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運命の女神 (1)


「運命の女神」


  あの頃のそれしかなかった世界

 生きる。とにかく課題は山積みである。
 状況は慌ただしいというより、全てが自分の処理能力を上回っている、という方が正しく、「大丈夫か?」と問われれば、何も考えずに「大丈夫」と答えてしまいそうな程余裕がない。「だめ」と答えて、「何が?」と問われても、きっと答えることなどできない。だから「大丈夫」。
 身体はまるで何かに密閉されているようだ。どこか息苦しく、押し潰されそうになりながら、なんとかのろまに動かしている。指令を出しているであろう頭の中は嵐が吹き荒れている。水の中にいるようにごうごうと鳴っている。これは心臓と血液の音なのかもしれない。
 景色がゆらゆらと視界で揺れている。必要なものも、不必要なものも全てが背景として同じ一枚の絵に描かれている。遠くの方で感じる非難の声や態度が、果たして他人からのものなのか、自分の内なる声の投影なのか、よく分からない。
 とにかく目の前のものから片付けていくしかないが、一つ一つが進行しており、何から手を付けるべきか途方に暮れる。情報はあっという間に通り過ぎようとしている。思考というより反応の積み重ねでこなしている。
 一体何を目指しているのか?どこを目指しているのか?どうすればこの状況を改めることができるのであろう?それは今、考える必要のある事なのか?
 分からなかった。
 分かっているのはこのままではいけないということだけだ。
 いや、そうなのだろうか?
 だとしても、一体どうすればいいのだろう?
 机の上の携帯電話が鳴った。
 職場で拡散していた西野総治の意識は、携帯電話の着信音で呼び戻された。総治は液晶画面を確認する。とは言え相手は分かっている。妻、聡子からの着信である。着信中の画面の時計が十時十五分を示している。総治ははっと、今朝会社へ到着したことを告げる電話を聡子に入れていないことを思い出した。通常であれば八時三十分頃には電話をかけているが、今日はそれをしないまま、もう十時を過ぎている。総治は急いで場所を変えると通話ボタンを押した。堰を切ったように、聡子の声が携帯電話から溢れてくる。
 「帰ってきて!お願いだからもう帰ってきて!」
 聡子の声音は悲壮さを孕み、ひっ迫している。その声を聞いただけで、総治は聡子の調子がすこぶる悪いことがよく分かった。帰らなければならないだろうか?いや、出社して数時間もたっていないうちに仕事を放り出して帰ることができるわけもない。総治はなんとかして聡子をなだめようと試みたが、意識の片隅に打算を残した「できるだけ早く帰るから」や、「大丈夫だから」という虚しい言葉が状態を改善することもなく、聡子の声は激しさを増した。
 「どうしてなのよ!」
 嵐の中で雷が鳴り響くように聡子の声が総治の脳天に突き刺さる。
 「分かった」
 呻くようにそれだけ呟くと総治は電話を切り、席に戻らず上司に有給休暇の申請をした。上司は訳知り顔でそれを受理し、総治は安堵する。総治は上司の質問を振り切るように何度も頭を下げると、手早く荷物をまとめ、会社を後にした。
 建物を出ると、ごうん、と外の音が、視界が、空気が、総治に迫ってくる。総治はやたらと明るい午前のビル群を見るとなはしに眺めた。ため息のように後悔が溢れる。
 休んでしまった。
 放り出されたような突拍子もない開放感は、嬉しさよりも苦しい罪悪感を総治に招いた。しかし、とにかく帰らなければならない。空気に押しつぶされるように総治は俯きがちに、帰路を急いだ。コンクリートを睨みながら黙々と歩く。
 帰る道すがら、上司は今日の早退についてどのように考えているだろうか、という事が総治の頭から離れなかった。携帯電話にかかってきた妻の体調不良の連絡は早退する理由になり得るだろうか。もしかしたら、総治自身の過失によって招いた結果かも知れなかった。それでも、許されるものだろうか。嘘や甘えと思われていないだろうか。簡単に仕事を放り投げている自分のような人間を上司は内心どう思っているのだろう。もうどうしようもない人間だと呆れられているから、今日の早退は許されたのだろうか。今頃、職場の人間たちが自分について困ったものだと噂しているのだろうか。自分が行うはずだった仕事が回っていく誰か。誰かの疲弊と恨み。他人の恨みが総治には恐ろしい。
 聡子の体調不良が職場にとって、会社にとって一体何だというのだろう。今日これから家に戻ることで最悪の事態が未然に防がれるかもしれないが、もし最悪の事態が起こってしまったとして、被害を被るのは総治だけだ。たとえそれで総治が会社をやめることになったとしても、また新しいおいそれと休みをとらない社員が入ってきて、ただそれだけのこと。
 やはり今日は帰るべきではなかったのかもしれない。こんなこと、そう何度も続けていけるわけがない。今日だって、なんとか聡子をなだめれば、あるいはどうにかなったのではないか?休みなんて取らずに、聡子がどんなに荒れようと、家で待たせていれば良かった。かと言って、今更会社に戻ることもできない。戻れるくらいなら、最初から休みなんて取るべきではなかったのだ。
 もう帰るしか道はないはずなのに、総治の頭の中に会社へ戻るという選択肢が消えず、もう選ぶことはできないのに、総治はひたすら迷い続けていた。後悔は、家路につく総治の足を重くし、総治をただ疲弊させる。疲れた神経に外界が触れる。
 こんな時、家でもなく会社でもない場所へ足を向ければ、総治は救われるのだろうか。その行動によって静かに何かが崩壊していくのか、それとも彼が新たな活路を見いだすのか、それは誰にも分からないが、どちらにせよ、総治には家に戻らなければならないという思いと、会社に戻るべきなのかという迷い以外に自分自身の認識できる思考はなかった。





