学校がキライなのか勉強がキライなのか
こんにちは! くるくるぼっち(SAKURAKO)です。
今日は、「学校がキライなのか勉強がキライなのか」ということで、わりとこの二つをごっちゃにしてしまっている人がいるんじゃないのかという話です。
多分、私の『妄想』です。悪しからず。
学校は、「いつ」「どこで」「何を学ぶか」「誰と学ぶか」を全て他人に決められています。要するに、誰かに『用意されたもの』であります。
きっと、この波に乗れるとスラスラと「日本人」や「社会人」みたいな基盤の上を滑るように移動できる人物になれるのだと思います。
ーーなんて穿った見方をしてしまいましたが、きっとそんなことは上手く乗れなかった私の被害妄想で、
ただ、みんなでまとめてしまった方が『効率がいい』とか『都合がいい』というだけの曖昧なものと、『全ての子供たちに教育を』っていう昔の、お父さんやお母さんたちの愛の形なのだと思います。(だって、ほら、学校に通えない途上国の子供たちに学校を作ってあげよう! 教育は大事だよ。ってなるわけだし。国の奴隷にしようとして学校を作るわけじゃないじゃん?)
が、私にはどうも向いていなかったようです。(なんて贅沢な。。。)
これはわがままですか? 言い訳? 負け惜しみ?
きっと全部です。きっと全部だし、全部ちがったのかもしれません。
苦手なのはなに? 学校? 授業? 勉強? それとも誰かに強制させられること?
「学校が苦手」なのと、「授業が苦手」なのと、「勉強が苦手」は似ているようで全部違うと思うのです。
子どもの時は、『学校』=『勉強』でした。
もしかしたら、今でもそう認識してしまってる人がいるかもしれません。
ただ、大人になるとわかりますよね。だから私は大声で叫びたい!
『学校』と『勉強』は別物で有ると。
少なからず、『集団生活』が苦手な人や、誰かから「今日は、これをしなさい」と『用意』されるのが苦手な人がいます。
この場合は、『みんなでヨーイドンで受ける授業が苦手』なんだと思います。
そして、自分の関心のないことを無理やり押し付けられるとその対象がキライになったりします。この場合は『関心ないことを無理やり押し付けられることが苦手』なんだと思います。
さらに、落ちついて授業が受けられないと、『テスト』でよい点が取れません。故に、成績で優劣がついてしまいます。
他人との比較が始まることで、『勉強ができない人』『先生の言うことが聞けない人』『クラスに馴染めない人』などのレッテル貼りがはじまります。すると『学校に行きたくない。学校が苦手』となります。
負の連鎖は続きます。
人から一度『ダメな人』レッテルを貼られると、自分ってできないやつなんだ、ダメなやつなんだ、頭が悪いんだ、じゃあ、これ以上やっても無駄だし、関心持てないし、もう勉強するのやめよ。勉強なんてキライだ!(強引?)となってしまうことがある。
この流れ、思い当たる節がある人まあまあ、いるんじゃないかな??
はい! と手を挙げた人、大人になってからも苦労してない?
『協調性がない』とか『社会性がない』とか言われてない?
それって、なんだか、身も蓋もないよねー。
ってことで、言い換えます!
『協調性』ないということは、『独自性がある』または、『リーダーシップ』ある人だったりします。
そして『社会性』がない人の中には、孤独に強く『研究者』『哲学者』タイプの人がいたりします(コミュニケーションがいらないって言ってるわけじゃないよ。実際は、大事だったりするし)。
そういう人たちは、いつの時代にも、必ず一定数存在していて、『常識を突破できる』人たちなのです。
話が逸れました。。。
学校生活を有意義にクリアできる人と、学校という場所がマイナスに働いてしまう人。その両方が存在しているのは、当たり前です。
その狭い世界の中で、自分の『善』『悪』を決めないで欲しいのです。
勉強ってなに?
学校で習うこと? 図書館で図鑑を見るのことは違う?
