聖剣伝説4がファンに受け入れられない作品になってしまった裏側を考える記事
🌳はじめに
この記事は、スクウェア・エニックスより発売されている「聖剣伝説」シリーズのうち黒歴史として語り継がれている『聖剣伝説4』(DAWN of MANA)について、ゲームデザイナー、ゲームプランナーとして働く身から「どうして失敗に終わったのか」とその裏側を考える記事です。
主にクリアまでプレイできた方への、しっくりこない謎に関する答え合わせのつもりで書いています。聖剣伝説シリーズの評価を落とす、当時の開発スタッフを攻撃するといった趣旨ではないため、それを理解したうえでお読みください。
また、物語の核心に触れている部分もあるため、ネタバレを気にする方はできるだけプレイ後に読んでくれると嬉しいです。(※2024年1月3日追記)
🌳世間の評判
「ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~」さんでまとめられたポイントが完璧にこの作品を説明しきっているので、引用させていただくとこうである。
noteではのざわあらし氏の記事が多くのファンが感じた、期待と戸惑いと落胆を端的に伝えてくれている。
ゲームの悪かったところに関してはスカイブルー氏のYoutubeチャンネルがだいたい説明してくれているので、詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。
🌳ひどいと言われている主な要素
「MONO」を使ったゲームシステムがひどい
精霊を利用した攻撃がパチンコ玉なのがひどい
ステージクリアのたびにキャラのレベルがリセットされる仕様がひどい
悪役ばかり良く描かれ、主人公側が報われないストーリーがひどい
カメラワークがひどい
🌳背景に何があったのか
聖剣伝説4が制作された2006年というのは、スクウェアとエニックスが合併した数年後にあたり、2004年頃に開発がスタートしたと思われる聖剣伝説4は、2003年の合併によりエニックスから確保した企画メンバーを迎え、文字通り「スクウェア&エニックス」の合作として産み出された可能性が高い。
これが聖剣伝説4に”らしさ”がない理由であり、巷に言われる「開発スタッフが過去作を知らなかったらしい」の根拠となりうるものである。
🌱スクウェア側の事情:和田洋一氏のnoteから
🌱エニックス側の事情:渡辺範明氏のラジオ書き起こしから
ドロッセルマイヤーズの渡辺範明氏は「国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか?」という書籍を出しており、正式なソースで歴史を語る生き証人として数々のメディアから取り上げられているので、気になる方は購入してみると当時の詳しいことがわかるかもしれない。
🌱重要人物その1:プランニングアドバイザー、土田俊郎氏
新参メンバーに助言を与え、皆を導いたと思われるフロントミッションやアークザラッドの御大、土田俊郎氏は既存のシステム常識を壊してでもゲームの攻略要素を重視する人柄であったことがWikipediaに記されている。
石井浩一氏との折り合いは定かではないが、信頼関係のもとにゲームの仕様や方向性を決める軍師として活躍されていたことが予想される。当時は合併前後のゴタゴタもあり、聖剣伝説を守れるメンバーの不足が深刻だったのではないだろうか。そんな状況での土田氏の「では、こうしましょう」というブレイクスルーやイノベーションには訴求力があり、開発メンバーの多くが従ったはずだ。
ちなみにOPムービーで紹介されるリードプランナー、かつシステム担当のプランナーとして名前が出ている「つちや ゆういち」氏はググっても該当しそうな人が出てこなかったので、リーダーに任命されたけど陣頭指揮はうまく取れなかった、という事情はあったのかも。
🌱重要人物その2:シナリオ原案、加藤正人氏
