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有機的な日本語教育へのとびらをひらく

有田佳代子著『移民時代の日本語教育のために』書評

評者:佐藤剛裕

ほんとうにおいしくて栄養がある有機野菜のような本

 私はこの有田佳代子さんの『移民時代の日本語教育のために』という本を手にしたときに、一気に読み終えてしまいました。この本の前書きにも書かれているように、この本は日本語教育に直接関わる人だけではなく、少し興味を持ちはじめたばかりの人たちに読まれることも想定されています。ですから、本全体がとてもわかりやすい言葉で書かれているだけではなく、読みやすい字体とレイアウトでデザインされています。そのため、有田さんが伝えようとしているとても大切な話がすうっと心の中に入ってきます。

 そして、これはまるで新鮮な有機野菜のような本だなと感じました。農薬や化学肥料を効率的に使って生産量を上げることをめざす在来農法がある一方で、畑の土や水をよくするために近隣一帯の里山の手入れからはじめるような自然との調和を図るエコ農法があるのとよく似ている気がしたのです。在来農法の場合は、育てようと思う野菜の品種の特性に合わせて、水と土壌のph、日照時間、温度などをコントロールして作るので、短期的な生産性とか経済効率でいうととても良さそうなのですが、連作しているうちに土地が痩せてしまう恐れもあります。より生態学的な視点から耕作地を取り巻く生育環境を整えることで、おいしくて、香りもよく、しっかり歯ごたえもあって栄養がある野菜が、より継続的に収穫できるようになるはずです。そういう野菜というのは、一口食べると目が覚めるほど鮮やかに、その野菜が育った土地の風景が想い出されますよね。

この本が書かれた社会的背景

 いま、世界の情勢はますます不安定になり、将来どころか明日のことさえ予測することが難しくなってきています。そのような状況下で、自分は何をすればよいのかについて考える個人の責任や負担がとても重くなってきています。人新世という言葉がよく使われるようになっている通り、大規模な気候変動で、洪水や山火事などの自然災害が増えています。これによって、人間の経済活動が自然とはまったく無関係に発展し続けられるものではなく、自然環境の収容能力に大きく制限されるということが、よりはっきりしてきています。それでも国家や企業はこれまで以上の経済成長を目指した動きを続けていますし、歴史的に積み重なった南北格差を解消しようという動きも加わって、人の動きも大きく流動化しています。

 そのような中、日本政府はいまでも「日本は移民政策はとらない」という建前を崩さずにいます。しかし、今後の経済目標を達成するためには若い世代の人口が圧倒的に足りないので、日本政府が打ち出す留学生や就労者としての外国人の受け入れ目標数はどんどん伸びています。もはや、実質的には移民時代がもうはじまっていると言えるでしょう。

 ですから当然のことながら、政策的な面からも日本語教育にも大きな期待がかけられています。2019年に「日本語教育推進法」が、2023年には「日本語教育機関認定法」がつくられました。これまで法務省の告示を受けていた日本語教育機関は、新たに文科省の認定を受けることになり、それにともなって日本語教師の国家資格が作られました。それを機に、あらためて自分たちがやってきたことが何なのかを問い直すべきだという機運が高まっています。そのような中で、この本は作られました。

この本で話題になっている事柄

 ここで、この本でどのような具体的な話題が扱われているかについて触れておきましょう。この本はまず、日本語教育とは何かという問いに社会全体を広く見渡しながら答えたり、誰が日本人で誰が外国人なのか?ということについて考えるところから始まります。そして、日本における「やさしい日本語」のあり方や、日本語を母語としない年少者の支援のあり方を考えます。これまでの外国語教育の歴史について文法訳読法、直接法、オーディオリンガル法、そしてコミュニカティブ・アプローチなどをじっくり振り返りながら、日本語教育というのは外国人が日本人のように話せるようになればよいのか?というそもそものところに立ち返って、近年ヨーロッパから導入されつつあるCEFRの複言語主義という考え方や行動中心アプローチがどのようなものなのかをあらためて捉え直します。続いて、手話をはじめとする、琉球諸語やアイヌ語などの少数言語や方言について学びながら、最後には国家というものが何なのかを考えることが自らのアイデンティティーを捉え直したり、対立を和らげたりする手掛かりになるのではないかという認識にたどり着いていきます。

 有田さんは「日本語教師になってみようかな?」「日本語教育について学んでみようかな?」と思った大学生たちに「そもそも日本語教育って何?」というオリエンテーションをするところから日本語教師教育に関わってこられています。

 ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、大学で日本語教育に関心を持って日本語教育の養成コースを修了しても日本語教師になるのはほんの4〜5%程度だけで、ほとんどの人が日本語教師の仕事に就かずに就職していくとの統計が文科省から出ています。これは、日本語教師の数を増やしたいという思惑からすると期待外れのようでもあります。しかし一方で、日本語教師として期待されるような異文化間コミュニケーションを行なう能力を持った若者が毎年たくさん社会に送り出されていくという意味では大変すばらしいことだとも言えますよね。この本の中には、そのようなトレーニングの場で実際に語り合われてきたことが惜しみなく共有されているのです。

 これらの内容が、ありきたりな試験対策用の参考書のように記述されているのではなく、日々の実践の中での学生たちと、また自分自身と繰り返してきた「生きた対話」のように書かれているので、本当に有田さんとじっくりお話をしているような気持ちで読むことができるのです。

わかりやすいことばで語るということ

 一般に、学術研究をしている人々が最新の論点を噛み砕いて一般の読者に伝えようとしても、どうしても言葉遣いが難解になってしまうことがあります。ところが一般向けの入門書となると、やさしく書こうとするあまり、言葉遣いだけではなく、複雑であるはずの現状分析までわかりやすくまとめられてしまって、教科書には書かれていないけれども広く共有しておきたい批判的な視点を提示することがなかなかできずに終わってしまうことが多いのです。

