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人の下に入る

さいしょに

どうもご無沙汰しております、という文言で文章を始めないといけないみたいな流れになっていますが、こちらは田村です。
今回は、「人の下に入る」ということをしておりました。

「人の下に入る」というのはごますり的な意味合いではなく、物理的に人が生活している圏内の下に入ってみる、って感じです。
「最近、側溝にハマってて…あ、いや、えっとあの、ハマっていると言うのは本当にハマっていて…」みたいな会話をカマしていました。

この作品は、2022年度の京都市立芸術大学作品展に展示していた作品になります。そして、大学院に進学して初めてきちんとした講評をさまざまな人から受けました。その感想も含めて書き記していきたいと思います。
…がんばるぞ〜


なぜ人の下に入ろうと思ったのか

このスロープ下に絶妙に人が一人入れそうな隙間があるのを発見したことが始まりです。「もし、スロープの下に人が居たとしても、他者はそれを気にせず、または気づかず、その上を(スロープを)歩くのだろうか」という疑問を抱いて、衝動的に入ってみました。


人の下に入ってみて

今回は、スロープ下、側溝、ベンチの下に入ってみました。

(映像は例の如く怒られたらすぐ消します)
映像を見てもらったらわかりますが、基本的には私に気づかず、スロープを歩いています。気づいたとしても、気づかなかったふりをする、見なかったことにする、いなかったことにする、ということを意図的にされているようにみえます。
私の主観的な感情でしかないかもしれませんが…そう思って。

普段生きていて、無視されたり、存在を無かったことにされることが、ありがたいことにほぼなかったので、だいぶショックでした。
(ティッシュ配りのアルバイトをしていた時、着ぐるみのアルバイトをしていた時、似たような感情を抱いていたかも…)

ショックだなんて言葉でまとめるのは、簡単すぎてとても嫌だけど、ショックだったんです…
もう少し、深く考えていきたい。

また、講評で私自身が暴力的な存在になっている、のでは。という意見をいただきました。
例えば、橋の下とかで暮らしている人に近づいたら何かされるんじゃないのか、みたいな、偏見や差別、に近いかもしれないけれどただ己の身に降りかかるかもしれない恐怖を想像している時があったりするじゃないですか、
されるかどうかも分からないけど、想像してしまう。

スロープの下に人がいたらそれは怖いし、ベンチの下に人がいるのも怖い、側溝の下ももちろん怖い。ふだん、そこに人は居ない(と思っている)から。

そういったあれで自身が暴力的な存在になってしまっていることに、また一つショックを覚え…
(そもそもこの映像自体盗撮ではある)

それなりに落ち込んでいますが、自分にとって居心地の悪さ、わざと不快になることをして自己超越(自己破壊)をしている状態を楽しんでたんだろうなぁと、ハイになってる時の自分(人の下に入っている状態)を想像します。

刺激を求めてるのは間違い無いので、自己の統制に努めていきたいです。
自分の中でそれぞれ作戦会議をきちんと行っていきたいと思います。
講評が比較的、裁判チックになってたのもそりゃそうだなぁ、と。


友人からはこの事件を教えてもらいました。

うわー、私すぎる。
目的は絶対違うし、私は他者を陥れたいとかそんなこと絶対に思わない。でも、側溝に入った時の気持ちよさはめっちゃ分かっちゃう…
もちろん側溝からのカメラは仕掛けてない。


思わず、ああ私に美術があって良かった…と心から感じた。
講評を聞いていた後輩から、「講評がなんであんなに裁判チックになっていたのか最初はわからなかったけど、だんだんと話を踏んでいくと理解できた」と言われた。
美術だから、許されるのか。そんな単純なことじゃ無いし、難しいけど、これからも私はグレーゾーンを見極めながら表現活動をしていくのだと思う。

そして、先生からは「裁判になってもいいけど、そこで勝てるようにしておくように」と言われました。(とほほ)

行為が表現に変わる時。
これは犯罪なのか表現なのか。
生活なのか表現なのか。
いわゆるアートじゃ無いものをいかにしてこちら側に持ってくるのか。
そもそも持ってくる必要があるのか。


