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翻訳とチェコ語とその方向性について。

あと3時間ほどで2024年が終わる。
私が今年始めたものというと、やはりnoteだ。9月から書き始め、3ヶ月で60本近く記事を書いた。いまのところ、18,452ビューだそうだ。

読んでいただいた方にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。
つまらないものや伝わらないものもあると思うが、もっと上手に書けるように努めつつ、来年もできるだけたくさん書きたいと思う。

そして、noteに感謝したいのは、この本。
noteを始めたばかりのころ、翻訳をテーマに書いてらっしゃる方の記事から知った。

翻訳の手法とか考え方について、専門家の話を聞きたいとずっと思っていた。
しかし、私は本との、相性というか好き嫌いが激しいようで、読める本と読めない本がある。
ちゃんと読める本が少ないので、本を買うという行動に消極的なのだが、思いきって買ってみた。
ありがたいことに、この本とは相性が良かった。
上手な日本語と、テーマに対して真摯な書き手の目線が伝わってきて、無事に読者になることができ、時間を見つけて少しずつ読み進められた。

そして、いま読み終わった。大晦日に読み終わるなんて印象深い一冊である。

チェコ語を教えたり使ったりしていると、「翻訳」というものが出てくる。
もちろん英語でも学校で「日本語訳」「和訳」という作業をするし、自分でも生徒さんに「訳せ」という課題を出すこともあるし、生徒さんから「この文章を訳したい」と言われたことも何度もある。

しかし、多くの場合、生徒さんからも授業でも、翻訳として出てくる日本語は、いつものふつうの日本語と一線を画しているような気がする。
訳している本人たちはその世界に浸っていて気づかないものだが、日本語でわかるように訳しているはずなのに、そこらへんにいる日本語ネイティブに読ませても通じない日本語を作ってしまうことが多々ある。

チェコ語でも翻訳コンテストというイベントが10年ほど前から行われているため、長文を日本語にすることが要求される場がある。
しかし、翻訳という行為における、チェコ語理解力と経験値、訳者の日本語への感度とセンス、そして一般の読者向けに問題なく読ませる書き手としての十分な配慮の3点がすべて、一個人の中に鼎立している事例がどれだけあるか考えると、とりわけ日本では、コンテストと言っても、レベルは高くないであろうことが容易に予想できる。
チェコ語の翻訳コンテストはしかも年齢制限があり、40歳未満でそこまでの技能・スキルを兼ね備える必要があると理解している応募者のほうが稀だと思う。

外国語学習歴が長くなると、辞書に出てきた訳語をくっつけて直訳にする、文の構造をそのまま日本語にする、ということをしても違和感がなくなってくるようなのだが、できあがった日本語はもちろん不自然になる。
しかし、外国語に注力するあまり、日本語へのリスペクトがなくなって、それをおおごとだと思う感性がないと、あとは時間との戦いをその無様な日本語捌きで走り抜くばかり、という翻訳ができあがってしまう。

そういう不自然な日本語も、翻訳書ではよく見かけるし、なんだったら日本語の学術論文なども不自然といえば不自然であるし、さらにそういう書物があったとしても、日本の独特な「雰囲気」だけで一冊乗りきる読者もいるように思える。

また、チェコ語の本の英語訳などを見ることも何度かあったが、大幅な省略、改訳などが当然のように出てくる。最初のうち、英語はこういう感じなんですか…と唖然とした。しかし、本のスピリットが伝わるのであれば、ある程度の差異は認められるものなのだろうか。

そんな経験から、私は翻訳とは何を目指すべきなのか、現時点ではどういう認識がメジャーなのか、まずは英語翻訳の専門家がどう認識しているかを知りたいなと思ってきた。

この『翻訳の授業 東京大学最終講義』は最初から最後まで私のそんな気持ちに寄り添う本であった。

「やっぱりそう思いますよね」と心の中で何度もうなずきながら、読みすすめ、今日最後の章を読み終わり、「結論まですべて私がなんとなく思ってたとおりだった!」と叫びたくなった。

