【短編】鉛筆
私が小学五年のことだ。
コトン。授業中に舟を漕いでいたらしい。隣席の櫻井大介が僕の左肘を小突いた。その反動でぴくんと指が動いた拍子に鉛筆が転がって、机の上から床に落ちた。
ちっ。取ろうと伸ばした僕の指先が、通路を挟んだ隣席の川島泰代の指に触れた。拾ってくれる所だったようだ。
あっ。慌ててお互いに手を引っ込めて、鉛筆だけが置き去りになる。僕は再び手を伸ばして鉛筆を拾った後、「ごめん」と小さな声で言った。泰代はうつむいたまま微かに首を振った。
鉛筆の芯は折れていた。予備は筆箱の中に一本あるだけ。
――次の休み時間中に削らなくては。
僕はそう思いながら、ズボンの上からポケットに入れた『肥後守』を確かめた。
その頃、『肥後守』は危険だというので学校に持ってくることは禁止されていた。何でも昨年、五年生の何某がふざけていて、『肥後守』で指を切ったことがあったらしい。その生徒の母親が大騒ぎしたものだから、校長が早々に校内での使用を禁止したのだった。
祖父は危ないからと何から何まで禁止にする今どきの風潮が気に入らないらしい。祖父は、「子どもは小さな怪我をしながら危険を学んでいくものだ」「刃物は使い方を誤らなければ、めったに怪我なんかしないんだ。親や先生がきちんと教えないまま、子ども達が生半可な使い方をするから、怪我したり傷つけたりするんだ」と言う。
休み時間、僕が教室と植え込みの間に身を潜めて鉛筆を削っていると、頭上から声がした。
「また、こそこそやってる」
僕は咄嗟に体の陰に隠して顔を上げる。泰代が立っていた。
「うるさいな。あっちに行けよ」
僕は邪慳にするが、泰代は気にする様子もない。
「さっき、寝てたでしょう」
僕は無視する。
「早くしないと、他の誰かに見つかっちゃうわよ」
泰代が僕の横に立って目隠しになる。
「ヒロって、削るの上手いよね」
僕は黙ってせっせと手を動かす。僕は、少しずつ削っていき、鉛筆削りを使ったのかと思わせるほどきれいな円錐形に仕上げた。
「削り方、お父さんが教えてくれたの?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
泰代に悪気はないことはわかっているが、ついぞんざいな口調になる。
「ごめん」
「いや、いいよ」
泰代とは幼なじみだった。家も近い。両親から僕の両親の離婚のことは聞いているのだろうが、ことさら私に気を遣ったりしない。その点、気が楽だった。
■
私は大学卒業後、家の近くの設計事務所に就職した。
二年目の秋のことだった。
「林さん、電話っ」
事務員の広田が呼ぶ。
「杉田さんって、女の人から」
名前に心当たりがない。広田は電話を保留にせず、受話器を手で押さえたまま私を待っている。
「若い女の人よ。もう、林さんも隅に置けないわね」
「そんなんじゃないですよ」
広田の冗談とも探りともつかない言葉を受け流しながら、私は受話器を受け取る。広田はこの部署で一番口さがない女性。しかも地獄耳の持ち主だ。対応には人一倍気を遣う。会話が聞こえないほど十分に広田が離れたのを確認してから、電話に出た。
「もしもし、お電話変わりました。林ですが」
「宏典さんね。仕事中に、ご免なさいね。初めまして、私、あなたのお父さんの妻でした晴美と言います」
迂闊だった。私は父の旧姓を忘れていた。それも仕方ないことだ。十五年以上前のことだから。
父と母は、私が小学三年の時離婚した。私が物心付いた頃から、祖父と父の間で確執があったのは、子どもながらにもわかった。挙げ句、養子だった父が家を出て、祖父と母との三人暮らしが始まった。
「お父さんに、一緒に来るかと誘われたら、行った?」
いつだったか母が尋ねたことがある。
「うーん。わからないよ。行ったかも知れないし、ためらったかも知れないし」
その時私はどっちつかずの答えをした。
結局のところ、父は一緒に暮らそうとは言わなかったし、私は祖父の言葉に従い、母の元に残る道を選択した。その時の私は、母が好きとか父が好きとか然程関係なく、今の自分の生活に余り変化がない方を選んだだけだった。父は、私が残ると告げても、反対めいたことは何も言わなかった。
