【連載小説】10 days (3)
2.2
田原健一にとって、それは青天の霹靂だった。早朝の珍客なんて想像だにしていなかった。
ベル音が朝の静寂を引き裂き、寝室にけたたましく鳴り響く。うーっ。田原健一は、朦朧とした頭で手を伸ばし目覚まし時計を探って、停止ボタンを押す。しかし、ベル音は鳴り止まない。規則的に断続を繰り返す。
――あっ、そうだ。
昨日取り替えた電話の着信音だと気づくのに少し時間が掛かった。
受話器を取り上げると、もしもしを言う前に、着信音に負けないくらいの声が耳に飛び込んできた。
「お父さん、私よ、泰子。急な話だけど、今日から十日間ほど佑斗を預かってくれない?」
娘だった。ここ十数年、会っていない。声さえも聞いていなかったのに、こんな状態でも即座に娘だと判別できたことが恨めしい。
「あいつに頼めばいいだろう」
「あの子、お母さんだと負けちゃうのよ」
「負けちゃうって、何だよ?」
「もう、直ぐ近くまで来てるの。ねえ、お願い」
「おい、待て。いきなりそんなこと言われても、俺にも都合ってものが……」
「ありがとう。じゃあね」
「おいっ」
電話は唐突に切れた。健一は受話器を見つめる。すっかり目が覚めていた。健一は受話器を置きながら、ベルの音は調整できるのかなと、場違いのことを考えていた。
この電話は、昨日古道具屋で買ってきた古いアメリカ風の黒い無骨なそれだ。昔の映画やドラマで、ベット脇に置いてあって、よく刑事が夜中に呼び出されるシーンで見る、あれだ。リンをハンマーで叩く、アナログならではの音の響きと余韻が気に入ったのだが、映画やドラマでは電話の音を大分抑えてあることが分かった。
故障がほとんどなく、すっきりしたデザインの日本製もいいが、無骨で多少粗雑に扱っても滅多なことでは壊れそうもないところに惹かれた。デジタル回線用に改造してあると店主が話していたが、取り付けに意外と手間取り、ちゃんと繋がったか117にダイヤルして時報で確認できたのは十二時過ぎだった。ベルの音量などの設定がまだ残っていたが、それは明日やることにして、そのまま寝てしまったのが失敗だった。これほどの大きな音がするとは思いも寄らなかった。
ともあれ健一の起き掛けの頭はまだ事態を十分理解できていない。健一が決めている起床時間である六時まで、まだ三十分以上ある。しかしここで二度寝すると昼過ぎまで寝てしまいそうだ。
独り暮らしは、ややもすると時間に怠惰になりがちだ。そうならないために、健一は起床時間と就寝時間――これはほとんど守ったことがないが――を定め、大まかに一日の行動、さらに一週間の予定を決めて、それに従って過ごしている。それが『生活する』と言うことだと思っている。しかし予定を遂行できなくても何の制約も罰則もなく、咎める人もいないので、崩れ出したら止めどがないことも知っている。還暦間近になってただでさえ残り時間が少なくなってきているのに、それをだらだらとすり減らすのは、健一の性に合わない。
仕方なくベッドから出る。カーテンを開けると、明けた夏の日差しが痛いくらい射し込んでくる。窓を開けると同時に、家の前に車が止まる音がした。
――何て、娘だ。
もう少し時間のゆとりがあると思っていたが、娘の言葉に誇張はなかったようだ。パジャマのまま、と言ってもTシャツと短パンだからそうは見えないだろうが、寝癖の頭を気にしながら急いで表に出た。車の脇に男の子が立っており、泰子はトランクからせっせと荷物を下ろしながら、その子に何か話している。泰子は健一に気づくと、
「ごめんね、急にアメリカに出張しなくちゃいけなくなっちゃって。いつもなら、こんな時間にゆとりのない仕事は受けないんだけど、私の昔からのクライアントで、どうしても断れなくって。だから、その間、佑斗をお願い」
と捲し立てる。
「クライアント?」
「もうあまり飛行機の時間がないの。お願い」
「お願いって、お前」
それにしても健一の意向はまったく考慮されていない。泰子は健一と話し合う積りはないようだ。いつも既成事実を作って、認めるしかない状況で報告に来る。今回もそうだ。
「着替えはこの大きい方のバッグの中に入っているから。いい、佑斗。いい子で、おじいちゃんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
