと想像されます。
つまり「何を」「どうやって」研究するかだけを決めるだけでは、学問を成立させる条件としては一つ足りないのです。一方で勉強においては「コンテクスト」は馴染みづらいかもしれません。それは数学において積分の問題や答えが昭和と令和とで大きく異なるといった状況は考えづらいということを一つとっても容易に想像できます。つまり勉強と学問においては「コンテクスト」の有無こそが違いを分けていると言えるかもしれません。
2-2-3. コンテクストとは何か?
このように研究する人が「置かれた立場や状況」のことを専門用語で「コンテクスト」と呼びます。先ほどの例だと源氏物語を研究するにあたっては令和よりも江戸の方が優れたコンテクストのように見えてしまいますが、それは誤解です。
もちろん千年近くの時間が流れ理解しづらくなっている部分があることは否定できないのですが、むしろ令和だから研究可能になっていることもあります。その代表的なものは人の考え方です。
昨今ではジェンダー的なモノの考え方(社会的・文化的に作られた性別やそうした性別に基づく役割のこと、「男は外で働いて、女は家事をする」などは代表的)は何をするにしても必要不可欠のものとされていますが、江戸時代には全く存在しない考え方でした。令和の時代だから、令和のコンテクストだから可能になる研究もあるので、コンテクストの間に優劣はないのです。
さてこうしたコンテクストを「何を」「どうやって」の流れで言い換えれば、「どんな立場から」が研究の際に決めなければいけない、正しく言うと「決まっている」三つ目の要素になります。
先ほどの例では時代の違いだけを取り上げてコンテクストが異なれば研究も違うという話をしましたが、例えば日本の研究者とアメリカの研究者ではどうでしょうか。他にも男性・女性・その他の性区分の研究者ではどうでしょうか。裕福な家に育った人と、貧しい家庭で育った人ではどうでしょうか。こうして突き詰めていくと、一人として全く同じコンテクストをもっている人はいないことが分かると思います。
2-2-4. ディシプリンの具体例:物理学
このように私たちが何かを見つめる時 ーそれは学問などに限らず、普段目の前にあるものを見つめる時も同様ですー には、「どんな立場から(見つめる側の環境や価値観など)、どうやって(視点や方法)、何を(対象)」の三つを定めることで、見つめ方がはっきりと一つに定まります。これを学問の世界に置き換えたものが「ディシプリン」と呼ばれるものです。
「どんな立場から」については一度言われなければ中々気がつきにくいですが、先ほどの説明を聞いてからはなるほどと理解してもらえたんじゃないでしょうか。
ではディシプリンについて具体例をあげて説明してみましょう。例えば物理学におけるディシプリンは「出来る限り客観的な立場から、モデル化することで、世界の本質を見る」と考えられます。出来る限り客観的な立場、というのは言わずもがな数式を利用するという物理の大きな原則を指し示すものです。
私たちが普段使っている「言語」というものはどうしても客観的にはなりえません。言語というのは文法や用法といったルールがしっかり決まっているように見えて、実は使われ方はかなりアバウトです。感情が入り込み、解釈の余地を残し、そもそも適切な言葉をいつも紡ぎ出せるとは限らないからです(だからこそ言語で研究を行う人文学は面白いとも言えますがそれはまた別の話です)。
そのため数式というルールが決まった一種の「言語」を利用することによって、出来る限り客観性を保とうとするわけです。自然現象の本質を見極め、皆が共通の理解へと到達する上では客観性がどうしても欠かせないためです。
2-2-5.物理学の肝
さて、どうして物理学において、様々な仮定をおいたり近似を行ったりするのでしょうか。「空気抵抗は考えないものとする」「摩擦は0とする」、そうした現実にはありえない(と思える)ような設定から導き出された方程式や計算結果に何の意味があるんだろうと不思議に思うのも、昔物理が大の苦手だった私からすると心から納得できることではあります。
