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【連載小説】10 days (4)
2.3
日は天頂でぎらぎらと輝いていた。健一はすたすたと商店街の通りを歩く。佑斗は汗を拭きながらとぼとぼ付いていった。
健一がこの街に住むようになって、もう十年以上経つ。
この街は変わらないなあと思いながらも、少しずつではあるが確実に変わっている。少しずつだから気づかないだけで、人も街も少しずつ年を取り老いていく。それが生きていくと言うことだ。人の営みとはそういうものだ。それが世の常だと分かっていても少し寂しい。
商店街を通る。
「ケンさん、生きのいいのが入ったよ」
魚屋『魚半』の親父が声を掛ける。店舗を新しくして、ぱっと見小洒落たカフェみたい、とまではいかないが、店先の木箱に並べてあった魚は明るいショーウインドウの中に綺麗に並べてある。
「どれ、どれ」
健一はすっと魚屋の店内に入り込む。佑斗は仕方なく店の外で待つ。スマートフォンを置いてきているので間を持て余してしまう。
「煮付けにすると旨いよ」
「おう、後で二尾届けてくれ」
「はいよ」
健一は通りに戻る。
少し歩くと、今度は八百屋の若いのが呼び止める。『八百八』は戦前からある店らしい。父親が亡くなったので、息子がサラリーマンを辞めて後を継いで、母親と一緒に切り盛りしている。
「ケンさん、今日はキュウリとトマトがいいよ」
「ナスはないかい?」
「今日は小さいのしかないよ」
どれ、どれ。覗き込んで、それじゃ俺のナニと変わらないじゃないかと二人で笑った。
「そのナスでいいや。四個だけでもいいかい?」
「いいよ。他に配達する所があるから、その序に届けておくよ」
「頼む」
その次は、理容店の親父。靴屋。健一は、その度に挨拶がてら、二言三言、言葉を交わしながら商店街を歩く。佑斗はその都度待たされ、話が終わると健一の後をのそのそ付いて行く。
「ここだ」
佑斗が連れて行かれたのは、商店街の外れ、薄暗い狭い路地の中程にある薄汚い店だった。かつての白壁が積年の汚れで白と黒のまだらになっている。半開きになったドアから、人が忙しく動いている音が漏れている。
――ここはレストラン……じゃない……。
佑斗が呆然と外観を見ていると、健一はさっさと中に入っていった。佑斗も慌てて後を追う。
「邪魔するよ」
「あら、ケンさん。いやーだ。まだ起きたばかりで化粧もしてないのよ」
媚びを含んだ声が聞こえる
「ママは、化粧しなくても十分きれいだよ。開店前に悪いな。いや、ちょっと頼みがあってさ」
目鼻立ちがはっきりした小太りの、普段着とはいえ派手な服装の女性が奥から現れた。
「あら、その子は?」
「俺の孫。おい、自己紹介」
健一は佑斗の肩をぽんと叩いた。
「こんにちは。植村佑斗です」
佑斗はぺこりと頭を下げた。途端にママの目を細くなる。
「あら、かわいい」
ママは佑斗の手を取って引き寄せると、ぎゅっと抱きしめた。それが最初のハグだった。顔がもろにママの胸の谷間に埋もれた。佑斗はどうしていいのか分からず、顔を真っ赤にして身じろぎもできない。息苦しくなって佑斗が頭を動かすと、ママは「あらっ」と言いながら腕を緩めた。ママからは甘い匂いがした。
「何歳なの?」
「じゅ、十二歳です。十月で十三です」
「今日から十日ほど預かることになったんだ。予め連絡くれればいいものを、今朝娘が突然連れて来るものだから、何も用意してなくてよ。朝食で昼の分まで食べちまったから、昼食がなくなったんだよ。ママ、何かこいつに食べさせてよ。ついでに俺にも」
「それは構わないけど、ユウくんみたいに、ユウくんでいいわね、若い子の好みは分からないわよ」
「何でもいいんだよ。ほら、よく締めに出してくれる丼があるだろう。それと味噌汁とお新香があれば、それだけでいいよ」
「あんなのでいいの?」
「上等だよ。あれにはママの愛情がぎっしり詰まっていし、栄養満点だから。お前、好き嫌いはないよな?」
佑斗は頷いた。佑斗は健一の言うことが分からなくなる。食事は大事だと言いながら、その一方で何でもいいと言う。支離滅裂だ。
――愛情がぎっしり詰まっていれば、ルール四はクリアということか。
佑斗は一人得心した。
ちょっと待っててねと言いながら、ママは甲斐甲斐しく動きだした。十分ほどすると、丼と味噌汁を載せたお盆が佑斗の前に置かれた。サラダも添えてある。