泰子は健一の言葉を無視して一方的に話を進める。健一は昔から子どもの前で言い争いをすることを嫌った。それは今も変わらない。泰子も父親のそんな性格を知った上で頼んでいる。確信犯的な行動だ。健一はおじいちゃんという呼ばれ方に違和感を覚えた。
「じゃあね。また後で、夜にでも連絡するから」
泰子は車に乗り込み、もう一度「お願い」と顔の前で手を合わせた。健一は軽く顎を引く。車が走り出した。泰子が窓から右手を出して大きく振る。
「なあ、クライアントって何だ?」
健一は小さくなっていくストップランプを見ながら呟いた。
ここまで、電話で叩き起こされてから、まだ十分も経っていない。
「さて」
健一は改めて佑斗を見る。娘に似て色白で卵形のすっきりした顔をしている。背は俺の肩に届かないから、百四十センチくらいか。父親に似ていれば背も高くすっきりした体格になるだろうが、娘に似ればそれほど伸びることはなさそうだ。
健一は佑斗の扱いに困った。大人ではなし、子供でもない。少し考えて大人として扱うことにした。
「俺のこと、覚えているか?」
と尋ねた。佑斗は黙って首を横に振る。
「まあ、最後に会ったのは、お前が生まれて直ぐの頃、しかも一回切りだから仕方ないか」
健一は着替えが入っているという大きな方の荷物を持ち、小さな方は顎でしゃくって佑斗に持つように指図した。
「朝飯は食べたのか?」
健一は歩きながら尋ねる。佑斗は何か話さなければと思うが、そう思えば思うほど言葉が何も出てこない。佑斗は黙って首を横に振る。
「お前、口が利けないのか?」
佑斗は怪訝な顔で健一を見上げる。
「お前はしゃべれないのかと聞いてる。お前の口は飾りか。そうでなかったら、ちゃんと返事しろ」
「はい」
「もう朝食は済ませたのか?」
「いいえ、まだです」
「何やってるんだ。あいつは」
健一は車が走り去った方向を睨んだ。つい口調が強くなったようだ。驚いたように佑斗が健一を見る。
「いや、お前に言ったんじゃない」
「いくつだ?」
「えっ?」
またも健一を見上げる。
「年だよ、年。いくつだ?」
「十二歳です」
「というと、中学一年生か」
「はい」
「学校はいいのか?」
「夏休みです、今日から」
「あっ、そうか」
身近に子どもがいないと、そういうことに疎くなる。健一は、佑斗を二階に案内しながら、荷物を海が望める部屋に運んだ。
「ここを使うといい。荷を解くのは後にして、まずは腹ごしらえだ」
健一は台所に下りた。今日の朝食は和食と決めていた。味噌汁を作り、既に炊きあがっているご飯をシャリ切りした。健一は一人暮らしが長いせいか実に手際がいい。佑斗が顔を出す頃には、鯵の干物も焼けていた。
「おい。テーブルを拭いてくれ」
言うと同時に、健一は絞った台布巾を投げる。慌てた佑斗はそれを落としそうになった。
「拭き終わったら、これをテーブルまで運んでくれ」
更に納豆に海苔、お新香を並べる。
「育ち盛りのお前には物足りないかも知れんが、今日はこれしかない。明日からは考えよう。遠慮しなくていいぞ。俺がお前の頃はどんぶりで三杯くらい食べてたぞ。」
佑斗は三杯お代わりし、電気炊飯器の櫃を空にした。
「ご飯は二合しか炊いていない。足らなかったら、パンでも囓ってくれ」
健一は佑斗を観察していた。好き嫌いはないようだ。箸の持ち方も文句ない。仕事で忙しく飛び回っているにしては、躾がよく行き届いていることに、健一は満足する。
ただ魚はあまり食べたことがないようだ。追々教えていこう。
「お母さんは、俺のこと何か言っていたか?」
「いいえ。車の中で『これからおじいちゃんの所に行くんだ』ってそれだけです」
健一はここ数年の一人暮らしで築いた習慣やリズムを崩す事はしたくない。
例えばそれは、将にやり始めたジグソーパズルと同じで、繋がったピースは勿論、そうでないピースもテーブルの上に広げたまま、いつでも続きができるようにしておきたいのだ。
佑斗をその中に加えることは、気ままな生活の一部に制限が掛かることもあるということだ。かと言って、佑斗を一人家に置いて一人で出掛けるわけにも行かない。それに特別秘密にしてきたわけではないが、自分の生活を間接的にせよ元妻や娘に知られるのが面白くない。佑斗の口の重さからすると自分からぺらぺら話すとは思えないが、いやはや何とも面倒なことになったものだ。
