【連載小説】10 days (2)
2.一日目(土曜日)
2.1
窓から射す日が暑さを増してきた。植村佑斗は後部座席に転がっていた。
佑斗は朝早く、まだ暗いうちに母親の泰子に起こされて車に乗せられた。家を出て、途中から高速道路に乗ったのまでは覚えているが、いつ降りたのか記憶がない。腕時計を見ると、かれこれ二時間になろうとしている。空は段々明るくなった。今どこを走っているのかわからないが、開け放した窓から潮の匂いがしている。
「髪が乱れるから、窓を閉めて」
泰子が神経質そうな声を上げる。
「ねえ、聞いてる?」
佑斗が黙っていると、
「ん、もう」
とハンドルを叩く。この三つの小言がセットになった泰子の行動は、ここ小一時間でもう何度か繰り返されている。佑斗はまだ眠くて、その都度「ああ」とか「うん」とか空返事していたら、そのうち諦めたようだ。
泰子は、その間にも、肩と顎で器用に携帯電話を挟んで、何カ所かに仕事の電話を入れた。泰子の話は整然としていて、無駄がなく、命令調だ。「朝早くにごめんね。昨日伝え忘れたことがあって……」と頭に付けているが、起こされた部下はいい迷惑だろうと佑斗は同情する。ただ話が高じてくると、手振りを加えながら話すので、携帯電話が落ちそうになる。その度ハンドルから手を離して、携帯を掴むので、何とも危なっかしい。
聞くともなく耳に入ってきた情報を繋ぎ合わせて判断すると、泰子はまた仕事でアメリカに行くようだ。その事について、泰子から何の説明もないし、佑斗に話しても仕方ないと思っているのか、ともあれ自分から尋ねるつもりもない。はっきりしているのは、泰子がどこに向かっているにせよ、出張の間自分は誰かに預けられると言うことで、それは今回に限り祖母以外の誰かということだ。
「ねえ、そのピコピコ、ピコピコって音、何とかならない? 五月蝿いんだけど」
泰子はちらっと振り向いて、注意した。やっと目覚めた佑斗は暇を持て余してゲーム機を操作していた。これは別にどうしても欲しかったわけではないが、泰子がいつだったか約束を守れなかった埋め合わせに買ってくれたものだ。
「音量、小さくしてるよ」
「そういう問題じゃないの。その音が耳に付くのよ」
「だって、まだ大分掛かるんでしょう? ほかにやることないんだから仕方ないじゃない」
と佑斗が言うと、泰子は少し驚いたような顔をしたが、何も言わず前を向いた。泰子から注意されると、佑斗は大抵素直に従うのが常だった。しかし流石の佑斗も、行き先さえ分からないドライブにいい加減うんざりしてきており、おまけに睡眠が乱されたことで、少し虫の居所が悪かった。皮肉を言ったり口答えをした積もりはなかったが、佑斗の口調が強かったから、泰子にはそう聞こえたのかも知れない。
昨夜、珍しく早い時間に帰宅した泰子は、テーブル上に散らかしっぱなしになっているコンビニ弁当の残滓を手で脇に押しやって、できた場所にバッグを置きながら、
「寝る前に、十日間ほど外泊する準備をしておいて」
と言った。どっしりと体に疲れを溜め込んでいる声だ。
佑斗は明日から夏休みで、クラスの村木裕也と出掛けるつもりだった。午前中は近くの市民プールに行き、ファストフード店で昼食を済ませて、ゲーセンで夕方まで遊ぼうと考えていた。それが全て狂った。
だが佑斗は不平を言うでもなく、
「うん。わかった」
とだけ答えた。今回は少し長いなと思ったが、佑斗は理由を問うことをしない。泰子は、ふうと小さく溜息を吐いて、テーブルの上のゴミを分別してそれぞれのゴミ箱に捨てた。佑斗は村木に明日の予定の中止のメールを打った。
ものごころ付いた頃から、泰子と二人暮らし。それが普通だと思っていた。保育園に預けられるようになって、父親がいないことが普通じゃないことを知ったが、それを別段寂しいと思ったことはなかった。それについて泰子に尋ねたこともない。
佑斗が小さい頃、泰子が仕事に出る時は保育所に預けられ、迎えまでの時間をそこで過ごした。
そこでは、我が儘を言わず、泣き叫ばず、聞き分けの良い子だけが、保育士に可愛がられることを本能的に、かつ経験的に知った。一旦保育士に嫌われると、おやつがもらえないのはまだ良い方で、保育士の気分次第で酷い扱いを受けることがある。佑斗はそんな子をよく目にした。だから寂しくても、心細くても、じっと我慢した。あまりにぐずっていると、実の母親でも機嫌が悪い時には手を上げることもある。ましてや保育士は赤の他人である。いち早く大人の性格を見抜き、その時の機嫌を察し、それに合わせて自分を演じ分ける。悲しいかな、そんな術を佑斗はそこで身につけた。
「本当に聞き分けの良いお子さんで……」
「本当に大人しいお子さんで……」
泰子は、そんな回りからの評判を単純に喜ぶことはなかったが、悪い気はしなかっただろう。佑斗もそれを肌で感じるから、更に上手く演じようと思った。
佑斗とて母親に甘えたいという気持ちがなかったわけではない。一緒に遊んだり、どこかへ出掛けたりしたかった。しかし泰子の仕事の都合で、そんな約束は何度も延期され、終いには忘れられた。期待した分、失望も大きい。そんなことが何度か繰り返されるうち、何も期待しない、誰にも甘えない、そんな癖が身についていた。そして、いつしかそれが習い性になって、今の佑斗の性格の大半を形作っている。
