【ショート・ショート】くちなわ
「ねぇ、信じられる」
いきなりそう言われても、何のことだか皆目わからない。黙って味噌汁を啜っていると、
「今日、子供達を連れて近所の催しに行ったのね。動物もいるからって、聞いて。そしたら、蛇よ蛇。これくらいの。ニシキヘビって言ったかしら。あの子達、それを首に巻いてもらっても平気なのよ。私、見てるだけで背中がゾクゾクして、鳥肌がたったわよ」
妻は両手を一杯に広げて、蛇の大きさを強調する。説明しながら思い出したのか、身震いしている。
「あんたの首じゃないから、別にいいじゃないか」
「だってぇ……」
まだ話は続いている。
――蛇かぁ、俺の田舎じゃ、小さいのをくちなわって言ったけな。
私は箸を休めて、子供の頃へ思いを馳せた。
「どがんしたとね」
声に驚いて顔を上げると、隣の陽子姉ちゃんが微笑んでいる。右手の拳を左手で包み、胸の前で庇うように前屈みで歩いていたから、気づかなかった。僕はその笑顔を見た途端、涙が止まらなくなった。
「お腹でも痛かとね」
僕は首を振った。
「そんなら、マーちゃんがいじめたと」
ううん。
「じゃあ、何ね」
「指の、腐って落ちっと」
「怪我したとね。どれ、見せてみらんね」
僕は恐る恐る手を開く。
「どがんも、しとらんたいね」
「くちなわば、指したと。だけん、右手の人差し指の、腐ぁーて」
僕はしゃくり上げた。
蛇のことを、この辺りではくちなわと呼ぶ。蛇を指差すとその指が腐るという。そんな、たわいもない迷信。
そうとは知らず、みんなから脅されて、僕は青くなった。
「誰《だ》いが、そがんこつ言うたとね」
お姉ちゃんが笑った。僕は馬鹿にされたと思い、むくれっ面をした。
「ほら、貸しんしゃい」
お姉ちゃんは躊躇う僕の手を引き寄せ、泥で汚れた人差指を甘噛みした。指先にお姉ちゃんの白い歯が当たった瞬間、僕の心臓はドキンと大きな音を立てて軋んだ。顔がとても熱くなった。
「こいで、もう大丈夫よ。くちなわば指した時は、こがんして指ば噛かんでもらうと治っとよ」
心臓が破裂しそうで、指が腐ることなんか、もうどうでもよくなった。僕は俯いたまま家に走った。
恋とも呼べない、淡い憧れ。
それから暫くして、僕は父と母が話しているのを漏れ聞いた。
「陽子ちゃんがお嫁に行くってたい。さぞ綺麗かろうね」
お姉ちゃんがいなくなる。
僕はその夜、言い様のない寂しさに枕を濡らした。
お姉ちゃんが嫁ぐ日。母の背に隠れ、花嫁行列を見送る僕に、文金高島田が微笑んだ。その白い歯を見たら、僕の心臓はまたもドクンと波打った。
「ねぇ、ねぇってば」
ん?
「明日、行ってみない」
「俺は、いいよ。蛇、好きじゃないし」
「意気地なし」
妻が笑う。白い歯がこぼれる。私は少しドキッとした。