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【連載小説】10 days (6)

3.3

 その日の夜。
 けたたましく電話が鳴った。時計は九時を回っている。
 ――時間的に、源三だな。
 健一は急いで受話器を取る。もしもしと言う間もなく、
「今夜はどうする? 昨日、顔、見せなかったな」
 声が跳び込んできた。知らない人には怒声にしか聞こえない。橘源三からの飲みの誘いだった。
「ちょっとな。今日も止めとくわ」
 健一は言葉をにごした。本来なら、今日は昼間原稿を書いて、夜になったら飲みに行くという日課だった。そうしたい気持ちは重々あるのだが、流石に坂道を二往復するのはきついし、それにまだ来たばかりで馴れていない佑斗を一人残して自分だけ飲みにいくのは、いかにも大人げなくてはばかられる。
「体調でも悪いのか?」
「いや、この所、仕事が立て込んでいてな」
 健一は苦しい言い訳をする。
「そうか。まあ忙しいんだったら無理にとは言わん。じゃあ、ママと差しで飲むとするか」
 源三とは、ちゃんと話し合ったわけではないが、ママに対して抜け駆けをしないという、暗黙の了解というか紳士協定的なものがあって、孫を出しに(その積りはなかったが、結果的にそうなっている)昼食を馳走になっていることが、健一には少し負い目だった。
 血の気の多いあいつのことだ、そのことがばれればさぞかし怒るだろうなと悩ましい。

 ――それにしても、あいつとの初対面は最悪だったな。
 健一は十年ほど前の夜に思いをせた。

 その頃、健一はこの街に越して来たばかりで、まだ知り合いは一人もいなかった。
 夜、一人で飲みに出た。昼間買い物をした際、商店街の外れにスナックがあるのを確認していた。
 『サクラ』と電飾看板が出ていた。
 ドアを押し開けると、「いらっしゃい」とつやのある声が迎えてくれた。カウンター席が六つ、ボックス席が三つの、こぢんまりとした店だった。健一はカウンター席に座った。
「あら、初めての方ね」
 ママは取り分け美人と言う訳ではないが、所謂いわゆる男好きのする顔をしていた。小柄だがしし置きがよく、俗にトランジスターグラマーというやつだ。
「ああ。今月初めに、こちらへ引っ越してきたばかりなんですよ」
「さくらです。どうぞ、今後もご贔屓ひいきに。何をお飲みになります?」
「じゃあ、水割りを下さい」
 所作が美しい。健一はママが水割りを作る様子をずっと見ていた。

 その時、「おい」と横から声が掛かった。健一が声の主を見やると、小柄だががっしりした男が立っていた。自分と同年代に見えた。
「じろじろ見るな」
「別に、あなたを見てはいませんよ」
 健一には文句を言われる筋合いはない。
「ママをじろじろ見るなと、言ってるんだよ」
「私がママをどう見ていようが、あなたには関係ないでしょう」
「何だと」
 男はいきなり健一の胸ぐらに掴み掛かろうとした。健一は反射的に男の腕を振り払いながら、スツールから下りて身構えた。男は160センチそこそこ。身長177センチの健一の耳の下辺りまでしかない。だが腕っ節は強そうだ。
 年甲斐もないとは思いながらも、不当な言い掛かりを甘んじて受けるほど、健一は大人ではない。一触即発のにらみ合いが続く。
「源さん、止めて。うちのお客さんよ」
「ママは、黙っててよ」
「源さん、飲み過ぎよ」
 源三の腕が上がるより一瞬早くママが動いた。
「頭を冷やしなさい!」
 ママはアイスペールの中身を源三の頭上にぶちまけた。
「ぎえーっ」
 源三は頭から氷と溶けた水を浴びて、怒号とも悲鳴ともつかぬ奇声を発した。健一は大いに驚いたが、他の客にとってこういう騒ぎは茶飯事なのか、ちらっと目を向けただけでその後は何ごともなかったように黙々と自分の酒を楽しんでいる。
「ママ、何するんだよ」
「私の店で、暴力沙汰は許さないわよ。例え、源さんでもね」
 ママはぴしりと言い放った。

 健一にも飛沫しぶきが少し掛かった。とんだ災難だ。ママは急いでカウンターから出て、
「お客さん、すみません。とばっちりでしたね……」
 と笑いながら健一の上着をタオルで拭いた。一方で源三にはタオルを放り投げて、
「どう、源さん。これで少しは頭が冷えた?」
「ママ、酷いよ。うーっ、寒い。俺を殺す気かよ」
 がち、がち、がち。源三は歯の根が合わないようだ。
「これぐらいで死ぬたまじゃないでしょう。ヒーターの前でさっさと乾かして」
 随分威勢いのいいママだ。

「ほら、お陰で水割りが台無しになっちゃったじゃない」
 ママが健一のグラスを下げようとする。
「ママ、捨てないでいいよ。もったいないから、それ、もらうよ」
「あら、私、飲物や食べ物を粗末にしない人、好きよ。源さん、この方を少しは見習ってよ」
「ちぇっ。さっきの氷はいいのかよぉ」
 源三はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「ええ。本当ならバケツで水を掛けたいところよ。でもそうすると水の無駄だし、後始末も大変じゃない。だから最小限にしたのよ」
「わかったよ。俺が悪かった」

「田原健一です」
 健一は手を差し出した。源三は一瞥いちべつしただけだったが、ママにうながされて、
「俺は、橘源三だ」
 と言いながら、健一の手をがしっと握った。源三がぐいぐいと締め付けてくるので、健一も負けじと力を込めた。ママは二人の意地の張り合いを見ながら、
「ケンさんとゲンさん、濁点が付くか付かないかの違いじゃない。仲良くしなくちゃね」
 と笑う。
 私のおごりよ。ママはそう言って三つ酒を作った。
「乾杯!」
「ありがとうよ」
 源三が苦虫を潰したような顔でグラスを当てるのを、健一は「乾杯」と言いながら笑いをこらえた。
 健一はそれから二時間ほど、特に源三と話すことはなかったが、ママの話に相槌を打ちながら過ごした。