加藤氏は「おのれ邪鬼王!」のネットミームで有名な『忍者龍剣伝』にはじまり、『クロノ・トリガー』、『ラジカル・ドリーマーズ ~盗めない宝石~』、『ゼノギアス』、『バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海』、などなど人々の心を打った深い名作の監修やシナリオに関わってきた人物。
実力は十分かと思われたが、彼は「人間が犯す過ち」の物悲しさと、「慈愛によって赦しを得る心の救済」を描くのが持ち味で、その作風には「人間味のない神なんて神とは呼べない」というポリシーすらもうかがえる。それが聖剣伝説シリーズの「絶対かつ超常的な神格の愛により許された世界」という基本コンセプトに致命的に合わなかった。仮に加藤氏が「書き直します」とやり直してくれたとしても、彼自身のポリシーゆえに、泥臭く罪深く不完全で清らかな愛おしい、人間の魂を持った聖母としてマナの女神が描かれてしまうだろう。それでこそだし、それではゼノギアス3だ。
また、本作の「守るはずの対象だった幼馴染を主人公が聖剣で突き刺してお別れ」という後味の悪いエンディングは少女がマナの樹になること=死別という勘違いにより生まれている。少女がマナの樹の姿となって従者(ナイト)を手離し、高次元の存在、世界の管理者、女王として生き続けるという聖剣伝説の世界設定を履き違えている。加藤氏がそれを勘違いしていたのかどうかはわからないが。
そして、そんな加藤氏のシナリオを捻じ曲げたやつが開発内部にいる。
🌳プランナー達が目指したものは何だったのか
彼らが作りたかったのは『ゼルダの伝説 時のオカリナ』である。
そんなバカなと思う読者の方々もいることだろう。だが、聖剣伝説4というこの作品は、シリーズの1つと括るにはあまりにコンセプトが尖りすぎている。そして諸々の物理挙動、主人公のアクション要素、バトルの難易度設計、マップデザインからギミックの癖に至るまで、このゲームは時オカを意識しすぎているのである。
ゲームジャンルをあくまで「アクションアドベンチャー」と称する
剣での攻撃が横なぎ主体
敵を無防備にするための複数の手段
固い装甲のモンスターに剣を弾かれてよろめく挙動
ナビゲーターとして主人公を支援する小さな妖精の存在
射撃武器としてのパチンコの存在
吹き飛ばされる角度と速度が一定な敵の攻撃、それが重なった場合の不自然なお手玉、放物線を描く主人公が着地するまで一切操作不能な吹き飛び仕様
少しでも足が地面からはみ出たらHavok神の導きにより勢いよく飛び出すガケ飛び降りの仕様
ロックオンを主体にして強敵を1体ずつ着実に仕留めていくゲーム進行デザイン
ボヨヨ~ンと伸びて対象物を掴むことができる道具が戦術の要となるバトル設計
主観視点(FPS)での射撃武器の仕様
射撃武器の中で敵のリアクションが多く制作されており重要なウェイトを占めるのは「炎の矢」と「氷の矢」
一瞬の光を発し敵を行動不能にする閃光弾のような攻撃方法の存在とその効果範囲の狭さ
爆弾やオブジェクトを投げて自分にぶつかったら敵よりも自分のほうに甚大な被害
呪いにより余命いくばくもない顔のある霊樹が物語の核心を語る展開
これまでの聖剣伝説シリーズに存在しなかった「大きなカギ」と「小さなカギ」の登場
クドいほどに長く難解な構成のダンジョンパートと、当たりの行動をとらなければ攻撃の権利すら与えられない謎解き要素の強いボスバトル
プレイアブルの仲間キャラクターがおらず、最後の最後まで一人旅
などなど、数え上げればキリがない。
🌳なぜ「Havokの扱いに苦戦した」という振り返りが語られているのか
プランナーたちが聖剣伝説シリーズにそぐわないステージクリア型のゲーム設計にこだわり、かつ「クリアさせたくない」にこだわり、スクウェア的に「映像の破綻は許さない」となっていたからだと推測される。
