【ショート・ショート】本
いつだったか夫に尋ねたことがある。
「子供の頃、何になりたかったの?」
「古本屋のオヤジかな」
夫は即答した。その姿を想像したらおかしくて、笑いが止まらなくなった。
「やっぱり変かぁ?」
「いや、あまりに似合いすぎてる」
涙が出てきた。
あら、この本、結構面白いわね。
私は、ページをめくる手を速める。長い看病生活ですっかり本を読む習慣が身に付いた。そのせいか、夫の世界に少し近づいた気がする。
夫の唯一の趣味が読書である。自らを活字中毒症と称している。面白ければジャンルは問わないらしい。
夫が書斎と称している鰻の寝床みたいな四畳の部屋。その両壁が本棚だ。それでも入りきれなくて溢れた本が、奥の机までの通り道の両岸に積んである。
夫は、それらの山を崩さないように器用に身をくねらせて、目的地まで辿り着く。
「地震が来たら、本に埋もれて圧死するわよ」
と私がからかうと、
「本望だよ」
とまんざら冗談でもなさそうな口振り。
難所の入り口には、折り畳みの椅子が用意されている。私が椅子を開く音で、夫は本から目を上げる。
ほとんど私が話して、主人は専ら聞き役。子供のこと、友達のこと、噂話、テレビの話など、たわいもない話ばかり。夫は一々相槌を打ってくれる。
毎年、夏になると揃って人間ドックへ行く。そろそろ年だから注意しなくちゃあね、コーヒーも控えめにね、と話していた。
それが、今年の人間ドックで胃に翳が見つかって、精密検査の結果、ガンと分かった。
「発見が早かったから、すぐ手術すればかなり高い確率で治るでしょう」
と医者から説明を受けた。今日明日にも入院を勧める医者に、夫は一週間の猶予を申し出た。
平日は会社に行って休む間の仕事の指示と引継ぎに充てた。帰宅後は部屋に籠もっていた。私は、その間入院の準備で大わらわ。
日曜日の昼、入院する夫を送った。「ゆっくり、本が読める」と軽口を叩いて強がっていたひと。
そして手術当日。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って、ストレッチャーで手術室に運ばれていった。残された私は、じっとしていられず、ベッドの周りを片づけて気を紛らす。ベッドの傍らに積まれた数冊の本。一番上に置かれた一冊が、厚い栞のせいで異様に膨らんでいた。
取り上げたようとした手から栞が滑り落ちた。拾おうとした時、栞ではなく封書だと分かった。表に『祥子へ』の文字が見えた。
私はそれを胸に抱えたまま、立ち上がることができなかった。
手術は長時間に及んだが、成功だった。
目が覚めて開口一番、夫は「手術はうまくいったのか」と尋ねてきた。「うん」と何度も頷くと、「そうか、そうか」と表情が和んだ。
医師の説明では、経過を看ながら早ければ2週間で退院、その後の自宅療養が1ヶ月ほどとのこと。夫が言っていたとおり、読書三昧の時間は充分取れそうだ。
医者からは助かる確率が高いと言われても、当人にとっては生か死のどちらかでしかない。夫は万が一の場合に備えていたらしい。
私が封を切れなかった栞は、いつの間にか、本屋でくれる薄っぺらいものに替わっていた。
「風邪ひくぞ」
「うん?」
夫の声に頭をもたげる。柔らかな日差しに包まれているうちに、夢の世界を彷徨っていたらしい。風に木の葉が揺れている。
視線を戻すと、夫が顔を赤くし肩を震わせている。
「どうかしたの?」
「笑わせるな、傷が痛い」
「えっ?」
私の鼻眼鏡が古本屋のオヤジみたいだと、夫は苦しそうに笑う。