ゲームにも飽きてウトウトしていたらしい。上体を起こして外を見ると、車は海岸線に沿うように走っている。泰子はまた電話を掛けていた。先ほどとは違う相手のようだ。声の感じでわかる。
「……。ねえ、お願い」
佑斗は驚いた。母がそんな縋るような切ない言い方をするのを初めて聞いた。そして間髪入れず「ありがとう。じゃあね」と言うと、何事もなかったように電話を切った。ハンドバッグに電話を仕舞う泰子と目が合ったが、何か言われる前に佑斗は顔を伏せた。
母も本当に誰かにお願いすることがあるんだ。佑斗は初めて知った。
泰子の佑斗への『お願い』は、すなわち命令だった。
「お願いだから、静かにして」「お願いだから、言うことを聞いて」「お願いだから……」
いつもは命令通りに動くロボットは、お願いされる前に再び寝転がった。
顔に射す日がまぶしくて体の向きを変えようとした時だった。
「佑斗、起きあがって。もう直ぐ着くわよ」
泰子の声が少し強張っていた。
「これからどこに連れて行かれるの?」
佑斗は、どうでもよかったが一応聞いてみた。
「おじいちゃんの所よ」
「えっ」
もちろん『おじいちゃん』や『おばあちゃん』という言葉もその意味も知っている。クラスメイトの中には多くないが祖父母と一緒に住んでいる子もいるし、夏休みに田舎のおじいちゃんの家に遊びに行くと、誰かが話しているのを聞いたこともある。しかし佑斗にとっては、これまで写真でさえ見たことがない存在で、父親同様いないものだと思っていたから、ことさら泰子に尋ねたこともなかった。
ものごころ付いた頃から、佑斗の周りの大人は泰子とその友人達が数名だけだった。幼稚園や学校の先生は、佑斗が考える大人とはちょっと違う存在だった。
佑斗が小学三年生の時、さらに大人が一人増えた。それが『おばあちゃん』だった。それは、泰子が仕事で一週間ほど家を空けなくてはならなくなった時だ。その時初めて、佑斗の前におばあちゃんが出現した。まさに『出現』と言った方が、その時の佑斗の気持ちに一番近いと思う。
ともあれ佑斗は、泰子の留守中、おばあちゃんに預けられることになった。泰子は、何の説明もせず祖母の家に連れて行き、その場で「私の母、つまりあなたのおばあちゃんよ」と紹介した。祖母は田原美鈴と言った。美鈴の家は自宅よりも学校に近くて、通学には便利だった。美鈴はとにかくお喋りで世話好きな人だった。佑斗が聞いていようがいまいが関係なく、何かと話掛けてくる。美鈴の一日の行動や友人との話を聞かされても退屈なだけだ。「お腹は空かないか」と一時間おきに飲み物や菓子類を勧めてくるのには閉口した。
しかし美鈴の佑斗に対する探求心は凄かった。美鈴は、佑斗のことを全て知りたいと欲したようだ。好きな物、遊びのこと、友達のこと、学校のこと、勉強のこと、などなど……。とにかくこれまでの空白を埋めるように何でも尋ねてきた。佑斗も、最初のうちはそんな美鈴の気持ちを察して丁寧に受け答えしていたが、一ヶ月やそこらで学校生活や家の暮らしに変化があるはずもなく、行く度に同じような事を聞かれ、佑斗も話すのに疲れてきた。そのうち「うん」とか「ううん」で済むことに答えるだけになり、長い文章にして説明しなくてはならない時は黙り込むようになった。とにかく面倒だった。
――そんなこと知ってどうするの? 何かやってくれるの?
ついつい、そう思ってしまう。ある時を境に美鈴は「変な子ね」と言ったきり、話掛けてこなくなった。佑斗はほっとした。
それでも佑斗は祖母の家に行くことを、少し心待ちにする気持ちもあった。なぜなら保育園や幼稚園と違って、いい子ぶらなくても怒られることはなく、決まった時間に食事の用意をしてくれて、その上おやつも出た。時には小遣いもくれた。それに何時間ゲームをやっても文句も言われない。それが佑斗のおばあちゃん像だった。
それが今度はおじいちゃんだ。もちろん『おばあちゃん』がいるからには『おじいちゃん』もいるだろうことは容易に想像できたが、佑斗はあえて泰子に聞くことはなかった。
泰子は佑斗が黙っているので繰り返した。
「何驚いてるの。あなたのおじいちゃんの所よ。私の父といったらわかる?」
うん。音になるかならないかぐらいの声量で佑斗が言うと、泰子は「変な子ねぇ」と呟いた。
――おばあちゃんと同じ調子だ。
佑斗の脳裏に美鈴の呆れきった顔が浮かんだ。
車は海岸沿いの道路とほぼ直角に山の方に向かう道へ右折した。ほぼ一直線の緩やかな上り道で、エンジンがうなりを上げた。途中に三カ所ある踊り場みたいな平らな部分を過ぎ、直線の終わり、大きく左に曲がるカーブの辺りで、泰子は路肩に寄せて車を止めた。
「さあ着いたわよ」
泰子は佑斗を促すと、トランクを開けて車を降りた。体はまだ横になっていたいようで、佑斗は車から降りると少しふらっとした。
そこは海を望む大きなガラス窓が印象的な家だった。
<続く>