私は表現に対して、切実性を重視する節があるので上記のことが最近は強く気になっています。


さっき、例え話で橋の下で暮らしている人、と出しましたが。要するにホームレスのことですね。

彼らに何かされるんじゃないのか、という思い込みがある一方で、逆にホームレス側が殺されてしまう殺人事件が悲しいことに昨今多く見受けられます。

私は路上で作品を展開することが多いので、こういう記事に以前からとても敏感です。(今回は大学構内での活動も多かったですが)

こういうニュースを見るたびに、私は路上で表現を展開することに恐怖を感じ困難になったりします。以前書いた、前向きに後ろへ歩く記事にも書きましたが、それぞれの表現を守るためにも暴力には絶対に屈してはいけない、許してはいけないと常に感じています。暴力や恐怖が我々の表現を制限してくると思うからです。
(だけど、そこにはそれぞれの切実性がきっと孕んでいて…やっぱり気になってしまう。)

だからこそ、私自身の存在が暴力性を帯びていると言われたのが相当ショックだったのだと思います。


でも、面白い見方もありました。
子供たちと一緒に作品を鑑賞していると、映像を見ながら「あそこに人いる!」「えっ!どこどこ!」みたいな会話が繰り広げられました。
側溝の映像だけ見つけられなくて(それもそのはず、映像には私の姿は映っていないのだから)、どこにいるのか教えてあげたら「忍びやなぁ」と一言。
ウォーリーを探せみたいな状態で、ああ、子供たちにとって隙間に入ることや隠れることって日常茶飯事なことで、恐怖とかそういうのじゃないんだって。見る人によってここまで違う見方ができるんだなぁ、と、しみじみ思うのでした。


作品展終わって感じたこと

実際の展示の様子

今回は、作品展ということでだいぶ作品っぽくしてみた感じがあります。周りに合わせてみたというか、一回やってみようかなと思って。

その点、以前通っていた大学の助手さんからは「田村さん、作品つくったん?」と一言ズドーンと効く言葉を投げかけられ、秋田へ旅行に行った際に一緒に飲んだ後輩からの熱い言葉を聞いて、私、見えなくなってたものがあります。

急になんやねん、って感じですが。ホント、見えてなかった。

関西に来て、鴨川見て西成見て、まぁその他いろいろ見て。
みんなめっちゃ路上使うの上手いなぁ、活用する、公共の場を自分たちの場に持ってくるの上手いなぁ、と思ってて。
これだと私の役割あんまりないなぁとか思ってて。

けどそうじゃなかった。
いや、上手いには上手い。けど、そうじゃない。

私が本当に届けたい相手って、アートの文脈をよく知る関係者や、ましてや教授なんかじゃない。ギャラリー巡りが趣味な人だとか、美術館に行くような人を相手にしてるんじゃない。そんな相手にしか伝わらんのやったら、SNSにだけ発表しとる方がマシや。美術業界の中でどれだけ評価されようが関係ない。ムダや。(酔っ払ってる時のメモの原文ママ、すみません)

これは、制作期間にレンタル元受刑者をしているfunaimフナイムさんからリプライをいただいたことも大きく感じた一つです。
私のやってることって、そこに届くんだ、と気付きました。すごく嬉しかったです。


今こそ、路上回帰する。
だからこそ、一種のテロリズムのように感じるかもしれないけれど、私のために優しくて愉快な革命にゆるやかに巻き込まれてください。強引かつ柔らかい言葉を置いておきます。
もっと私が、愉快な社会を私自身がつくって生きやすくしていく。
自分本位で生きていこう。

来年度は、路上回帰!
もーーっと、もーーーーーっと、楽しく愉快にしちゃうんだから!!


と、まぁ、一つの記事でテンションの幅すごすぎでしょ、とか思いますが、この辺りにしておきます。

そしてちょっとしばらく映像禁止にしてみます。
記録方法を探りたいのです、いや、禁止…はきついかも。
でも、禁止にしないとあまりにも簡単に映像を撮るだけなら撮れちゃうから…これは外部キュレーターさんの「あなたは映像に映ったことを全て信じるの?」という一言が強く響いています。


さいごに

新たな目標じゃ無いけど、自分を再考できる機会をいただけたこと。いろいろ教えてくれた人たち、お話にのってくれた人たちに感謝します。今読んでる本とか、ここから興味が出たこととかいつか追記かなんかで示せたらと思います。

とりあえず今回は、この辺で。
ここまで読んでくださってありがとうございました。

田村久留美の次回作にご期待ください!


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