自己肯定感と正義

自己肯定感などというものは、存在しない。自己肯定感が高いか低いか、そんなものは、どうでもいい。そんな空想に身を投じて感情をコントロールされているだけ、無駄。ゴミみたいな思考をいったん一掃して、天井を見上げてみる。どんな質感でどんな色か。その色を口に出してみる。手を伸ばして好きな形に動かしてみる。この行為自体に、なんの意味があるの。それを説明しなければならない義務感に、猛烈に駆られる(人間は思考の奴隷だ、情けない)。でも、それにすら意味はない。だって理由を説明しなくたって、あなたが手を伸ばそうと思えば、簡単にできる。すべては自由なんだ。いま、大声で叫んだっていい。理由も言い訳も弁明もいらない。この自由に気づくことこそが、本当の「肯定」。それは心の中にあるひとつの尺度ではなく、世界との調和の中に生まれるかえがたい感覚。すべては、自由。この世界をこの身体を通して操ることができる。この歓びの感覚。それは、言葉の思考の檻を外せば誰でも得られるものだ。
自己肯定感という言葉は、結局は他人の言葉で、自分の中にあるものではない。

この世は純粋なるカオスで、人間の脳がそこに意味や正しさを構築して自作自演で「理解」をして都合の良いように生きている。
神や正義がその最たる例だ。正義とは、人間ひとりひとりが内面に持っている指向性であって、当然、空間や組織や地球上に宿るものではない。
だから「正義」を理由に、他人の行動に対して憤慨するのは時間の無駄である。他人の行動というのは、現象だからだ。超新星爆発だとか、あるいは梅雨などの現象に、正義も不正義もないのは自明である。自然は美しきカオスだ。
人間は自らの行動のみを操ることができるから、正義を適用できるのも自分の行動に対してのみだ。
だって他人をコントロールすることは不可能だ。今すぐ向かいの家の人間に3回回ってワンと言うよう念じてみてほしい。絶対にやってくれない。ではインターホンを押して、「3回回ってワンと言ってください」と指示してみてほしい。たぶんやってくれない。代わりに、「こんにちは」と言ったら「こんにちは」と返してくれるかもしれない。せいぜいそれくらいの狭い選択肢しかこちらにはないのである。こっち側の方がよっぽど現実からコントロールされている。他人をコントロールすることは原理的に不可能だ。
人間はこの自分の身体という小さな一個体からしか世界とインタラクトできない。ちっぽけであり非常に神秘的でもある。とにかく自分の中に概念で構築された世界しかコントロールすることはできない。でもそれがこの世の全てでもある。
今生き残っている人間たちは、何かしら自分が生き残るのに都合の良い行動を取ってきた結果、生き残っている。生き残るのに都合が悪い世界は、それ即ち死。つまり、世界を自分の都合の良いように解釈して生きている。人間は自分に都合の良いことしかしない。絶対にしない。リスカや自殺だってそれが彼らにとって都合がいいのだ、やると気持ちいいとか、生きてるより死んだ方がマシだとか。それを判断するのは彼らの脳と身体だ。何が正義なんてない。「こうしたいから、こうする」。それを実行できる自由な身体があるという奇跡。社会のルールなど、その前では全く無価値である。それは社会にとって都合が良い尺度であって、人間のばらばらな個体ひとりひとりの都合の良さとは全く関係がない。この世はみんなの利害がせめぎ合ってできている。女はこうするべき、男はこうするべき。国家は国民から監視されるべき、司法は公正であるべき。親は子に尽くすべき、子は親に感謝すべき。世の大多数に都合が良い正義が規範として生き残っていくだけだ。正義にも自然選択がある。
なので私も、自分に都合の良い正義だけ採択する。私は最強の正義の味方だ。私は自分の幸福に資する行動しか取らない。それしか根本的な生きる意味が無いから。自己満足で利他的行動もする。感謝は健康にいいから、する。すべては究極の利己主義からきている。この世はカオスであるから、普通に生きられない私が何も考えず生きていればどんどん幸福から遠ざかる。だから自己幸福追求という軸を明確に設定しなければならない。
現実を眺めていると、こんなことはわざわざ宣言するまでもなく全員が自然と実践していることのようである。
だから自分でも、ここまで何度も何度も人生をやり直して失敗を繰り返さないとそれに気づけなかったことが不思議でしょうがない。他人の都合の良さを押し付けられて洗脳されてしまっていたのだ。真の自由を奪われていたのだ。それが私のいう本当の自己肯定感が低かったということだ。「論理的正しさ」というただの枷を、神のように崇めることのなんと愚かなことか。みな喜んでその枷をはめる。そんなものは、まやかしだ。私はそこから降りる。

このスタートラインに立つまでに、20年以上かかってしまった。きっと、虫や鳥やクジラたちなんかには「そんなことわかりきってるけど」とバカにされるんだろう。本当は、言語も思考もすべて捨てて、単純で美しかった私の時代へ戻りたい。

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