「ユウくんの口に合うといいけど……」
母が作る料理とは明らかに違う。佑斗が躊躇っていると、
「騙されたと思って、食べてみろ。絶品だぞ」
「騙すだなんて。まあ、ケンさん。ご挨拶ね」
「俺にはビールを一杯付けてくれるとありがたい」
佑斗は丼に恐る恐る箸をつけた。一口頬張る。
「美味しいです」
そこからは一気だった。平らげて顔を上げると、見つめていたママと視線が合った。
「食べっぷりがいいわね。お代わりは?」
「いいえ、お腹いっぱいです。ご馳走様でした」
「そう。でも遠慮しなくていいのよ」
「でもね、今日は急だったから、冷蔵庫にある物で拵えたたけど、食事は大事よ。栄養のバランスが取れた食事をしなくちゃだめ。嫌いな物とか、苦手な物はある?」
「いいえ」
「味は兎も角、明日からはちゃんとした物を用意しておくから、必ず来るのよ。いい?」
「はい」
「ママ、そんなことまでやってもらっていいのかい?」
ママは、健一の方は見向きもせず、
「ユウくんはこれから体を作る大事な時期よ。健全な心は健康な体に宿るの」
ママも健一と同じ事をいう。
昼飯を食べに行くと言いながら、ママの店を出たのは夕方になっていた。
健一は結局大瓶を二本を空けて、すっかりいい感じにできあがっている。
「ケンさん、その様子じゃ、今から夕食なんか作りたくないわよね」
ママは夕食のおかずを持たせてくれた。タッパには魚の煮物と野菜炒めが入っていた。
「こんなこと、源三のヤツが知ったら、大騒ぎだ」
健一は愉快そうに笑った。
帰り道すがら、佑斗は健一の後から歩く。坂道を上るにつれて、外灯の数が減っていく。辺りはすっかり暗くなった。突き当たりに小さく見える玄関灯が健一の家だ。健一は、途中で足を止めた。佑斗が追い越した時、健一が何か言った。
「何?」
振り返った途端、佑斗は息を呑んだ。海岸線に色とりどりの光の帯ができている。漆黒の海では、灯りを点けた数隻の漁船が漁に出るようだ。数こそ違え天の川とその周辺の星に思えた。
「どうだ、きれいだろう」
佑斗は黙って頷いた。
「昼間の海もいいが、夜の眺めの方が俺は好きなんだ」
さも夕方までママの店にいたのは、これを見るためだと言わんばかりだ。
「いいだろう」
健一は繰り返した。だが返事を期待しない口ぶりだったので、佑斗は黙っていた。
帰宅すると、魚屋『魚半』の発泡スチロールに入った魚と、八百屋『八百八』からの野菜が玄関口に届いていた。
「佑斗、それを台所まで運んでくれ」
健一はドアを開けて、さっさと入っていった。
健一が風呂から上がると、
「これ、ママから」
と佑斗がスマートフォンを差し出した。小さな画面に、ぎっしりと、これまた小さな文字が並んでいる。小さい文字は辛い。健一はスマートフォンを受け取ったものの、手を目一杯伸ばしても読めない。
「ちょっと待ってくれ」
居間に戻り、おもむろに老眼鏡を掛けた。
「おい、何もしないのに画面が真っ黒になったぞ」
佑斗は、壊れたのかと慌てる健一の姿が面白いらしい。口元だけで笑いながら、
「何も操作しないで時間が経つと、節電のため、そうなるんです。ちょっと貸してください」
と言う。佑斗が操作すると、画面は息を吹き返した。俺は画面の文字を追う。
『お父さん、今日は急なお願いでごめんなさい。事前に相談すると絶対断られると思ったので、突然押しかけることにしました。引き受けてくれて、本当に助かりました。ありがとう。国際電話は高いので、今後の連絡はメールにします。お父さんは多分使ったことがないでしょうから、操作は佑斗に教えてもらってください。』
――何、殊勝なことを。
「この続きは」
「えっ」
「まだ続きがあるんだろう。それを見るにはどうするんだ」
佑斗は渋々画面に触れて次の分を表示させた。
『この子は大人しい子で、ほとんど手が掛からないはずです。しばらくの間、よろしくお願いします。泰子』
健一はため息を吐いた。
――手が掛からないだと。犬や猫じゃあるまいし。
佑斗が読ませたくなかったはずだ。俺はスマートフォンを佑斗に返しながら、
「いいか、佑斗。子どもってのは、手が掛かるもんだ。昔からそう決まってる。お前のお母さんもそうだった」
佑斗の口元が緩む。
