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【短編】電話

(3,009文字)

 カーテンの向こう側は、夜のとばりがまだ残っている。

 山崎弘美は、先程けたたましい電話の呼び鈴に起こされたばかりだ。
 この電話は、先日、田辺真一が持ち込んできた物。やたらベルの音が大きい。まだ慣れないせいか、静寂しじまを打ち破る音に心臓が飛び出しそうになる。

 どこかのこっとう屋で見つけてきた代物だそうだ。ダイヤル式の実用一点張りの無骨なデザイン。真っ赤な色が、ちょっとモダン。
 真一は、アーリーアメリカンの匂いがすると言うが、弘美の目にはどうひい目に見てもがらくたに毛が生えたぐらいにしか思えない。
 それを真一が、前のプッシュ式電話に代えて取り付けた。
 段々この部屋も真一の色で少しずつ塗られていく。それを、面倒がる私と、受け入れている私がいる。

 真一とつきあい始めて、そろそろ一年になる。
 肌を重ねる関係になっても、真一は決して泊まっていこうとはしなかった。どんなに夜遅くなっても、それは変わらなかった。
 どうしてって聞いても、笑ってまともに答えない。
 いつだったか、俺のけじめだと、はにかむように言ったことがある。
 男ってどうしてそんなややこしい理屈をこねるんだろう。弘美には、よく分からなかった。
 それでも真一は、弘美の中で自分の安らぎの空間を広げていく。同じくして、少しずつ凝った小物が増えていく。

 今日は、早い時間に出かける仕事があり、朝が弱い弘美は、真一にモーニングコールを頼んでいたのだった。
「おはよう」
 ずっしりとした存在感のある受話器から、真一の声が聞こえる。かすかなノイズが混ざった、肉声に近い響きが暖かみを感じさせる。この骨董品は貴重である。
「おはよう」
「仕事頑張れよ」
「うん。ありがとうね」
「うん、じゃあ帰ったら電話するね」

 ベッドから飛び起きると、大きく延びをした。コーヒーメーカーのスイッチを入れ、そのままバスルームに向かう。シャワーを浴びて出てくる頃にはコーヒーメーカーが湯気を上げている。
 朝食はトースト一切れに目玉焼きとコーヒー。料理とはとても言い難い。
 もし真一と朝を迎えることになったら、どうしたらいいのかしら?
 弘美の心に、ちょっと不安がよぎる。
 まあ、いいか。その時は、その時だ。さあ、仕事、仕事。


 弘美は、フリーのフォトグラファーである。
 この業界にも女性の進出がめざましく、中には名の知れた女性のフォトグラファーもいるが、未だまだ男の職場という感が強い。

 弘美は、秋村に師事していた。秋村の風景写真には定評があり、色と光にこだわった写真を特徴とする。色彩のバランスにおいても独特の世界観を持っている。
 秋村の写真を一目見て気に入った弘美は、秋村に強引に弟子入りを願い出た。最初は渋っていた秋村だったが、弘美の撮った写真を見て許した。
 秋村は、彼女の中にこの世界で十分やっていける才能と、荒削りだが物になりそうな感性を見て取ったのかも知れない。もっとも弘美の余りのしつこさにへきえきしたという噂もある。

 給料もろくに出ない使い走りから始め、撮影を手伝いながら仕事を覚えた。その間必死で師の技を盗み、ことあるごとに自分の撮った写真を見て貰った。
 最初の頃は、いちべつしただけでゴミ箱に捨てられた。一年過ぎた辺りから、一言二言か独り言めいたアドバイスがもらえた。
 入門して三年目にしてやっと芽が出た。弘美が応募した写真があるカメラ雑誌のプロの部門で大賞に選ばれたのだ。

 そして去年、五年目にしてやっと秋村から独立の許しが出た。しかし完全に独立したわけではなく、まだ秋村が回してくれる仕事にほとんど頼っている。少しずつ実績を重ね、名を売っていくしかないと思っている。たった一回大賞を取ったぐらいで、直ぐに食えるほど甘い世界ではない。


 秋村フォトスタジオに七時前に着いた。機材の用意をしていたら、少し遅れてマネージャーの松尾が顔を出した。
「おはよう、今日は現場どこだっけ」
 と言いながら、すっとお尻を触っていく。
「信州の方です」
 弘美は、何事もなかったように作業を続けた。セそれくらいで騒いでいたら、生き馬の目を抜くようなこの業界ではやっていけない。

 今回の撮影は雑誌の広告に用いる写真を撮るためのもので、機材はかなり大がかりである。ワンボックスカーに荷物を積み終えた頃、秋村が顔を出した。
「おはようございます」
「おはよう、今回のクライアントは大事なところだ。よろしく頼むよ」
「はい、承知しています」
 秋村は、おうように手を挙げて事務所に入って行った。


 中央高速道をとばして、昼前に信州の現場に着いた。休む間もなく荷物を解く。
 撮影の準備ができると、イメージ通りの風景が撮れそうな場所をじっくり捜して回った。ここには秋村の撮影の手伝いで何回か来ているため、場所はすんなりと決まった。だが、光の具合や風の具合が弘美のイメージに合わない。
 朝の風景にするか、夕闇近くのにするか、弘美はまだ迷っていた。

「お前が気に入った写真とクライアントが好む写真とは必ずしも一致しない。だから、場所や条件を色々変えて撮れるだけ撮ってこい。その中からクライアントに選んでもらうんだ」
 それが秋村の教えだ。それでも弘美は、自分の感性を中心に置く。

  初夏とはいえ、日が落ちると山はかなり冷え込む。少し早めだが、持参したキャンプ用品で、夕食の用意をする。水と食料は一週間分用意してある。
 夕食を食べ終わる頃には、辺りは薄闇に包まれていた。日が落ちると、すぐにしっこくの闇になる。針一本落ちても響くような静けさが占める世界。たまに獣が鳴く。慣れたとはいっても、まだ不安が足元から這い上がってくる。
 携帯電話はあるが、どうせこんな山奥では通じない。こんな時に限って、無性に真一の声が聞きたくなる。

 ランタンの明かりの下で、明日からの計画を練る。ラジオで明日の天気予報を確認して、一人ひざを抱えて、眠りに付いた。

 弘美は、車の中で寝泊まりしながら、朝早くポイントに出掛ける。光や風が変化し、風景がイメージと重なり合う瞬間を日が落ちるまで待ち続けた。次の日も、その次の日も。
 五日目の朝。夜明け前に目が覚めた弘美は、前日同様に機材を提げてその場所に向かった。機材が肩に食い込む。着いた時には、汗だくになっていた。
 朝日が辺りにあふれ始め、木々にまとわり付いたもやがきらきら輝いている。
 これだ。
 弘美は、カメラを取り出すと、絞りとシャッタースピードを微妙に変えながら、撮りまくった。

 事務所に寄って、秋村に写真を確認してもらった。
「うん、いいね。お疲れ」


 五日ぶりの我が家。
 風呂で垢を落として人心地ついたところで、真一に電話を入れる。
「おかえり。仕事どうだった」
「うん、うまく撮れたと思う。自信があるんだ」
「そうか、今日そっちへ行ってもいいか」
「いいよ」
「泊まってもいいか?」
「えっ……」
 弘美は、どぎまぎした。動揺が言葉に出ないかと心配した。
「……いいよ」

 真一の中で『けじめ』が付いたのだろうか。

 それより朝ご飯をどうしよう。

 弘美の頭はそのことで一杯になった。


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