「そうか、その方が良いかもな」
父は、いかにも無念だというような体で、諦めたような半分ほっとしたような、何とも表現できない顔をした。
何年も前のことなのに、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきて、私は戸惑いを覚えた。
――今頃、何の用だろうか。
咄嗟に面倒なことに巻き込まれるのはご免だと思った。私が黙っていると
「実は、六月の初めに杉田が亡くなりまして……」
私は、女の人が父を自分の夫として姓で呼ぶのを聞いて、少し奇異な感じを持った。晴美は、そんな私の当惑をよそに、電話した経緯を滔滔と話し始めた。
「すみません。仕事中なので、手短にお願いします。それで私に用というのは?」
私は晴美の話を遮った。
「あら、私ったら。いつもあなたの話を聞かされていたものだから、つい調子に乗ってしまってつまらない話をしてしまって。ご免なさいね」
こほん。晴美は咳払いを一つして、口調を改めた。
「実は、杉田の遺品のことでご相談がありまして……」
「いえ、父とは十五年も音信不通でした。今さら遺産と言われても、私はいりません」
私はきっぱりと相続を放棄した。自分が発した声の大きさに驚いて、私は回りに目をやった。広田の背中がぴくっと動いたのが見えた。ちっ、聞かれてしまった。面倒だな。私は心の中で舌を打った。
しばらく沈黙があって、晴美の声はさらに事務的になった。
「わかりました。遺産に関しては、そのようにさせて頂きます」
ただ、遺品の中に処分する前に見てもらいたい物があると言う。何かと尋ねたが、それには答えず、ただ見て頂ければわかりますと繰り返すばかりだった。私は次の日曜日に伺う約束をして、受話器を置いた。
その時になって、父の死因さえ尋ねなかったことに気づいた。
日曜日。朝からどんよりとした雲が空を覆い、湿り気を帯びた空気が肌に纏わり付いた。晴美から聞いた住所は、海辺の小さな町だった。平地部が少ないこの町は、幾多の細い坂道が生活道路として縦横無尽に走っている。その一つに面した古ぼけたアパートの一室だった。ドアに『杉田』の表札がある。ノックに答えて出てきた晴美は、中年の見るからに幸の薄そうな女性だった。
「ここ、分かり難かったでしょう」
1LDKの狭い部屋だった。
白い布を掛けた台の上に、位牌と骨壺が置かれていた。七七忌の法要はすでに済ませたと言う。
「骨は海に流してくれって遺言だったけど、そう言われてもねえ……」
落ち着いたら自分の田舎に墓を建てて納骨すると続けた。
「よく似ているわ。あの人が話していた通りの人。いつもあなたのこと聞かされていたから、初めて会った気がしないのね」
「でも電話でも話した通り、もう十五年以上会っていないんですよ」
「でも目元に面影があるのよ」
晴美は目を細める。
「ずっと一つ屋根の下に住んでいたけど、ずっと籍は入れてなかったの。あの人、いつもすまないって謝っていたわ」
晴美は目頭を押さえた。震える細い肩を見つめながら、
「何だったんですか?」
と尋ねた。
「えっ、何が?」
「死因です。病気だったんですか?」
「胃ガンでした。告知を受けた時、結婚しようって言ってくれて……」
「迷惑じゃ、なかったんですか?」
「いいえ、ちっとも。私、嬉しかった。だって妻として看病できるんですもの」
「父のこと、話してもらえませんか?」
「えっ」
「父とは小学三年の時別れたきりですから、ほとんど思い出らしいものがないんです」
父は離婚と同時に祖父の会社を辞め、この町の小さな設計事務所に職を得たらしい。晴美とはそこで知り合ったと言う。
「無口で、真面目な人でした」
時折思い出したように笑う晴美の目が潤む。
話を聞いていて、何もかも母とは真逆の女性だという気がしてきた。だから父が一緒に暮らす女性として選んだのだろうという気がした。