   *




 電話をするのを忘れていなければ。総治はどうして、電話するのを忘れてしまったのだろう?そうすればこんなことにはならなかったかもしれないのに。
 会社に到着して、総治は聡子に電話をかけなければ、とは確かに思っていた。しかし、そう思えば思うほど、携帯電話に触れられなくなっていた。重力。かけなければかけなければ、と思い、そうこうしているうちに同僚から声をかけられた。そして、総治はその日聡子に到着の連絡を入れるのを忘れた。





   一、   




 聡子の話ではノストラダムスの予言通り、1999年に世界は滅亡していたらしい。 (驚くべきことにそれは 年も昔のことだった)
 世界が、滅亡したのだ。(驚くべきことに 年も昔に)
 そして、世界の滅亡というのは自分達が死に絶えることだと思っていた人間達が、世界が滅亡したことを知らないまま、世界が滅んだ後も生きている。
 世界が、現実が、崩壊してしまったどこかで。
 ここで。
 それで、と総治は聡子に話の続きを促した。
 総治は聡子の瞳を覗き込む。総治の瞳を、どこも見ようとしない聡子の瞳が捉えた。
 初めてこの話を聞いた時、総治は一瞬のためらいの後、聡子に聞いてみた。「それでは今俺達が生きているこの場所はどこなのか?」と。すると、聡子は悲しそうに顔の筋肉を歪めて、何も言わずにじっと虚空の瞳で総治の顔を覗き込んだ。それから総治は聡子に質問するのをやめた。
 「誰も気づいていないの。気づいていたとしても隠して生きているのよ。似たようなことを言って、本当のことに気づいていないふりをしているの。危険だから」
 世界は、とにかく危険である。ということを聡子は繰り返した。それによって、聡子は仕事のために外へと出て行く総治をひどく心配しているのだ。不必要に外出することさえ。その危険な世界で生きていくために、聡子の制止を振り切って出かけていかなければならない総治は、自分の存在について考え込んでしまうような、しかして何もまとまらない思考のまま聡子の話を聞いた。
 同じことを何回も繰り返したり、時におかしな方向に向かいながら、聡子はおよそこんなことを総治に訴える。
 世界が滅亡する前、人々は世界のシステムに身を委ね何事かをなせば、世界から何らかの見返りが得ることができた、報いを受けることができたという。しかし滅亡した今、人々に報いは与えられない。何かを手に入れると言うことは、誰かから奪う、ということなのだ。だから今幸せそうにしている人間ほど実は危険で、このように何も信じられず、奪われないように常に気をつけいていなければならないのだ、と。
 それは何の変化もなく一方的だった。ダイニングで、ベッドで、何度も同じ話が繰り返される。話の行き着く先も変わらない。未来には希望なんてものはない。そういう話だ。
 それが正しいかどうか、それは今問題にすべきことではなかった。世界の滅亡を訴える聡子は真剣で、内容に関わらず彼女を拒絶することが難しく、総治は聡子の話すままにまかせる。聞いているだけで気が滅入る話を聞き続けることが果たして総治にとって良いことなのか総治には疑問だったが、それでも総治は聡子の話を聞き続けた。聡子が話すということ、話している聡子に出会うということが総治がこの話を聞き続けるただ一つの目的だった。ただ、意識が聡子と触れあうということ、それだけのために。
