【ショート・ショート】衣替え
「もう大分暖かくなってきたから、そろそろ衣替えしなくちゃね」
縁側の日差しに包まれるとリンネルのシャツでは、ややもすればうっすら汗ばむほどだ。妻は、箪笥から冬物を引っぱり出して、クリーニングに出す物を選り分けている。
「それ、好きだったな」
濃い萌葱色のセーター。二十年も前に買ったんだが、未だに古ぼけた感じがしない。
「あなたのお気に入りですものね」
「ああ。多少値が張っても、良い物はやっぱり良いな。こうして大事に手入れしていれば、愛着に応えてくれる。だから、長い目で見れば、決して高いわけじゃない」
「ほら、又始まった。あなたの長い目。それで言いくるめられて、何度財布の紐を緩めたことか」
「そりゃあ、いくつか無駄な買い物もあったさ。でもそうやって失敗をしながら、人間は学んでいくこともあるんだから」
「まあ、物は言い様ね。そうそう、冴子さん、困ってたわよ。孝夫もそうだって」
嫁も同じ愚痴をこぼしているらしい。
「そりゃあ、親子だからな。お前に似てくれれば良かったんだろうが、悪いところだけ俺の血を受け継いでしまって。まあ世の中、そんなに上手く行かないってことだな」
「でもまあ、こんなに沢山のセーターどうしましょう」
結婚してもうじき三十年になる。出会ったときは平凡な女だと思った。
美人でもないし可愛いというのでもないが、きちっとした顔立ちをしていた。ふとした時に見せるちょっとした仕草に、私は惹かれていった。
結婚を決意させたものは何だったのか、今となっては思い出せない。ただ一緒にいても飽きないだろうなと、何回目かのデートで確信したことだけは覚えている。
そして、その判断は正しかった。
長い髪を無造作に束ね、いそいそと動いている妻の襟足で後れ毛が揺れる。
――いい女だな。
今でもそう思う。人生で最良の選択だと自負している。
「明日、クリーニングに出しますよ」
「ああ。頼む」
妻はいそいそと洗濯物を大きな紙袋に詰めている。
先日、精密検査で肺に幾つかの白い影が見つかった。医者は手遅れだと言った。
未だ痛みなどの自覚症状はないが、この瞬間にも確実に病魔は私の体を蝕み続けている。
「セーターのクリーニング、無駄だったじゃないですか」
来年の今頃、私の遺影に向かって妻はそんな愚痴でも零していてくれるだろうか。
なるべく早くそうなってくれるといいなあ。