世間ではプログラマーが実装に苦労したかのような振り返りが語られているが、「MONO」によるゲーム攻略と高低差の激しい広大なマップにこだわり、キャラの動作やMONOの細かい仕様にばかり気を取られていては、その他の設計を進める時間も費用もなくなり、バグ報告チケットのほとんどは高低差の激しいマップでのめり込みや操作不能のハマりの類で埋め尽くされ、プログラマーがHavok神との闘いに明け暮れていただろう。
「時オカみたいに高低差の激しい難解なダンジョンをメインにして、MONOを使って攻略するアクションゲームをやりたい」この企画原案さえなければ、こんな振り返りになることはなかった。むしろ、Skyrimで見られるような「ありえない速度で虚空へ飛んでいく」「キャラの身体が伸びる」「倒してフニャっとなった敵キャラが高速回転する」などの笑えるバグが見受けられないあたり、プログラマーや3Dデザイナーはめちゃくちゃ頑張っている。
🌳なぜ精霊の魔法がパチンコ玉になったのか
前述のとおり、時オカを作りたかったからである。それ以外の理由はおそらくない。
サラマンダーとウンディーネのみ、称号に関する必要発見数が多く設定されていることから、「炎の矢」と「氷の矢」をメインとしてゲーム設計が行われていたことがうかがえる。第六章のボスも、道中の属性ゴーレムや属性タナトスクランも、最終ボスも、「炎か氷か」だけで完結している。
あと、ドリアード、ルナ、シェイドがパッとしない能力になっているのは時オカから参考にできるものがなかったからだと推察される。
🌳なぜキャラの性能がいちいちリセットされるようにしたのか
「キャラレベルよりプレイヤースキルを~」というダークソウル系の理論で多くの人は納得しているが、私はステージごとの担当者が互いに協力的でなかったからではないかと考えている。
このゲームはチャプターごと、ステージごとに遊ばせ方がバラバラで、ヒントを出すか出さないか、アイテムを置くか置かないかといったゲームバランスにおける監督者の影が見えない。担当者が別々に適当なバランスで難しいステージを作り、そのレビューや設計の統一などを怠ったようなチグハグな仕様が重なったゲームになっている。この状況で「エルディの初期レベルをいくつにするか」「敵キャラの攻撃力をいくつにするか」なんて、とてもじゃないが議論できない。
本当にHavok関係(特に壁や床が崩れまくる第六章)で手間取り、レベルデザインの調整に関して後手になってしまったためにこうなったという可能性はもちろんあるが、「難しくしたい」「クリアさせたくない」からの「”レベルが引き継がれない”というのはどうか?」という妙案は、議論や衝突を避けたいメンバーにとっては魅力的なものだっただろう。
🌳なぜ主人公が報われないようなひどいストーリーになったのか
1つは前述の通り、加藤氏が「絶対かつ超常的な神格」に関して否定的な作風の人物で聖剣伝説の世界観とミスマッチだったからである。これは決して悪いことではなく、むしろサスペンスや深い人間ドラマ、「絶対的な神様だと思っていたら…」という衝撃的な結末の作品を描くには彼の力なくしては実現できないだろう。
そしてもう1つは「フィー推しの開発メンバーがいた」というのが推察として挙げられる。作中に登場する『精霊の子 フィー』は聖剣伝説シリーズでは異例の「マナの樹の誕生に必要な謎の精霊」として描かれており、誕生の経緯や存在の定義はまったく不明ながら、主人公に付き従い護り護られ原理不明の成長を遂げて年頃の女性となり、メインヒロインとして昇華していく過程がずっと描かれる。作中で唯一の専用フォントまである。主人公が諦めきれずに地の底まで追いかけ続ける幼馴染のリチアよりもアップの描写が多い。エンディングでは青々とした緑を取り戻した大樹をバックに、リチアを差し置いてフィーの遺影が表示されるほどに、フィーというポッと出のキャラクターへの贔屓と本来のヒロイン、リチアのサゲ方が尋常じゃない。