 話し続ける聡子の顔はとても生き生きとしている。それは聡子が世界の滅亡を総治に訴える時特有のものだ。茫漠とした不安や怒りの顔ではない。“何か”、真実に触れたかのような確信に満ちた、きらきら輝く瞳がしっかりと総治を捉えている。実際の聡子の話は支離滅裂だったが、内容に目をつぶればそれは時折感動すら引き起こすような、たしかな「やりとり」なのだった。
 その目に見つめられたくて、そのただ生き生きとした声に耳を傾けたくて、総治はただ聡子に話を続けさせてしまう。支離滅裂な話に相づちを打ち続け、矛盾に混乱する総治自身を無視させる。総治はただその瞬間、その瞬間の安堵に自分を集中させる。無意味な理想の世界に。きわめて短いかりそめの安寧に。
 ふと時計を見ると時計の短針が四をわずかに通り過ぎていた。聡子に話しかけられたのは、たしか二時前だったはずなのだが。
 どうしていつも聡子の話を聞き始めると、こんなにも早く時間が飛び去ってしまうのだろう。
 総治はその時間がまるで失う必要の無かった美しい時間だったような気がした。というよりも、何かもっと有意義なことに使用されるべきだったが、残念ながらそうされずに消費されてしまった時間のように思われて、それが自分の身体にのしかかってくるように感じた。その重みはしなだれかかってくる、意識の奪われた一人分の肉体の重みだった。
 この疲労に、総治はかすかに怒りを感じる。「どうしてなんだろう?」と思う。こんなことをしたいわけでは、ないはずなのに。しかし、疲労はすでに結果であった。
 もう夕飯の支度や風呂の掃除をはじめなければならない。考えている暇はない。総治は重い身体を起こし、風呂掃除を始めようと立ち上がった。
 (今日の献立は何にしよう?)
 「聡子、今日は何が食べたい?」
 総治が尋ねると、聡子はもう、ただぼんやりとした顔で、
 「分からない」
 と答えた。
 総治にも食べたいものは思い浮かばなかった。代わりに一つの思いが唐突に頭に浮かんできた。
 (俺はなぜ生きているんだろう?)
 それはどこにも吐き出されず、風呂掃除の間総治の涙腺を刺激したが、総治はそれを許さず、やり過ごした。ふわふわと周囲を漂う聡子が独り言のように言う。
 「最近野菜炒めばっかりだね」
 「そうかもしれない」
 総治は答える。答えながら考える。
 では何を作ればいいのか?
 (俺は)
 何が食べたいのだろう?と総治は思う。また彼の頭は重くぼんやりとしてくる。
 レトルトの調理補助食品は切らしていたので、このままだとやはり野菜炒めになってしまう、と総治は思った。
 ダイニングキッチンの出入り口で体を室外に出しながら、恥ずかしがり屋のこどもが見知らぬ人の様子を伺うように、聡子が自分を覗き込んでいる。わざわざテーブルから立ち上がってどうしてそんなことをしているのだろう。その視線を感じながら総治は振り返らなかった。
  (「分からない」)
 その声に応えるように、総治は心の中で応えた。
 (俺もだ)
 野菜室の中にはキャベツの使いかけが4分の1ほど残っていて、もやしもまだ使っていない。
 やはり野菜炒めだ。
 総治はキャベツともやしを両手に持つと、隣のシンクに向かって立ち上がる。
 立ち上がりかけたところで、こちらをのぞき込む聡子と目があった。