「あのぅ、遺産のこと、すみません。正直、助かりました。お恥ずかしい話ですが、ご覧の通りぎりぎりの生活で、あの人の生命保険金だけが頼りだったんです」
父は、私が大学を卒業するまで養育費を送り続けた。祖父はいらないと言ったが、それは律儀にも毎月欠かさず振り込まれた。従って、父の生活に余裕があるはずがない。
愛情と打算。人は霞を食って生きてはいけない。包み隠さず全てさらけ出す女に好感を持った。
「見てもらいたかったのは、これです」
差し出された晴美の手のひらには、鉛筆が二本あった。それらを取り上げる。見覚えがあった。
「覚えてます。鉛筆の削り方を教えてくれたのは、父ですから」
そうだった。『肥後守』の使い方を教えてくれたのは父だった。
機械技術者だった父の鉛筆の削り方には特徴があった。まず軸木だけを削り取り、芯を少し長めに剥き出しにする。それから、その芯を両方から削って平べったくする。その時、厚みを均等にするのがなかなか難しいのだそうだ。「どうして、そんな変な削り方をするの」と尋ねたことを思い出した。
父は、その時、「こうすると製図する時、芯がすり減っても線の太さが変わらないんだ。これが細線用、それが太線用だ」と教えてくれた。
「製図用紙に鉛筆を滑らせる。鉛筆が描く線が図面になる。それらから部品が作られ、それらを組み立てて、一台の機械が造られるんだ。すごいことだと思わないか」
そんなことを、年端のいかない私に、父は熱く語ったものだ。
「宏典さんも、設計事務所に勤めていらっしゃるものね」
「ええ」
私は、父の背中を追いかけたわけではないが、機械技術者の道を選んで、今の設計事務所に入った。ただもうその頃は、鉛筆で作図することはなく、パソコンの画面の中で設計するCADが主流になっていた。
だからもう先を細工した鉛筆も『肥後守』も必要ない。
「この鉛筆……」
「はい……」
「僕がもらってもいいですか?」
「はい。その積りで来て頂きました」
私は黙って晴美に頭を下げた。
「父を看取って頂きまして、ありがとうございました」
私はもう一度晴美に頭を下げた。
駅に着いた時は、もうすでに日が傾いていた。このまま真っ直ぐ家に帰りたくなかった。
誰かに会いたかった。無性に話がしたかった。話を聞いて欲しかった。ふっと泰代の顔が浮かんだ。私は泰代を近くの公園に呼び出した。
「そろそろ私のことが恋しくなったのかな?」
ベンチに座った私を見つけた泰代は、軽口を叩きながら近づいてきた。
「何よ、肩なんか落として。さては女にでも振られたかぁ?」
「今日、親父の奥さんだった人に会ってきたんだ」
「そう。『だった』って?」
「親父は二ヶ月以上前に亡くなったそうだ」
「そうだったの」
泰代はそれ以上何も言わず私の横に腰掛けた。
私は、今日のことを訥々と話す。途中から泰代は相槌も打たなくなった。黙って聞いている。時々うんうんと小さく首を振る気配を感じていた。
「これ」
私は顔を上げる。目の前で、後ろ手に差し出されたハンカチが揺れていた。泰代は、いつの間にか立ち上がり、私を背に向けていた。
「えっ」
その時になって初めて、私は涙を流していることに気づいた。何か悲しい思い出が込み上げてきたわけではない。苦しかったとか辛かったとかの記憶が溢れて来たわけでもない。明確な理由がなくても人は涙を流すものだと知った。
泰代は、私の泣いている姿が通りから見えないように、目隠しになってくれていた。
私はハンカチごと泰代の手を握りしめた。
「私たちって、嬉しい時よりも、悲しい時や苦しい時に会っている方が多いよね」
別れ際に泰代が言った。確かに僕が泰代に電話する時は、得てして落ち込んでいる時や苦悩している時が多い。
「ごめん」
「ううん、別にいいよ。ヒロが私を頼りにしてくれるのは嬉しいから」
「ごめん」
「でも、今度は嬉しいことで呼んで欲しいなあ」
次の日。
私は事務所の私の机の引き出しに、父の鉛筆と『肥後守』を仕舞い込んだ。
そして後日。
私は再び、泰代を近くの公園に呼び出した。