25年間一緒に暮らしたおばあちゃんなのに、最後は一人ぼっちにさせてしまいました。
突然すぎる別れ
はじめてコロナが憎いと思った。
大切なおばあちゃんが療養型病院で亡くなりました。82歳でした。
コロナで立ち会わせてもらえませんでした。おばあちゃんにありがとうも言えませんでした。
お医者さんも看護師さんも長生きしましたね、みたいなことをいつの時か言ってたけど。おばあちゃんはもっともっと生きる予定だった。
体が悪いのに、わがままで隠れてお酒を飲もうとしてたり、甘いもの食べようとしてたり。運動しようよと言っても、散歩すら嫌がったり。
一筋縄ではいかないおばあちゃんだったけど、
おばあちゃんは憎めない人だった。
それに大きな病気をして体が悪くなっても、かならずおばあちゃんは帰ってきた。後遺症もあって、ちょっと性格がきつくなっちゃったけど。でもおばあちゃんはたしかに、生きていた。ご飯が大好きで、うまく歩けなくなってもお母さんのご飯を毎日3食欠かさず食べていた。
状況がおかしくなったのは9月のこと、肺に水が入ってしまったのだ。
緊急入院をした。
一命はとりとめた。回復のためにリハビリもすることになった。
リハビリテーションへ転院した。
活気があるし、人も多くていいところだと思った。
最初はおばあちゃんもリハビリ頑張って、またコストコ行きたいと言っていた。(去年の3月に初めてコストコに連れて行ったのだ)
でも私のおばあちゃんにとってはいいところじゃなかった。
いつも情報の伝達に不足があった。
申請すればできるLINE電話。何度も申請したのに、いつも途中で申請書がなくなってさせてもらえなかった。
もちろん面会は謝絶、コロナだから仕方ないよね。そんなの頭では分かっていた。
入れ歯だって新しく作ってあげたかった。入れ歯屋さんも準備してくれてたのに、いつも情報が途中で止まって結局作れなかった。
そうこうしてるうちに、おばあちゃんの容体が悪化。なんと糖尿病のことをリハビリテーションに伝えていたのに、知らなかった、だから適切な処置ができなかったというのだ。
また病院に入院したけど手術する体力がないから、うけられなかった。体は弱っていく一方。病院からもベッドが満床だから出ていってほしいと言われて、最後行きついたのは療養型病院。
綺麗に体も洗ってくれてた。でもおばあちゃんにはまた会えなかった。
入れ歯を作ってあげたかった、でもまた情報伝達不足で作れなかった。
衰弱するおばあちゃん、療養型病院から電話が来た。
「もう長くないです。あと数日です。面会はできません。意識がなくなったら代表の方一名が病室に入れます。」
信じられないと思った。コロナだからってのもわかる。でも意識がなくなってから面会って、会えないじゃん。うちの家は、どんなにおばあちゃんの面倒が大変になってもずーっと一緒に暮らしてきた。介護もちゃんと頑張ってきた。それなのに最後の最後に会えないって神様どうして?って思った。
ここだけは食い下がれないと交渉した結果、療養型病院から許可が出た。意識のあるうちに1人だけ入っていいと面会時間は15分。
急いでお父さんとお母さんと向かった。
お父さんが代表で入り、Messengerのグループビデオ通話で病室と私たちと家とおばたちと、おばあちゃんの兄弟たちとつなげた。
おばあちゃんの綺麗な赤毛色の髪の毛は白髪に代わり、入れ歯の入ってない口は言葉を発しようとも発せられず、誤嚥性肺炎の疑いだったせいで水も自由に飲めず、ずっと誰とも会えなかったせいでずっと眠ったかのような朦朧としているおばあちゃん。ショックだった。あの憎まれ口ばっかり叩く、隙さえあればご飯をモリモリ食べるおばあちゃんはどこにいってしまったの?