 聡子の目はこどものように甘えながら輝いて総治の動きを楽しげに見ている。
 (そんな目で見たってだめだよ)
 総治の心情を察したのだろうか。それともその手のキャベツともやしのせいなのだろうか。聡子の瞳の奥がわずかにかげるのを総治は確かに見て取って、
 (そんな目で見たって、)
 と思いながら、聡子から目をそらし、ゆっくりとシンクに移動した。
 (だってお前、分からないって言ったじゃないか)
 総治はまな板と包丁を取り出して、ざくざくとキャベツを刻み始めた。
 右手に握られた包丁の右に太めの千切りに切られたキャベツ。猫のように丸めた左手の下に玉からむしられ重ねられた切られる前のキャベツ。
 そして聡子の視線。
 総治は何らかの感情が、キャベツを刻む自分自身にわき起こってくるのを感じた。”何らかの感情”とは、総治自身にもよく分からない感情、という訳ではない。総治自身はその感情がどんな類のものであるか把握している。ただ、それを表す言葉が見つからない。それだけのことだ。
 それでも、あえてその”何らかの感情”への道筋 を言葉でつけるとするなら、例えば聡子に、今日会社から帰ってくるまでの自分の気持ちを話すことができるだろうか。
いや、話すことなどできない。話し合うことなど。
 聡子の過敏になった神経は、きっと総治の話を自分への不満と認識し、自己防衛の為に暴れ出すだろう。いやそれどころか彼女の神経のどこにも触れずに、ただ会話している時の愛嬌だけで作業的に聞き流されるかもしれない。
 後者の方が悲惨だろうか?悲惨かもしれない。暴れられて疲弊させられるのは確かにつらいが、自分の話がどんな形にも受け入れられない事実はよりつらく、そして悲しい。
 であるから、総治から聡子に己自身の会話を始めることがない。受け入れられないことが、怖いから。そしてやはり、彼女の怒りを受けたくないから。
 彼は、黙ってキャベツを刻むだけだ。
 だが、聡子はそんな総治を見ている。後ろを振り返らないので、実際確実なことではないが、総治にはその視線が感じられる。
 総治と聡子は接続しない。しかし確かにそこに聡子がいる。そして総治を認識している。
 その作用が、総治に向かって”何らかの感情”をかき立てる。
 「今日さ、帰りにスーパーでも寄ってくれば良かったな。そうしたら、ちょっとはさ。今日は野菜炒めだけどさ。ごめんな?」
 総治は謝罪する必要もないのに謝罪する。この言葉以外聡子の視線をかわす術を知らず、食事を用意する音に彼の言葉は紛れていく。振り返ると目があったので総治は聡子に微笑みかけた。接続しない微笑み。
 (俺が野菜炒めではないものをつくったら、お前の病気は治るかな?)
 (「治るよ」)
 そんな声が聞こえた気がして、総司の心のどこかが勇気づけられ、そして心のどこかが責苛まれた。
 総治は、野菜炒めを作っていく。たった一人で"何らかの感情"を抱えながら。



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昨年文藝賞に投稿して、落選した小説を分割して掲載します。
1日1記事ずつ10記事の予定です。

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