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こども基本法に関連しての思考の備忘録①対等な他者として聞かれ・聞くと言うこと

こども基本法が施行された。

自分がこどもだった頃のことを思い返してみる。

大人や社会に対して、あてにならないというか、頼っても仕方がないような気がしていたことを思い出す。
なんでだろう。
もう少し潜ってみると、こどもだった頃の私にとって、大人は「おとな」という生き物だった。それはこどもだった頃の私が引いた線でもあるだろうけれど、大人側だって「おとな」という線を引き「こども」と関わっていたことと関係があるように思う。

フラットな関係、と言葉で言うのは容易いし、そうでない場面に憤ったりもしてきた。
でも、と思う。
フラットは、きっと結構むずかしい。フラットであればいいのか、フラットであるとは?とか、思うことはあるけれど、その辺は一旦脇に置くとして、こどもだった頃、あてにならないと「おとな」や社会に対して感じてしまっていたことは、糸口なんだと思う。

大人になっても、対等な他者として対話することは容易とも言えない。大人とこどもという枠組みではより困難になるだろう。ただ、大人の無配慮な配慮に対して、聞くつもりがないのだと諦念を感じたこどもの頃の自分をちゃんと隣に置いておきたい。当たり前の顔で、変わりなく接してくれた大人たちによって、一人分の居場所をちゃんと持っているのだと自然に感じられた、そんなこどもの頃の自分も忘れずに。

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