【短編】終の棲家(ついのすみか)
「どうしたんだい、ぼんやりして」
憮然とした顔で縁側にしゃがみ庭を眺めている妻の背中に、私は声を掛けた。
「うん。先頃ちょっと気が滅入るようなことがあってね」
振り向くことなく妻が答える。
「珍しいね。そんなこと言うなんて」
私も、妻の横に腰をかがめる。庭の隅で灯台躑躅 が白い花を咲かせていた。いつもなら放っておいても止めどなく口が動くのに、今日はいつになく重い。
「それで?」
私は先を促した。妻はしばらく逡巡した後、おもむろに話し出した。
「この間ね、教師になって初めて受け持った生徒達がね、私が3月で定年退職したって聞いて、それに偶々タク君が帰省していたから、急遽ミエちゃんがみんなに声を掛けてくれてね。それに彼らが学んだ校舎も、老朽化で来年には取り壊されることが決まっているので、その前に集まろうってなったみたい。11名も。智恵ちゃん、淳子ちゃん、タク君、剛君、ミエちゃん、それに……」
妻は私の知らない名前を並べていく。その度に顔が浮かび思い出が蘇るらしく目を細めている。教師になって初めて受け持った生徒達ということもあり、思いも一入のようだ。
「随分経つんだろう?」
「あなたと結婚する前の年に、受け持った子ども達なの。もう40年近く前のことになるわ。今ではもう、みんな、立派なお父さんやお母さん。でも、どこかに面影が残っているの。剛君の所なんか、二人の子どもまで受け持ったわ」
「そこまでいくともう生徒と言うより、自分の孫みたいなものだね」
「そうね。本当に懐かしくてね。校舎の前で写真を撮ったり、思い出話に花を咲かせて……。楽しかったわ。でも呼び掛けが急だったから、そのうちに所用で帰る子も出て、最終的に6人になったの。だから、ミエちゃんの馴染みの喫茶店に河岸を変えたのね」
私にはまだ何が原因で妻が落ち込んだのか、先が見えてこない。同窓会自体がショックだったのではあるまい。
――長い話になりそうだな。
私は腰を下ろした。
まず結論を話して欲しい。経緯はその後ゆっくり聞かせてくれればいい。
そう何度言っても直らない。結婚当時はそれで苛立つこともあったが、今ではもう仕方ないと諦めている。
ものの本によると、これは生物学的に仕方ないことだそうだ。
男性の脳は主にひとつのことにしか集中できないが、女性の脳は複数のことを同時進行させることが得意なのだと言う。これは米国ペンシルベニア大学の研究チームが明らかにしたことで、男と女の脳の違いはまるで異なる種と言えるほどものらしい。
あるとき、会社の昼休みに女性社員達の立ち話を聞くともなく聞いていて、私は実感した。彼女達の話に結末はないのだ。終わりがないから、話がどんなに脱線しても構わない。そのうち話がまた元に戻ったり、脱線した話がそのまま本線になったりもする。そんなふうにして彼女達は何時間でも出口のない迷路みたいな話を続けられるようなのだ。
妻も教師という職業柄、理論的に話そうとするが、職を離れると基本的には同じだ。だから話があちこちに飛ぶ。
そんなことを考えながら、ここは変に合いの手を入れて話を長引かせない方がいいと思い、頷くだけに留めた。
「そこで改めてみんなの近況を聞いていたら、タク君が、ポツリと言ったの」
どうやら、そのタク君というのが、妻の気持ちを落としている原因らしい。
「卓球の ”卓” って書いて ”すぐる” って読むんだけど、みんなタク君って呼んでたわね。ちょっと変わった子でね。今でも忘れないわ。最初の授業参観の時よ。算数の問題でね、あの子、私が質問する前に先回りして答えを言うの。私、ガチガチに緊張していたから、前日練習してきた通りにしか進行できなくて、笑って誤魔化すしかなかったの」
