ヒップホップ好きが考えた「差別・ヘイトにどう向き合うか?」〜大学講座とライブ、2つの視点から〜
あやうく「ツイートする」ボタンを押してしまうところでした。
とんだヘイト投稿を。あっぶねー。
私はダイバーシティに関係したイベントやらコンテンツやらを、リサーチしたり、観たり、行ったりするのが趣味でして(ヘンな趣味)。
ちょいちょい見たり聞いたりするんですよね、マイノリティへの差別発言やヘイトを。
その晩も、目に余る悪意ツイートに出くわしまして。
ヘイトにヘイトをぶつけるという、放屁合戦みたいなことを仕掛けそうになりました。
すんでのところで正気にかえりましたが、ヤバかった。
自分に向けられた言葉ではないのに、正直、食らっちゃうんですよね。
でもこの時に気づいたのは、自分も差別発言者と変わらない、ということ。
脊髄反射的な差別発言。お酒飲んで気が大きくなってるときなんて、もう最悪。
ダークサイドに落ちやすいという点では、同じ穴のムジナだと。
ならばせめて、自分だけでも劣情にブレーキをかけられないか。
でも、どうやって?
ヒントは、私が好きなヒップホップにありました。
とある大学講座。そして、とあるライブから。
自分なりに発見のようなものがあったので、ここに書き留めておこうと思います。
忘れやすい自分の自戒としても。
いや、そんな回りくどいことしなくたって、差別発言はダメなんですけどね。
ヒップホップとダイバーシティ、差別発言・ヘイトにどう向き合うか〜明治大学リバティアカデミーから〜。
10月15日。私が受講したのは、『ラップ音楽と人種、ジェンダー ー2つの「現場」から』という、生涯学習機関・明治大学リバティアカデミーのオンライン講座でした。
人種・民族、ジェンダーをめぐる社会現象や研究について、アカデミックに講義と討論を行うというもの。在日コリアンの研究や、ヒップホップフェミニズムについての講演なんかもありました。
私が興味を惹かれたのは、ヒップホップやラップというアプローチがユニークだったからです。
その中でもとくに心に残ったのは、津田塾大学学芸学部 川端浩平准教授の「ラップ音楽と反レイシズム <力>を取り戻すための文化的実践」という研究紹介でした。
ごく一部を紹介しますと(部分的に補足)。
とりわけヒップホップにおいては、カッコよくあることが重要。カッコよくあることが聴く人へのエンパワーメントになる。
そのカッコよさに近年、人権や政治的な価値観がポップカルチャーに接続され、”正しさ”が入り込んできている。たとえば反レイシズム。あるいはフェミニズムなど。”正しさ”がカッコよさの構成要素になりつつある。
一方、そういった風潮に反発する人々もいる。とりわけ差別的発言やヘイトクライムを投稿する人たち。
カッコいいは、正しカッコいいへ。そして顕出する、反発する人々。
消えろxx。カスxxいらね。このクソxxが。ー
私があやうく心のオナラをぶつけそうになったのも、そういった発言をする人の投稿でした。
川端准教授はこう見解を示します。
ヘイトとディスの違いとは、相手への敬意があるか。自らを名乗った上での口撃かどうか。
ディスとはDisrespect。つまりrespectがあります。態度はどうあれ一旦は相手の言い分を知る、あるいは知ろうとする。
さらには、言い争うにしても自分は誰かを明らかにした上で切り結ぶ。
これらがMCバトルの基本とも言えます。ディスがヒップホップならではの流儀、ときには華である所以です。
敬意なく言い募り、しかも匿名。これでは、たんなる差別発言・ヘイトにすぎません。ヒップホップでもダイバーシティでも同じことです。
(ちなみに。ネット上で排外主義的な発言をしているるユーザーはだいたい3%くらい、という研究もあるみたいです)
研究紹介は続きます。
しかしそういった人々も、同じ社会で生きている限り、われわれと切り離して考えられるわけではない。
アンチコメントにどう向き合っていくか。
アンチコメントにどう向き合うか ー
私は、自分の気持ちを代弁してもらったような気持ちになりました。
これこそがまさに、自分もモヤモヤしていたことだったからです。
川端准教授が解説する投影スライドを、ググッと食い入るように見つめた瞬間。
研究紹介はこう締めくくられます。
今後、それが重要な問題になってくると思います。
解決策ないんかーい!