別に私ってエラいでしょう、という話ではない。
翻訳の本来の目的、という一点が、著者の山本史郎先生と私で同じだったということだ。これがいちばん理不尽でない、原著者にも日本語読者にも敬意を保つことのできる結論だからだ。

といっても同時に、私はこの著者の山本先生に大きく賛同するけれども、これまでチェコ語やその他の言語で翻訳を出してきた実績のある先生方は異論を唱える人もいるだろうなと思われた。

特にチェコ語のようなマイナー言語では研究者の数がそもそも少なく、文学専門ではない人が翻訳をしていることがよくある。
優秀な先生であっても文学に理解がなければ、日本語で魅力的な本にはならないだろうし、外国の著者が言いたいことをどれだけ日本語で伝わるように映しとれているか信頼するのもむずかしい、と私は思っている。

著者の書きたいことをそこに書かれた文字列からつかむ、という、当然にして、実に地味で謙虚で時に土臭く、根本に思いやりと賢さと辛抱強さが要求される営為は、ごまかしたいとかズルをしたいとか優秀だと思われたいとかカッコよく思われたいとかいう翻訳者の意識的な、あるいは無自覚なエゴにより、いくらでも歪められてしまいかねない繊細なものなのだ。


ここ5、6年ほど、チェコ語のほかに日本語AIにかかわる仕事をしてきたのだが、日本語ネイティブなら誰もがそう思うであろうことを「これだ」と決めてAIに教えるために分類していく作業は思ったよりもむずかしい。
たいてい「いま英語ではこうしているので、日本語で同じように処理してください」ということになるのだが、英語にはないが日本語にある、日本語にないが英語にある、という例は無数にある。
それを日本語ネイティブ同士で「こういうことですよね」と話す場がどこでもかならずできあがって認識をすり合わせることになる。
こういう仕事は「ローカリゼーション」と呼ばれている。

しかし、大昔から行われている「翻訳」という作業は翻訳者一人の匙加減によることが多い。
英語などのニーズが多い言語では、自然と、ある程度の品質の均一化や切磋琢磨が行われてきたのだろうと思われる。
この本を読んだことで、いろいろな翻訳の仕方があって、いろいろな正当性があって、時代や読み手の嗜好にも影響を受けながら、いろんな翻訳が存在してきた経緯がわかった。

いまも統一されたルール、というのがあるわけではない。翻訳者と編集者が納得すれば出版される。
そして、翻訳には「批判する人」というのがかならず現れる。
亀山郁夫『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーになった時も、強烈に批判する人が現れた。
私の恩師の亀山先生がロシア文学を一気に広げたのに、何が気に入らないんだと私はショックであった。

しかし、だ。翻訳すれば、かならずそういう声が上がる。
それは批判する人が翻訳について、ちがう主義を持っている、あるいは何の主義も持っていないから言ってくるのだ。

批判している人の声が大きかっただけで、その人がどれだけロシア語とロシアの19世紀に精通しているのか、日本語のセンスがあるのか、そこに描かれた登場人物の心の機微をわかるだけの度量や経験があるのか、ドストエフスキーの言葉の真意を汲みとれたのか、そして翻訳というもののゴールを、前提としてどこに設定して批判しているのかは、名前や肩書きだけからではわからない。
むしろ翻訳の歴史と方向性の多様さだけでも知っていれば、強烈な批判など出るわけがない、と思う。

ということで、2024年のnoteで見つけたこの本は、大きな指針として頼りになる一冊であった。元気になった。
あとは、その指針に沿えるだけのチェコ語の力と経験をさらに積み重ねていくばかりである。

この本と出会えてよかった。noteよ、ありがとう。来年もよろしくね。


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Hatsue Kajihara
ここまで読んでいただき、とってもうれしいです。サポートという形でご支援いただいたら、それもとってもうれしいです。いっしょにチェコ語を勉強できたらそれがいちばんうれしいです。