妻の話はまた脇道にそれた。まだまだ先行きは遠い。
「へーぇ、あんたにもそんな初な頃もあったんだ」
「それはそうよ。いたずらっ子や問題児というわけじゃないんだけど、妙にませたところがあってね、あの子には色々と困らされたわ」
それから妻はタク君の逸話で幾度となく脱線を繰り返した。
その間、私は頭の中でタク君のピースを嵌め込みながら、いつ完成するか分からないジグゾーパズルを組んでいく。
そろそろ痺れが切れそうになる頃、妻の声の調子が変わった。
「それでね。どこに住んでいるのって聞いたら、神奈川県の、何という市だったか忘れちゃったけど、都心まで一時間ぐらいの所だって。だから、あらいい所じゃないのって言ったわ。そしたら、でもそこは終の棲家にはしたくないんですって言うのよ。終の棲家よ。私、愕然としてしまって次の言葉が出なかったわ」
妻がため息をつく。
「なるほどね」
やっと妻を悩ませている元凶まで辿り着いた。
「私だって、もう還暦過ぎたんだもの、そんなこと考えないわけじゃない。でもね、未だまだ若いと思う気持ちがどこかにあるの。それなのに、教え子の口から終の棲家なんて言葉を聞かされるなんて……。私、考え込んじゃった」
「終の棲家、ねぇ」
「人それぞれ人生観や時間軸も違うだろうし、死ぬのに老若の序列はないことも分かっているつもり。それでも、やっぱりねぇ……」
「うーん。……難しいね」
肩に手を掛けると、妻が手を重ねてきた。妻が振り向いて、
「だけど、あなたに話したら、少し気分が晴れたわ。さて、お茶でも入れましょうね」
と言いながら腰を上げた。
私は大学の四年間以外この地を離れたことがないから、タク君の真意のほどは分からない。だが彼の心情を慮ることはできる。
私は偶にUターンしてきた知人や友人と酒を酌み交わしながら、話を聞くことがある。
彼らが言うには、人生の半分を過ぎた辺りから、今まで思い出すことさえなかった古里が、ふっとした折に急に止めどもなく心に溢れ出すことがあるそうだ。しかも一旦芽生えた望郷の情は鎮まることなく、逆に年を取ると共に強くなっていくとも言う。
一方で、一旦その地に下ろした根は確りと大地に張り、ちょっとやそっとでは抜くことはできないことだろう。
彼の言葉は、そんな狭間で揺れる、ぎりぎりの覚悟を示したものなのかも知れない。
タク君が暮らす神奈川県、その大磯町には島崎藤村の終の棲家となった家が今も保存されている。
藤村はそれを『静の草屋』と呼んでいた。白い花が好きだった藤村の家の庭にはベニカナメや灯台躑躅 など当時のまま残っているそうだ。
藤村を敬愛していた父は、態々『藤村忌』に参列するために上京し、『静の草屋』にも立ち寄ったことを、ことある毎に自慢気に話していた。
それ故か父は家を建てる際に庭に灯台躑躅 を植えた。
それからもう既に半世紀近く。未だにこの家は家族を守ってくれている。定期的に手入れや修理はしているが、如何せん至るところが古ぼけて、あちこちにがたが来ている。だが、その一つ一つが家族と共に過ごした日々であり、思い出である。
それらが刻まれ染みたこの家で、母が逝き、父を送った。
どうやら私の終の棲家とやらもここらしい。
母に先立たれ悄愴していた父を見ていて、男は思い出だけでは生きていけない不器用な生き物だと知らされた。
――できれば妻より先に逝きたいものだ。
庭の白い花を見つめながら、そう願う。
妻の呼ぶ声が聞こえる。
「さてと」
声に出して立ち上がる。
柔らかな木漏れ日の中、庭の隅で父手作りの宍脅しがカーンと乾いた音を立てた。
<終わり>