結局おばあちゃんと会えた、というかおばあちゃんの顔を見れたのは、声をかけれたのは2日だけだった。すぐ、お別れになってしまったのだ。最後の最後、ぎりぎりにおばあちゃんが大好きだった曲を聞かせてあげられたのだけが唯一の救いだけどそれ以外なんも救われない。死ぬ直前には結局立ち会えなかったのだったし。人がなくなることに救いなんてないのだなと。
家族が一番つらいのに一番しっかりしなきゃいけない
実感がわかない。とりあえず死亡届の紙をもらった。
令和3年3月3日か、おばあちゃんゾロ目好きだったな。
ぼんやりしてると、亡くなった体をどうするかという話に。看護師さんから葬儀屋は決まってますか?と。うちは冷暗所ないのでなるはやでお迎えに来てもらってくださいと。
いやいや、亡くなるなんて思ってもないし。葬儀とか私は初めてだし、お金かかるし、お父さんたちももうてんてこ舞いだし。
結局葬儀関連はたくさん調べたけど、おばが取り仕切ってくれて見つけてくれました。とはいえ、父が喪主なので、父の代わりに私も説明を聞いて覚えなきゃでした。
多分普通の葬儀屋さんなんだけど、すぐお迎えに来てくれて丁寧に棺に運んでくれて、冷暗所でやっとおばあちゃんの顔を見せてもらえて、お願いして良かったなと思いました。(まだ判断するには早いけど。笑)
でもおばあちゃんの顔見ると、疲れてるけどでもまたすぐ起きそうな顔をしてて、死んでるってのがやっぱり意味わからなくて悔しかった。タンタンメン食べさせてあげたかった。(リハビリテーションでカレーライス食べてるときにおばあちゃんが言ってたそう。)
色々契約とか済んでやっと家に帰ったのは夕方の17時。この日は朝の8時に家を出てずっとバタバタしてました。
会社に連絡をして木曜と金曜はお休みをもらえました。(こういう時、企業に所属しててよかったなあって)
でも両親は店を休むわけにもいかないので、店に行きます。おばあちゃんはお店が大好きだから、お店に行ったほうが喜ぶと言いながら。
で、そのあとは、おばあちゃんの棺に何を入れようかで家の中を大捜索。出てきた赤いオシャレな服。かわいい靴。おばあちゃんは結構オシャレなものが好きで、すっごく大切に使っていた。いつかまたお出かけするときに着るんだと、でもそのお出かけはできなかった。
わたしたち姉妹も着たことのない喪服を探してドタバタ。なんで真っ黒じゃなきゃいけないんだろうとか考えてもどうにもならないことをずっと考えていた。
遺影はどうしようかと昔のアルバムを見つけて、おばあちゃんと愛犬のジョニーがうつってました。二人とも可愛い。笑
見れば見るほど、なんで最後一緒にいられなかったんだろうって思ってしまうので、結局私はほとんど見れませんでした。
そしてもうすぐ火葬。そう、あと6時間後に火葬なんです。おばあちゃんとお別れしなきゃいけなくて。お別れしたいんだけど、顔見たらお別れできなさそうで。怖くて眠れなくなりました。
それでも生きていく
病院の文句を書いたところもありますが、病院を憎んではいません。気を害した方がいたらそれは本当にごめんなさい。
むしろコロナで大変な時期に面倒を見てくださったこと本当に感謝しています。ありがとうございました。
別にだれが悪いとか思ってないです、生前のほとんぞを、ずっと一緒に暮らしてきたから。もっとこれをしれあげればよかった、って後悔はヒトより少ないのかもしれません。ただ私は最後の最後に一人ぼっちにさせてしまったことだけがやっぱり後悔なんです。こんなお別れするなら病院を無視すればよかった。日本語話せるけど、生まれも育ちも台湾で大人になってから日本に来て、やっぱり最後ほんとに不安だったんじゃないかなって。さみしかったんじゃないかなって。
心の整理をつけたくてnote書きましたが結局できてません。おばあちゃんがなくなったからといって、わたしの人生は止まらなくて時間は流れます。
だから今は、心の分断をしました。
家族以外といるときは、おばあちゃんのことを考えないようにするんだと。落ち込むばかりじゃなくて前を向かないけど、後ろも向かず。ただ、今を向いていこうと。
それに、おばあちゃんが最後まで愛した大好きなお店を守っていきたいと、ゆっくり未来も向いていきたいと思います。きっとお店を続けていくことがおばあちゃんの望みだから。
今日の夜だって、大好きな仲間たちがお店に来てくれます。普通は喪に服すんでしょうけど、お店が盛り上がったほうがおばあちゃんもうれしいよね!だから私は精一杯みんなと楽しい時間を過ごしていこうと。
それを見ながら、おばあちゃんが、天国で大好きなおじいちゃんに30年ぶりに会って幸せな時間が過ごせますように。
今日も大切な人たちにはたくさん好きを伝えたいし、たくさん笑ってほしいし、たくさん幸せになってほしい。
やりすぎってことはきっとないので、恥ずかしいなと思うこともあるけど、生きてる限り、たくさんの愛を人に届けられる人間でいられますように。
おばあちゃん、ありがとう。