 この本からは、有田さんの、知識人の役割についての信念が伝わってきます。それは、研究者たるものは、研究の成果としてわかったことを研究者だけの知識にしておくべきではない。むやみやたらに学術的な専門用語を使わずに、できるだけわかりやすいことばで、最新の論点を記述して、広く共有するべきだという社会への還元を行う態度です。この本は、その実践において、私がこれまでに読んだことのある日本語教育の概説的な入門書の中で、もっとも成功した本なのではないかと思います。鋭い批判的な視点と心からのやさしさを持ち合わせながら、長年もがき続けてきたからこそ書けた本なのだということが伝わってくるのです。

社会全体、そして自分自身を見つめなおすということ

 私が有田さんと最初に出会ったのは、この本よりもしばらく前に書かれた『心ときめくオキテ破りの日本語教授法』(五味政信/石黒圭 編著、くろしお出版)という本で「『地雷』をあえて踏む」という章を読んだときでした。そのときに、日本語学校や大学などの教室で時事的な社会問題にふれるとき、教室にいる教師と学生たちというのは、問題とは無関係なところにいるのではなく、自分たちもその世界の中にいるんだという実感を持っているのだろうなということがひしひしと伝わってきました。

 というのも、僕自身も似たような感覚を持っているからなのです。最後の秘境を訪ねてまわる文化人類学者気取りでヒマラヤ山脈の南麓側に奇跡的に残っていたチベットの鳥葬儀礼についての調査をしていたのですが、震災後に日本に戻ってきたところ、人種差別的で排外主義的なヘイトスピーチデモが荒れ狂っているのを目の当たりにして、大きく考え方を改めなければなりませんでした。残りの人生をかけて関わっていくべきなのは、どこか遠くにあるユートピアではなく、いま自分のいるこの場所に他ならないのではないか。そう考えた末に、文化人類学を学んでいたときに得た知識が活かせる日本語教師という立場でこの日本社会と関わっていくことを選びました。

 そのようなわけで、有田さんの「『地雷』をあえて踏む」を読んだときに、自分が学んできた人類学ととても近い学問的背景を有田さんもお持ちなのではないかと感じたのです。ですから、後になって、有田さんが日本語教育学の博士号を取られる前に早稲田の社会学部で学ばれていた時期もあったことを知りましたが、なるほどさすがと腑に落ちたものでした。

 人類学でも社会学でも、自分自身が所属している社会のことを研究する当事者研究という方法や、自分の体験を通して知り得たことを記述するオートエスノグラフィーというような研究の方法が重要性を増し続けています。自分と全く関わりのない社会のことを完全に客観的に観察することなどは、もはやできなくなっているのです。

 そういうわけで、この本は、日本語教育を社会の中にわかりやすく位置づけなおす本であるのと同時に、日本語教育を題材として、この社会について、ひいては自分自身の心について学ぶ本になっているというのがすばらしいところなのだと思います。

主体的な学びのあり方について

 人間は道具を使うことで何かを成し遂げたり考えを深めたりしますが、すでにある道具をただ使うだけではなく、自分たちの創意工夫で新たな道具を生み出していく方が、より創造的で深い学びが得られるのだと言われるようになってからすでに長い時間が経っています。しかし、そのような態度を持ち続けることはそう簡単ではありません。今回の日本語教育に関する制度もそうですが、新しいルールが固まるのを待ってからそれにただ従うのではなく、ルールが形成されて実際の運用にかかる議論の過程をつぶさに追いながら、それを実践の中で検証し続けることには大変な労力がかかります。ですから全ての日本語教師にそれを要求するのは酷だというものでしょう。

 そういう中で、できるだけ多くの人が、権威のある人の言うことに形式的に従っていればいいという流れに巻き取られてしまわずに、自分の感覚を使って感じとって自分の頭で考えて状況に合わせた新たなものを産み出していこうという態度をなんとか保てるような環境を作っていくには、知識人たちが、得られた知見をわかりやすい言葉で共有することによって、後から学ぶ人たちの負担を軽くするというということがとても大切になってきます。

 この本は、そのような日本語教育業界全体の切実な要請に応えることに成功している本だと言えます。若い世代の学生たちにとっては、ただ単にルールに従うだけではなく、自分の頭で批判的に考えることができるようなトレーニングになっていますし、これまで日本語教師として経験を積んできた皆さんにとっては、いま現在一般的な日本語学校で行われている、日本語教育というものが近現代のどのような社会的な事情を背景にして出来上がったのかを見つめなおしたり、日本語教育を通して自分自身がこれまでたどってきた人生を見つめなおし、学びの場作りに主体的に関わるきっかけに満ちていて、自力で見つけ出すのがなかなか難しい、かといって他人から押し付けられたのではない、自分自身の考え方の枠組みを作り直す足場になってくれます。

 そのような意味で、この本は有機的な本だと言えるのです。もちろん、とれたての新鮮なうちに食べるのが美味しいですが、このような大きな制度の変革が起きている時期の様子を伝え残す資料として、長期保存も効くのだろうという気がしています。

書誌情報はこちら

佐藤剛裕(さとう・ごうゆう)
1973年生。中央大学大学院総合政策研究科修了。横浜デザイン学院講師、国立民族学博物館共同研究員。フィールドワークとミュージアムを活用した批判的な内容中心の日本語教育実践研究に取り組む。島村一平編著『辺境のラッパーたち』(青土社)でチベット難民のラップの章を担当。


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