【ショート・ショート】習慣
「あっ、しまった」
妻が階段を駆け上がってきた。
「何? どうしたの?」
「ワイシャツを着る前に、ズボンをはいてしまった」
「えっ?」
妻は怪訝な顔をする。
「いつもはYシャツが先なんだ」
「何、それ。馬っ鹿じゃないの。慌ててきて損した」
そんなの、どっちが先でもいいじゃない!
妻は呆れ顔で降りていった。
でも私にすれば、会社員になってから十年一日の如く、ずっとそうしてきた。すでに習慣を超えて、生活の一部という感さえある。
改めて思い起こせば、湯船に入る時の足、体を洗う順序、身支度の順序、家を出る時の足、ずっと同じだ。
意識してやっていた訳じゃないが、気付いたときはいつもそうしていた。神経質すぎる気もするが、こればかりは性分だから仕方ない。
特に験を担ぐ方じゃないと思っていたが、何だか妙に気に掛かる。嫌なことが起こりそうな予感さえする。
今日一日、十分過ぎるほど気を付けた方がいい。
通勤には車を使っている。何と言っても交通事故が一番怖い。今日はいつにも増して細心の注意を払い、慎重に運転した。
仕事も必要以上にチェックしながらミスなく片づけた。
そして何事もなく定時を迎えた。
気を張りつめ通しだったせいか、肩が凝って目の奥が痛んだが、帰途も気を緩めることはなかった。
帰宅して開口一番、妻に声を掛けた。
「今日、何か変わったことはなかったか」
「別に、これと言ってないわよ」
「子供達もか」
「いつもと同じよ」
「そうか。それならいいんだ」
やっと肩の力を抜いた。
俺が習慣をちょっと変えたくらいで、何か起きると考える方がおかしい。疲れているのかな。
階段に足を掛けた時、背中から声が掛かった。
「あっ、そう。一つあった」
「何だ? どうした?」
私は聞き質した。
「朝、足の小指をぶつけちゃって。思わずうずくまったわ」
「何だ、そんなことか」
肩透かしもいいところだ。
「いつものことじゃないか」
「今日のは違うわ。あなたが、朝の忙しい時に大声なんか出すからよ。ホント、涙が出るくらい痛かったんだから!」
思わぬところで、小事が起きていたようだ。