いや、そりゃそうですよね。都合の良い対処療法など、あるわけがないのです。
現時点では解なし。も、科学的な姿勢というものです。信用できます。
マイノリティから生まれたヒップホップと、ダイバーシティ。
この二つは相通じるものがあるはず、と考えている私としては、自分と同じ視点をもった先行研究があるということだけでも、勝手に心強く感じたりもしました。
とはいえ、やはり解なしか。
社会に通用するものじゃなくていい。せめて自分だけでも使えるヒップホップ・ナレッジを見いだせないものか。
後日行ったライブにそれはありました。
なぜなら、そこには差別や分断とは真逆の体験があったからです。
答えはフロアに。ヒップホップにみるカッコよさの多様性〜THA BLUE HERBのライブから〜
「こういう勝ち方もある」
ステージで叫び、拳を突き上げたラッパー。
満場のオーディエンスもひときわ高く拳を突き上げ、彼に応えました。
まるで渋谷クラブクアトロの天井を突き破ろうとするかのように。
この夜、クライマックスの一つです(クライマックスたくさんある)。
10月21日。仕事を早退して私が行ったのは、THA BLUE HERBというヒップホップグループのライブでした。叫んだラッパーは、ILL-BOSSTINO。
なぜこの
「こういう勝ちもある」
が、それほどまでに強力なパンチラインとして響いたのか。
少しだけ説明が必要です。
彼らの結成は1997年。
当時の日本ヒップホップは、今から振り返れば黎明期であり、かつ活況を呈していた時代。シーンの中心は東京でした。
そこにカウンターとして登場したのが、北海道・札幌で活動するTHA BLUE HERB(レペゼン札幌ですね)。
彼らは「東京のヒップホップがなんぼのもんだ!」と中指のおっ立ったアルバムを発表。
これがヒットして、東京以外のシーンを顕在化させた先駆者の一人となります(他にもいろいろいるんですが割愛)。
そんな異端、あるいはマイノリティとして登場した彼らも、今年で25周年。ラッパーも50歳です。
しかし、ベテランと侮るなかれ。
この日のライブも、つまさきさえネジ込めないほど一目瞭然ソールドアウト。
500人もの観客を、一瞬の隙もなく、完全にロックしていました(160分あっという間)。
メジャー契約、オリコンチャート、紅白歌合戦。どれにも無縁だったけれど。
四半世紀にわたって、フロアを埋め尽くす観客がいつづける。
浮き沈みの激しいヒップホップ業界において、超長期戦に持ち込みながらサバイブしつづけている。
これが「勝ち」じゃなかったら、何だというのか。
そう。勝ち方は一つではないのです。
さまざまな価値観があり、いろんな勝ち残り方がある。
人としていかがなものか?という輩だとしても、音楽的な実力とプロップスがあればノシ上がっていけるのがヒップホップの懐の深さ。
その多様さが、私がヒップホップ好きな理由です(世の中生きづらくってしかたない)。
それを体現している彼らの姿は、カッコいいの一言につきました。
そして多様さといえば。このライブ、もう一つ印象的なことが。
オーディエンスの客層でした。
やんちゃそうな若い男の子、キラキラした女の子。
業界関係者風の男女。ツアーを従軍しているらしい遠方からの男女。
イカツイおじさま(ときどきおばさま)、紳士風のおじさま。
Yシャツ姿のサラリーマン。老年の男性。障害のある人もいました。
ピン、友達、恋人、夫婦、同僚、先輩後輩。お酒飲む人、飲まない人。
客層、バラッバラ。私から見えていただけでも、こんなにもいろんな人が詰めかけていました。
でも。誤解を恐れずに言います。THA BLUE HERBの客は、おしなべてマナーがいいのです。
それはお行儀がいい、という以上のもの。ある種のヒップホップマナーを知っているのです。
たとえば。
ライブ前。背の高い男性の背後についてしまった女性に、観やすいスペースをみんなで詰めあって譲っていました。
障害がある人が着座するのを手伝っている人もいました。
オールドファンが幅を利かせて場所取りする様子もなく。
ライブ中も、スマホを光らせて撮るやつなんて一人もいない。
極め付けは終幕間際(これが一番好きだったシーンなのですが)。
「みんなで写真撮ろうぜ」
MCがステージの上から、オーディエンスと一緒に写真を撮ろうとします。
「でも、あれなんだよな。いつも最前列のやつしか写らな・・・」
と言い終わるかどうかのタイミングで、観客は次々と腰を折り始めました。
