【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(4/15)
4.変化
結婚して半年ほど経った頃、結婚前に応募した小説が大賞に選ばれた。
中堅どころの出版社が主催したものだ。幸い本もそこそこに売れ、それを機に何とかアルバイトをせずに食えるようになり、執筆に専念できるようになった。君は幸福の女神だった。
「君のお陰だよ」
「そんなことないよ。誠君の努力が実ったんだよ」
君は頭を振る。
「もう少し広い所に引っ越そうか」
「まだ、一回大賞をもらっただけじゃない。もっと生活に余裕が出来てからでいいわ。まずは『勝って兜の緒を締めよ』よ」
君の倹約家ぶりは筋金入りだった。
結婚して一年経った頃。
帰りを待ちわびていた君は、私の手を取って食卓の椅子に座らせた。君は向かいの席に着き、少し頬を染めながら伏せ目がちで、
「来年にはもう一人家族が増えるの」
と告げた。
「この間から具合が悪いって言ってたでしょう。今日病院に行ってきたの。もう三ヶ月目に入っているんだって」
と続けた。
えっ。意味は理解できたが、心がついて行けない。私はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「分かってる? 子どもが出来たのよ。嬉しくないの?」
咄嗟のことで二の句が継げないでいる私に、君は少し苛立ちを見せる。
いや、そうじゃない。
私はかむりを振りながら、席を立って、君を後ろから抱きしめた。ありがとうって繰り返し耳元で囁くと、なぜか涙が止まらなくなった。
結婚して、一人ぼっちだった私に小さな家族ができた。そしてその輪が更にもう一つ大きくなる。
「いやねえ、泣かないでよ。おめでたいことなのよ」
君は笑いながら、私以上に頬を濡らしていた。
その夜から、まだ見ぬ我が子が話題の中心になった。
「あなたは男の子がほしいんでしょう。でも私は女の子がいいな」
「どちらでもいいよ、五体満足で元気な子だったら」
「名前はあなたが考えてね。幾つか候補から、私が選ぶからね」
君は検診でくれた赤ちゃんの超音波画像を示しながら、
「ほらここが頭で、これが手と足ね。こんなに小さいんだけど、ちゃんと心臓の音がするのよ」
と説明するが、私には水面に浮かぶ葉っぱの影ぐらいにしか見えなかった。
「もう少し大きくなると性別もわかるそうよ。知りたい?」
「いいや。いいよ」
君のお腹が少しずつ大きくなるにつれて、私の中で将来への展望も広がっていく。
「歩けるようになったら公園まで散歩に行って駆けっこかな。幼稚園に行くようになったら、サッカー教室に入れて、一緒に野球をやって。それから泳ぎも教えなくちゃな」
私が指折り数えると、
「気が早いわねぇ。そんなに一杯できないわよ。それに、もう男の子だって決めつけているでしょう」
と君は呆れた顔を見せた。
「安定期に入ったら、君のご両親や友達呼んでパーティでも開きたいな。みんな、驚くだろうな」
「そうだね。披露宴もやらなかったから、それぐらいはやりたいわね」
暫くして君は会社を辞めた。生まれてくる子のために色々やりたいことがあるのと笑った。
それにしても、あの頃の君はよく笑った。その屈託のなさは、後日の不例なぞ予見させるはずもなかった。
しかし幸せの日々はそう長くは続かなかった。
それから二ヶ月後、君は外出先で激しい腹痛を訴え、病院に緊急搬送された。急を聞いて病院に駆けつけた私に、担当医師は「残念ながら……」と硬い表情で、流産だったことを告げた。そして呆然としている私に、もう子どもは望めないと追い討ちを掛けた。
「赤ちゃん、いなくなっちゃった。ごめんね」
既に聞いていた君は、淡々とした口調で謝った。ベッドの側で立ち尽くす私は、君に掛ける言葉を持っていなかった。私は急にしぼんでしまった君のお腹を見ていた。君は、赤ちゃんと一緒に心まで体から流れ出てしまったような、そんな顔をしていた。
「どうして私なのかな。どうして私だけが貧乏くじ引かされるのかな。神様って、本当に不公平だよね」
絞りきったはずの君の目から一筋の涙が流れた。
別に君が悪いわけじゃない。誰かが悪いわけでもない。そういう巡り合わせだったんだ。だがそんなこと言っても何の慰めにもならない。
私は跪いて君の手を取り、自分の頬に押し付け泣いた。
喜びの絶頂から悲しみのどん底へ。私達は大時化の海に為す術なく翻弄される小舟のようだった。順風満帆に思えた二人の人生に、こんな残酷な未来が待っていたなんて想像だにしなかった。
私が描いていた家族団欒という絵が壊れ始めた瞬間だった。それでも私は君と二人で寄り添い歩く人生を望んだ。
君から屈託のない笑みが消えた日だった。
<続く……>