ようこそ映画音響の世界へ
なんて贅沢な映画なんだ。そして今まで沢山映画を観てきて良かったと、こんなに思える映画もなかった。ドキュメンタリーなのでネタバレをしてもそこまで大きな支障はないはずだが、予めネタバレを含むと断っておく。
また本作では音は3つに分けられている。人や動物が話す音声、銃声や雨音などの効果音、メインテーマやオープニング曲などの音楽。
映画音響の歴史
このドキュメンタリーはハリウッド映画に焦点をあてて、映画監督や音響編集者へのインタビューを通じて、その音響の変遷や歴史を綴ったものだ。
この映画には普段映画をあまり観ないような人でも楽しめるような、超有名作品の音響事情が多く載せられている。代表作としては「キングコング」「雨に唄えば」「STAR WARS」 「地獄の黙示録」「ゴッドファーザー」「TOY STORY」などだ。
ただし、それ以外にも知る人ぞ知る有名作品がどんどん出てくる。「駅馬車」「市民ケーン」「風と共に去りぬ」「ブロークバック・マウンテン」「トップガン」。最初に贅沢な映画だ、と言ったのはこの映画一本観るだけで沢山の映画を観た気になれる、という意味だ。
無声からトーキーへ
そもそも映画は映像だけが先にあった。あった、というと不正確かもしれない。映像の生みの親であるエジソンは音声を同期させることを目的としてしていたが断念した、というのが正確な言い方だ。
音声・効果音・楽曲を載せることは20年代前半までの当時の技術では不可能だったのだ。だから当時はスクリーンで映像を流している裏で音声はアテレコ、効果音はその場で鳴らす、楽曲は演奏するといった工夫がされていた。
だがやはり映像と音声を同時に録って同時に再生したい!という人の願望は止まるところを知らず1927年には有声映画が公開された。最初のトーキー映画(=有声映画)が公開されるやいなや、人はトーキー映画の虜となってしまった。作中の表現を使えば、そこから映画は芸術としての道を歩み始めたのだ。
しかしトーキー映画は順調な歩みを見せたわけではない。雨に唄えばのワンシーンでもあったように、当時の録音技術は今と比べ物にならない劣悪なもので、録りたい音は録れない、余計な音は勝手に録れてしまう。その中で録音していた当時のスタッフには頭が下がる。
モノラル時代の工夫
さて最初は音声や音楽だけだったが、制作している中で次第に効果音の重要性が認められだした。それは言い換えれば不要な音を消し、必要な音を付け加えるという作業にほかならない。夜が開ける音、ドアが開く音、食器を洗う音、日常生活に潜み気づかないうちに耳をすり抜けていくそういった音が、映画として日常を映すときにどれだけ必要不可欠なものかが浮き彫りになったのだ。
そこで音声編集者という役割が必要となる。本作はここからスタートしたと言っても過言ではない。
またそういった劣悪な環境の中で行われた創意工夫には今につながるものもある。例えば「キング・コング」ではキングコングの声をどのようにして撮るのかが問題になった。キングコングは当然のことだが、実在の生き物ではない。だが生き物だ。そこで当時の音声編集者は動物園に出向き様々な動物の声を録った。そしてテープの再生速度を落とし、逆再生にし、重ねることで唯一無二の声となった。記憶が正しければ日本のゴジラもこのような方法で作られた鳴き声であったはずだ。
モノラルからステレオへ
さてとはいえ技術の進み方は相当なもので、モノラルサウンドは映画音響の歴史に1つの大きな轍を残した。それが50年代にはステレオサウンド ー左右のスピーカーからそれぞれ別の音声が流れるー 、の導入が進められた。
また60年代後半には屋外に持ち運べる小型録音装置が開発されたことで撮影の場所の制限が大幅に緩和されるなど、次の10年に備えてじわじわと音響がそのポジションを確立させていったのもこの時代だ。
ヒッチコックの「鳥」では効果音によって、映画の目指すところが余すところなく表現されていたことが語られる。すでに音の探求はかなり高いレベルまで行われていたという印象を受けた。
70年代のハリウッド
今や誰もが知っているドルビーが映画産業に足を踏み入れたことで、音響は更に進化を遂げる。
それが直接的な理由かは分からないが、70年代のハリウッドは「STAR WARS」に代表される二度目の全盛期を迎える。ジョージ・ルーカスは作成にあたって音響デザイナーであるベン・バートをスカウトし、作中で使われる音をできる限り現実世界に存在する音で埋めようとした。チューバッカの声はクマの鳴き声が録音されたものだし、R2D2の音はベンの声と電子音を合成したものだ。
そうしたこだわりがジョージ・ルーカスを今の監督としての地位たらしめたといえる。
さらに「地獄の黙示録」では冨田勲の組曲を聴いた監督フランシス・コッポラが5.1ch - 正面と前後の左右の計5つのスピーカーと重低音用のスピーカー1つで音を再生する、の導入を決めた。ベトナム戦争を描いたこの作品において、これまでにない表現と没入感の演出が可能となった。
時代は前後するが、同監督作品中最も有名な作品の1つ「ゴッド・ファーザー」においても、作中の重要なシーンでの主人公の心理描写を音声に委ねている。
また「普通の人々」では冒頭のシーン約10分における環境音の除去作業が行われ、よりクリアに役者のセリフを聞くことができた。その作業は音響編集者である母と娘の手によって行われたことが語られていた。
話は逸れるようだが、映画音響を巡る世界における女性の活躍ということも意識的に語られていた。私が娯楽映画で愛して止まない、MARVELシリーズで音響スタッフを務めていた人や「トップガン」のサウンドデザイナーなど数多くの女性がインタビューにも登場していた。