そんな客の一人が後ろを振り返ってボソッと一言。
「え?みんな、かがんでる・・・」
そう。みんな腰をかがめていたのです。
フロア後方の人まで、みーんな。
後ろの方は立ってないと写らないのに、です。
会場が笑ってました。
多種多様な人々が集まっているのに、いや、集まっているからこそ、誰かを締め出す醜さなど一欠片もありませんでした。
グッドバイブス。パーティに水をさす行為は、ダサいことこの上ない。
勉強に、仕事に一区切りつけて、なんとか時間つくってそこにいるんですから。
みんながいる場所を、いつづけられる場所にするために。いたくなる場所にするために。
25年間もの間、THA BLUE HERBの活動を持続可能にしてきたものはこれだと、みんな知っているのです。
そんな人々もまた、カッコいいと感じたのです。
カッコいいとは、カッコつけることではなくて。
ダサい振る舞いはしない、ということ。
も、含まれるのかもしれない。
こぞって中腰になっているオーディエンスを見ながら、そう考えたのでした。
差別発言が「ダサい」理由。ヒップホップから学んだ夜
差別発言やヘイト。なんなら自分の中にもあるこれと、どう向き合うか。
私に欠けていた視点は、
「自分は、いったい何をダサいとするか」
だったんじゃないかと。
そして、ことヒップホップ好きとして、何をダサいとするか。
それこそが差別発言なんじゃないか、と反省したのです。
だってヒップホップは、差別されたマイノリティから生まれたものだから。
差別発言する側に回ったら、私はヒップホップから何も聴き取ってこなかったことになってしまう。
「あのつぶやき、ダサさくないか?」
「俺はヒップホップの何を聴いてきたんだ?」
猛省です。でも、このパンチラインを自分に向けている限り、過失未遂を繰り返さずにすみそうだと。
フロアで見つかったのは、ヒップホップが好きだからこそ手に入れられたブレーキ。
ここでもやっぱ、ヒップホップに助けられたな。
そう感じながら会場をあとにした夜でした。
なのですが。
帰宅した玄関で電気をつけたら、チャック全開だったことに気づき。
差別発言より先に気をつけることがありました。ダッサぁ。
おわりです。最後まで読んでいただきありがとうございました。
おまけ2つ。「ラップ音楽と人種、ジェンダー ー2つの現場から〜」で印象に残ったエピソードたち。
国籍によって命名に使えない字があるなんて。ラッパーFUNIさんの「子ども名づけ」。
前出の「ラップ音楽と人種、ジェンダー ー2つの「現場」から〜」。
講座というからにはオカタイお勉強か?と思えばさにあらず。
講演あり、ラップパフォーマンスあり、パネルディスカッションありと、
非常に敷居低く、かつ豊かな学びになりました。
登壇者も、川端先生の他に多彩な面々が。その一人が、ラッパーのFUNIさんでした。
お子さんが生まれたときの、命名をめぐるエピソード。
FUNIさんもパートナーさんも外国籍とのことですが、国籍によって、名前につかえる文字が決められているのだとか。
知らなかった・・・。そのときのツイートがこちら↓
フェミニズムとヒップホップ的観点から研究。女性解放の活動も包含するHip Hop Feminism(HHF)
「Hip Hop Feminism」に関する著書があるDr. Aisha Durham(サウス・フロリダ大学教授)の映像講演も印象的、というかすごく学びになりました。
教授は、ヒップホップと女性差別の歴史、その研究について1990年〜、2000年〜、2010年〜と時代を区切って解説。
Hip Hop Feminismについて映像で紹介されていました。
#SAYHERNAME #MeToo #MuteRKellyなども(私は#MeTooしか知らなかった)。
氏曰く
「Hip Hop Feminismは女性の権利拡大と解放。不公平を語る声を拡大するもの」
アメリカではヒップホップと女性の研究はかつてからあり、ビヨンセの身体に関する論文も著名学術誌に発表してたりしているとのこと。アメリカではビデオの表象研究なども盛んらしい。
フェミニズムに、ヒップホップという視点があり、それが広く研究、活動されていることを初めて知りました。
また、BLMは知ってたけど、黒人女性も警官に殺されているという事実は初耳。が、よく考えたら、そりゃありえますね。
氏が視聴者に向けて最後に言い放った
「World is Listening!」
が印象的でした。