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名曲とよばれてる曲をただ絶賛するだけのスレ001「異邦人」久保田早紀

外国人のことを
“ガイジン”と呼ぶことを
ヨシとしない風潮が

いつからかある。


ようにおもう

放送コードなのかどうか知らんが
タレントがうっかり“ガイジン”なんて
言っちゃった日にゃ

即炎上する

…かどうかはそのタレントの持つパワーにもよるたろうが

あまり好感度の高くないヤツだった場合
ここぞとばかり
ネット記者達は
(冬はコタツの中から、夏は冷房の効いたカフェなんかで)
悪意の限りにそのタレントをこき下ろすに違いない。

タレントでもなんでもない
パンピーの俺は
一回りまわって
今は特に意識せず
“ガイジン”て
言っちゃうのだ。

まさか、面と向かって
「オマエはガイジン。」
などと外国人に言うというわけでは
もちろんないが

身内に
「こないだ松屋でさ
ガイジンが入り口の券売機で注文したはいいものの
チケット取らずに店内入っちゃったんだよ」(実話)

とか

別に外国人に敵意があって言うわけじゃないよ。
念の為。

“アメ公” “ロスケ”

等と呼ぶのとは全然ちがう。

単純に字数として面倒いから
というのが主な理由であろうか。
(特に意識してない)

それでも
“ガイジン”なんてやっぱり野蛮な呼び方だよ。
ドラクエⅢのジパングの子供だよ!

という
堅物さんもいるだろう

でもさ

じゃあ
外国人タレントを略した
“ガイタレ”はいいわけ?

などとイランことを色々考えていたら

頭にふと思い浮かぶ

名曲


「異邦人」久保田早紀

だいぶ前に
“このイントロがスゲェ!”
やるよ的な事書いてほったらかしてましたが
「名曲を絶賛するスレ」と改題して
シリーズ化(予定)

その1回目でございます。

そうです、なんせこの曲

イントロがぶっ飛んでる!

いや、
控え目に言っても常軌を逸している
(良い意味でも悪い意味でも)

曲自体は凄く良いし

歌詞については後述するが

とても素晴らしい。

その分、イントロの異様さが
より際立ってしまっている
(これはどちらかというと悪い意味かな!?)

曲はヒットしたし、
昭和の名曲としてラインナップされてても
少しも不思議ではないが

時代のズレなどの
ちょっとした誤差で

“世紀の珍曲”

として
世に広まってしまっていたとしても
仕方ないくらいのことを

このイントロはやっちまってるわけである。
(あくまでも個人の感想です)

最近流行りのボカロ系の曲の
「俺の作る曲はそこらの曲にはない斬新さであふれてるダロ!?これぞ新基軸だ!」
とイキッて作るせいで曲進行がハチャメチャなものが多いが

「異邦人」のイントロも
かなりヤバイ。

ラジオやなんかでたまたまイントロを聞き逃して
聴いたひとが
「良い曲だな」
と思ってカラオケで歌おうとしたとき

このイントロがかかった途端に

番号一つ間違えて

「流れ弾蝉時雨」 波止場谷ショージ

といった見たことも聞いたこともないような曲が
かかってしまい

慌てて取り消しボタンを押すときのように
*↑このくだり、一定年代以上じゃなきゃ意味不明よね

「あ、この曲じゃないわ!」


もし二次会などで人前で歌おうとしたとき

気まずい思いで一気に酔いが醒めてしまうであろう

くらいの

斬新すぎる(痛)アレンジなのだ。

編曲は
萩田光雄氏

数々の有名曲をアレンジしてる
伝説的アレンジャー。

おそらく彼には全く罪がないであろうことは

“制作背景”のwiki
を流し読むだけでも
察しがつく。

元々
東京の国立駅前で見た場面(歌詞冒頭)から着想を得て作られた曲を

“世界旅歩きシリーズ”
的な企画物として世に売り出そうと
-シルクロードのテーマ-
などと副題をつけちゃったり
(“南太平洋裸足の旅”ってなによ!?)