恐らく、リチアが心神喪失となってエルディに関心を示さず、劇的に感情移入しづらい救われないヒロインとなったのは、オリキャラのフィーをメインヒロインとして推したかったやつのせいだ。だからフィーとエルディは手を繋ぎ見つめ合うカットシーンがあるのに、エルディとリチアはどれだけ近づいても手を繋がない。抱き合わない。
🌱アーシュとクエナの話(2024年1月4日追記)
予測をもとに「フィー推しのメンバーがいる」と書いたが、『聖剣伝説4 & CHILDREN of MANA 公式設定資料集』にはむしろ「フィーこそがヒロインである(リチアではない)」ことを仄めかす原画が残されていた。
エルディには「アーシュ」、フィーには「クエナ(キューナ?)」と名付けられており、互いのアクセサリーが対のものとして関連付けられている第四稿である。
石井浩一氏が最初から「そのようにしてくれ」と依頼したのかどうかは定かではないが、最初にメインヒロインとしてデザインされたのはフィーのほうであり、リチアはサブキャラクターとしてあとで描かれた(もしかするとレキウスと恋仲になる想定だった?)ようである。リチアの守護植物である一輪草(アネモネ)も元々はフィーに紐づけられていたようだ。仮に「別にヒロインを立てよう」という方針転換が行われたとして、当初のシナリオ通りではなかった可能性が高い。こりゃ…難しいね。
ちなみにこの公式設定資料集、池田奈緒さんのあふれるリチア愛、レキウス愛(幼馴染の3人)が所々に表れており、見ていて胸が痛い。あの頃の3人に会いたい人は思い出としてぜひ。
🌳なぜ悪役側ばかり良く描かれるストーリーになったのか(追記)
本作のストーリーの大筋が聖剣伝説3のメインプロットと「新約・聖剣伝説」の世界設定をベースにして描かれているからである。(聖剣伝説4の解体真書を購入し読んで「そういえば。」となって本稿に追記することにした)
🌱聖剣伝説3は実は設定ハチャメチャのスラップスティック
聖剣伝説3は全般的に高く評価されているものの、世界を象徴する聖剣が簡単に奪われたり暗黒剣にされたりとお手玉のような扱いをされる、主人公達はマナの樹に関係なくお供のフェアリーがマナの女神になる、などストーリーのメイン部分は超展開で雑なものだったりする。その代わりに複数キャラクターを起用したマルチストーリーや、魅力的な敵キャラ陣営との熱い確執が描かれており、世界の覇権を巡ったマナ戦争を間近に体験できるかのような臨場感があった。また、「持つものの性質によって聖剣は姿を変える」というマナの女神の制御を失っているじゃじゃ馬宝具設定や、邪悪な存在を封じ込めて締め上げてしまう行き過ぎた教育ママのようなプンスカ女神が描かれるのも、8精霊のエネルギーを集めたら手軽にマナの女神を超える存在になれるかんたん転覆設定も、聖剣伝説3が初めてのことである。世界の覇権を巡る重厚な戦争を描きつつ、細部はかなりのおっちょこちょい同士がカッコつけては暴れ回るドタバタコメディの色が強い。(だから舞台の演劇のようで楽しい)
スクウェア的に「聖剣伝説3のストーリーは成功例だ」と捉えていたはずだ。それは戦争映画としては合っているし、王国誕生物語としてはズレている。だから今でも「リースとホークアイが好き」というキャラ萌えの人たちは山ほどいても「あの聖剣の描かれ方、フラミー、神獣、マナストーン、フェアリーという世界を構成する概念が好き」と語る人はあまりいない。あれらが何だったのか、ピンと来ている人も多分少ない。
🌱新約・聖剣伝説は「敵にも家族がいる」の代表選手
新約・聖剣伝説はFF外伝と冠がつく初代を新しいシナリオで描き直した意欲作だが、ファンからは(LoMから入った後期ファンからですら)微妙との評価を受けている。「ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~」さんのまとめをまたまた引用するとこうである。