「いや。楽しかった」
「ケンさん、これにりずに、またいらして下さいね」
「ええ、必ず」
「源さん、いいこと。ケンさんが来なかったら、あんたに二人分払ってもらうからね」
「何でだよぉ。そりゃ、ないよ。俺には関係ないよ」

 切っ掛けだけははっきり覚えている。だが、どう思い返してみても、いつから源三との間で「俺」「お前」と呼ぶ関係になったのかは定かではない。いつの間にか飲み友達、喧嘩友達になっていた。
 特に店に行く日を決めている訳ではないが、大抵二人は顔を合わした。どちらかの姿が見えないと、気が向けば電話して誘い出すこともあった。


 夕食前の一時。
 健一と佑斗は庭で涼みながら、港の方を眺めている。街の喧噪もここまで届かない。
「ケンさん」
 佑斗が呼ぶ。慣れていないので健一は何となくこそばゆい。返事するのも照れくさい。
「ここからの眺めは素敵ですね」
「そうだろう」

 ここ熱浦市は漁港の町だ。かつて温泉街として、また新婚旅行のメッカとして栄えた街でもあった。
 健一はここを取材で訪れた時、これが、これこそが自分が思い描いていた漁港だと直感した。健一は海を見ているのが好きだ。いや正確に言えば、波を眺めているのが好きなのだ。
 防波堤が湾を囲んでいる。繰り返し押し寄せる波が岸壁に跳ね返され、向かいの防波堤にぶつかる。それを何度か繰り返すうちに、波はエネルギーを失ってなだらかな海面に戻る。
 海面は小さな波で作られている。その一つ一つの波の表面が停泊している漁船の色や空の彩を映して、不規則なリズムでゆらゆら揺れる。健一はそれを何時間でも眺めていられた。
 回りに海のない町で育った健一にとって、海の近くに住むというのが夢の一つであり憧れでもあった。

「あの灯り一つ一つに人の営みがあるんだ」
「営みって?」
「生活って事だな。あの灯りの下には、その数だけの家庭がある。人が生きているんだ。いいことばかりじゃない、悲しいことや苦しいこともある。それでも人は生がある限り、生きていかなくちゃいけないんだ。それが生活だ。わかるか?」
「いいえ。分かりません」
「そうか。まあ、そのうち分かるようになるさ。嫌でもな」

 ここは田舎のようなべったりの付き合いもないし、都会のような隣にどんな人が住んでいるのか分からない不気味さもない。余所者に対する疎外感もない。しかも緊急の時は助けを求められるほどの親密さは保ちながら、干渉もされない。この心理的距離感は、健一とって理想的とも言えた。
 また同時に、東京から特急で一時間ほどと言う物理的距離感も気に入っている。

「お前は、俺のことも尋ねないし、自分のことも話さないな」
「特に聞きたいことも、話したいこともないので……」
「母親に対しても、そうか?」
「はい。それに母も僕のことには、余り関心がないみたいで……」
「そんなことはない。親は子供のことを知りたいものだ。どんな小さなことでもな。ただ知ったところで、してやれることは高が知れているがな。まあ、自分が安心したいだけなのかも知れんがな」

「何か部活をやっているのか?」
「いいえ、特には」
「じゃあ、学校が終わったら真っ直ぐ家に帰るのか?」
「いいえ、友達とゲーセンに行ったり、マックで時間潰したり……」
「ゲーセン?」
「ゲームセンターのことです。専用のゲーム器械が置いてあって、色々遊べるんです」
「そんなのが楽しいのか?」
「はい。それなりに」
「それなりに、か。将来の夢とか、ないのか?」
「夢って?」
「俺が子供の頃は、プロ野球選手になりたいとか、先生になりたいとか、思ってたものだ。大きくなったらどんな仕事がしたいとか、ないのか?」
「だってプロ野球選手は、一所懸命努力すればなれると言うものではないでしょう。それに先生も色々大変みたいだし。僕は普通のサラリーマンでいいです」
「普通って何だ?」
「母さんみたいに、夜遅くまで働いて、休日も休めない暮らしは嫌です。偉くならなくてもいいし、お金もそんないっぱいは要らない。それより休日をゆったり楽しむ、そんな生活がしたいです」
 全く。暖簾に手押しだ。佑斗の答えに健一は頭を振った。
「分かった。この話は止めだ。さあ、夕飯にするか」


 夕食を終え、佑斗は部屋に戻った。

 一昨日以来、母からのメールはなかった。平日、母の帰りは遅い。深夜のこともある。休日も仕事に出掛けることが多い。必然的に佑斗は一人ぼっちになる。そんな時は、SNSを見て寂しさを紛らす。
 健一は「携帯なんか仕舞え。そんなもん使って、顔も見えない遠くのヤツと、文字のやり取りして何が楽しいんだ。それより目の前にいる人間と、もっと話せ。言葉を使って、手振り足振り、汗を掻いて話せ」と馬鹿にするが、『顔が見えない文字のやり取り』でも何かしらの反応があると、形だけの繋がりと分かっていても少しは嬉しいものだ。

 SNSを開くと、未読の発言がいっぱい溜まっていたが、佑斗がレスしなくても誰も気にしない。そのうち佑斗は外されるだろう。
 佑斗はそれでもいいと思えてきた。

<続く>


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来戸 廉
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