教科書に載ってることを勉強する。試験勉強をする。受験勉強をする。
学校で習ったことを復習する。次の日の授業の予習をする。
図書館で好きな虫の図鑑を調べる。外に出かけて虫を探しに行く。捕まえて飼ってみる。餌をあげてみる。手のひらに乗せて一緒に遊ぶ。
好きな絵を描いてみる。教科書の人物に髭を描く。教科書のイラストをノートに写す。美術館に日本画を観に行く。絵具を持って写生に行く。
YouTubeでゲーム実況を見る。自分でゲームを攻略してみる。攻略でうまくいかない箇所を調べる。また攻略する。レベルやランキングを上げる。
どれもこれも勉強だと思うし、どれも大事でとっても尊い。
私が親ならどれもこれもギュってしたい。きっとその『好き』の延長線上に全ての分野の勉強が乗っかってくるのかと。
得意と不得意
人には『得意』と『不得意』があります。
当然、多くの人が『得意』とする分野で、『不得意』とする人もいます。
その逆も然りで、
多くの人が、『不得意』とする分野で、『得意』とする人がいます。
『時間を守る』これをできる人が多数派だった場合、『時間を守れない』人はみんなから非難されます。
たまに、人格否定までされます。(本当にあったんだよ!)
『学校で大人しく授業が聞ける人』が多数派だった場合、『大人しく授業を聞いていられない人』は、非難されます。
そして、大抵は、バカにされます。(単なる私のトラウマですね)
例え、その子がクラスで一番虫について詳しかったとしても、授業を聞いていないことでテストの点数が人より悪いと『あいつ、バカだよね』というレッテルを貼られてしまうことがあります(きっと、素敵なクラスだったならそういうこともないのかもしれませんが)
大人しく授業を聞いていられない人=テストの点数が取れない=頭が悪い
と、なりがちな狭い狭い学校社会です。
まあ、天才だったら授業とか聞いていなくてもテストの点数はめっちゃいいのかもしれませんけど。評価されにくいことが得意って人もいるだろうしね。
多数派のレッテルに負けないで欲しい
勝手に妄想して、勝手に応援している変なやつです。
一体、私はどこに着地をしようとしているのか自分でもわかっていないので応援します。
学校の勉強が好きじゃなくても、他に好きなことがある。
または、
学校の授業は興味ないけど、自分で知りたいことはある。
そういう人って少なからずいると思うんです。
学校の授業を聞いていられなくてテストの点数が悪くて、周りから「バカ」と言われると「そっか、私ってバカなんだ」と思って本当に勉強しなくなるのはただただ、もったいないのです。
なにも自分の不得意な分野で自分の価値を決めなくていいってことです。
学校がキライでも授業がキライでも、『知りたい』や『わかりたい』という気持ちまで一緒に、キライにならないで欲しい。
学校に行けなくても、図書館で興味ある分野を探してみて、本を読んだりするだけでも立派な勉強だよ。
新しいことを知れば、自分の頭で考えられることも変わってくる。
すると自分で下す『決断』が変わってくる。
だから勉強ってするんだと思う。
得意分野を認めつつ、苦手な分野に立ち向かう
自分が他人を評価する立場にあるとき、気をつけたいなと思っています。
できないところを指摘するときは、相手のできるところを最初に褒めてあげたい。得意な分野を認めつつ、不得意なところに目を向ける。
すると、きっと、より良くなる。
そして、自分は、苦手な分野に注目して落ち込まないこと!
苦手なことを克服するのはとても大事なことだけど、得意分野を伸ばすことはもっと大事だと思う。
そして、『苦手』なものにぶち当たった時、なにが苦手なのかを詳しく分析しているといい。キライにならなくてのいいことまで、連動してうっかりキライになっていない? 自分はダメだと決めつけていない?
物事の『善』『悪』は組み合わせで変わるものだから、連動しているものをごっちゃにして一括りにする必要は全くないのです。
なんて曖昧な言葉で閉めてしまいましたが、本日はこれにておしまいです!
勉強は、いくつになってもできるし、たのしーよね!
私は毎日勉強するよ。新しいこと知るのってとても気持ちいいよね。
変な妄想垂れ流しでしたが、
みなさま、最後まで読んでくれてありがとう♡
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