イチ観客としては、どこか閉鎖的な雰囲気を漂わせる映画業界においてしっかりと問題に向き合い、ジェンダーに関わらずいい作品を作り上げてもらいたいと思うばかりだ。近年よく取り上げられる監督のセックスやジェンダーが色濃く出る作品というのも面白いが、それと性別による役割の固定化の問題とは一線を画している。後者をしっかりと解決した上で、前者を観ていたい。
デジタル時代の到来
「STAR WARS」以前のSF映画(例えば「宇宙戦争」)においても、近未来的な「音」については電子音での作成が行われていた。それに反発するかのようにジョージ・ルーカスが「STAR WARS」をポジショニングしたわけだ。
さて時代は更に下り、PCを用いた波形の確認や電子音の作成が可能になったことによって映画音響はまた1つ大きな変化を迎える。
「ジュラシック・パーク」は3DCGを用いた大作の嚆矢として名高いが、同時に誰も聞いたことがない恐竜の鳴き声を音響デザイナーのライドストロームが作成を担当し、見事に成功を収めた。ライドストロームはベン・バートの代役として白羽の矢が立ったらしく、運命の悪戯と系譜の誕生を思わずにはいられない。
「マトリックス」においては扱うテーマもそして音声もそうした時代の潮流を抑えたものになっていて、「ROMA」においてはパンニング(音が聞こえる位置を移動させる)を用いて臨場感を高めている。
そうして今日に繋がる映画音響がこれからどのような楽しみ方を示してくれるのかが楽しみだ。
音が拓く新たな地平
音は映像に1つの次元を付け加えた。多次元となった映画の世界で新たに加わった点の数、線の数、そして面の数は数え切れない。音声による状況説明、効果音による画面外の把握、音楽による観客との一体化。
そして三種類の音同士が交わり、さらに作品を深めていく。「プライベート・ライアン」のノルマンディー上陸作戦のシーンでは、画面を主人公の狭い視野と重ね合わせた。そこに、やられる兵士の叫び声と数え切れない銃声と無という音楽によって、否が応でも観客は主人公に同化させられる。
本作には登場していないが「ウトヤ島、7月22日」でも常にカメラは主人公を追いかけるがゆえに、画角から外れた部分の状況は一切想像できない。それでも実際に犯人が撃った銃声の数が、そして逃げ惑うノルウェー労働党青年部の悲鳴や乱れた息づかいが、ただならぬ状況を説明してくれる。
また切り拓かれた地平の別の側面として、映画、本、テレビ、アニメ、絵画。様々なコンテンツはそれぞれ関係ないように見えて、複雑に絡み合いしばしば技術的、社会的なコンテクストを共有している。共有しているというよりもむしろ、同根なのだろう。
作中では「市民ケーン」において監督のオーソン・ウェルズがラジオドラマの収録方法にinspiredされて、反響音を効果的に用いたことが語られていた。市民ケーンはしばしばその映像面での演出や新技法ばかりが着目されるが、音についてもラジオというコンテクストから影響を受けていたのだ。
また別の例をあげると、歴史的経緯として戦後から70年代にかけてハリウッドが凋落していったのも、テレビの台頭が原因の1つであることに間違いがない。逆に当時の映画を二本立てで公開していたという背景が、早撮り低予算のB級映画を生み出し、その撮影方法がドラマに輸入されたという話もある。
40年代にフランスで起こった具体音楽との関係性が作中でも示唆されていたし、音が加わったことで本来は接することのなかったコンテクストとも交わる余地が生まれたことが、これほど大きな広がりを生んだのだ。
最後に
言葉は音の表情なのだ。
音は映像よりも多くのものを表現できる、というと映像派閥と戦争になりそうだが、この映画を観ると強ち間違いではないだろうという気になる。
音は5W1Hを表現できる。ボフッボフッという足音は雪山にいることを(Where)、眠たい声は朝であることを(When)、砕けたガラス音はグラスを落としたことを(What)、威勢のいいエンジン音は信号が青になったことを(Which)、少し跳ねた音楽は子供が走り回っていることを(Who)、くぐもった声は誰かがナイフで刺されて殺されたことを(How)、それぞれ表現できる。
映画はその伝達媒体を劇場のスクリーンとして出発しているからこそ、無くなることはないだろう。なぜなら映画というコンテンツは映像と音の両輪が揃ってこそのものであり、どれだけ大きさを変えて家で映像を楽しむことができても音には限界があるからだ。
コロナ禍で確かに月額配信サイトでの映画視聴は一般的になっただろう。鬼滅の刃の映画が大ヒットしたことも映画業界(の一部)にとっては吉報だったに違いない。しかしそのどちらもが映画を「映画として楽しむ」ことによって消費されているものではなさそうだ。
映画館に足を運ぶことの意味は大きなスクリーンで観ることだけではない。音響デザイナーが丹精込めて作り上げたもう一つの「作品」をスクリーンにも負けない音響によって楽しむためでもある。
本数が命という人が採る、映画を倍速で観るような方法はストーリーに偏重した鑑賞方法であるとも言える。ただストーリーを支えている音にもう少し着目してもいいのではないだろうか。作成者にリスペクトをはらえとは言わないが、作品の浅薄な消費の仕方はもったいなくはないだろうか。
この作品をきっかけにイメージとサウンドが交わる交差点にある「映画」というものに、より「目を開いて」鑑賞する人が増えることを願うばかりである。そして自らの中に拓かれた地平は、何気ない日常に向かう「目」を少し変化させてくれるに違いない。追体験できるのは何もスクリーンの中だけではない。
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