食事が終わると、健一は部屋に戻ろうとする佑斗を呼び止めた。
「なあ、お前だって、いきなり知らない所に連れてこられて、面白くないかもしれんが、俺だって、はっきり言って迷惑してるんだ。だが預かった以上は、大人としての責任がある。お前にとって口うるさいジジイかも知れんが、まあ、お前の母親が帰国するまでの辛抱だ。お互いそれまで何とか上手くやっていこう。俺も努力するから、お前もそうしろ。いいな」
――そうだ。たったの十日間じゃないか。
健一は自分に言い聞かせる。佑斗は、相変わらず何の反応も見せないまま俯いている。
「俺が言っていることは難しいか?」
佑斗は黙って首を横に振る。また元に戻ってしまった。
「返事! 声を出せ!」
健一はつい声を張り上げた。佑斗は驚いたように、
「はい。あっ、いいえ」
と顔を上げた。
「お前、『郷においては、郷に従え』って諺、知っているか?」
「いいえ」
「つまり、ここは俺の家だから、俺のルールに従えということだ。分かるか?」
佑斗は少し不平そうな顔をしたが、特に反対することはなかった。佑斗は十日間の辛抱だと割り切った。それに相手を慮って自分から行動するより、何か決め事があってそれを守る方が気が楽だ。
「よし。ルールその一だ。いいか。人が話している時は、その人の方を向け。その人の目を見ろ。それが人として最低限の礼儀だ。ルールその二。俺と会話するつもりがなければ、それでもいいが、一緒に暮らす以上最低限の挨拶と返事だけはしろ。お礼の言葉も忘れるな」
「はい」
健一はさらに指を折りながら続ける。
「ルールその三。『働かざる者、食うべからず』だ。意味は分かるか?」
「何となく」
「じゃあまず手始めに食べ終わったら、自分が使った食器を流しまで運ぶこと」
「それから今日の予定だ。まずお前が使う部屋の掃除だ。床は乾拭きをして、掃除機機を掛ける。その後、水拭きをする。ついでに他の部屋もな。それが終わると、家の周りの箒で掃く。掃除は週に一回。いいか?」
佑斗は部屋に戻って窓を開け部屋に風を通した。
――面倒だなあ。こんなことなら、おばあちゃんの所がまだよかった。
佑斗は先回おばあちゃんを怒らせたことを後悔していた。
佑斗は二時間ほど掛けて掃除を終えた。たっぷり汗を掻いた体に窓から入る風が心地よい。終えてスマートフォンをいじっていると、健一が階下から佑斗を呼んだ。
「おい、支度しろ。出掛けるぞ」
「えっ。どこへ?」
「飯だよ、昼飯を食べに行くんだ」
「僕はコンビニの弁当かカップ麺か何かあれば……」
「そんなものはない。それに第一育ち盛りの少年が、カップ麺なんて物を食べてちゃあいかん。人の体は口から摂取した物でできるんだ。手軽な物ばかり食べていると、体は簡単に崩れる。つまり病気や怪我をしやすくなる。だからなるべく手間暇掛けて料理してくれた物を時間を掛けてしっかり摂るんじゃ。そうすれば体も心も自然と丈夫になる。なにせその人の愛に守られておるからな。だから食事をおろそかにしてはいかん。ルールその四だ。食事は大事だから、ちゃんと摂ること」
佑斗がスマートフォンを掴んで出ようとすると、健一はそんな物は置いていけ言う。
「車、どこですか?」
玄関を出た佑斗は、辺りを見渡す。
「ない」
「ないんですか?」
「だから、ないと言ってるじゃないか。何度も言わすな。人間様には二本の足がある。これを使わないでどうする」
佑斗は健一と並んで歩く。話すことが何もない。気まずいが、為す術がない。
「お前が来たからと言って、俺の生活は変える積りはない。だがお前をひとりここに残しておくわけにもいかん。だから俺が外出する時は、お前も一緒に付いてくるんだ。いいな」
佑斗は大人の男性と余り会話したことがない。唯一身近にいる存在は学校の先生だ。彼らは一方的に話し、指示するだけだ。文句を言わず従っていれば何も話さなくても問題はない。だから佑斗はこの状況に困惑したが、学校と同じ態度でいればいいだろうと考えた。
一方、健一もこれくらいの年の男の子と久しく話したことがない。だから口を開けば質問みたいな感じになってしまうし、何か頼もうとすればそれは命令口調になってしまう。
――娘も厄介なお荷物を押し付けてくれたもんだ。
健一は黙って坂を下りていった。
<続く>