6. 本で冒険する! 『情意の言語学 「場交渉論」と日本語表現のパトス』 くろしお出版 2000
あくまで個人的な事情
人間のコミュニケーションには、感情が欠かせない。感情的な側面をどのようにして言語理論の中に組み入れたらいいのか。従来の言語学では情報が中心であり、情意はむしろ邪魔者扱いされていた。情意を認める日本語学も、その解釈がどのようになされるのか、つまり、コンテキスト情報とどのような関係にあるか、まとまった理論はなかった。
筆者は当時、ひとつの体系的な理論を繰り広げる必要性を感じていたのだが、最終的に『情意の言語学 「場交渉論」と日本語表現のパトス』の原稿を提出するまでには、多くの紆余曲折があった。筆者は学生時代から何かプロジェクトを始めると、2冊のスパイラル大学ノートを準備する癖がある。一冊は文献・参考資料として読んだもののまとめや、引用できそうな部分を書き出し、それに感嘆符や疑問符を付けたり、「おっ、これはこうじゃないか」という自分なりの解決策が浮かぶと、ひらめきアイデア電球を付けて書きとめておく。もう一冊は、プロジェクトの構想を描いたり、何度も目次を練り直したり、章の項目をあれやこれや入れ替えたり、ある部分で述べるべきことを箇条書きにしたり、要するに、日々変化していくアイデアを書きとめておく大学ノートである。『情意の言語学』の場合は、それが何冊にもなった記憶がある。本として出版された部分は、その中のほんの一部に過ぎないが、今となっては、あのノート類はどこにあるのやら。
最後の最後で、いよいよくろしお出版さんに提出する、という段階に至ったのは1999年の夏であった。ペンシルバニア州のPocono Mountainsという避暑地で、短い休暇を過ごしたのだが、その時も、「情意の言語学」というタイトルや、「場交渉論」という枠組みについて、どうしよう、どうしよう、と思っていたのを今も記憶している。実際に本書を手にしたのは、日本に帰国した2000年で、くろしお出版さんが、できたての本を宿泊先のホテルに届けておいてくれたのである! 手にした本書は、右上にタイトルと著者名が白地に縦書きの黒い文字で提示され、左下にはくろしおクジラがジャンプする姿が見えるというシンプルなもので、そのデザインの美しさが印象的であった。
「場」と「場交渉論」という冒険
日本語のディスコースを観察していくにあたって、その意味の把握をどのように考えるかという理論的な問題がある。ひとつの解決策として、筆者は「場交渉論」を提唱し、それに基いて幾つかの日本語の現象を、その情意の意味実現という観点からアプローチする。
談話の意味は、「場」つまり、そこでコミュニケーションの参加者が相互交渉しながら言語行為を遂行するスペースで、成就されるものと考える。具体的には、認知の場、表現の場、相互行為の場のそれぞれの「場」に、事物・主体・相手の三要素を認め、それらの相互関係を「感応的同調」や「見え先行方略」、「なる視点」、「感情の焦点化」などによって解釈する。
言語記号の意味概念として、意味の可能性を持った「可能意」、交渉されて具現化する「情報」と「情意」、さらに情報と情意の統合された「交渉意」を認めるが、コミュニケーションで大切なのは、話し手と相手の交渉の結果である交渉意である。交渉意は「認知の場」、「表現の場」、「相互行為の場」という三種の場の交差する場、つまり「トピカの場」に存在する。
「場交渉論」では、三種の場に関連した6つの機能を認める。認知の場と関連して、「固体認知」と「命題構成」の機能、表現の場と関連して、「情的態度の表明」と「対他的態度の伝達」の機能、相互行為の場と関連して、「参加行為の管理」と「共話行為の調整」である。
本書の中心思想としての「場」は、何よりも西田哲学の「場所」に影響を受けている。この頃から現在に至るまで、筆者は西田幾多郎の著作を、(その繰り返しの多い文章にとまどいながらも?)繰り返して紐解くことがある。また、不思議なことに、西田哲学を英訳や、英語の解説・説明書を通すとわかりやすいような気がして、その助けを求めたことも記憶している。
「場交渉論」的分析
ひとつの分析例として、疑問文について紹介したい。「か」を伴う疑問文は、話し手が相手に質問して、それに答えを期待するという状況で使われることが多い。しかし、言語の実際を見ていくと、疑問表現が相手からの答えを期待せず、結果として相手からの答えを受け取ることのない「場」で使われることが以外に多いことに気付く。筆者は、この現象を、答えを期待しない疑問文としての内的疑問と反語表現、コメント疑問文、宙ぶらりん疑問節として考察した。相手に質問していないのに、なぜ疑問表現が使われるのか、という素朴な問い掛けである。以下、コメント疑問文と宙ぶらりん疑問節のケースを考えてみよう。
コメント疑問文の例としては、「そうか、そうだったのか。と思った。あれは頼子の仕業だったのか。だが、それを口には出さなかった。」(草野唯雄『断崖の女鑑識官』光文社1992 p.247)がある。疑問の終助詞「か」を伴う表現が3回使われているが、誰かに質問しているわけではない。コメント疑問文の頻度は、作品によってちがうが、『断崖の女鑑識官』では、913の疑問文のうち207がコメント疑問文(22.67%)であった。
宙ぶらりん疑問節は、次のように使われる。「滅多にそんな話をしたことのない佐内が、ある日酒の勢いもあってか、言ったものだ。」(山崎晴哉『総司』集英社1992 p.19)と、「平日の昼間であるためか、駐車場のスペースは半分ほど空いていた。」(岡野ゆうじ『闘士覚醒』集英社1991 p.110)である。これらの表現では「か」は使われるものの、いわゆる疑問表現としては、機能していない。
この現象を場交渉論の枠組みから、次のように考察することができる。疑問表現は、情報の伝達と同時に、情意の表現として表現の場への投射を可能にする。疑問表現の「可能意」には、情報要請という意味が含まれているとしても、実際には、その可能意が潜在的にのみ実現される場合も多い。答えを期待しない各種の疑問表現は、「表現の場」に「発話態度」を投影することが主な機能となり、それは「情的態度の表明」や「対他的態度の伝達」の働きをする。具体的には驚嘆や納得といった心理状態の表現、また主体の発話行為に対する態度の伝達であったりする。
それにしても、たずねることもなく、答えを期待することもなく、それでもなおかつ疑問表現を使うという我々の言語行為は、一体何を意味するのだろう。筆者はこの疑問に、仮想の会話行為を促すことになるから、と答える。主体が疑いを持つこと、そしてその答えを何らかの反応として誰かに求めるという「場」における人間の相互行為の動機があるからこそ、私たちは答えを期待しなくても、疑問表現で自分の心を表現することができる。そのような仮想の会話の「場」を想起することで、主体は自分の感情を理解・納得し、受け入れ続ける。情意の疑問表現は「対他的態度」の投射を可能にする言語表現であり、その表現には潜在的に主体と相手との質問文の「場交渉」が実現される。疑問表現によって交渉される意味は、想起する会話を活用することで、具現化すると解釈できる。
以上、談話における疑問文の意味は、従来認められてきた相手に質問し回答を求めるという性格だけでなく、情的な機能に満ちていることが、「場交渉論」の枠組みから明らかになった。この研究から、もう四半世紀になろうとしているが、筆者は、このプロジェクトを通して、命題を中心とする「情報の言語学」と異なる「情意の言語学」の枠組みの有意義性を示すことができたと思っている。
■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書
■この記事で取りあげた本
泉子・K・メイナード『情意の言語学「場交渉論」と日本語表現のパトス』2000年刊 くろしお出版
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