「そもそも子どもの時に手が掛からないヤツってのは、大人になってから、どうしようもなく手が掛かるガキになるんだ。そんな大人を許容する余裕を、今の社会は持っていない」
「はい」
佑斗の声が引き締まる。
「だから親には、いっぱい心配や苦労を掛けてもいいんだ。それを引き受けるのが、親の役割みたいなものだからな。親は、どんなことがあっても、周りがみんな敵になっても、お前の味方でいてくれる。お前の側にいてくれる。だから親の信頼だけは裏切るな。いいな」
「はいっ」
「じゃあ、ルールその五だ。ここにいる間、俺はお前を一人前の男として付き合う。特別扱いはしない。だから基本的に、自分のことは自分でやるんだ。まあ体力的に無理なことだけは俺が代わるが、基本は基本だ」
「はい」
――どうも俺が言うと命令口調になってしまうなあ。
健一は頭を掻いた。
健一は説教や講釈を垂れるつもりはないのだが、「はいっ」という小気味いい返事を聞いているとついその気になってしまう。
健一が中学生の男子と話すのは、自分が中学生だった頃以来だ。しかも健一は小さい頃から大勢で連むのが苦手だった。しかも積極的に自分から話しかけて友人を作るような人間でもなかった。独りでいることが苦ではなかった。いやむしろその方が心地よかった。だからそれでも何となく健一の周りにいて、何となく健一に話しかけてくれて、何となく距離を置いてくれて、そんな空気みたいな友達――そんな人たちを友人と呼べるなら――しかいなかった。彼らは今でも適度な距離を保ちながら、友達付き合いをしてくれる。今尚、濃密過ぎる関係は時として息苦しさを感じる。
「ルールその六だ。自分の母親をお母さんとかママと呼ぶのはよせ。人前では『母』と言えるのが大人だ」
「はい」
「あのぅ、僕はどう呼べばいいですか?」
「俺のことか?」
「はい。やはり人前では、祖父と言った方がいいですか?」
「まあ、そうなるな。祖父らしいことは、何もしていないがな。お前に任せるよ」
「じゃあ、皆さんみたいにケンさんって呼んでもいいですか?」
「好きにするさ」
「テレビはないんですか?」
暇を持て余した佑斗が聞く。
「あれは想像力をだめにするから、見ない。見ないから、置いていない」
健一はきっぱりと答える。
「テレビは基本、視聴者が画面を見ることで成り立つ。だから何か伝えようと思ったら、絶対にそれを画面で見せなくてはならん。画面に映ったらその時点で一意的になってしまう。簡単な例で言えば、『りんご』だったら、赤いのもあるが、黄色いのもある。小ぶりのもあれば、大きなのもある。我々は色んな『りんご』を想像することができる。また『りんご』『リンゴ』『林檎』と文字を違えるだけでも、受ける感じが違う。しかし、画面に表示されたら色や形、大きさまでもが決まってしまって、想像する余地は全くない。そういうことだ。分かるか?」
佑斗も確かに一理あると思う。
だが母親や祖母と一緒にいると息が詰まりそうになる時がある。そんな時テレビでも点いていると、番組の内容なんか関係なく、見ている振りでもしていれば、そんな思いはしなくて済んだ。
「はい……」
佑斗ががっかり首を落とすと、
「でもラジオならあるぞ」
と言う。
「何ですか、それ?」
「お前、ラジオを知らんのか。そうか。俺が中学高校の頃は、よくラジオの深夜放送を聴いたものだがなあ。夕飯食べたらすぐ寝て、深夜一時頃にやおら起き出して、ラジオに耳を傾けるんだ。結構個性的なパーソナリティがいて、俺達の中でも贔屓にするのが違ったりしてな。番組では、リスナーからのはがきを読んだり、音楽を掛けたり、悩みの相談に乗ったり。当時回りの奴らも、寝不足の目を真っ赤にして、学校に来てたものさ」
佑斗には何のことだか分からない。途方に暮れていると、健一がそれに気づいて、
「まあ、いい。とにかくテレビはない。それより本を読め。その本棚のは勝手に読んでいいぞ。やることがなかったら風呂に入って、さっさと寝ろ。洗濯物は、脱衣場の籠に入れておくこと」
佑斗は風呂から上がってベッドに潜り込んだものの、こんな早い時間に寝たことはないからなかなか寝付けない。何もないよりましだ。仕方なく佑斗はラジオを借りた。
「俺はもう寝るぞ。お前もほどほどにな。夜更かししてもいいが、明日の朝は六時起きだぞ」
<続く>
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