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【ショート・ショート】とかく妻というもの

 その日、私はしこたまんだ。
 上司からの急な誘いだった。妻への連絡が気になったが、酔うに連れて忘れてしまった。

 ご機嫌でタクシーを降りた頃には、時計の針はうに深夜一時を回っていた。
 高台にある住宅街。辺りはしんと寝静まっている。我が家の明かりもすっかり落ちて、鼻歌と靴音がやけに響く。

 中腰で街灯を頼りにドアの鍵穴をまさぐっていると、居間に続き玄関の灯りが点いた。緩慢な動作で見上げる。
 あれっ、まだ起きていたのか。
 思う間もなく解錠する音がして、いきなりドアが押し開けられた。とっのことに私は避けることもできず、ドアの角で額をしたたか打って、そのまま尻餅をついてしまった。

 うっ。
 私は額を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
「痛いじゃないか」
 妻の姿はなかった。
「おい、何だよ!」
 声を荒げて追うと、妻は上がりかまちで三つ指を付いて待っていた。

「お帰りなさいませ。遅くまで、お仕事、ご苦労様でございました」
 妻はしおらしく頭を下げた。気勢をがれた私は、挙げた手の下ろし場所を失った。
「うん。ああ、いや……。すまん遅くなった」
 威厳を込めようとするのだが、呂律ろれつが回らず、もごもごした声になってしまった。額がずきずき痛む。
 妻は気にする風もなく、「あなた、お食事は?」と聞く。
「いや、すまん。済ませてきた」
「じゃあ、お風呂になさいますか?」
「ああ、そうしよう」

 売り言葉に、買い言葉。頭ごなしに責められれば、自分が悪いと分かっていても、つい声を荒げてしまうのは人の常。
 だが、今夜の妻は泥酔して帰宅したことを皮肉るでも、なじるでもない。淡々とした口調で妙に丁寧な言い方なのが、逆に不気味だ。私はそわそわと落ち着かない。つくづく自分が小心者だと身につまされる瞬間である。


 このままでは、完全に妻のペースだ。先に何か手を打たなければと思うが、焦れば焦るほどめいていした頭は思うように動いてはくれない。

 上着を脱いで妻に渡す。妻は側にかしずいて丁寧にハンガーに掛ける。
 重い空気が部屋に漂っている。私は息が詰まってきた。
 何とかこの状況を打開せねば。
「今日は部長からの急な誘いで……。連絡できずにすまない。今度からは必ず電話するよ」
「……」

「明日からもっと早く帰るようにするよ」
 無言の圧力に押され、気持ちが後ずさる。泥沼に片足を突っ込んだ気がする。
「……」

「そうだ、今度食事にでも行かないか」
 いや自ら泥沼にまりに行ったようなものだ。
「……」

「ほら、言ってたじゃないか。この間、駅前通りに洒落しゃれたイタリアンレストランがオープンしたって」
 そして足掻あがけば足掻くほどのっぴきならない状態に陥って……。
「その向かいにジュエリーのお店もできたのよ」

 ついに私は沼底に沈んだ。


 ものの本に依れば、ひざまずいた女の象形が「女」だそうだ。
 かつて山田風太郎氏は、時代小説「忍法帖シリーズ」の中で女忍者のことを「くの一」と書いた。女という漢字を分解すると「く」「ノ」「一」となるからである。
 「く」が跪いた体とすれば、「ノ」や「一」はふところに忍ばせた短刀か、はたまた背中に隠し持った短槍といったところか。

 そして女は結婚すれば妻になる。
 漢和辞典にると、「妻」という字は髪飾りを整えた婦人の形を表し、髪に三本のかんざしを加えて盛装した姿で、婚儀のときの儀容をいう、とある。※1
 だがきらびやかな簪だって使いようによっては立派な武器になる。

 女は結婚して、更に一つ武器を手に入れるのだ。

 一本目は、散々怒った挙げ句に泣くという手。彼女は理性と感情を縦横無尽に操って、私を結婚に踏み切らせた。
 二本目には、つい先日高い授業料を支払った。やっとこぶは引いたものの、まだうっすらと額に線が残っている。


 さて、残るもう一本は……。

 未だ分からない。


※1:出典 平凡社「普及版 字通」



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来戸 廉
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