#106 朝日記 「わかりやすいことへのアレルギー反応」「複雑な話を複雑のまま伝える愛情」 (2021/06/12)
8:49起床。2:20/6:31。
昨日は、インターン生&教育係お疲れさま会を開催した。焼き鳥とお酒をご馳走できたので、おじさんはそれだけで満足している。
飲み会ははばかられるご時世ではあるものの、飲み会という場は予測不可能性しかなくて、突飛で、時に急接近して、思っているよりずっと面白い。あそこをきっかけにいろんなものが動いていくのだろうと思うと、楽しみで仕方がない。
最近「話がわかりやすい」と言われることが多い。もちろん、心がけて響くように、人によって語り口を変えている。しかし、私は「わかりやすい」という言葉が嫌いだ。
わかりやすいものは世の中に溢れていて、わかりやすいものは受け取りやすいものの、内容が薄かったりする。わかりやすいと言われて意識するのは、「あっ、今の話薄めすぎたかな」という感覚である。バーテンダーのような気持ちになる。
人によって、好きな濃さ、飲める濃さが違うから、同じレシピでもバーテンダーによって美味しさが違うのだと思う。
わかりやすさは、褒め言葉でもありつつ、難易度の指摘にもなりうる。わかりやすいを連発されたら、ちょっと濃くしてみる。
複雑な話を複雑のまま伝えることも一つの愛だと思っている。
親鳥が咀嚼しすぎるとひな鳥は独りで生き抜いていけない。そんな思いでいる。
だいたい、親は子のために咀嚼するのが愛と捉えられがちだが、咀嚼しないのも愛だということを忘れてはならない。だからと言って、餓死させては元も子もないので、そこは良識のある大人ならわかるだろう。このバランス感覚が優れた人が素敵だなと思うし、そんな大人、親になりたいと願う。
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