プロデュースという名目のもとに

“兎に角ノリだけで生きてんなこいつら”

という
“ザ・昭和”
な悪ノリオヤジ達に

翻弄される初心な少女の図を垣間見る。

※参画者の一人が横尾忠則氏さんがいるのね。
ふ~ん。

wikiにはひと言
“インパクトのあるイントロは中東の雰囲気が漂う”

とあるが
作曲者である久保田さんではなく
周りのオヤジ連を満足させるために

その似非中東で四苦八苦したであろう萩田氏の苦労は並大抵ではなかったであろう。
(案外愉しんでいたのかな)

だがしかし

“このイントロなしにこの曲は語れず”

この珍妙イントロこそ
この曲の持ち味の一つになってしまっていると
感じてしまっているのも
また偽らざる事実なのである。

色んな意味で舌を巻く
プロデュースにより
曲も異例の大ヒット


つまり、
結果大成功


なんか悔しい

という気持ちが湧いてくるのは
何故だろうか…

クセ強イントロを
過ぎて
曲本編。

とてもシンプルな構成で
サビというサビが
実はない。


Aメロ
Bメロ
ときて
Aメロのちょいアレンジ
(これがサビといえばサビ)
そして
間奏、アウトロに
例のイントロがしつこくつきまとって
「わかったよ。シルクロードな!」
と聴く人に言わせるまで
適当な中東観を押し売りするのだ。

久保田さんのボーカルが
少し日本人離れしているというか
これもなんとなくだけど
“異国感”があり
妙にマッチしてしまうのが
なんともはや
である。

そして
この曲のイントロに次ぐ魅力は
(さんざ言ったけど結局イントロ大好きです)

歌詞。

実に奥深く。

言葉一つで色々勘繰って遊べる
日本人には

たまらん歌詞なんですよね。

冒頭の

子供たちが空に向かい
両手を広げ

は前述の久保田さんが目撃した
国立の風景
なのだが
イントロでメタ中東を刷り込まれてる俺らは
ユニセフかなんかのCMイメージのような
外国の子供達が空を仰いでいる様にしか
見えないわけで

もう、心は既に“異国”へとトリップしてしまっている

その姿は
昨日までの
何も知らない私

あなたに
この指が届くと信じていた

この一文だけで
きっと大事な人であったろう
“あなた”との決定的な別れが示唆されていて

それほど遠くない過去の雰囲気から
傷心旅行の様相も垣間見える。

冒頭の子供達のシーンから
過去の自分を俯瞰して連想
するというのは
実にドラマチックで

導入演出としても申し分なしの
非の打ち所のない出だしである。

空と大地が触れ合う彼方

“地平線”をこんなにシャレオツな表現に
圧倒的スケール感で

最早国立ではない。

過去からの旅人を呼んでいる道

“旅人”というキーワードが出てくるものの
“過去からの”と時間旅行としての
形而上的な旅
をMIXすることで
スケール感を損なうことなく
聴き手に想像の猶予を与えてくれている
(何を言ってるのか自分でもよくわかってないが
つまり、国立でも成立しちまうってこと。
わかるかなぁ。わっかんねぇだろうな。)

あなたにとってわたし
ただの通りすがり
ちょっと振り向いて
みただけの異邦人

ここが歌詞としてのサビであるが
なんとシンプルで奥深いのだろうか。
なぞってて鳥肌がたつ。

“ただの”
“ちょっと”
という味付けで
何倍もの旨味を引き出しているのですね。

そして
ここでいよいよタイトル回収。

“異邦人”

この不思議な響きの
言葉には実は

①外国人、異国人

②自分たちを神に選ばれた民族であると誇り、
非ユダヤ教徒、特にキリスト教徒を呼んだ言葉

③見知らぬ人、別の地域や社会から来た人、旅人


幾つかの意味があり

冒頭からサビ前(*曲ではなく歌詞としての)
そしてそもそものタイトルの漠然とした
“異邦人”
は①
だとして

このサビ部分の
おそらくかなり深い仲になったはずの“あなた”
にとって
わたしは
旅人のようにただ過ぎ去る者であり
別れた今なっては
見知らぬ人同然である。


ニュアンスとしては
③に近い。

そして
この歌詞の素晴らしくも恐ろしいところは
二番の
引用するの面倒くなったからググってちょ

たった一語で②の意味を織り交ぜてしまえること
(意図かどうかはさておき)

つまり
すべての“異邦人”的要素を顕してしまっているのです。

そしてラスト
二度くり返される

あとは哀しみをもてあます異邦人

このなんともいえぬ余韻。

ちょっと凄すぎますよね。


とまぁ
<ただ絶賛する>
と掲げといて
イントロを中心にかなり雑にイジっちゃいましたが

歌詞だけとっても賞賛に値する
(ノー〇ル文学賞なんて目じゃないぜ!)

ということで

第1回はお開きです。

次回は
あの、夏の名曲ですよ。

それでは
ご機嫌よう

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