ですが、世界の本質を見る上で枝葉末節が不要なことがしばしばあります。例えば古典力学の範囲では物体の大きさは無視して、質点として捉えてよいという問題がしばしば出されます。おもりにしろ、板にしろ、そして天体にしろ無視できないはずの大きさをそれぞれ持っているはずです。
ですが、物理のモデル化において、何に着目しようとしているかによっては、そうした大きさは枝葉末節として省いても問題ないことがあります。具体的に言えば地球の公転運動において、地球の半径(6500km)は公転半径(1億5000万km)に比べてとても小さいと考えられます。
もちろん何を無視しても良いのかは捉えたい現象によるため、何でもかんでも無視して良いわけではありません。何を捉えるために、何をモデル化するか、そこが物理学のディシプリンの肝をなす部分です。
むしろ、一見関係性がないように見える出来事の間にこそ物理学が見つけたい世界の本質があるにも関わらず、妥当な仮定や近似を用いずにケースバイケースで数式によってモデル化していったらいくつ数式があっても足りません。
「本質」は非常に抽象的なものであり、身の回りの現象から本質を取り出す際には、枝葉末節を無視することはむしろ妥当だと言えるのです。もちろん何を研究の目的とするかによってどこまで無視していいのかということは異なってくるということだけは付け加えておきます。
2-2-6.ディシプリンの具体例:工学
また別の例をもう一つほどあげておきましょう。私が所属していた工学(engineering)におけるディシプリンです。一口に「工学」と言っても高層ビルやダムなどのスケールの大きなものを扱う分野から、電気回路やナノロボットなどのようにスケールの小さなものを扱う分野まで幅広いのですが、工学のディシプリンを一言で言えば「人間の役に立たせるという立場から、主に数学を用いて、自然界を見る」ということになるでしょう。
工学において最も重要だと考えられるのが、最初の「人間の役に立たせる」という部分です。もしそれを抜いて考えると、物理学や天文学そして数学などに代表される「理学」と呼ばれる分野との違いがはっきりとしません。
もちろん学問である以上は人の役に立たないことなどありえないのですが、工学の場合はよりその傾向が強いです。人間の役に立たせるということは、逆に言えば自然界そのままでは「人の役に立たない」ものが多いということです。
まぁ何とも人間の身勝手な考え方ですが、そういった人間中心的な態度をいかにして乗り越えていくかは、これからの工学を支える研究者を中心として、その成果にあずかっている私たちも一緒に考えていかないといけないことではあります。
土木は最も大きなスケールで自然界に手を加えると言っても過言ではないでしょう。橋によって何kmも離れた土地を繋ぎ、ダムによって何千㎢にもなる下流地域に流れる水をコントロールするわけですから、人の手を離れるどころの騒ぎではないわけです。
どのような橋の構造が壊れにくいのか、その土地の性質にあったダムはどんな素材で作る必要があるのか、そういった人と自然との「架け橋」を数式を利用して導き出すのが土木という学問の(といってもその中の一分野ではありますが)主な仕事です。
宣伝ではありませんが、これを聞いてワクワクする人は是非進路として土木を志すことをオススメします。人の営みというものにこれほどまでに色々な大きさで触れられる分野もなかなかないのではないかなと思います。
2-2-7. ディシプリンの必要性
さて少し話が逸れましたが、ディシプリンとは各学問のあり方を決定する軸となる枠組みです。これ抜きにして学問は考えられません。
普段私たちが〇〇学と言う時は、どうしても経済を扱う、物理を扱う、医療を扱う、といったようにディシプリンの中の「何を」の部分にどうしても目線がいきがちです。
もちろん「何を」が重要なことには間違いがないのですが、手に取れない経済だからこそ、気軽に扱えない人の命だからこそ、それらを捉えて研究するための手法である「どうやって」が発達してきたわけです。
さらには時代や地域や、そして性別など異なる人たちが抱える問題意識によって学問や研究の最先端は常に変化してきたことは、学問において「どんな立場から」が隠れながらもいかに重要な要素かを物語っています。