私は雰囲気に負けて途中で手を止めてしまい、まだ最後までプレイできていないのであるが、『新約』では主人公と因縁のあるグランス公国の当主(グランス)と、初代では解呪の薬のために狩られるだけの隠居モンスターであった「メデューサ」が恋仲にあるという凄まじい原作改変が行われており、しかもその息子の名が「ストラウド」で実の父親を幽閉しグランス公国の実権を握ったうえで「シャドウナイト」という通り名を使い素性を隠していると言うのだ。どうしたブラウニーブラウン、お家騒動大好きすぎだぞ。
2000年代の日本においては凶悪犯罪の掘り下げや行き過ぎた正義感、勧善懲悪ものへの飽きなどから「敵にも家族がいる…」というギャグめいたセリフをキーワードに悪役サイドの日常や過去を描くエピソードが現実社会〜創作にいたるまで過剰に持て囃される風潮があり、ひどい言い方をすれば「悪いやつは正義」だった。『新約』が発売されたのは2003年8月29日のことで、まさに時代の「悪人を良く描こう」という歪んだ優しさの風潮が形になったものだったと言える。その結果主人公サイドへの感情移入が浅い作品が多く生まれ、聖剣伝説4のような悲劇に繋がっている。加藤氏がスクウェアから提示された過去作(3と新約)をベースに4の原案を書いてくれたという経緯があったのならば、よくぞ参考にしてはいけない2作品をもとに書ききってくれた。見事な仕事であるとともに、歪みの極地であった。仕事は選んでいいと思う。
なお、これはあくまで偶然のことであろうが、新約・聖剣伝説からフィーチャーした「メデューサ」をラスボスとして起用し聖剣伝説2から「タナトス」という単語と概念を起用した結果、「光神話 パルテナの鏡」の設定を引用したかのような嘆かわしい事態が置きている。
🌳なぜカメラワークがひどくなったのか(追記)
コナミあるいはセガ・エンタープライゼスの特許を侵害しないための念の為の措置のせいである。この問題は聖剣伝説4に限らず多くの3Dアクションゲームのカメラワークに悪影響を及ぼし、日本の3Dアクションゲームの発展を妨げる要因となった、わりと有名な権利ゴロ問題。
特許は「言ってくれたら好きに使っていいですよ」という優しめの側面もあるが、「それって”言ったとみなさなかったら主観的な判断で攻撃する”ってことだろ?」という前提も含んでおり、善意がほぼ一切伝わらない背景がある。言った言わないだけでなく金も絡む。つまり特許を主張されたらこちらに否がなくても裁判で負ける可能性があるということだ。そんなリスクをおかしてまで各社はゲームのカメラ仕様を作り込まない。
詳しくはぽんぽこ氏のnote、および赤景RED(@redsightnet)氏のX的ツイートをご覧ください。
🌳あとがき
聖剣伝説4はその仕上がりから読み取れる開発体制やプランナー達の心構えにかなり問題が見られる作品で、シリーズファン達が落胆するのも頷ける。
本稿を書くにあたり、システムやストーリーごとのこまごまとした問題箇所と教訓についておよそ60,000文字の下書きを用意していたのだが、諸々の事情によりやめておいた。筆者が「きっとこういう裏がある」と主張したいところだけ書いている。納得するところや反論したいところがあったとしても、1ユーザーの感想文、単なるゴシップ記事だとして処理してほしい。
聖剣伝説はこれまで、「私はこれから世界の母になります。これまでありがとう、さようなら」という、王位継承権のあるお姫様が女王になることを見届けた従者のような物悲しさと達成感、将来への希望を描いてきた。世界の母となった女神の『愛』により、すべての存在が許される暖かな世界を描いてきた。しかし人々は、それを今きっと見失っている。数々の勇者が救済を志し、大樹の種子を手に取ったが、現在の聖剣伝説シリーズの経過を見る限り、その宿願は未だ果たされていないように思う。
マナが失われ戦乱のひろがる2023年の現代、種子に選ばれし聖剣の勇者が再び現れ、運命の少女と共に新たな世界を創造する伝説の到来を、私は山奥の小屋に隠居した年老いた騎士のように待っている。